[過去ログ] 【仏教】 仏教思想について考えるスレ 【思想】 (855レス)
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(2): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)00:55 ID:KJiNgGLZ(1/22) AAS
多元主義の立場から仏教思想全般について紐解いていこう、という趣旨のスレとなります。

1.sage進行でお願いします。
2.包括的な意見は構いませんが、排他的な意見、シンクレティズムはお断りします。
2
(1): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)01:37 ID:KJiNgGLZ(2/22) AAS
>僧、智門に問う、『如何なるか是れ般若の体 』
>智門云く、『蚌、明月を含む』
>僧云く、『如何なるか是れ般若の用』
>智門云く、『兎子懐胎す』
>(碧巌録第90則 智門般若の体 )

禅宗で交わされる問答は分かりづらい言葉が多いのですが、これは体と用の関係について分り易く書かれてると思います。
体と用を同じではなくまた別ではなく、その関係について言葉の妙というか大変美しく表現されていると思います。
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(1): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)09:01 ID:KJiNgGLZ(3/22) AAS
>>3
そうですね。

体用相というツールを使って仏教を理解するやり方の様です。
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(1): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)09:29 ID:KJiNgGLZ(4/22) AAS
世に宗教といわれるものは、他宗教(宗派)との関係において、

 1.排他主義
 2.包括主義
 3.多元主義
 4.混淆主義

があると思うんです(意味については其々ご自身でお調べください、4.はシンクレティズムとも言われます)。

仏教は基本的に2.に立場でしょうが、このスレでは3.の立場でお願いします。
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(1): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)09:45 ID:KJiNgGLZ(5/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える(その1)

”仏教は無我にて候(蓮如)”といわれるように、無我は仏教思想の中核を為すものです。
しかし、その内容については時代の変化があり、我々が一般に存じている無我はあくまでも大乗仏教のそれとなるのでしょう。
勿論、大乗仏教のそれが過ちということではなく、思想の深化や時代の要請に応じた方便という視座から、その思想の変化について簡単にまとめてみようと思います。
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(1): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)10:09 ID:KJiNgGLZ(6/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える(その2)

無我思想の変化を考えるとき、前時代の流れを把握しておく事は必須だと思うんです。

お釈迦様といえば古代インド、古代インドの思想の巨人といえばヤージュニャヴァルキヤではないでしょうか。
詳細は省きますが、彼のアートマンは「〜ではない、〜ではない(ネーティ、ネーティ)」思想は仏教思想を知るうえで欠かせないと思うんです。

先般「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫) 飲茶」を読みましたけど、私のようなビギナーには大変分り易いものでした。

ここで、後の無我思想の源流となる部分について彼の著作から抜粋させて戴きます。
省9
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(1): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)10:11 ID:KJiNgGLZ(7/22) AAS
>>8
依りてあるという意味であればそうだと思います。
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(1): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)10:11 ID:KJiNgGLZ(8/22) AAS
>>9
スレが荒れるのでw
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(1): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)10:31 ID:KJiNgGLZ(9/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える(その3)

ところで、仏教を学ばれた方は、先のブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドの引用を一瞥されて あれ? って思われるかもしれません。
そうです、仏教思想の巨人、龍樹が中論で最初に説かれた八不や般若心経等に説かれてる不生不滅の思想との類似です。

さて、本題にかえりますけど、問題となるのは

 >ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。

つまり、認識し得ない認識の主体=アートマン(我)の探究ではないでしょうか。
省1
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(1): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)10:32 ID:KJiNgGLZ(10/22) AAS
>>14
先々明らかにしてゆきたいと思います。
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(1): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)11:18 ID:KJiNgGLZ(11/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える(その4)

>>ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
>つまり、認識し得ない認識の主体=アートマン(我)の探究

これについて少し掘り下げて考察してみましょう。

我というと誰しもデカルトのコギト問題を想起されると思います。
”われ思う、故にわれあり”ってやつで、西洋哲学の流れにおいての基点探究の末にデカルトが行き着いた結論だと思います。

何故、認識の主体が我なのかは一旦おいといて、認識の主体としての我という点では、ここでは東西の見解の一致をみる訳です。
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(1): 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)11:43 ID:KJiNgGLZ(12/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える(その5)

”我とは認識するものである”という結論に至った過程は他の機会に譲るとして、認識について考察してみましょう。

認識は、眼・耳・鼻・舌・身・意によって受容された色・声・香・味・触・法といえるんでしょうか。
仏教用語でいうと、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が起こる六境(色・声・香・味・触・法)として認識されるという事でしょう。

つまり、そうした認識をするもの、認識の主体が我という事になるんでしょう。
21: 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)11:45 ID:KJiNgGLZ(13/22) AAS
×六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が起こる六境…
○六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が起き、六境…
30: 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)13:42 ID:KJiNgGLZ(14/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える(その6)

 >ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
 >(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド ヤージュニャヴァルキヤ)

さて、認識の主体は何故認識できないのでしょうか?

実は、西洋哲学でも同じような結論に達した方は大勢いらっしゃいます。
例えばカントはこう言ってます。

 >「私は思考する」という概念(判断)はすべての概念の乗り物であり、それゆえ、それらの概念とつねに一体である。
 >(中略)
 >われわれは、この主観をめぐってつねに循環に陥っている。
 >すなわち、この主観について何らかの判断を得ようとすれば、われわれはいつでもつねにこの主観の表象を用いなければならないからである。
省2
31: 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)14:06 ID:KJiNgGLZ(15/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える(その7)

例えば ”バスが走っている” とか ”鳥が鳴いている” というのは、 ”「バスが走っている」と私は思考している” ”「鳥が鳴いている」と私は思考している” って置き換えられると思うんです。
で、ここまではいいのですが、これを自己(私)に当て嵌めるとおかしなことが起こるんです。

先程の ”〜と私は思考している” を加えて置き換えられるという前提で ”私は見ている” とか ”私は歩いてる” と言う言葉を当てはめるとどうなるでしょう?
”「私は見ている」と私は思考している” とか ”「私は歩いてる」と私は思考している” となりますよね。

……一つの文章に二つの”私”が出てくるのですが、これは同じものなのかそれとも違うものなのか?
32: 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)14:40 ID:KJiNgGLZ(16/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える(その8)

それについて考察してみましょう。

例えば ”「私」は見ている” と ”「私」は見ていない” という概念を同時に持ったとしましょう。
その場合の「私」は見ているか見ていないかのどちらかであり矛盾はありません。
どちらかが偽という事です。

では、 ”私は見ていると『私』は思考している” と ”私は見ていないと『私』は思考している” という概念を同時に持ったとしましょう。

その場合、つまり、「私」は見ているの私ではなく、『私』は思考してるの私が基準になりますので、”私は見ている”と”私は見ていない”が同時に成立してしまい矛盾が生じます。
つまり、『私』の上に ”私は見ていると私は見ていない” が同時に乗っかってるという事です。
省2
33: 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)14:55 ID:KJiNgGLZ(17/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える(その9)

それでは、一つの文章出てくる二つの私、 ”私は見ていると『私』は思考している” の私は別物でしょうか?
後者の『私』を”思考される私”に、前者の「私」を’思考する私’にして考えてみましょう。

……思考する私が思考される私???

これは循環論法です。
”””私は見ていると私は思考している”と私は思考している”と私は思考している”…∞という事になりますからね。
つまり、無限に循環するという事は、最終的な私にたどり着くことは不可能という事です。 

 >われわれは、この主観をめぐってつねに循環に陥っている。
 >(純粋理性批判論 カント)
省1
34: 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)15:03 ID:KJiNgGLZ(18/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える(その10)

さて、先程の考察から ”最終的な私にたどり着くことは不可能” という結論をみました。
ところで、これ、

 >この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは捉えることができない。捉えられないから。
 >ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。

って事と同じですよね。
余談ですがサルトルも

 >われわれが出会うことのできる唯一の存在は、『認識されるもの』である。
 >『認識するもの』は存在するのではない。『認識するもの』は捉えられない。
 >(中略)『認識するもの』が、担いうる唯一の性質づけは、まさに、『それは、これこれの対象であらぬ』ということである」
省2
35: 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)15:11 ID:KJiNgGLZ(19/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える(その11)

さて、前半のまとめです。

 >仏教思想はこのアートマン(我)の探究がその起点だと思うんです。

という視座から、先行するインド思想家であるヤージュニャヴァルキヤを中心に考察してみました。
補足しておきまと、先程の循環論法の件については龍樹も中論の中で主体とその作用の項で考察しております。

ともあれ、アートマン(我)の探究については、
省3
42: 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/05/13(水)15:45 ID:KJiNgGLZ(20/22) AAS
無我思想について、ちょっと考える 2 (その1)

さて、無我の問題について、お釈迦様が降誕される前の思想的な背景について考察してみました。
前半において

 1.最終的な私にたどり着くことは不可能
 2.この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは捉えることができない。捉えられないから。

という一応の結論をみたという事しにてここでひとつの疑問が生じます。

”最終的な私にたどり着くことは不可能”であって、”捉えることができない、捉えられない” アートマンとは?
省8
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