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阿含宗という宗教 328 (1002レス)
阿含宗という宗教 328 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/
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641: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/15(日) 22:55:06 ID:f7wcLzS1 >>620神も仏も名無しさん2022/05/15(日) 16:06:15.96ID:bT7Ka6UI >アナゴンは確かに漏尽智を得て解脱したのです。 漏尽智「あらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」 (『佛教語大辞典』東京書籍、中村元、1444頁) ペテン大作さんは「あらゆるけがれを滅する智」を「煩悩を切る智」だと決めつけている。 それでは、「阿羅漢に属する」と矛盾するだろうと指摘されても、 彼は気にしないというよりも、意味がわからない。 漏尽智で煩悩を切るなら、アナゴンが漏尽智を持つことになり、 漏尽智がアラカンに属することと矛盾する。 つまり、「あらゆるけがれを滅する智」は「煩悩を切る智慧」という解釈が間違っているから、矛盾した。 これを指摘された段階でもうやめておけばいいのに、 良くもない頭で誰も理解できない瞬間解脱の屁理屈を考えた。 その行きついた先が、「アナゴンが漏尽智を持つ」という失笑説です。 「あらゆるけがれを滅する智」の意味を彼の良くもない頭で考えなくても、 彼が引用した沙門果経に書いてあるのだから、そのまま読めばいいだけです。 「我々は汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた。」(>>630) の後に、漏尽智の内容を釈尊が二度も説明しているのに、ペテン大作さんは、 いったい文章のどこの何を読んでいるのだろう? http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/641
642: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/15(日) 23:12:56 ID:f7wcLzS1 「かれは、もろもろの煩悩を滅する智に心を傾注し、向けます。かれは、 『これは苦である』と、あるがままに知ります。 『これは苦の生起である』と、あるがままに知ります。・・・」 (『原始仏教』片山一良、No.2、1991年、67ページ) この片山氏の訳をペテン大作さんは自分で引用した。 ごらんのように、「煩悩を滅する智」とは、それで煩悩を切るという話ではなく、 「これは苦である・・」から始まる四諦のことです。 これを見て彼は、漏尽智とは四諦だ、四諦で解脱するのだと書いた。 表現は適切ではないが、漏尽智で煩悩を切るというよりも、まだましです。 沙門果経の上記の全文を丁寧に読めば、漏尽智とは、四諦の体得を 確認することだとすぐにわかる。 釈尊が二度も漏尽智の説明をしているのだから、議論など必要がないほど明らかです。 前にも書いたように、解脱者以外は四諦を理解しても体得はしていない。 アラカンは四諦を完全に体得し、常にその体得を確認し続けるのが漏尽智です。 「心が・・・汚れなく、付髄煩悩を離れ」たのだから、すでに解脱して アラカンになっている。 アラカンだから、四諦を体得したかどうか、一つ一つをおさらいする。 解脱したからこそ、解脱したことを確認できる。 四諦を体得して、確認することを漏尽智というのだから、 アラカンに属するのは当たり前です。 解脱した者以外が漏尽智を持つなどありえない。 四諦を体得したと確認するのはまさに「煩悩を滅する智」です。 ごらんのように、何の矛盾もありません。 一方、漏尽智で煩悩を切るというオカルト説では、どこもここも矛盾だらけになる。 他の信者さんたちはペテン大作さんが自説の罠にひっかかり、 前門の虎後門の狼状態で、身動きが取れなくなっているのがわかるでしょう。 幸い、彼は慢心と憎しみが強いから、自分の罠に自分がはまっていることがわからない。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/642
643: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/16(月) 08:36:31 ID:sxs8cTip 沙門果経における四禅の記述は実は心の安定統一という単一の記述ではありません。 汚れを離れとか小さな煩悩も離れとか不動であるとか複数の表現をしているのです。 その全体を見るとこれは解脱なんです。 だから単一の表現記述に対して中村元博士も原語はサマディ、三昧だよと註を入れるのも当たり前でしょう。 解脱の諸相の中に心の安定統一と表現されるのもあるけれども単にそれだけではないということです。 もっともっと付加すべき要素があって、それをちゃんと欠かさずに表現しているのが沙門果経ですね。 だから我々はそれを以て解脱と解釈しているのだから、心の安定という単語だけをとって それが全てであるかのように決めつけるのは思慮が足りません。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/643
644: 桐山靖雄 [] 2022/05/16(月) 12:45:10 ID:uZVt8C+2 セイント靖阿! お風呂場で口外出来ない破廉恥な死を迎えた男! http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/644
645: 桐山靖雄 [] 2022/05/16(月) 12:56:48 ID:uZVt8C+2 >>629 阿含宗二代目管長猊下の深田靖阿を尊敬できない? では、 三代目管長猊下のK川さんを尊敬できますか? 尊敬できないクズを 管長猊下に指名して阿含宗はアホなの? ということで、深田靖阿の死因を教えて下さい。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/645
646: 神も仏も名無しさん [] 2022/05/16(月) 16:19:35 ID:lCnWttQl @アナゴンが漏尽智を体得してアラカンになる。 >642 >解脱した者以外が漏尽智を持つなどありえない。 いやそれはおかしいのです。 中村氏の説明を並べてみましょう。 >「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」 >「漏尽通ー生存の尽きてなくなったことを確認すること。漏尽智証通に同じ。」 >「漏尽智証通ー煩悩を滅ぼさせる智慧。煩悩を断つ智を体得する神通。」 >(『広説佛教語大辞典』東京書籍、中村元、1776頁) 「漏尽智証通ー煩悩を滅ぼさせる智慧。煩悩を断つ智を体得する神通。」 この「煩悩を断つ智」というのは漏尽智のことです。 漏尽智=「煩悩を断つ智」です。 もし、深山さんの言うように、この漏尽智がアラカンのものならば 何で「煩悩を断つ智を体得する」必要があるのですか? アラカンは既に煩悩を断っているのです。 もう煩悩を断つ必要はありません。 だからこれはアナゴンが漏尽智を体得するのです。 そして、体得したらアラカンになるから「阿羅漢に属する」となる。 どうですか? これ以上反論しても無駄です。 ユビちゃんも必死に横やりを入れていて、見ていて可哀そうです。 スッパリと諦めましょう。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/646
647: 神も仏も名無しさん [] 2022/05/16(月) 16:37:09 ID:lCnWttQl >>622 >そうではなく、やはりこれは仏教修行の最後の結果として全ての煩悩を断尽したと證知するのが漏尽智であって、 漏尽智というある時からある時までの修行法があるのではありません。 まあ、時々相手にしてやらないとね。 せっかく書いたのに不甲斐ないでしょうから。 だから、煩悩を断つのも漏尽智だと前から言ってるでしょう? 煩悩を断った結果を確認するだけが漏尽智ではないのです。 煩悩を断つのも漏尽智なのです。 「若し智生せば、有漏盡きて無漏の心解脱慧解脱を得、」 「漏盡智とは、謂はく此の智に由りて一切の漏盡の方便に通達し、 及び諸漏の盡なり。」 (『望月佛教大辞典 第五巻』、望月信亨、世界聖典刊行協会、5082頁) http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/647
648: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/16(月) 21:00:58 ID:XwOBz/7U >>646 神も仏も名無しさん 2022/05/16(月) 16:19:35.56 ID:lCnWttQl >もし、深山さんの言うように、この漏尽智がアラカンのものならば >何で「煩悩を断つ智を体得する」必要があるのですか? >アラカンは既に煩悩を断っているのです。 >もう煩悩を断つ必要はありません。 >だからこれはアナゴンが漏尽智を体得するのです。 それはあなたがまだ煩悩を断ち切れていない人が煩悩を断ち切る超人的な智慧と、 技術論、方法論という観点の頭から離れられないだけではありませんか。 そうではなくアナゴンどころかシュダオンより遥か以前の昔から煩悩を断つ修行を繰り返し続け、 最後に全ての煩悩を断ち切ったアラカンがそれを認識する話とすればしっくりくるじゃありませんか。 智というのはずばり知ることです。 宿明智だって過去世を知ることでしょ。 他心通他心智だって他人の心を知ることでしょ。 だから漏尽智も煩悩を断ち切ったことを知ることなんです。 桐山さんみたいになんかぱっかーんとどうにかするパワーではないのです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/648
649: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/16(月) 21:18:59 ID:XwOBz/7U >>647 神も仏も名無しさん 2022/05/16(月) 16:37:09.83 ID:lCnWttQl >だから、煩悩を断つのも漏尽智だと前から言ってるでしょう? >煩悩を断った結果を確認するだけが漏尽智ではないのです。 >煩悩を断つのも漏尽智なのです。 だから私の書き込みを読んでないんですか? 煩悩を断つというのは仏門に入門して最初からやってるんですよ。 仏教の修行というのは煩悩を断つこと以外にありません。 最初から最後までそうなんです。 もちろん最初から全ての煩悩が断ち切れるわけがないから徐々に徐々にと修行を進めるのです。 煩悩は結とも表現されますよね。 そして三結、五結、十結とあるわけです。 三結断ったのシュダオンで三結断って五結が薄らいだのがシダゴン、五下分結を断ったのがアナゴン、五上分結までも断ったのがアラカンという。 これは阿含宗でもそのように教えているでしょ。 だから煩悩を断つというのはもう最初から始まっているんですよ。 だったらその煩悩を断つ作業も含まれているという漏尽智というのはいつから始まるのか?と言ってるんです。 そしてアラカンにしか属さないとなると、シュダオン以前の煩悩を断つ努力というのはどうなるんだ?ということになります。 ちなみに煩悩を断つ努力というのはあなたの言うような四諦八正道です。 なぜならば四諦の道諦は八正道ですからね。 それは四禅の行った後に初めて取り組むものではなく、もう最初から取り組んでいるんですね。 でも沙門果経ではそこで四諦が出てくるというのは深山さんが書いているように、 解脱を果たしてもう一度四諦の観察をして自分は八正道によって煩悩を断ったのだなと確認するということなんです。 そうでなかったらそこからせっせと八正道の修行をしなければならなくなる。 >「若し智生せば、有漏盡きて無漏の心解脱慧解脱を得、」 >「漏盡智とは、謂はく此の智に由りて一切の漏盡の方便に通達し、 及び諸漏の盡なり。」 >(『望月佛教大辞典 第五巻』、望月信亨、世界聖典刊行協会、5082頁) この表現は漏尽智というのは漏尽の証明だと言ってるわけです。 仏教の目的は漏尽であるからそれを成し遂げた証明が漏尽智だということです。 まだ断ってないそれをこれからどうにかするという話ではない。 それから智とは知ることだと書いたが、宿明智、他心智はどうなるのだ? なんで過去世が分かるのか?何で他人の心がわかるのか? それよりも前になんで体が大きくなったり小さくなったりする神通を示すことができるのか? それに対する特別な修行法なんてやった形跡とゆうか記述がないではありませんか? 解脱した人がそこに心を向けた時に過去世もわかったり人の心も読めたというこれまた結果論の話で、方法論ではない、それと同じなんです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/649
650: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/16(月) 22:01:36 ID:9sStUtaV *「あらゆるけがれを滅する智」の意味 ペテン大作さんはどんなに自己矛盾しても、気にしない。 矛盾を指摘されても理解できないから、すぐに忘れて、自説に戻る。 他の普通の知性を持っている信者さんたちは、漏尽智は阿含宗にとっても とても重大な教義ですから、しっかり学んでください。 本当はカルマ解脱(因縁解脱)の話からしなければならない。 しかし、ペテン大作さんが逃げまくっているように、因縁解脱など 仏教は存在しませんが、それは別な機会にして、 今は漏尽智と煩悩解脱の関係を見てみましょう。 「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」 (『広説佛教語大辞典』東京書籍、中村元、1776頁) 漏尽智とは「あらゆるけがれを滅する智」であるという説明に、 「けがれ」が煩悩であることから、信者さんたちは、 解釈A「漏尽智で煩悩を切る」 と解釈しましたよね? この文言だけ見たら、そのように解釈してもおかしくはありません。 一つ気を付けてほしいのは、解釈Aは各人の文章の解釈にすぎないことです。 ペテン大作さんのような視野が狭く、慢心ばかり強烈な人は、 自分の解釈A以外にありえないと確信している。 だが、普通の良識を持っている他の信者さんたちは、 自分の解釈にすぎない解釈Aが絶対に正しいなんて思いませんよね? そのとおりで、中村博士の上記の解説の中でさえ、解釈Aは矛盾が生じます。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/650
651: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/16(月) 22:13:18 ID:9sStUtaV *「漏尽智で煩悩を切る」は矛盾する 「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」 (『広説佛教語大辞典』東京書籍、中村元、1776頁) 中村博士の「阿羅漢に属する」を見てください。 漏尽智はアラカンに属する、つまり、アラカンしか持たないというのです。 だが、煩悩を切らなければならないのはアナゴン以下です。 解釈Aではアナゴンが「漏尽智で煩悩を切る」はずなのに、 その漏尽智はアラカンしか持たないという!? アラカンはすでに煩悩を切っているだから、煩悩を切る漏尽智は無用の長物です。 矛盾しています。 普通の読解力と良識を持っているなら、自分の解釈A「漏尽智で煩悩を切る」が 間違っているのだろうと疑います。 だが、ペテン大作さんは中村博士の「阿羅漢に属する」が間違っているという!? 自分に都合のよい前半は正しく、都合の悪い後半は嘘だというような、 恥知らずの彼の真似を他の信者さんたちはしないでください。 他の中立的で信用のおける辞典を調べてみることです。 ペテン大作さんみたいに、読解力もないのに、文語体で書かれた古い 辞典を持ち出して、自分に都合よい解釈を加えるのは、 頭が化石のように硬い彼に任せましょう。 今は、いくらでも口語で書かれた優れた仏教辞典がありますから、 他の信者さんたちはそれらを使いましょう。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/651
652: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/16(月) 22:23:29 ID:9sStUtaV *漏尽智とは「煩悩の尽きたことを知る能力」 岩波仏教辞典「漏尽通は自己の煩悩の尽きたことを知る能力。」 「漏尽智=漏尽通=漏尽明」ですから、↑これが漏尽智の意味で、 解釈A「漏尽智で煩悩を切る」は違うというか、間違いです。 岩波仏教辞典では、漏尽智で煩悩を切るのではなく、 解釈B「煩悩の尽きたことを知る能力」 つまり、解脱したことを知る能力だとあります。 ペテン大作さんは、漏尽智で煩悩を切り(解釈A)、漏尽智で解脱したと知る(解釈B)と いう世界でたった一人のオカルト説を唱えています。 もしそうなら、岩波仏教辞典にその二つが載っているはずなのに、 載っているのは上記の解釈Bのみです。 彼は岩波仏教辞典では、紙数が足りないから、解釈Aを省略したという いかにも恥知らずな彼らしい愚説を唱えています。 解脱に関わるこれほど重要な項目で、しかもたった一行で済むことを 学者たちが省略するなどありえません。 また、省略どころか、岩波仏教辞典では、解釈Bが二度も出てくるのです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/652
653: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/16(月) 22:34:57 ID:9sStUtaV 「煩悩の尽きた状態.・・(中略)・・また,この状態を自ら知覚することを(漏尽明)(漏尽通) といい三明六神通の一つである.」 (『岩波仏教辞典』) ↑の「漏尽」の説明の中に、漏尽通とは解脱の「状態を自ら知覚すること」 であるという解釈Bが出ています。 漏尽通は、紙数の足りない岩波仏教辞典に二度も出てきて、 しかも両方とも同じ解釈Bです。 つまり、岩波仏教辞典は紙数が足りないから解釈Aを省略したのではなく、 漏尽智とは解釈B「煩悩の尽きたことを知る能力」という一つの意味しかないのです。 ここまでは普通の知性のある信者さんたちは理解できたでしょう。 そこで話を戻すと、中村博士の「あらゆるけがれを滅する智」も、 解釈B「煩悩の尽きたことを知る能力」という意味なはずです。 それなのに、どうしてこんな紛らわしい表現をしたのでしょう。 大学者ですから、ペテン大作さんのように適当な空想で言っているのではなく、 阿含経に根拠があるから、このような表現をしたのです。 それが沙門果経です。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/653
654: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/16(月) 22:45:50 ID:9sStUtaV >>602神も仏も名無しさん2022/05/12(木) 15:52:24.56ID:rbXSUWMk 「かくのごとく心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、柔かで、 巧みで、確立し不動となったときに、我々は汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた。 そこでこの(一切は)苦であると如実に知った。」 (『ゴータマ・ブッダ ー釈尊の生涯ー 原始仏教1』中村元、184頁) まず信者さんたちに着目してほしいのは、この経典の前半に「よごれなく、汚れなく」 とありますから、すでに煩悩を断ち切って解脱していて、 漏尽智は解脱した後に出てくる点です。 これを見ても、解釈A「漏尽智で煩悩を切る」が間違いなのは明らかです。 また、解釈B「煩悩の尽きたことを知る能力」と一致していて、 漏尽智とは解釈Bこそが正しいのがわかります。 経典には「汚れを滅す智(漏尽智)」とありますから、 中村博士は沙門果経のこの部分を根拠として、漏尽智を 「あらゆるけがれを滅する智」と書いたのです。 中村博士は「あらゆるけがれを滅する智」を単に経典から引用しただけですから、 それなら話は簡単で、「あらゆるけがれを滅する智」の意味を この沙門果経で釈尊本人に説明してもらえばいい。 学者や後の人があれこれ議論する必要はなく、漏尽智を説いた釈尊本人の 説明こそがすべです。 沙門果経には「汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた」とあって、 漏尽智に心を向けた内容が、この後に続きます。 釈尊が漏尽智をなんと説法しているか、ご本人から拝聴しましょう。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/654
655: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/16(月) 22:57:43 ID:9sStUtaV 「『これが苦しみである』と、あるがままに洞察します。 『これが苦しみの原因である』と、あるがままに洞察します。 『これが背しみの滅尽である』と、あるがままに洞察します。 『これが苦しみの滅尽にいたる道である』と、あるがままに洞察します。 『これらが諸煩悩である』と、あるがままに洞察します。 『これが煩悩の原因である』と、あるがままに洞察します。 『これが煩悩の滅尽である』と、あるがままに洞察します。 『これが煩悩の滅尽にいたる道である』と、あるがままに洞察します。」 (『原始仏典Ⅰ長部経典Ⅰ』春秋社105ページ) これが釈尊の説いた漏尽智です。 見てわかるように、四諦のことです。 しかも、釈尊は二回繰り返していますから、これがいかに 重要かは言うまでもありません。 四諦こそは仏教のすべて、解脱のすべて、まさに「あらゆるけがれを滅する智」です。 解脱した後に「あらゆるけがれを滅する智」である四諦を 完璧に体得しているかどうかを洞察することを漏尽智というのです。 「洞察」は「知る」と訳する学者もいますから、つまり、 「あらゆるけがれを滅する智」=「四諦を洞察する(知る)」 という意味です。 「洞察」「知る」には、解釈A「漏尽智で煩悩を切る」のような 「切る」という意味がないのは言うまでもありません。 そもそも、「よごれなく、汚れなく」ですでに煩悩を切って解脱しているのですから、 漏尽智でまた煩悩を切るなどおかしい。 釈尊の説明を聞けば十分で、解釈A「漏尽智で煩悩を切る」は間違いです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/655
656: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/16(月) 23:09:06 ID:9sStUtaV *漏尽智で煩悩を切るのではない 釈尊が、煩悩を滅する智と述べたのは、何か超能力のような神通力で 煩悩を断ち切るという話ではなく、八正道で煩悩を切った比丘が、 四諦を何度も洞察して煩悩がないと確認するという意味です。 四諦の「道」の八正道によって、煩悩は滅しており、 煩悩を滅するのは漏尽智ではありません。 まとめるなら、 ・漏尽智とは煩悩が尽きたこと(解脱したこと)を確認する能力 ・釈尊は四諦体得の確認を「煩悩を滅する智」と述べた ・釈尊は解脱した後で漏尽智に心を向けると述べている ・だから、漏尽智は解脱しているアラカンしか持たない ・だから、漏尽智は解脱していないアナゴン以下が持っているはずがない ・つまり、漏尽智で煩悩を切るのではない http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/656
657: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/17(火) 00:04:12 ID:4xA9G5Im そう、「心を向ける」です。 ここで沙門果経の構成を考えてみましょう。 四禅を終えた比丘がどのような状態になっていたかと言うと、 心が安定しており、よごれ、けがれから離れており、小さな煩悩も離れており、 柔軟にして不動であったとこういう状態だったわけです。 つまりこれが解脱している状態なわけです。 そこで解脱した比丘は神通に心を向ける。 すると刀を鞘から抜くように身体から心が離れ 身体が巨大になったり微細になったり壁をすり抜けたりという神通を体験することができた。 心を向けただけでそうなったわけです。 なんでそんな神通力が出るんだと言うとそんなことはわかりません。 言えることは神通力を得るための特別な修行なんてしてないんです。心を向けるだけなんです。 それから他人の心に心を向けると他人の心が読めるわけだし、過去に心を向けると自分の過去世、人の過去世などがわかるわけです。 輪廻の諸相が見えるわけです。 そして四諦の真理に心を向けて観察するとと、もう自分は煩悩から離れて来世に生じることがないと知ったわけです。 だからこれは解脱したアラカンだから神通も得ていたし、他心通も得ていたし、宿明通も得ていたし、 煩悩が尽きて無くなったなったと知る漏尽智も得ることもできたということです。 つまり解脱していたからこそ解脱したとわかったわけです。 これを解脱知見と言います。 一連のお話は釈尊自らの修行体験から記されていると思われます。 だから菩提樹下でこういう観察を行ったわけです。 しかし繰り返して言うけれども、解脱していたからこそ、解脱したと悟ったのです。 これを成道、悟りと言います。 解脱するにはどうしたらよいかということを考えて実践してそれを証明した。 それが正しいと分かったわけで、まさに真理を悟った訳なんだが、真理だと悟る前提として自らはちゃんと解脱していたのです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/657
658: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/17(火) 00:12:46 ID:4xA9G5Im しかもその心を向ける、観察するというのは「ありのまま」の観察なんです。 ありのままに心を向ける、観察する、その結果煩悩が尽きて無くなったということです。 じゃあ煩悩がまだ残っているアナゴンあたりがありのままに観察したら煩悩が全て尽きて無くなるんですか? そんなことはありえませんね。 煩悩が全て尽きて無くなっていたアラカンだったから、ありのままに観察したら、まさにその通りだったということです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/658
659: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/17(火) 00:26:41 ID:4xA9G5Im 釈尊の菩提樹下の瞑想観察で最後は悟りという成道クライマックスを迎えるわけです。 でもこのクライマックスの瞬間に今まであった煩悩が瞬間的になくなって解脱するのではありません。 それは実は少し前に既に解脱していて、最後に観察を行ったから、自分も解脱していたと分かり、この道は正しかったと悟るわけです。 もう1度悟りという言葉の意味を考えてください。 桐山さんは悟るという言葉が嫌いだったですけどね。 著書にそう書いてある。 悟りというものは認識するなんて話ではなく、生理的な変革が起こるものだなんて無知なことを書いています。 そんなことはありません。 ありのままに観察したらありのままの結果しか見えないんですよ。 煩悩が残っていればまだ解脱していないと分かるし、煩悩がなくなっていれば解脱していたとわかるわけです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/659
660: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/17(火) 00:36:09 ID:4xA9G5Im だからペテン大作さんなんてのはこの一番最後に記述される成道悟りのクライマックスが 全てのゴールだとするのは良いのだが、その全てのゴールに全ての事が解決されるなんて決めつけている。 そうじゃなくて二重構造なんですよ。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/660
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