[過去ログ] 【全宗教】悟りをひらいた人のスレ840【歓迎】 (1002レス)
前次1-
抽出解除 必死チェッカー(本家) (べ) レス栞 あぼーん

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
282: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/06/03(土)10:49 ID:NJP/NNXG(1/6) AAS
構築された仏教思想シリーズ
佼成出版社

蓮如 : ともに泣く求道者
/佐々木隆晃著
覚鑁 : 内観の聖者・即身成仏の実現
/白石凌海著
ツォンカパ : 悟りへの道-三乗から真の一乗へ
/松本峰哲著
一遍 : 念仏聖の姿、信仰のかたち
/長澤昌幸著
省14
283: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/06/03(土)10:59 ID:NJP/NNXG(2/6) AAS
構築された仏教思想(シリーズ)も半分読み終えましたけど、どちらかというと中級者向けの様です。

唯識、天台、日蓮は出ないのかな。
284: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/06/03(土)11:13 ID:NJP/NNXG(3/6) AAS
私もそれ程仏教に詳しい訳では無いので、誤謬があれば根拠を明示の上でご指摘頂きたい旨を先に申し上げておきます。

で、一見単純そうに見える浄土真宗の教えですけど、実は難信難解なんです。

こう考える方もいるかもしれません。
「そうではない、我々凡夫がその煩悩によって自ら阿弥陀様からの光明を晦まし、難信難解にしてるのだ」
と。
しかしそうではない様なのです。
285: 鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d 2023/06/03(土)12:02 ID:NJP/NNXG(4/6) AAS
闇が光の欠如と謂われるように、無明は智慧の欠如だって云うんです。

阿弥陀様の光明は無量光とも云われるのですが、光の量に応じて映し出される我の影が濃くなるように、まるで阿弥陀様から逃げるかのように、親鸞聖人は己の無明の闇をどこまでもどこまでもどこまでも凝視し続けるんです。

西田幾多郎の逆対応の話(※)を想起させるのです。


>神と人間との関係は、人間の方からいえば、億劫相別、而須臾不離、尽日相対、而刹那不対、此理人々有之という大燈国師の語が両者の矛盾的自己同一的関係をいい表していると思う。
>否定即肯定の絶対矛盾的自己同一の世界は、どこまでも逆限定の世界、逆対応の世界でなければならない。
>神と人間との対立は、どこまでも逆対応的であるのである。
>故に我々の宗教心というのは、我々の自己から起るのではなくして、神または仏の呼声である。神または仏の働きである、自己成立の根源からである。

>我々の生命において、一瞬も止まることなき時の瞬間は、永遠の現在と逆限定的に、逆対応的関係に於てあるのである。故に生死即涅槃である。
>自己自身を超越することは、何処までも自己に返ることである、真の自己となることである。
省5
286: 鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d 2023/06/03(土)12:09 ID:NJP/NNXG(5/6) AAS
親鸞聖人は西田の云うこの「矛盾的自己同一的関係」のご自覚があったのでしょう。
いや、そうした途を切り開かれたのはその師、法然房源空上人かもしれません。
その逆説的対応の道をどこまでもどこまでもどこまでも親鸞聖人は歩まれたのでしょう。
287: 鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d 2023/06/03(土)12:15 ID:NJP/NNXG(6/6) AAS

我々の自己の自覚の奥底には、どこまでも自己を越えたものがあるのである。
我々の自己が自覚的に深くなればなるほどしかいうことができる。
内在即超越、超越即内在的に、即ち矛盾的自己同一的に、我々の真の自己はそこから働くのである。
そこには、直観というものがなければならない。

絶対はどこまでも自己否定において自己をもつ。
どこまでも相対的に、自己自身を翻えす所に、真の絶対があるのである。
真の全体的一は真の個物的多において自己自身をもつのである。
神はどこまでも自己否定的にこの世界に於いてあるのである。
この意味において、神はどこまでも内在的である。
省1
前次1-
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.029s