古本屋のつぶやき2 (398レス)
上下前次1-新
371: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/11(金)08:55 ID:AnfRjoyY(2/2) AAS
>だから、香厳も小石が箒の竹に当たって悟った、んじゃないんです。。
>その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。w
これ、逆ね。
例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて、隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間、痛みとか思考とか真っ新になる事がある訳です。
372: 10/11(金)11:06 ID:sznTjh1n(1) AAS
セイウンコーン〜
373: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/12(土)00:13 ID:mkSrCmIw(1) AAS
たとえば、「私は(〜を)見る」と言ったとしよう。では、見る「私」とは、何であろうか。
それは、「私は(〜を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。
それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。
だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。第一、その私って、いったい何なのだろう?
もしそういう私があるとしたら、それが見るとは、どういうことになろうか。
もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「見る作用」と結びついて、はじめて見るということもできるということになるほかない。
しかしながら、いったい、見る作用のみが、どこかにあると考えられようか。
これはおかしな話である。ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。
したがって見る作用とは別に私があるということは、どうも成立しそうもない。
(入門 哲学としての仏教 竹村牧男)
省1
374: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/12(土)17:06 ID:KY3gqnHE(1) AAS
また、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』を読んでこられた方には、「諸法実相十如是」はどうなっているの? と疑問を持たれるかもしれない。
サンスクリット原典では十如是に相当する箇所は、「それらの諸々の法は、①何であり、②どのようにあり、③どのようなものであり、④どのような特徴を持ち、⑤どのような固有の性質を持つのか」という五つの疑問節になっている。
(『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』 植木雅俊より)
375: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/14(月)23:27 ID:sjF4Fa+q(1) AAS
ここに見る問題は、実はわれわれがこれまでの講義で何度も見てきた、因中有果論と因中無果論の間の解決困難な難問にあたるものである。
つまり、「人が仏になる」のは、原因である人にすでに結果としての仏性があるからだと考える立場と、「人が仏になる」にしても、それは原因である「人」に仏性があるからではなく、仏性が「人」に新しくそなわる瞬間があるからだという立場との対立である。
376: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/22(火)03:59 ID:7BwWrjvK(1/5) AAS
スッタニパータ第4章
950(第十五経第16偈)
名称と形体において、わがものと執着することがまったくない人、そして、存在しないことによって悲しむことのない人、実に、かれは、世間において失うことはありません。Sabbasonāmarūpasmiṃyassan’atthimamāyitaṃ,asatācanasocati,savelokenajiyyati.
377: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/22(火)04:05 ID:7BwWrjvK(2/5) AAS
スッタニパータ第4章
950(第十五経第16偈)
名称と形体において、わがものと執着することがまったくない人、そして、存在しないことによって悲しむことのない人、実に、かれは、世間において失うことはありません。
Sabbaso nāmarūpasmiṃ yassa n’ atthi mamāyitaṃ,asatā ca na socati, save lokena jiyyati.
378: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/22(火)04:10 ID:7BwWrjvK(3/5) AAS
1. Sabbaso
すべてにおいて、
一切において
2. nāmarūpasmiṃ
名色、
形あるものと名前や概念
3. yassa
その者の
4. n’ atthi
存在しない
省20
379: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/22(火)04:21 ID:7BwWrjvK(4/5) AAS
(第十五経第19偈)
不動であって明智のある者には、いかなる作為も存在しません。
かれは、勤め励むことから離れていて、あらゆるところに安穏を見るのです。
Anejassa vijānato n’ atthi kācini saṃkhiti, virato so viyārambhā khemaṃ passat isabbadhi.
(石飛先生の解説)
「明智のある者(ヴィジャーナント)」とは、「了知する(ヴィジャーナーティ)」の現在分詞ですが、このことばと、次にくるサンキティまたはニサンキティ(作為)から、彼岸に渡った明智のある者が、もはや為すことがなくなった様子を表すと考えられます。
十二支縁起の最初の支分である「無明(アヴィッジャー)」と、次の支分である「行(サンカーラ)」との関係を思い出した人もいることでしょう。
380: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/22(火)04:25 ID:7BwWrjvK(5/5) AAS
Anejassa vijānato
「揺るがない者(静かな者)、理解する者にとって」
n’ atthi kācini saṃkhiti
「どのような拘束も存在しない」
virato so viyārambhā
「その者は活動(行動)をやめた」
khemaṃ passat isabbadhi
「安全を見た者、その者は至福(解脱)を見た」
各単語の訳
1. Anejassa
省31
381: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/27(日)04:55 ID:umnBabH9(1) AAS
ye ca te dharmā yathā
ca te dharmā yādṛśāś
ca te dharmā yal-lakṣaṇāś
ca te dharmā yat-svabhāvāś
ca te dharmāḥ
ye ca yathā
ca yādṛśāś
ca yal-lakṣaṇāś
ca yat-svabhāvāś
ca te dharmā iti
省1
382: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/27(日)07:54 ID:zCZW8Jkg(1/5) AAS
tathagataeva Sariputra tathagatasya dharmam desayed yan dharmams tathagato janati
sarvadharmam api Sariputra tathâgata eva desayati
sarvadharmam api tathā-gata eva janäti
ye ca te dharma yatha
ca te dharma yadrsas
ca te dharma yal laksanas
ca te dharma yat svabhavas
cate dharmäh yecayathã
ca yadrsas
ca yal laksanas
省3
383: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/27(日)14:50 ID:u0PESyxH(1) AAS
和訳:
「シャーリプトラよ、如来のみが法を説くことができる。
如来が知る法は、すべての法であり、シャーリプトラよ、如来のみが法を説き、如来のみがすべての法を知っている。
どのような法であれ、その法がどのようであれ、その法がどのような特徴であれ、その法がどのような本性であれ、どのようであり、どのような特徴であり、どのような本性であろうとも、それらの法において、如来のみが直接的に、完全に知っている。」
一行毎の訳:
tathāgata eva, Śāriputra,
「如来こそが、シャーリプトラよ、」
tathāgatasya dharmāṁ deśayet.
「如来は法を説くことができる。」
yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti,
省29
384: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/27(日)22:25 ID:zCZW8Jkg(2/5) AAS
tathāgata eva, Śāriputra,
tathāgatasya dharmāṁ deśayet.
yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti,
sarvadharmān api,
Śāriputra,
tathāgata eva deśayati,
sarvadharmān api tathāgata eva jānāti.
385: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/27(日)22:25 ID:zCZW8Jkg(3/5) AAS
ye ca te dharmāḥ,
yathā ca te dharmā,
yadṛśāś ca te dharmā,
yal lakṣaṇāś ca te dharmā,
yat svabhāvāś ca te dharmāḥ,
386: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/27(日)22:26 ID:zCZW8Jkg(4/5) AAS
ye ca yathā,
ca yadṛśāś,
ca yal lakṣaṇāś,
ca yat svabhāvāś,
ca te dharmā iti,
teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ.
387: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/27(日)22:26 ID:zCZW8Jkg(5/5) AAS
和訳:
「シャーリプトラよ、如来のみが法を説くことができる。
如来が知る法は、すべての法であり、シャーリプトラよ、如来のみが法を説き、如来のみがすべての法を知っている。
どのような法であれ、その法がどのようであれ、その法がどのような特徴であれ、その法がどのような本性であれ、どのようであり、どのような特徴であり、どのような本性であろうとも、それらの法において、如来のみが直接的に、完全に知っている。」
一行毎の訳:
tathāgata eva, Śāriputra,
「如来こそが、シャーリプトラよ、」
tathāgatasya dharmāṁ deśayet.
「如来は法を説くことができる。」
yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti,
省29
388: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 11/05(火)10:29 ID:dIWZyw64(1) AAS
保守点検あげ。
389: 11/06(水)15:24 ID:H1h6kX4Y(1) AAS
‘
390: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 11/07(木)11:48 ID:UEUDm9Sw(1) AAS
道元禅師における「説心説性」の定義について
石 井 清 純
外部リンク:www.jstage.jst.go.jp
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