[過去ログ] 【仏教】悟りを開いた人のスレ680【天空寺】 (1002レス)
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21: 10/21(月)12:29 ID:CJWlQy9L(1) AAS
モルモン教ジャパン
2chスレ:psy
22: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/21(月)14:25 ID:iwSxQj3J(2/8) AAS
疲れている時、ただ休んでじっとしていればよい。
辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物何か引っかかっている。
辛ければ辛いままであればよい。
病もまた道であり、疲れもまた道である。
23: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/21(月)16:23 ID:iwSxQj3J(3/8) AAS
人と話をする時、云わないで良い事は言わない。
余分な念を使わない。
話は色々な事に渡るものだ。
二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。
一つ心で働けば良い。
「単」は一つ線であること。
一つのもので働けば良い。
24: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/21(月)17:00 ID:iwSxQj3J(4/8) AAS
「禪」は単を示すとある。
単を示した行動でなければ、禅ではない。
禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
不純物の無い「今」が禅である。
これを「只管」という。
本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。
考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。
本当に自己が無ければそうでしょうが。
自己のないことが禅である。
省12
25: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/21(月)19:13 ID:iwSxQj3J(5/8) AAS
悟れないのは只管に成らねばいけないという意識が働いて、只管が只管を邪魔しているからである。
途中は仕方がない。
それが目標だから。
本当に「只」になればよい。
只管も只も有ってはならない。
菩提心のもとに常に「単」を練ることである。
坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、実践すれば良い。
「只」は努力の結果である。
ここまで来ると本当に大平和である。
生死はただ「単」である。
省6
26: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/21(月)20:21 ID:iwSxQj3J(6/8) AAS
車を運転する時、心を虚にすること。
景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。
動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。
自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。
それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。
綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。
一点を守らないからである。
今は動いている。
それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。
何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。
27: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/21(月)21:36 ID:iwSxQj3J(7/8) AAS
「只」吐き、「只」吸うだけ。
一瞬一瞬を大切にして「只」やる。
どんな事も「只」やる。
呼吸の一瞬一瞬のみ。
呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。
その物と離れないでやれるようになる。
こうなれば大したものである。
ここまで来ねばいけない。
常住不変に一瞬一瞬でなければいけない。
それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。
省22
28: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/21(月)23:24 ID:iwSxQj3J(8/8) AAS
自分がその中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。
一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。
この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。
29: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/22(火)07:39 ID:9JnNbi2o(1/5) AAS
「禪」は単を示すとある。
単を示した行動でなければ、禅ではない。
禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
不純物の無い「今」が禅である。
これを「只管」という。
本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。
考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。
本当に自己が無ければそうでしょうが。
自己のないことが禅である。
省12
30: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/22(火)13:05 ID:9JnNbi2o(2/5) AAS
「今」「只」に我は無い。
我が無ければ即菩提。
それを大清浄とも云う。
汚がさるるものがなければ、浄くするものもない。
「今」は生死を論ずる間はない。
本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。
生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。
31: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/22(火)14:57 ID:9JnNbi2o(3/5) AAS
常に「只」するよう努力していればそれで良い。
ポカンとなり夢や幻の馬鹿になるのとは異なる。
そこを誤解しないように。
善悪や損得の気持ちがあった時は、あと残りがする。
その残った上で次の事をしていることが多い。
すると過去と今が重なるので大きな邪魔者になる。
常に自分を注意していないとその事が分からない。
例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。
32: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/22(火)18:14 ID:9JnNbi2o(4/5) AAS
「禪」は単を示すとある。
単を示した行動でなければ、禅ではない。
禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
不純物の無い「今」が禅である。
これを「只管」という。
本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。
考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。
自己のないことが禅である。
生とか死は観念であり言葉である。
省11
33: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/22(火)22:07 ID:9JnNbi2o(5/5) AAS
悟れないのは只管に成らねばいけないという意識が働いて、只管が只管を邪魔しているからである。
途中は仕方がない。
それが目標だから。
本当に「只」になればよい。
只管も只も有ってはならない。
菩提心のもとに常に「単」を練ることである。
坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、即今底を実践すれば良い。
「只」は努力の結果である。
ここまで来ると本当に大平和である。
生死はただ「単」である。
省22
34: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/24(木)22:05 ID:3TcMGtFY(1) AAS
ここに正法及び正法の体得の仕方を記します。
坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。
常に道であること。
例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。
入って来るままに聞くだけ。
感情も気付きも入れない。
自分を虚にしておく。
「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。
何も無しにあると、そのまま入って聞こえて終わる。
それが「正聞」である。
省4
35: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/25(金)08:36 ID:EElnvPxO(1/2) AAS
疲れている時、ただ休んでじっとしていればよい。
辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。
辛ければ辛いままであればよい。
病もまた道であり、疲れもまた道である。
36: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/25(金)18:56 ID:EElnvPxO(2/2) AAS
「禪」は単を示すとある。
単を示した行動でなければ、禅ではない。
禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
不純物の無い「今」が禅である。
これを「只管」という。
本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。
考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。
自己のないことが禅である。
生とか死は観念であり言葉である。
省11
37: 10/26(土)12:06 ID:I5GfWsBH(1) AAS
精神科医の皆様いつもありがとうございます
38: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/26(土)19:43 ID:2FW630aK(1) AAS
「今」「只」に我は無い。
我れなければ、即菩提。
それを大清淨とも云う。
汚がさるるものがなければ、浄くするものもない。
「今」は生死を論ずる間はない。
本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。
生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。
39: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/27(日)09:16 ID:vcbO/hUJ(1) AAS
人と話をする時、云わないで良い事は言わない。
余分な念を使わない。
話は色々な事に渡るものだ。
二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。
一つ心で働けば良い。
「単」は一つ線であること。
一つのもので働けば良い。
40: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 10/28(月)16:38 ID:A+pGN1BS(1) AAS
「禪」は単を示すとある。
単を示した行動でなければ、禅ではない。
禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
不純物の無い「今」が禅である。
これを「只管」という。
本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。
考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。
自己のないことが禅である。
生とか死は観念であり言葉である。
省11
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