[過去ログ] 【東京新函館】北海道新幹線210【2016年春開業】 (560レス)
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249: 2014/05/18(日)23:03 ID:EkWFpEVU0(22/31) AAS
「50年前、桜の咲く頃に私は日本を発ちました」——19歳で留学した日本の思い出を、周恩来総理は懐かしそうに振り返った。
「もう一度、ぜひ桜の咲く頃に日本に来てください」と語る池田大作名誉会長に周総理は言った。
「願望はありますが、無理でしょう」——周総理は癌におかされ、闘病中の身であったのだ。
1974年12月5日の夜。総理からの会見の要望は、2度目の訪中で北京に滞在していた池田名誉会長に、突然伝えられた。
総理の病状を心配した池田名誉会長は、会見を固辞。しかし、総理の「強い希望」であるとの説得に促され、会見場となった入院先の三〇五病院に向かった。
総理は玄関で立って待っていた。「よくいらっしゃいました。池田先生とは、どうしても、お会いしたいと思っていました」
1960年代初めから、「創価学会は、民衆のなかから立ち上がった団体である」ということに着目していた周総理。1968年に池田名誉会長が発表した「日中国交正常化提言」も高く評価していた。
「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です」——周総理は、日中の友好、アジアの平和、さらには世界の平和と安定について、万感を込めて語る。
「中日両国人民の友好関係の発展は、どんなことをしても必要であることを何度も提唱されている。そのことが私にはとてもうれしいのです」「あなたが若いからこそ大事につきあいたいのです」
この時、周総理76歳、池田名誉会長は46歳だった。
池田名誉会長に日中の未来を託したい——病状を心配する側近の制止のメモを振り切って、切々と総理は語り続けた。
医師団から「会見すれば、命の保証はできません」と、反対されても「池田会長とは、どんなことがあっても会わねばならない」と譲らず、実現させた会見だった。
会見の翌春、新中国からの初の国費留学生6人を日本で唯一受け入れたのは、池田大作名誉会長が創立した創価大学であった。
周総理が日本に留学した時、大学で学ぶ機会を得られず、苦労したことに報いたいとの池田名誉会長の真情だった。
留学生の身元の保証から日常生活にいたるまで、池田名誉会長はこまやかに心を砕いた。
そして同大学構内に、桜の木の植樹を提案。日中友好と平和への願いが込められた桜は「周桜」と命名され、今も青年の成長を見守っている。
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