[過去ログ] 【時代の寵児】鳥取ループとは何者か【住所でポン】 (1001レス)
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980: 2014/11/04(火)21:19 ID:AKtvppPQ0(1/2) AAS
1930年代融和運動下の「中堅人物」像 : 長野県における一青年の思想と行動
外部リンク[pdf]:eprints.lib.hokudai.ac.jp

木藤岩雄は1927年7月徴兵検査を受け、甲種合格で、翌年1月近衛師団野戦重砲兵第4旅団近衛野砲兵連隊(東京)へ入営する。
「岩雄がどうして近衛師団へ行けるのか」と言われたように、被差別部落から近衛師団に配属されるのは異例の事であった。
1927年の浦里村の徴兵受検者50名、内甲種合格18名、そのうち15名(志願1名を含む)が現役兵として入営した。
近衛師団へは2名配属さている。浦里村から近衛師団への配属は毎年1名ないし2名あり、めずらしいことではなかった。
しかし、被差別部落出身者の近衛師団配属は初めてである。
木藤岩雄にとってこの近衛師団配属が青年団活動とともにその後の彼の思想と行動とを語るうえで重要な転機となった。
入営後、通信兵としてモールス信号、通信機材の組み立て、電話配線等の教育を受けている。
競技会においてモールス信号の連隊競技、更には個人競技で1位をとるなど成績は良く、
11月に上等兵、翌年11月、伍長勤務上等兵で予備役になっている。
在営中精勤賞を3本もらい除隊時に連隊で上から4番の成績で下士官勤務適任証を受けている。
近衛師団で下士官勤務適任証をもらうのは浦里村からは2人目である。
青年会においてけっして前面にでることのなかった木藤岩雄にとって近衛師団の軍服を着て、
しかも下士宮勤務適任証までも受けて村に帰ったという事実は決定的であった。
「部落に生を受けた以上、反逆の精神は常にもち続けていた」が、「国家あっての国民、国家を度外視した国民はありえない」。
「日本の国は日の丸のもとに一致団結していかなければならない」と考えるようになったと木藤岩雄は述べている。
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