◆三島由紀夫の遺訓◆ (511レス)
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118: 2011/02/12(土)10:50 ID:vqfm1rbS(3/6) AAS
そしてこの対間接侵略事態とははつきりいつていま問題になつてゐる治安出勤である。
日本の周囲の情勢を見渡すのに、直接侵略事態はむしろ可能性が薄く、間接侵略事態がある程度進行した場合に
はじめて直接侵略事態が起こるであらうといふことが常識として考へられる。一例がソビエトはいはゆる熟柿作戦と
いはれてゐるやうに、昔からいつたん相手を安心させてから、例へば一国が両面作戦を恐れてソビエトと手を
握つた時に、ソビエトは一旦これと手を握つて相手を安心させた後に、相手がソビエトに背をむけて敵と戦つて
ゐる留守を狙つて背後から、その条約を破つてこれを打ちのめし、占拠し、あるひは自分の手に収めるといふ時機を
狙ふ戦略に甚だ老練であり、甚だ狡猾である。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
119: 2011/02/12(土)10:52 ID:vqfm1rbS(4/6) AAS
ソビエトが現下のやうな政治情勢で、日本に直接侵攻してくることは、すぐには考へられないけれども、
ソビエトなり北鮮なり中共なりのそれぞれ色彩も形態も異なつた共産主義諸国が、もし日本に政治的影響を及ぼして、
間接侵略事態を醸成するのに成功した場合、そしてそれが日本全国の治安状態を攪乱せしめ、国内の経済も崩壊し、
革命の成功が目の前に迫つた場合、このやうな場合にはソビエトが、あるひは新潟方面に陽動作戦を伴ひつつ
北海道に直接侵攻してくる危険がないとは決していへない。決していへないけれども、このやうな直接侵略事態を
考へる前に、最も我々が問題にすべきものは、これを最終目的として狙つてくる、間接侵略事態の進行である。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
120: 2011/02/12(土)19:28 ID:vqfm1rbS(5/6) AAS
(中略)
自衛隊が間接侵略事態に我々の味方であるといふことは心強いことではあるけれども、同時に自衛隊のそれぞれの
使命を我々の目の前に平時からはつきり分けておき、それによつて我々と自衛隊との間の大きな国民的な紐帯を
確保しておかなければ、いつたん緩急ある時には甚だ危険であるといはなければならない。なぜならば間接侵略事態に
対処する国民の努力と、治安出勤に出た自衛隊との間にすこしでも齟齬ができれば、自衛隊は支配階級あるひは
権力機構あるひは外国勢力の傀儡であるといふ宣伝がたちまちなされて、国民感情の間にヒビが入れられ、その
国民と自衛隊との間の間隙、齟齬、亀裂にこそまさに革命勢力の狙ひが生かされてくるのであらうからである。
したがつて私は平時から自衛隊と国民との間の緊密な紐帯が必要であると考へる者であり、そのためには単なる
自衛隊のファンであつたり支持者であるだけでは足りず、国民が何らかの形で自衛隊の内部に接触し、且つ
自衛隊の訓練を国民的訓練の一部として受けるべきであるといふ考へさへ持つてゐる。
省1
121: 2011/02/12(土)19:30 ID:vqfm1rbS(6/6) AAS
私はしかしここでいま徴兵制度の復活を唱へるのではなく、もつとさまざまな形の自衛隊と国民との間の軍事訓練を
結び目とした接触が考へられてもよいと思ふわけである。
(中略)
現下日本は細説したやうに安保条約を通しての集団安全保障体制も捨てることはできない。また同時に、日本の
経済的復興によつて高揚してきたナショナリズムに立脚してきたところの国民精神の復興と、国民が自らの手で
国を守らうとする自主独立の精神をも無視することはできない。いかにしてこの二つを結合し、いかにして
この二つに所あらしめるかといふことが私の発想である。すなはち陸上自衛隊の主任務が間接侵略対処であるなら
これこそ国民の軍として適切なものである。ことにこの複雑な政治的状況下における間接侵略事態対処においては、
国民が真に軍隊を我々のための軍隊であると考へ、且つ局部的には日本人が日本人を殺すやうな悲惨な状態が
生じてもなほ且つ自衛隊を信頼して、それこそ国民の最終的な幸福のための軍事行動であると納得するためには、
省2
122: 2011/02/13(日)11:11 ID:fmk7MlFr(1/12) AAS
堀辰雄といふ小説家は胃弱ぢやありませんでしたけれども、肺結核で、昔、薬がない時代ですから病気が長く
続いたんです。堀辰雄の小説は非常にうまいしきれいな小説ですけれども、なんとなく微熱が出てゐる、なんとなく
寝汗が出てゐる。
よく明治時代の小説にありますが、胸の悪い女の人は美人に見えて、白い頬つぺたにポッと赤みがさしてて
きれいである。堀さんの小説を見ると、いかにも胸の悪い美人といふ感じがするんです。私は小説と肉体との
関係といふものを、これもずいぶん考へました。私も実は昔胃弱で、大蔵省にゐた頃は非常な胃弱でした。
当時から、小説の締め切りが近づくと胃が痛んでしやうがないんで、壁に足をのせて逆立ちして、しばらく
我慢したりしてた。こんなことを続けてゐたら今に肉体的破産である、さう思ひまして私は、自分の身体を鍛へ
直さうと思つたわけです。(中略)
私は、文士といふものは肉体のもうひとつ奥底にあるもので書くんだが、肉体といふものはそれを媒体にして
省2
123: 2011/02/13(日)11:13 ID:fmk7MlFr(2/12) AAS
小説を書くときには、自分の幼時記憶やら、あるひはもつと生まれる前の記憶もあるかもしれません、人類の
いろんな記憶がわれわれの精神のなかに堆積されてゐる。自分の無意識のなかへ手を突つ込めば、どこまでズルズル
入りこむか分からない。しかしその奥そこに何かがあつて、それが自分に芸術作品を書くやうにそそのかしてゐる。
多少神秘的な考へですけれども、ユンクの言ふやうな集合的無意識、その集合的無意識がある人間に技術を与へて
小説を書くやうに促してゐるんだといふふうに私は考へるわけです。
(中略)書くといふ行為にも肉体が媒体になつてゐるのがはつきりしてゐるんですから、したがつてその媒体に
何かの故障があれば、もつと基にあるものが出てくるときにどこかでひつかかるに違ひない。これは、フィルターで
濾されるやうなものであります。私は、小説家としてなるたけ濾されないで、途中で何かにひつかからないで
出てくるやうに自分の身体をこしらへようと思つたのが、私が体育に精を出した端緒でありました。
三島由紀夫「日本とは何か」より
124: 2011/02/13(日)11:14 ID:fmk7MlFr(3/12) AAS
と申しますのは、前にお話ししたやうに、堀辰雄さんの小説といふものは非常にいいけれども、堀辰雄はどうしても
旋盤工の話は書けない。どんなに頑張つても新宿デモの話を書けない。堀さんの小説の世界といふものは、完全に
限られてゐる。それからまた川端康成さんは、これは非常な胃弱といひますか不眠症の方でありまして、やはり
この方の小説は非常に優雅な美しい小説でありますけれども、川端さんがストライキの小説を書いたといふものは
ひとつもない。さういふ具合に、作家といふものはかなり肉体によつて掣肘されてゐるやうな感じがする。
人間の問題全部に興味を持つのが作家であるとすれば、その媒体でもつてひつかかるものをとらなきやならない。
媒体をなるたけ自由に、透明に自在にしておいて、さうすることによつて媒体の力をフルに使つて媒体以前のもの、
自分のもつとも源泉的なものを表に出さなきやいかんといふふうに考へてきたわけです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
125: 2011/02/13(日)11:32 ID:fmk7MlFr(4/12) AAS
(中略)
そして、日本といふ国が非常に特徴的だと思ふのは、私が日本のことを考へると日本も日本のことを考へて
ゐるんだといふ神秘的な共感を感じるんです。といひますのは、世界の国のなかで日本ほど「自分は何だ、
日本とは何だ」といふことをしよつちゆう問ひつめてきた国はないんぢやなからうか。(中略)
私は、日本といふものは何だといふことを考へますと、日本とは何だと考へることが日本なんだといふふうな結論を
出さざるを得ない。(中略)
そして日本が自分自身に対する問ひかけ、日本とは何だといふ問ひかけは、そのままやはり私個人の問ひかけと
同じであるといふふうに考へるわけです。
そこで、さつき申しあげたやうなふたつの問題がつながつてくる。私は今のやうな時代には、つまりは安保賛成、
反対といふやうな簡単な問題ぢやないんだ、これから日本といふ国は、「日本とは何だ」といふことを非常に
省2
126: 2011/02/13(日)11:43 ID:fmk7MlFr(5/12) AAS
安保については、自民党の悪口を言ふやうですが、安保賛成か反対かといふことで私は日本人全部を分けるといふ
考へには賛成ではない。これは、あたかも白人と黒人とにアメリカ人を分けるやうなもんだ。私はやはり、
安保反対か賛成かで分けられないものが日本人のなかにある。それが、日本人が合理的に安保に賛成したはうが
生活が楽であるといふやうな論理算段、理性判断ぢやなくて、情緒判断における選択といふものがどこかにある。
これが七〇年問題のこれから先の大きな問題になるんぢやないかといふことを、私は信じて疑はないんです。
これから一年、来年の六月の安保は自動延長になるでせうが、さういふ時期を経過して日本が揺れ動いて
いくときには、表面上のかたちは安保賛成か反対かといふことで非常な衝突が起こるでありませう。しかし私は、
安保賛成か反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がするんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
127: 2011/02/13(日)11:46 ID:fmk7MlFr(6/12) AAS
これは単なる文学者の直観といひますか、文学者的ないひ方と思つて聞いていただいて結構なんですが、
私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成と
いふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。
そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。私はこの安保問題が一応方がついたあとに
初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。
そのときには、いはゆる国家超克といふ思想も出てくるでありませうし、アナーキストも出てくるでありませうし、
われわれは日本人ぢやないんだといふ人も出てくるでありませう。しかし、われわれは最終的にその問ひかけに
直面するんぢやないかと思ふんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
128: 2011/02/13(日)11:48 ID:fmk7MlFr(7/12) AAS
たまたま私がさういふことを言ひますものですから、こなひだの全学連とのディスカッションで私の隣へ
ヒッピーふうな学生が来まして、ふけだらけの髪の毛が肩まで垂れて、髭を生やして不気味な感じでありましたが、
その男が「三島、お前は可哀さうだ。お前、日本人てとこに、完全に囲ひの中に入つてゐる一種の家畜にすぎない」
「君は一体なんだ」
「俺は日本人ぢやない」
「君はどこか外国で生まれたの?」
「いや、俺は無国籍だ」
「君の戸籍、どうするの?」
「戸籍はあるけど無国籍だ。俺は日本人なんてもんぢやない。人間だ」
といふんです。私はその顔をいくら眺めても、やはりモンゴリアン的な日本人の風貌をしてをりまして、これは
省5
129: 2011/02/13(日)21:07 ID:fmk7MlFr(8/12) AAS
もし暴力肯定が戦争肯定につながるといふ市民主義的な思考に従ふならば、三派全学連の存在理由は全く
認められないことにならう。その点では私は国家といふものの暴力を肯定してもそれが直ちに無前提に戦争を
肯定することにはならないといふ立場に立つものであるが、この立場に真に対立するものが次のやうな毛沢東の
言葉なのである。すなはち「われわれの目的は地上に戦争を絶滅することである。しかし、その唯一の方法は
戦争である」これが毛沢東の独特な論理であつて、この論理がすなはち右に述べたやうな暴力肯定の論理と
ちやうど反極に立つものである。すなはちそれは平和主義の旗じるしのもとに戦争を肯定した思想なのである。
私は戦後、平和主義の美名がいつもその裏でただ一つの正しい戦争、すなはち人民戦争を肯定する論理に
つながることをあやぶんできたが、これが私が平和主義といふものに対する大きな憎悪をいだいてきた一つの
理由である。
三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
130: 2011/02/13(日)21:14 ID:fmk7MlFr(9/12) AAS
そして、私の暴力肯定は当然国家肯定につながるのであるから、平和主義の仮面のもとにおける人民戦争の肯定が
国家超克を目的とするかのごとき欺瞞に対しては闘はざるを得ない。国家超克はいはゆる共産主義諸国の理論的
前提であるにもかかはらず、現実の証明するとほり共産主義諸国も国家主義的暴力の行使を少しも遠慮しない
からである。
くりかへして言ふが、私は暴力肯定が国家肯定につながることが論理的であると信ずる者であり、一方、
国家超克の思想は、無原則、無前提の暴力否定からのみ理論構成されると信ずる者である。(中略)
しかし「人民戦争のみが正しい暴力である」(このことは、「中共の持つ核兵器のみが平和のための正しい
核兵器である」といふ没論理をただちに招来する)といふ思想は、それほど新しい思想であらうか。それは又、
古くからある十字軍の思想であり、その根本的性格は「道義的暴力」といふことであるが、道義的主張はどんな
立場からも発せられうるものである。
省1
131: 2011/02/13(日)21:17 ID:fmk7MlFr(10/12) AAS
かくてあらゆる道義が相対化されるときに、被圧制、被圧迫の立場のみが、道義的源泉であるとすれば、その
自由と解放は、たちまち道義的源泉を涸(か)らすことになるのは自明である。道義の問題を別としても、暴力に
質的差異をみとめること、正義の暴力と不正義の暴力をみとめることは、軍隊と警察の力のみを正義の力とみとめ、
その他の力をすべて暴力視する近代国家の論理と、どこかで似て来るのである。かくて毛沢東の論理は、結局、
国家の論理に帰結する、と私は考へる。
私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であらうとする考へ方を好まない。この考へ方は、
責任観念を没却させるからである。責任を真に自己においてとらうとするとき、悪鬼羅刹となつて、世人の
憎悪の的になることも辞さぬ覚悟がなくてはならぬ。それなしに道義の変革が成功したためしはないのである。
自分がいつも正しい、といふのは女の論理ではあるまいか。
三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
132: 2011/02/13(日)21:21 ID:fmk7MlFr(11/12) AAS
(中略)
彼らは今なほ「朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね」といふやうな、古くさい左翼風の下品な
きまり文句のとりこになつてゐた。そして彼らは、目に見える天皇像があまりにも週刊誌に毒され、マス・
コミュニケーションに毒されてゐる、その毒された媒体を通してしかこれを評価し得ないことも明らかである。
彼らはその根本について少しも疑つてみようともせず、また、マス・コミュニケーションに耐へながら存続して
ゐる天皇といふものが、何ゆゑこのやうな新しいマス・コミュニケーションと極度の言論の自由の中で存立し得て
ゐるかといふ、歴史的意味や時間の連続性の問題についてもよく考へてゐないことが察知された。(中略)
天皇といふものが現実の社会体制や政治体制のザインに対してゾルレンとしての価値を持つことによつて、いつも
その社会のゾルレンとしての要素に対して刺激的な力になり、その刺激的な力が変革を促して天皇の名における
革命を成就させるといふことを納得させようとしたがうまくいかなかつた。
省1
133: 2011/02/13(日)21:22 ID:fmk7MlFr(12/12) AAS
天皇は、いまそこにをられる現実所与の存在としての天皇なしには観念的なゾルレンとしての天皇もあり得ない、
(その逆もしかり)、といふふしぎな二重構造を持つてゐる。すなはち、天皇は私が古事記について述べたやうな
神人分離の時代からその二重性格を帯びてをられたのであつた。この天皇の二重構造が何を意味するかといふと、
現実所与の存在としての天皇をいかに否定しても、ゾルレンとしての、観念的な、理想的な天皇像といふものは
歴史と伝統によつて存続し得るし、またその観念的、連続的な天皇をいかに否定しても、そこにまた現在のやうな
現実所与の存在としてのザインとしての天皇が残るといふことの相互の繰り返しを日本の歴史が繰り返してきたと
私は考へる。そして現在われわれの前にあるのはゾルレンの要素の甚だ稀薄な天皇制なのであるが、私はこの
ゾルレンの要素の復活によつて初めて天皇が革新の原理になり得るといふことを主張してゐるのである。
三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
134: 2011/02/14(月)12:38 ID:PWfHU2J0(1/4) AAS
はつきり言へることは、近代戦のもつとも凄壮な様相が如実に描かれてゐる点で、又、ただ僥倖としか思へない事情で
生き永らへた証人によつて、人間の「滅尽争」Vernichteter Kampf がはつきり描かれてゐる点で、これは世界に
比類のない本だといふことである。この本は実にありえないやうな偶然(すなはち証人の生存)によつて書かれた
ものであるから、これ以上の文学的贅沢などを求めるのは全く無意味である。
私の貧しい感想が、この本に何一つ加へるものがないことを知りながら、次の三点について読者の注意を促して
おくことは無駄ではあるまいと思ふ。
第一は、もつとも苛烈な状況に置かれたときの人間精神の、高さと美しさの、この本が最上の証言をなしてゐる
ことである。玉砕寸前の戦場において、自分の腕を切つてその血を戦友の渇を医やさうとし、自分の死肉を以て
戦友の飢を救はうとする心、その戦友愛以上の崇高な心情が、この世にあらうとは思はれない。日本は戦争に
敗れたけれども、人間精神の極限的な志向に、一つの高い階梯を加へることができたのである。
省1
135: 2011/02/14(月)12:40 ID:PWfHU2J0(2/4) AAS
第二は、著者自身についてのことであるが、人間の生命力といふもののふしぎである。
舩坂氏の生命力は、もちろん強靭な精神力に支へられてのことであるが、すべての科学的常識を超越してゐる。
あらゆる条件が氏に死を課してゐると同時に、あらゆる条件が氏に生を課してゐた。まるで氏は、神によつて
このふしぎな実験の材料に選ばれたかのやうだ。氏は、水も食もない戦場で、左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創二ヶ所、
頭部打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲管銃創、さらに左頸部盲管銃創といふ致命傷を受け、一旦あきらかに戦死したのち、
三日目に米軍野戦病院で蘇り、さらにペリリュー収容所で、敵機を破壊しようと闘魂を燃やす。
しかも氏が生を無視しようとすればするほど、死もあとずさりをするのである。もちろん、氏に課せられた死の条件が
十であるとすれば、その条件がたとひ一であり二であつた人も、一方では現実に命を失つてゆく。それは意志とも、
あるひは勇気とも関はりがない。氏の勇猛果敢が、氏の命を救つたすべての理由であつたといふわけではない。
三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
136: 2011/02/14(月)12:42 ID:PWfHU2J0(3/4) AAS
体力、精神力、知力に恵まれてゐたことが、氏を生命の岸へ呼び戻した何十パーセントの要素であつたことは
疑ひがないが、のこりの何十パーセントは、氏が持つてゐたあらゆる有利な属性とも何ら関はりがないのである。
それでは、ひたすら生きようといふ意志が氏を生かしてゐたか、といふと、それも当らない。氏は一旦、はつきりと
自決の決意を固めてゐたからである。
氏が拾つた命は、神の戯れとしか云ひやうがないものであつた。その神秘に目ざめ、且つ戦後の二十年間に、
その神秘に徐々に飽きてきたときに、氏の中には、自分の行為と、行為を推進した情熱とが、単なる僥倖としての
生以上の何かを意味してゐたにちがひない、といふ痛切な喚起が生じた。その意味を信じなければ、現在の生命の
意味も失はれるといふぎりぎりの心境にあつて、この本が書き出されたとき、「本を書く」といふことも亦、一つの
行為であり、生命力の一つのあらはれであるといふことに気づくとは、何といふ逆説だらう。氏はかう書いてゐる。
「彼ら(英霊)はその報告書として私を生かしてくれたのだと感じた」
省1
137: 2011/02/14(月)12:43 ID:PWfHU2J0(4/4) AAS
第三には、これは私自身にとつても大切な問題だが、「見る」といふことの異様な価値である。
行為のさなかでも見ることをやめない人間が、お互ひに「見、見られること」を根絶しようとして戦ふのが、
戦争といふものであるらしい。敵をもはや「見ること」のない存在、すなはち屍体に還元せしめようとするのが、
戦ひの本質である。氏がつひに生きのびたといふことは、氏が戦ひに勝つたといふことであり、自分の目と、
自分の見たものとを保持したといふことである。そして氏の見たものは、他に一人も証人のゐない地獄であると
同時に、絶巓における人間の美であつた。
そして目が見たものは、言葉でしか伝へやうがない。そこに言葉の世界がはじまり、文学の根元的な問題がはじまる。
言葉が、徐々に、しのびやかに、執拗に、とどまるところを知らぬ動きをはじめるのである。……
三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
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