◆三島由紀夫の遺訓◆ (511レス)
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256: [] 2011/03/07(月) 11:43:43.23 ID:Fr6MGjUQ (中略) この(「南洲遺訓」)文章などは、われわれの中で一人の人間の理想像が組み立てられるときに、その理想像に 同一化できるかできないかといふところに能力の有無を見てゐる点で、あたかも大塩平八郎の行動を想起させる のである。聖人がわれわれの胸奥に住むならば、その聖人とわれわれとは同格でなければならない。甚だ傲慢な 哲学であるが、それはあたかも「葉隠」の、「われは日本一なりとの増上慢なくてはお役に立ち難し」といふやうな 自我哲学の絶頂と照応してゐる。 このやうな同一化の可能性が生じないで、ただおとなしくこれを学び、ひたすら聖人に及ばざることのみを考へて ゐるところからは、決して行動のエネルギーは湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と 同一視することであり、自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。 三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より http://egg.5ch.net/test/read.cgi/rongo/1296353789/256
中略 この南洲遺訓文章などはわれわれの中で一人の人間の理想像が組み立てられるときにその理想像に 同一化できるかできないかといふところに能力の有無を見てゐる点であたかも大塩平八郎の行動を想起させる のである聖人がわれわれの胸奥に住むならばその聖人とわれわれとは同格でなければならない甚だ慢な 哲学であるがそれはあたかも葉隠のわれは日本一なりとの増上慢なくてはお役に立ち難しといふやうな 自我哲学の絶頂と照応してゐる このやうな同一化の可能性が生じないでただおとなしくこれを学びひたすら聖人に及ばざることのみを考へて ゐるところからは決して行動のエネルギーは湧いてはこない同一化とは自分の中の空虚を巨人の中の空虚と 同一視することであり自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである 三島由紀夫革命哲学としての陽明学より
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