◆三島由紀夫の遺訓◆ (511レス)
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62: 2011/02/06(日)12:32 ID:uANu1Vdi(9/12) AAS
再び防衛問題に戻るが、この文化論から出発して“何を守るか”といふことを考へなければならない。私は
どうしても第一に、天皇陛下のことを考へる。天皇陛下のことをいふとすぐ右翼だとか何だとかいふ人が多いが、
憲法第一条に揚げてありながら、なぜ天皇陛下のことを云々してはいけないのかと反論したい。天皇陛下を政治権力と
くつ付けたところに弊害があつたのであるが、それも形として政治権力としてくつ付けたことは過去の歴史の中で
何度かあつた。しかし、天皇陛下が独裁者であつたことは一度もないのである。それをどうして、われわれは
陛下を守つてはいけないのか、陛下に忠誠を誓つてはいけないのか、私にはその点がどうしても理解できない。
ところが陛下に忠誠を尽くすことが、民主主義を裏切り、われわれ国民が主権をもつてゐる国家を裏切るのだといふ
左翼的な考への人が多い。しかし天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきてゐる
文化の象徴である。さういふものに忠誠を尽くすことと同意のものであると私は考へてゐる。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
63: 2011/02/06(日)12:35 ID:uANu1Vdi(10/12) AAS
なぜなら、日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである。日本文化を
守ることは、天皇を守ることに帰着するのであるが、この文化の全体性をのこりなく救出し、政治的偏見に
まどはされずに、「菊と刀」の文化をすべて統一体として守るには、言論の自由を保障する政体が必要で、
共産主義政体が言論の自由を最終的に保障しないのは自明のことである。
(中略)
アメリカでいくら黒人暴動が起こつても、黒人暴動で核は使へない。ベトナムでは使へたかもしれないが使はなかつた、
といふことを考へると、日本にこれから危難な起こるとすれば間接侵略形態においてだらう。中共もソ連も海を越えて
攻めてくるかどうかわからないが、さうすると国内戦の様相を考へた場合、一方の政治権力をもつてゐる側も
核を使ふことはできない。その間に反対側の政治勢力に完全に押へられてしまふといふことも、十分あり得るのが
いまの情勢だと思ふ。防衛問題も、ことに陸上自衛隊については、間接侵略にどう対処するかといふことに一番
省2
64: 2011/02/06(日)12:41 ID:uANu1Vdi(11/12) AAS
(中略)
間接侵略においては日本人一人一人の魂がしつかりしてゐたら、日本刀で立ち向つても負けることはないと思ふ。
もちろん小銃、機関銃、無反動砲など、普通科の近代兵器は自衛隊に整備させてゐても、私はやはり市民武装と
いふ形で日本人が日本刀を一本づつ持つことが必要だと思ふ。勿論、ほんたうに日本を守らうと思つてゐない者には
持たせられないことはいふまでもないが……。
私は現在日本刀が美術品として、趣味的に扱はれてゐることに対して、甚だ残念に思つてゐる。日本刀を美術品とか
文化財として珍重するのはをかしなことで、これは人斬り包丁だ――と私は刀屋に冗談話をするのだが、
日本刀のやうに魂であると同時に殺人道具であるといふのは、世界でも稀れなものであらう。
日本刀を持ち出したのは一種の比喩であるが、私は自衛隊の武器は通常兵器でいいが、その筒先をどこに向けるべきか、
といふことこそ問題だと思ふ。
省1
65: 2011/02/06(日)12:42 ID:uANu1Vdi(12/12) AAS
(中略)
これに関して、一説によるとある創価学会の自衛隊員は、「私はいざといふときには上官の命令で弾は撃たない、
池田さんのおつしやつた方に向けて撃つ」といつたといふ。こんな軍隊は珍らしい軍隊で、このやうに、
いざといふときにどつちへ弾が行くのかわからないといふのでは全く困る。
再び魂の問題に戻るが、自衛隊に対しては決して偽善やきれい事であつてはならない。自衛隊は、平和主義の
軍隊であり、平和を守るための軍隊であることに違ひはないが、もつと現実に目覚めて、一人一人高度の思想教育を
行なはなければならない。さうでなければ毛沢東の行なつてゐるあの思想教育に勝てないと思ふ。さうでなければ、
日本の隣にある、このぎりぎりの思想教育を受けた軍隊に勝つことの不可能なことを、私は痛感するのである。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
66: 2011/02/07(月)10:19 ID:PxMc6y6t(1/7) AAS
(中略)
ドナルド・キーンといふアメリカ人がおもしろいことをいつてゐる。幕末に来日した外国人旅行記を読むと
「維新前の日本人はアジアでは珍しく正直で勤勉で、清潔好きで非常にいい国民である。ただ一つだけ欠点がある。
それは臆病だ」と書いてゐる。ところがそれから五、六千年後は、臆病な国民どころか大変な国民であることを
世界中に知られたわけだが、それがまたいまでは、再び臆病な日本人に完全に戻つてしまつてゐる――といふのである。
しかし鯖田豊之氏にいはせると、日本人は死を恐れる国民だといつてゐる。これはおもしろい考へ方だと思ふ。
確かにアメリカはベトナム戦争であれだけの死者を出してゐる。日本人だつたら大変な騒ぎだと思ふが、羽田空港などで
戦地に赴くアメリカ兵士の別れの場面を見てゐても、けろりとしてゐるが、日本人だつたらとてもそんな具合に
淡々として戦場に行けるものではない。まづ千人針がつくられる。日の丸のたすきを掛け、涙と歌がついて、
悲壮感に溢れてくる。そのほかいろいろなものが入つてくる。それらが死のジャンプ台にならなければ、どうにも
省2
67: 2011/02/07(月)10:21 ID:PxMc6y6t(2/7) AAS
私はインドへ行つて死の問題を考へさせられたのだが、ベナレスといふ所はヒンズー教の聖地だが、そこでは
人間が植物のやうに死んでいく。死骸がそこらにごろごろあつて、そばでそれを焼いてゐるのに平気でゐる。
これは死ねば生まれ変ると信じてゐるためで、未亡人など、自分も死んだら死んだ亭主に会へるといつて、
病気になるとお経を読んで死を待つてゐる。このインド人のやうな植物的な死に方は、日本人にはとても
真似できないだらう。日本においては死は穢れだとされてゐることもあるが、日本人といふものは非常に死の価値を
高く評価してゐる。だから、たやすく死んでたまるかといふことで、従つて切腹で責任を果たすといふことにも
なるわけだ。
私たちは、さういふ死生観にもとづいて、文化概念としての栄誉大権的な天皇の復活をはからなければならないと思ふ。
繰返へすやうだが、それが日本人の守るべき絶対的主体であるからだ。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
68: 2011/02/07(月)15:45 ID:PxMc6y6t(3/7) AAS
衛藤瀋吉氏の或る論文で「間接侵略に真に対抗しうるものは武器ではない。国民個々の魂である」といふ趣旨があつて、
私も全く同感だが、そこに停滞してゐては単なる精神主義に陥る惧れがあり、魂を振起するには行動しなければ
ならない。動かない澱んだ魂は、実は魂ではない。この点で私の考へは陽明学の知行合一である。又「自らの手で
国を守る気概」といふ自民党のスローガンは立派だが、では一体何をするかといへば、国民一人々々は税金を払つて
三次防を認めればよい、といふのでは、戦後の経済主義を一歩も出ず、次元の低い傭兵思想にすぎない。私はひたすら
「文武両道」といふ古い言葉で、この両様の機会主義に反抗して来たのである。
(中略)今や空前の素人時代、軍事問題防衛問題も、玄人のほかに、熱烈な素人の厚い層があつてよいではないか。
因みに一言つけくはへれば、私は戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス
(無防備の富)だと考へる者である。

三島由紀夫「わが『自主防衛』――体験からの出発」より
69: 2011/02/07(月)15:48 ID:PxMc6y6t(4/7) AAS
私は必ずしも栄誉大権の復活によつて「政治的天皇」が復活するとは信じません。問題は実に簡単なことで、
現在の天皇も保持してをられる文官への栄誉授与権を武官へも横辷りさせるだけのことであり、又、自衛隊法の細則に
規定されてゐるとほり、天皇は儀仗を受けられるのが当然でありながら、一部宮内官僚の配慮によつて、それすら
忌避されてゐるのを正道に戻すだけのことではありませんか。
いはゆるシヴィリアン・コントロールとは政府が軍事に対して財布の紐を締めるといふだけの本旨にすぎないが、
私は日本古来の姿は、文化(天皇)を以て軍事に栄誉を与へつつこれをコントロールすることであると考へます。

三島由紀夫「橋川文三への公開状」より
70: 2011/02/07(月)21:37 ID:PxMc6y6t(5/7) AAS
私は民主主義は妥協を産物とした賢明な制度であると思ふが、しかしそれはあくまで技術としての政治制度であり、
これはわれわれの誇りであるのだが、これにはこれなりの限界がある。私は、われわれの守るべきものを民主主義が
保障するとも思はないし、また民主主義を守ることがわれわれの守るべきものを最終的に保障するとも考へてゐない。
それではいつたい何を守るのか。私は日本の歴史と伝統の純粋性を守ることであり、それをしない人間は
日本人ではないと思ふ。文化のタテの連続性を守つていかねばヨコにいくらひろがつても、結局われわれが
日本人としての魂を保持できないのではないか。そして私は天皇のお姿が日本の文化をよくあらはしてゐると思ふ。
天皇は権力ではないと思ふ。権力とは、あるものを拒絶することによつて自分の存在を定立する力であると考へる。
民主主義ではこの権力特有の拒絶の機能を非常ないろんなかたちで薄められてゐるからこそこのやうないろんな問題が
起きてゐるのだが、もし権力といふものが拒絶を本質とするならば、何ものも拒絶しないものが天皇であるといへる。

三島由紀夫「私の自主防衛論」より
71: 2011/02/07(月)21:40 ID:PxMc6y6t(6/7) AAS
天皇といふ“鏡”はどんな顔でも映してしまひ、スターリンの“鏡”は自分の気に入らない顔は映らないやうに
できてゐる。日本の文化の全体を天皇といふ“鏡”は包摂してゐる。
日本の歴史をみてわかるやうに天皇は多くの時代日本文化の中心であられた。日本文化のおほらかな、人間性を
あらはした明かるく素直な伝統が天皇の中に受容されてゐる。この文化の象徴である天皇を守るにはどうしたらいいか。
私は、天皇の鏡にもし日本の文化、歴史、伝統とちがつた、大御心といふことのためでないものが映つてきたならば、
それは陛下は拒絶なさることはできないので、国民がそれを拒絶することが忠義であると思ふ。
共産主義が日本の政体を変へて天皇を日本の文化、伝統から引き離し、あるひは日本の文化を破壊して天皇をすら
破壊しようといふ意図を秘めてゐるのであるから、われわれはこれと戦はねばならないと思ふのである。

三島由紀夫「私の自主防衛論」より
72: 2011/02/07(月)21:41 ID:PxMc6y6t(7/7) AAS
そして天皇の伝統が絶たれた場合にわれわれの祖先代々の文化の全体性が侵食されてしまふからこそ、それを守つて
戦はねばならない。そのためにはやはりいまの憲法下でも、非常に制約があるけれども陛下があるときには
自衛隊においでになつて閲兵を受けられることも必要であらう。
あるひは国の名誉の中心として文武いづれの名誉の中心も陛下であられるといふかたちをなんとか新憲法下でも
つくつていけることができるんぢやないかと考へるのである。
私は日本を守るとはどういふことか、守るべきものは何なのかといふことについていま青年たちと議論してゐる。
私はまづ手近なところから、自分にできる範囲のことで小さくやつていきたい。すべてそこから始めなければ
何ごとも始まらない。
国民一人一人がいざといふ場合は銃をとつて立ち上がるぐらゐの気持を持つてやらないと将来の日本はえらいことに
なるぞといふ感じを持つてゐる。
省1
73: 2011/02/08(火)10:02 ID:ksA4jyOQ(1/12) AAS
想像力といふものは、多くは不満から生まれるものである。あるひは、退屈から生まれるものである。われわれが
危急に際して行動に熱中し、生きることにすべての力を注いでゐるときには、想像力の余地をほとんど持つことがない。
もし、想像力がノイローゼの原因になるとすれば、空襲にさらされた戦争中の日本は、最もノイローゼの出にくい
状況であつた。あの時代には、どろぼうも少なく、犯罪も少なく、人々の想像力のかては、すべて戦争といふ、
一民族のあらゆる精力をつぎ込まねば成功できない事業に、集中してゐたのである。

われわれは、人生の第一歩から、人生に満足して始めるわけではない。満足してゐる人はごく例外的である。
これは、どんな社会革命が成功しても、同じことであらう。芸術は、そこから始まるのである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
74: 2011/02/08(火)10:03 ID:ksA4jyOQ(2/12) AAS
人生といふものは、死に身をすり寄せないと、そのほんたうの力も人間の生の粘り強さも、示すことができないと
いふ仕組になつてゐる。ちやうど、ダイヤモンドのかたさをためすには、合成された硬いルビーかサファイアと
すり合さなければ、ダイヤモンドであることが証明されないやうに、生のかたさをためすには、死のかたさに
ぶつからなければ証明されないのかもしれない。死によつて、たちまち傷ついて割れてしまふのは、そのやうな生は
ただのガラスにすぎないのかもしれない。

二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、暗い工事場の陰で焼身自殺した。
そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があつた。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身自殺のやうな
政治行為であつて、またここに至らない政治行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇つて
ゐることができるのである。私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは
芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。
省1
75: 2011/02/08(火)10:04 ID:ksA4jyOQ(3/12) AAS
泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに男がどうあるべきかと
いふことを忘れてしまふ。金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、日本もいつかあのやうな事件の非常に
拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と同じ身の上になるかもしれないのである。

危機を考へたくないといふことは、非常に女性的な思考である。なぜならば、女は愛し、結婚し、子供を生み、
子供を育てるために平和な巣が必要だからである。平和でありたいといふ願いは、女の中では生活の必要なのであつて、
その生活の必要のためには、何ものも犠牲にされてよいのだ。
しかし、それは男の思考ではない。危機に備へるのが男であつて、女の平和を脅かす危機が来るときに必要なのは
男の力であるが、いまの女性は自分の力で自分の平和を守れるといふ自信を持つてしまつた。それは一つには、
男が頼りにならないといふことを、彼女たちがよく見きはめたためでもあり、彼女たちが勇者といふものに一人も
会はなくなつたためでもあらう。
省1
76: 2011/02/08(火)10:06 ID:ksA4jyOQ(4/12) AAS
剣道は礼に始まり礼に終ると言はれてゐるが、礼をしたあとでやることは、相手の頭をぶつたたくことである。
男の世界をこれは良く象徴してゐる。戦闘のためには作法がなければならず、作法は実は戦闘の前提である。

男の作法は、ただ相手に従ひ、相手の意のままになることが目的ではない。しかし、作法こそどうしてもくぐら
なければならない第一前提であるにもかかはらず、現代に於ては人間の正直な、むき出しの姿がそのまま相手の心に
通用するといふ不思議な迷信がはびこつてゐる。アメリカ流のフランクネスが、どのやうなビジネス上の罠を
隠してゐるとも知らず、アメリカ人のいきなり肩をたたくやり方、につこりと美しくほほゑみかけるやり方に
だまされて、ついこちらもフランクになりすぎて、思はぬ仕事の上の損失をかうむつた例は枚挙にいとまがない。
何故なら、野心家こそ作法を守るべきなのであり、また、人との関係に於ても、普段、作法を守つてゐればこそ、
いつたん酒が入つて裸踊りのひとつもやつてのけたときには、いかにも胸襟を開いたやうに思はれて、相手の信用を
かち得ることができる。
省1
77: 2011/02/08(火)10:07 ID:ksA4jyOQ(5/12) AAS
作法をひとつの扉とすると、言葉の小さな使ひ方はその扉の蝶番にさされる油のやうなものである。そして、
いまでは油もささずにギーギー、ガーガー扉のあけたてがひどくなりすぎる。

男の世界はスポーツに似てゐる。ルールを守つた上で勝敗は争はれるので、根底にある争ひがそれだけカバーされる
わけである。しかし、女の世界はこの点で根底的な争ひといふもの、権力の争ひといふものが少ないために、
かへつてスポーツのルールが乱される場合が多い。スポーツのルールが乱されることが自分の生存を脅かさない
からであらう。
在外公館の夫人連の間の厳しさは、女がやはり政府の辞令を受けて、外交官夫人として外国に行くところから生れて、
男の世界の模倣をつくつてしまふからであらう。これは最近流行の大奥の生活を描いた小説や芝居にもよく
見えるとほりである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
78: 2011/02/08(火)10:19 ID:ksA4jyOQ(6/12) AAS
これからますますテレビジョンが発達し、人間像の伝達が目に見えるもので一瞬にしてキャッチされ、それによつて
価値が占はれるやうな時代になると、大統領でさへ整形手術をしたり、テレビのメーキャップにうき身をやつす
やうになる。これはアメリカの肉体主義の当然の帰結であるが、好むと好まざるとにかかはらず、目に見える印象で
そのすべての人間のバリューがきめられてゆくやうな社会は、当然に肉体主義におちいつていかざるを得ないのである。
私は、このやうな肉体主義はプラトニズムの堕落であると思ふ。
目に見えるものがたとへ美しくても、それが直ちに精神的な価値を約束するわけではない。ギリシャのことわざに
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といはれてゐるのはギリシャ語の誤訳であつて、「健全なる精神よ、
健全なる肉体に宿れかし」といふのが正しい訳のやうである。それといふのも、ギリシャ以来、肉体と精神との
齟齬矛盾についての観察が、いつも人々を悩ましてゐたことの証拠である。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
79: 2011/02/08(火)10:21 ID:ksA4jyOQ(7/12) AAS
肉体主義は肉体を崇拝させると同時に、また肉体を侮蔑させ、売りものにさせるものである。肉体は崇拝の手続を
経ずに、美しいものは直ちに売られ、商業主義に泥だらけにされてしまふ。マリリン・モンローの悲劇は、
美しい肉体をそのやうに切り売りにされた一人の女性の生涯の悲劇であつた。
われわれは、いま二つの文化の極端な型のまん中に立つてゐる。われわれの心の中には、日本的な、肉体を
侮蔑する精神主義が残つてゐると同時に、一方では、アメリカから輸入されたあさはかな肉体主義が広がつてゐる。
そして、人間を判断するのに、そのどちらで判断していいか、人々はいつも迷つてゐる。私は、やはり男といへども
完全な肉体を持つことによつて精神を高め、精神の完全性を目ざすことによつて肉体も高めなければならないといふ
考へに到達するのが自然ではないかと思ふ。(中略)
そして、肉体が人に誤解されやすい最大の理由は、肉体美といふものはどうしても官能美と離れることができない
からであり、それこそは人間の宿命であるのみならず、人間が考へる美といふものの宿命だからであらう。
省1
80: 2011/02/08(火)11:57 ID:ksA4jyOQ(8/12) AAS
同じ本を出すのにも、私どもと日本の出版社との約束は口約束で済むものが、アメリカでは何ページにもわたつて
アリのはふやうな細かい活字を連ねた煩瑣な契約書が、起りうるあらゆる危険、あらゆる裏切り、あらゆる背信行為を
予定して書きとめられてゐる。そもそも契約書がいらないやうな社会は天国なのである。契約書は人を疑ひ、
人間を悪人と規定するところから生れてくる。
そして相手の人間に考へられるところのあらゆる悪の可能性を初めから約束によつて封じて、しかしその約束の
範囲内ならば、どんな悪いことも許されるといふのは、契約や法律の本旨である。ところが別の考へ方もあるので、
ほんたうの近代的な契約社会は、何も紙をとりかはさなくても、お互ひの応諾の意思が発表された時期に契約が
成立するのだといふ学説もあるくらゐである。すなはち、契約社会の理想は、何も紙をとりかはさなくても
人間が契約を守るといふ根本精神が行きわたれば、それだけで安全に運行していくのであるが、そんなりつぱな
人間ばかりでないところからむづかしい問題が生ずるわけである。
省1
81: 2011/02/08(火)11:58 ID:ksA4jyOQ(9/12) AAS
約束や信儀は、実は快楽主義のためにさへ守らなければならないのである。なぜなら快楽は鳥の影のやうなもので、
一度われわれがそれをつかみそこねたら永遠に飛びさつてしまふからである。
しかし、快楽のための約束として、もつとも普通な形がすなはち異性とのデートである。デートは、快楽のための
約束にもかかはらず、その快楽を刺激し、じらせ、かへつて高めるための技巧として、お互ひにちよつと時間を
ずらして、わざと約束の時間に来なかつたり、あるひは約束におくれてみせたりするローマのオヴィディウス以来の
愛のさまざまなウソの技巧が使はれる。しかしそれでさへも信義の上にあるのが本当だといふのは、私の考へであつて、
私は昔から約束を守らない女性は、どんな美人であつても嫌ひである。なぜなら私の考へでは、どんな快楽も
信儀の上に成り立つといふ考へだからである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
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