◆三島由紀夫の遺訓◆ (511レス)
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76: 2011/02/08(火)10:06 ID:ksA4jyOQ(4/12) AAS
剣道は礼に始まり礼に終ると言はれてゐるが、礼をしたあとでやることは、相手の頭をぶつたたくことである。
男の世界をこれは良く象徴してゐる。戦闘のためには作法がなければならず、作法は実は戦闘の前提である。
男の作法は、ただ相手に従ひ、相手の意のままになることが目的ではない。しかし、作法こそどうしてもくぐら
なければならない第一前提であるにもかかはらず、現代に於ては人間の正直な、むき出しの姿がそのまま相手の心に
通用するといふ不思議な迷信がはびこつてゐる。アメリカ流のフランクネスが、どのやうなビジネス上の罠を
隠してゐるとも知らず、アメリカ人のいきなり肩をたたくやり方、につこりと美しくほほゑみかけるやり方に
だまされて、ついこちらもフランクになりすぎて、思はぬ仕事の上の損失をかうむつた例は枚挙にいとまがない。
何故なら、野心家こそ作法を守るべきなのであり、また、人との関係に於ても、普段、作法を守つてゐればこそ、
いつたん酒が入つて裸踊りのひとつもやつてのけたときには、いかにも胸襟を開いたやうに思はれて、相手の信用を
かち得ることができる。
省1
77: 2011/02/08(火)10:07 ID:ksA4jyOQ(5/12) AAS
作法をひとつの扉とすると、言葉の小さな使ひ方はその扉の蝶番にさされる油のやうなものである。そして、
いまでは油もささずにギーギー、ガーガー扉のあけたてがひどくなりすぎる。
男の世界はスポーツに似てゐる。ルールを守つた上で勝敗は争はれるので、根底にある争ひがそれだけカバーされる
わけである。しかし、女の世界はこの点で根底的な争ひといふもの、権力の争ひといふものが少ないために、
かへつてスポーツのルールが乱される場合が多い。スポーツのルールが乱されることが自分の生存を脅かさない
からであらう。
在外公館の夫人連の間の厳しさは、女がやはり政府の辞令を受けて、外交官夫人として外国に行くところから生れて、
男の世界の模倣をつくつてしまふからであらう。これは最近流行の大奥の生活を描いた小説や芝居にもよく
見えるとほりである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
78: 2011/02/08(火)10:19 ID:ksA4jyOQ(6/12) AAS
これからますますテレビジョンが発達し、人間像の伝達が目に見えるもので一瞬にしてキャッチされ、それによつて
価値が占はれるやうな時代になると、大統領でさへ整形手術をしたり、テレビのメーキャップにうき身をやつす
やうになる。これはアメリカの肉体主義の当然の帰結であるが、好むと好まざるとにかかはらず、目に見える印象で
そのすべての人間のバリューがきめられてゆくやうな社会は、当然に肉体主義におちいつていかざるを得ないのである。
私は、このやうな肉体主義はプラトニズムの堕落であると思ふ。
目に見えるものがたとへ美しくても、それが直ちに精神的な価値を約束するわけではない。ギリシャのことわざに
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といはれてゐるのはギリシャ語の誤訳であつて、「健全なる精神よ、
健全なる肉体に宿れかし」といふのが正しい訳のやうである。それといふのも、ギリシャ以来、肉体と精神との
齟齬矛盾についての観察が、いつも人々を悩ましてゐたことの証拠である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
79: 2011/02/08(火)10:21 ID:ksA4jyOQ(7/12) AAS
肉体主義は肉体を崇拝させると同時に、また肉体を侮蔑させ、売りものにさせるものである。肉体は崇拝の手続を
経ずに、美しいものは直ちに売られ、商業主義に泥だらけにされてしまふ。マリリン・モンローの悲劇は、
美しい肉体をそのやうに切り売りにされた一人の女性の生涯の悲劇であつた。
われわれは、いま二つの文化の極端な型のまん中に立つてゐる。われわれの心の中には、日本的な、肉体を
侮蔑する精神主義が残つてゐると同時に、一方では、アメリカから輸入されたあさはかな肉体主義が広がつてゐる。
そして、人間を判断するのに、そのどちらで判断していいか、人々はいつも迷つてゐる。私は、やはり男といへども
完全な肉体を持つことによつて精神を高め、精神の完全性を目ざすことによつて肉体も高めなければならないといふ
考へに到達するのが自然ではないかと思ふ。(中略)
そして、肉体が人に誤解されやすい最大の理由は、肉体美といふものはどうしても官能美と離れることができない
からであり、それこそは人間の宿命であるのみならず、人間が考へる美といふものの宿命だからであらう。
省1
80: 2011/02/08(火)11:57 ID:ksA4jyOQ(8/12) AAS
同じ本を出すのにも、私どもと日本の出版社との約束は口約束で済むものが、アメリカでは何ページにもわたつて
アリのはふやうな細かい活字を連ねた煩瑣な契約書が、起りうるあらゆる危険、あらゆる裏切り、あらゆる背信行為を
予定して書きとめられてゐる。そもそも契約書がいらないやうな社会は天国なのである。契約書は人を疑ひ、
人間を悪人と規定するところから生れてくる。
そして相手の人間に考へられるところのあらゆる悪の可能性を初めから約束によつて封じて、しかしその約束の
範囲内ならば、どんな悪いことも許されるといふのは、契約や法律の本旨である。ところが別の考へ方もあるので、
ほんたうの近代的な契約社会は、何も紙をとりかはさなくても、お互ひの応諾の意思が発表された時期に契約が
成立するのだといふ学説もあるくらゐである。すなはち、契約社会の理想は、何も紙をとりかはさなくても
人間が契約を守るといふ根本精神が行きわたれば、それだけで安全に運行していくのであるが、そんなりつぱな
人間ばかりでないところからむづかしい問題が生ずるわけである。
省1
81: 2011/02/08(火)11:58 ID:ksA4jyOQ(9/12) AAS
約束や信儀は、実は快楽主義のためにさへ守らなければならないのである。なぜなら快楽は鳥の影のやうなもので、
一度われわれがそれをつかみそこねたら永遠に飛びさつてしまふからである。
しかし、快楽のための約束として、もつとも普通な形がすなはち異性とのデートである。デートは、快楽のための
約束にもかかはらず、その快楽を刺激し、じらせ、かへつて高めるための技巧として、お互ひにちよつと時間を
ずらして、わざと約束の時間に来なかつたり、あるひは約束におくれてみせたりするローマのオヴィディウス以来の
愛のさまざまなウソの技巧が使はれる。しかしそれでさへも信義の上にあるのが本当だといふのは、私の考へであつて、
私は昔から約束を守らない女性は、どんな美人であつても嫌ひである。なぜなら私の考へでは、どんな快楽も
信儀の上に成り立つといふ考へだからである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
82: 2011/02/08(火)16:14 ID:ksA4jyOQ(10/12) AAS
男性の羞恥心は、あくまでも男らしさとつながつてゐた。男と女がそれぞれの領域をきちんと守り、心がどんなに
ひかれてゐても、それをまつすぐにあらはさないといふことが、恋愛の不可欠の要素であつた。これは、古い気質の
人間のあらゆる感情表現に影響を及ぼし、わざと嫌ひなふりをすることが、愛することの最大の表現と思はれてゐた。
いまでは、これが見られるのは小学生の間だけで、自分でもわからぬながら、心をひかれる女の子にやたらに
いぢわるをする男の子は、満六、七歳にしてすでに明治百年の男となつてゐるわけである。
男女関係自体が、新しいアメリカ風の、お互ひに愛を最大限に表現する形によつて、わざとらしい公明正大さを
得てきた。そして女の羞恥心すら、男女同権を破壊するやうな封建的遺習と考へられ、その女の羞恥心が薄れるに
従つて、男の羞恥心も、ガラスの表にはきかけた息のやうに、たちまち消え去つてゆき、そしていつの間にか、
かくも露骨に表現し合つた男と女は、お互ひの大切な性的表象を失つて、いま言はれるやうな中性化の時代が
来たのである。
省1
83: 2011/02/08(火)16:15 ID:ksA4jyOQ(11/12) AAS
伝統は守らなければ自然に破壊され、そして二度とまた戻つてはこない。男は伝統の意味を知つてゐるから、
ある意味で主体的にいつも伝統を守る側に立ち、自らその伝統をよしとし、あるひは悪いと思つても伝統を
守らなければならないといふ、強い義務感を感じてゐた。それが日本の男性を必要以上に保守的に見せてきた原因で
あると思ふ。しかし、いつも女性はこの男性に対抗して、伝統を破壊するといふ方向にのみ、自分の自由と解放の
根拠を求めた。しかし、ここにはパラドックスがある。もし伝統破壊の行動を続けるならば、その女性は自分が
伝統によつて受身に縛られてきたときの態度を、伝統が破壊されたあとも、そのまま押し通すといふことに
なるのである。しかし、何もないところでは、何の行動の基準もあり得ないので、今度は女性は、西洋式な伝統の
サルマネを始め、それを男性に強要するやうになつた。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
84: 2011/02/08(火)19:48 ID:ksA4jyOQ(12/12) AAS
女性の力ではなく、アメリカといふ男性の、占領軍の力によつて女性の自由と解放が成就されたとき、女性は
何によつて自分の力を証明しようとしたであらうか。それがいはゆる女性の平和運動である。その平和運動はすべて
感情を基盤にして、「二度と戦争はごめんだ」「愛するわが子を戦場へ送るな」といふ一連のヒステリックな叫びに
よつて貫かれ、それゆゑにどんな論理も寄せつけない力を持つた。しかし、女性が論理を寄せつけないことによつて
力を持つのは、実はパッシブな領域においてだけなのである。日本の平和運動の欠点は、感情によつて人に
訴へることがはなはだ強いのと同時に、論理によつて前へ進むことがはなはだ弱いといふ、女性的欠点を露呈した。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
85: 2011/02/09(水)10:46 ID:grmrZ55y(1/8) AAS
外国人の目には、すべて民族的な服装は美しい。しかし美しいのと、便利とは別である。インド航空でいつも驚くのは、
スチュワーデスがサリーを着てゐることである。もしあれで事故でも起きたときには、どうするつもりだらうか。
サリーは足にまとはりつき、死なないでもよいものを、死ぬことになるかもしれない。日本航空で、スチュワーデスが
振袖を着てゐるときに感ずる危惧以上のものを、われわれは、インド航空のサリーに感じなければならない。
しかし飛行機会社が乗客にそのやうな危機感を抱かせることをもつて、彼女たちの美しさをいよいよ引き立てて
ゐるとすれば、これまた憎い計算ではある。
日本人は、わりに便利といふことに弱い国民である。明治時代の西洋崇拝から、日本人は不便の故を以て伝統的な
服装を放棄することに、何らの躊躇を感じなかつた。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
86: 2011/02/09(水)10:48 ID:grmrZ55y(2/8) AAS
服装のほんたうの楽しみは、自由自在に勝手気ままなものを、好きな場合に着て歩くことではないといふことを、
人々は経済状態の落着きと社会の安定とともに、徐々に学んできたやうに思はれる。服装は強ひられるところに
喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。これを最も端的にあらはすのが、軍人の軍服であるが、
それと同時にタキシードひとつでも、それを着なければならないといふことから着るところに、まづその着方の巧拙、
あるひは着こなしの上手下手があらはれる。
タキシードを着なければならない人たちは、決してGパンをはくことができなかつた。また菜葉服を着てゐた人たちは、
決してタキシードを着ることができなかつた。それをわれわれは、無階級社会のおかげで、菜葉服からタキシードまで
自由自在に往来できる世の中に住んでゐる。(中略)
しかし悲しいかな、その周りにゐる人たちは、いづれも贋物の上流階級にすぎない。そしてタキシードとイブニングで
楽しんでゐる人たちは、本物の上流階級でないかはりに、上流階級が苦しんでゐた古い、わづらはしい、封建的
省2
87: 2011/02/09(水)10:49 ID:grmrZ55y(3/8) AAS
人間は、場合によつては、楽をすることのはうが苦しい場合がある。貧乏性に生まれた人間は、一たび努力の義務を
はづされると、とたんにキツネがおちたキツネつきのやうに、身の扱ひに困つてしまふ。何十年の間、会社や役所で
ぢみな努力を重ねてきて、そこにだけ自分の生き方のモラルを発見してゐた人は、定年退職となると同時に、
生ける屍になつてしまふ。われわれの社会は、さういふ残酷な悲劇を、毎日人に与へてゐるのである。(中略)
実は一番つらいのは努力することそのことにあるのではない。ある能力を持つた人間が、その能力を使はないやうに
制限されることに、人間として一番不自然な苦しさ、つらさがあることを知らなければならない。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
88: 2011/02/09(水)10:50 ID:grmrZ55y(4/8) AAS
人間の能力の百パーセントを出してゐるときに、むしろ、人間はいきいきとしてゐるといふ、不思議な性格を
持つてゐる。しかし、その能力を削減されて、自分でできるよりも、ずつと低いことしかやらされないといふ拷問には、
努力自体のつらさよりも、もつとおそろしいつらさがひそんでゐる。
われわれの社会は、努力にモラルを置いてゐる結果、能力のある人間をわざとのろく走らせることを強ひるといふ、
社会独特の拷問についてはほとんど触れるところはない。そして、われわれの知的能力のみならず、肉体的能力も
次々と進歩し、少年は十五歳で肉体的におとなになる。しかもわれわれの社会は青年をそのまま、ナマのまま
使へるやうな戦争といふ機会を持たず、社会には老人支配の鉄則ががつちりとはめられ、このやうな世界で、
十秒で走れる青年が、みな十七秒、十八秒で走るやうに強ひられてゐる。私は、ここらに、努力と建設といふ
ことだけをモラルにした、社会のうその反面、人間にもつとつらい、もつと苦しいものを強ひる、社会の力といふ
ものを見出すのである。
省1
89: 2011/02/09(水)10:51 ID:grmrZ55y(5/8) AAS
社会全体のテンポが、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く走ることを要求して
ゐるのである。
これが現代日本の社会のひずみの、おそらく根本原因である。一方ではいくらでも長く走れるエネルギーが
あり余つてゐる。この連中は、若いがゆゑに軽視されてゐるだけだが、さうかといつて、彼らのすべてにすばらしい
才能があるとおだてるわけにはいかない。ただ、明治以来の日本の社会の特質に従つて、彼らも亦、「努力しろ、
努力しろ」と強ひられる。しかし、いくら努力しても、社会の壁が破られるわけではない。そこで実につらいことだが、
「百メートルを十五秒で駆けなければならぬ」といふ順応型モラルを身につけることになる。その瞬間に、
エネルギーはその真のフルな力の発揮の機会を、自ら放棄してしまつたのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
90: 2011/02/09(水)11:58 ID:MF9tltd1(1) AAS
現在、誰でも自由に意見を書き込める掲示板がセットになったニュースサイトが欠かせなくなりました。
既存マスメディアによる一方通行の情報に身を委ねていた方々へ。目からうろこが落ちる納得の毎日を約束します。
2NN - 2ちゃんねるニュース速報+ナビゲーター (2chトップページにリンクあり)
外部リンク:www.2nn.jp
91: 2011/02/09(水)16:07 ID:grmrZ55y(6/8) AAS
自主独立の問題一つとつても、戦前の「自主独立」の日本が、軍縮会議以来、いや三国干渉以来、絶えず列強の
干渉によつて軍縮に対するチェックを受け、それによつて国内世論が、沸騰してきたことを考へると、日本のやうな
地理的要衡の、一定の経済力と一定の軍事力しか持ちえない小国が、条約下にあらうがあるまいが、国際同盟の
参加国であらうがあるまいが、外力の影響によつて左右されるのは宿命的だと思はなければならない。
(中略)
抵抗とは遊戯ではない。完全無防備の抵抗といふものがもしありうるならば、その最有力な例をとり上げて
指摘するならともかく、それが成功するかしないかの時点で、それを無防備的抵抗の良きお手本とすることは、
それ自体が国家を否定し、民族の自立を否定する思想であると言はなければならない。
三島由紀夫「自由と権力の状況」より
92: 2011/02/09(水)16:13 ID:grmrZ55y(7/8) AAS
(中略)
無益な武力的抵抗によつて、国家主権を奪はれるくらゐなら、流血の惨を避け、秩序を保つて表面的に妥協を
受け入れ、国家の存立をはかつたはうがよい、といふならば、非武装抵抗の利点は、一つは血を流さないですんだ、
といふことと、一つは国家の主権が曲りなりにも保たれたといふことでなければならない。
しかし、それはあくまで「非武装抵抗」の利点であつて、「非武装」の利点ではない。非武装(チェコは事実上
非武装国家ではなかつたが)それ自体は、強大な武力に対して何らの利点を持ちえないことは明らかである。
武力抵抗の反対概念は、非武装そのものではなく、非武装抵抗といふことであらう。
三島由紀夫「自由と権力の状況」より
93: 2011/02/09(水)16:14 ID:grmrZ55y(8/8) AAS
そして非武装抵抗の存立条件は、国民の結集した否(ノン)にしかなく、又、陰に陽にサボタージュその他で
抵抗する他はないが、次に来る段階は、非武装抵抗ですら血を流さずには有効性は発揮しえぬ、といふ段階であり、
又、国家の主権が曲りなりにも保たれても、その国家権力の実質的な主導権を奪はれるといふ状況をすでに
容認するならば、そのあとで、実質的な主導権を奪ひ返さうといふ抵抗は、抵抗の最初の論理的根拠を欠くことになる。
なぜなら、われわれが抵抗の手段の選択を迫られたとき、その一方(すなわち非武装)によつて、論理的に
一貫するならば、敵をすでに受け入れた己れの状況に対する抵抗とは、われわれ自身に対する抵抗に他ならなく
なつてしまひ、抵抗の論理は自らの身を喰ふものになるからであり、つひには抵抗それ自体が成立たなくなる
からである。そのとき、われわれは、非武装抵抗の利点が一つもない地点に立つてをり、「非武装抵抗」と
「非武装」とは同義語になり、つひには敗北主義の同義語になるのである。
三島由紀夫「自由と権力の状況」より
94: 2011/02/10(木)11:34 ID:C3oYkN/f(1/6) AAS
私は、ごく簡単に言つて、青年に求められるものは「高い道義性」の一語に尽きると思ふ。さう言ふと、バカに
古めかしいやうだが、道義といふのは、青年の愚直な盲目的な純粋性なしにば、この世に姿を現はすことはないのである。
老人の道義性などといふのは大抵真っ赤なニセモノである。
私がいつも思ひ出すのは、二・二六事件で処刑された青年将校の一人、栗原中尉のことである。(中略)
中尉の部下だつた人から直接きいた話であるが、あるとき演習があつて、小休止の際、中尉の部下の一上等兵が、
一種のアルコール中毒で、耐へられずに酒屋へとび込んでコップ酒をあふつてゐた。そこへ通りかかつた大隊長に
詰問され、所属と姓名を名乗らされたが、その晩帰営すると、大隊長は一言も講評を言はず、全員の前で、
その兵の名をあげて、いきなり重営倉三日を宣告した。
中尉は部下に、その兵の演習の汗に濡れたシャツを取り換へさせるやう、営倉は寒いから暖かい衣類を持つて
行かせるやうに命じた。それからなほ三日つづいた演習のあひだ、部下たちは中尉の顔色の悪いのを気づかつた。
省2
95: 2011/02/10(木)11:35 ID:C3oYkN/f(2/6) AAS
あとで従兵の口から真相がわかつたが、上等兵の重営倉の三晩のあひだ、中尉は一睡もせず、軍服のまま、
香を焚いて、板の間に端座して、夜を徹してゐたのださうである。
釈放後この話をきいた兵は、涙を流して、栗原中尉のためなら命をささげようと誓ひ、事実、この兵は二・二六事件に
欣然と参加したさうだ。
青年のみが実現できる高い道義性とは、かういふことを言ふのである。第一、老人では、いくらその気があつても、
三日も完全徹夜をした上で走り回つてゐたら、引つくりかへつてしまふであらう。
二・二六事件が右寄りの話で面白くないといふのなら、左翼の革命運動も、青年がこれに携はる以上、高い道義性の
実現なしには、本当に人心を把握できないと私は信ずる。チェ・ゲバラは革命家の禁欲主義を唱へ、強姦の罪を
犯した愛する部下を涙をのんで射殺したが、これはゲバラが革命の道義性をいかに重んじたかの証左であつて、
毛沢東の「軍事六篇」もこの点をやかましく言つてゐる。
省1
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