◆三島由紀夫の遺訓◆ (511レス)
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94: 2011/02/10(木)11:34 ID:C3oYkN/f(1/6) AAS
私は、ごく簡単に言つて、青年に求められるものは「高い道義性」の一語に尽きると思ふ。さう言ふと、バカに
古めかしいやうだが、道義といふのは、青年の愚直な盲目的な純粋性なしにば、この世に姿を現はすことはないのである。
老人の道義性などといふのは大抵真っ赤なニセモノである。
私がいつも思ひ出すのは、二・二六事件で処刑された青年将校の一人、栗原中尉のことである。(中略)
中尉の部下だつた人から直接きいた話であるが、あるとき演習があつて、小休止の際、中尉の部下の一上等兵が、
一種のアルコール中毒で、耐へられずに酒屋へとび込んでコップ酒をあふつてゐた。そこへ通りかかつた大隊長に
詰問され、所属と姓名を名乗らされたが、その晩帰営すると、大隊長は一言も講評を言はず、全員の前で、
その兵の名をあげて、いきなり重営倉三日を宣告した。
中尉は部下に、その兵の演習の汗に濡れたシャツを取り換へさせるやう、営倉は寒いから暖かい衣類を持つて
行かせるやうに命じた。それからなほ三日つづいた演習のあひだ、部下たちは中尉の顔色の悪いのを気づかつた。
省2
95: 2011/02/10(木)11:35 ID:C3oYkN/f(2/6) AAS
あとで従兵の口から真相がわかつたが、上等兵の重営倉の三晩のあひだ、中尉は一睡もせず、軍服のまま、
香を焚いて、板の間に端座して、夜を徹してゐたのださうである。
釈放後この話をきいた兵は、涙を流して、栗原中尉のためなら命をささげようと誓ひ、事実、この兵は二・二六事件に
欣然と参加したさうだ。
青年のみが実現できる高い道義性とは、かういふことを言ふのである。第一、老人では、いくらその気があつても、
三日も完全徹夜をした上で走り回つてゐたら、引つくりかへつてしまふであらう。
二・二六事件が右寄りの話で面白くないといふのなら、左翼の革命運動も、青年がこれに携はる以上、高い道義性の
実現なしには、本当に人心を把握できないと私は信ずる。チェ・ゲバラは革命家の禁欲主義を唱へ、強姦の罪を
犯した愛する部下を涙をのんで射殺したが、これはゲバラが革命の道義性をいかに重んじたかの証左であつて、
毛沢東の「軍事六篇」もこの点をやかましく言つてゐる。
省1
96: 2011/02/10(木)11:43 ID:C3oYkN/f(3/6) AAS
…一学生の万引き事件、日大紛争における暴力団はだしの残虐なリンチ事件、……これらは学生による政治活動から、
道義性が崩壊してゆくいちじるしい事例である。あとには目的のためには手段をえらばない革命戦術が残つてゐる
だけである。一見、平和戦術をとつてゐる一派も、それ自体が戦術であることが見えすいてゐて、何ら高い道義性を
感じさせることはない。
ここまで青年を荒廃させたのは、大人の罪、大人の責任だ、といふのが、今通りのいい議論だが、私はさう考へない。
青年の荒廃は青年自身の責任であつて、それを自らの責任として引き受ける青年の態度だけが、道義性の源泉に
なるのである。
私の知つてゐる青年たちの中には、たしかに立派な青年もゐる。信ずるに足る青年もゐる。私の知つてゐる
非青年五十人と、青年五十人と公平に比べると、大した差はみとめられない。日本人が全部堕落してゆくとは
とても信じられない。しかし、私は、青年をおだて上げておいて、自分は左ウチハで暮さうといふ気はみぢんも
省2
97: 2011/02/10(木)11:54 ID:C3oYkN/f(4/6) AAS
桜田門外の変は、徳川幕府の権威失墜の一大転機であつた。十八列士のうち、ただ一人の薩摩藩士としてこれに
加はり、自ら井伊大老の首級をあげ、重傷を負うて自刃した有村次左衛門は、そのとき二十三歳だつた。(中略)
維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、国家変革の
情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。そこへ行くと、
国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。かれらの
言葉づかひは、全然大和言葉ではない。又、あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、
コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである。あんなものをカッコイイと思つてゐる青年は、
すでに日本人らしい美意識を失つてゐる。いはゆる「解放区」の中は、紙屑だらけで、不潔をきはめ、神州清潔の民は
とてもあんな解放区に住めたものではないから、きつと外国人を住まはせるための地域を解放区といふのであらう。
三島由紀夫「維新の若者」より
98: 2011/02/10(木)16:58 ID:C3oYkN/f(5/6) AAS
剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、
その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた。大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、さらに
戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として抹殺するに
いたつたのである。(中略)
以前から、終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。
神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、
いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な問題に
触れた行動であることが理解されたのであつた。
影山氏の「日本民族派の運動」を読む人は、かういふ氏の思想の根を知ることによつて、さらに興趣を増すことと
思はれる。
省1
99: 2011/02/10(木)17:00 ID:C3oYkN/f(6/6) AAS
氏はおそろしいほど実証的であり、歴史を正す一念において、博引旁証、及ばざるところがない。忘れつぽい
日本人から見ると、その点、却つて日本人離れがしてゐる。実に皮肉なことだが、神風連の事件そのものが、
純潔に自分の思想を守つて抵抗するといふ徹底性の点で、却つて西欧人に理解されやすい要素を含んでゐると
思はれるのと、このことは照応してゐる。西欧化した日本人が、西欧から学ばなかつた唯一のものこそ、
思想に対するこのやうな西欧人の態度なのである。(中略)
又、思想的立場を異にする花田清輝氏などに対しても、本書は公正な態度で、さはやかな記述をしてをり、その点、
思想上の敵に対して卑劣な悪罵の限りをつくす一部の左翼人の著書とは対蹠的である。(中略)
昭和の文学史は、あまりに多くのイデオロギッシュな歪曲や、眼界のせまい文壇人の文壇意識などによつて
毒されてきた。今後昭和の戦前戦中の文学について語る者は、必ず本書に目をとほすことなしには、公正な目を
養ふことができないであらう、と私は信ずる。
省1
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