◆三島由紀夫の遺訓◆ (511レス)
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54: 2011/02/06(日)11:20 ID:uANu1Vdi(1/12) AAS
当時(戦時)の文化界のことを研究すると、時代からの流され方が、何だかあんまりだらしがなかつたやうな
気がする。だらしがなかつたのならそれでもよいが、戦後の変節の早さ、かりにも「一国一城の主」が、女みたいに
「私はだまされてゐた」と言ひ出すのを見ては、私はいはゆる文化人知識人の性根を見たやうな気がしたのである。
大体、文化人や知識人と名乗るだけの人間が「だまされてゐた」では通るまい。この種の人たちは、十中八九、
口ほどにもないお人よしで、実際にだまされてゐたのかもしれないが、それを言はないで、だまされてゐたままの
自分の形を押し通すだけの自負がなかつたのか。思想的弾圧のはげしさは言語を絶してゐたかもしれないが、
いくら割り引いてみても、知識人文化人のたよりなさの印象はのこるのである。
変節防止のために相互監視をやつたらどうか。言論の自由を守るとは、結局自分を守ることだといふのでは情けない。

三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
55: 2011/02/06(日)11:22 ID:uANu1Vdi(2/12) AAS
「われわれの考へる言論の自由」といふものを本当に信じ、それを守り抜くためには、一人一人ばらばらでは、
はなはだたよりなかつた前歴があるから、今度は二度と引き返せぬやうに、相互監視でもやつて変節を防止しなければ、
第一、われわれの言論を信じてくれる読者各位に対して申し訳ないではないか。十年もつといふ宣伝で買つた洗濯機が、
三日でこはれてしまつては、商業道徳に反するではないか。
大体、文化人知識人などといふものは、弱い立場なのである。社会的地位もあいまいで、非常の場合に力で押して
来られたら一トたまりもない。幸ひ今は平和な時代で、大きな顔をしてゐられるが、われわれが大きい顔をして
ゐられるから、平和がありがたい、といふのでは、材木が売れるから地震がありがたい、といふ材木屋の考へと
同じである。

三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
56: 2011/02/06(日)11:27 ID:uANu1Vdi(3/12) AAS
(中略)
世論なるものの作られ方自体にも、相当怪しいところがあるのである。子供にだつて、シュークリームと
あんころもちの二つを選ばせれば、どちらがうまいか、自分の意見を決めることができるが、シュークリームだけを
与へつづければ、世界中でシュークリームほどうまいものはないと思ふやうになる。今、日教組がとなへてゐる
「教育の自由」とは、シュークリームだけを与へる教育の自由なのである。ジャーナリズムの有力な傾向も、
公正に見せかけた「選択の自由の排除」であつて、われわれは言論を通じて、公正な選択の場を何とか確保しようと
努めてゐるにすぎない。
現代政治の特徴は何事も世論のフィルターを濾過されねばならぬことであらうが、そのフィルターにくつついた煤の
煤払ひをしなければ世論自体が意味をなさぬ。かくも強力なフィルターが、煤のおかげで、ひたすら被害者、
被圧迫者を装つて、フィルターの濾過を拒んでゐるやうな状況は、不健全であるのみならず、フィルターの権威を
省3
57: 2011/02/06(日)11:31 ID:uANu1Vdi(4/12) AAS
私は弱い者が大ぜい集まつてワイワイガヤガヤ言つて多数の力で意見を押しとほすといふ考へがきらひだ。
全学連だつて、一人一人会えば大人しい坊ちやんだし、体力的に弱いタイプが多い。なぜ多数を恃むのか。
自分一人に自信がないからではないのか。「千万人といへども我行かん」といふ気持がないではないか。
もつとも一人の力では限りがあることがわかつてゐる。だから私は少数精鋭主義である。その少数の一人一人が、
「千万人といへども我行かん」といふ気構へをもち、それだけ腕つ節がなければならない。たつた一人孤立しても、
切り抜けて行けなければならない。

三島由紀夫「拳と剣――この孤独なる自己との戦ひ」より
58: 2011/02/06(日)12:01 ID:uANu1Vdi(5/12) AAS
何を守るかといふことを突き詰めると、どうしても文化論にふれなければならなくなるのだが、ただ文化を守れ
といふことでは非常にわかりにくい。文化云々といふと、おまへは文化に携つてゐるから文化文化といふ、それが
おまへ自身の金儲けにつながつてゐるからだらう――といはれるかもしれない。あるひは文化なんか守る必要はない、
パチンコやつて女を抱いてゐればいいんだといふ考へ方の人もゐるだらう。文化といつても、特殊な才能を
もつた人間が特殊な文化を作り出してゐるんだから、われわれには関係がない。必要があれば金で買へばいい、
守る必要なんかない――と考へる者もゐるだらう。しかし文化とはさういふものではない。昔流に表現すれば、
一人一人の心の中にある日本精神を守るといふことだ。太古以来純粋を保つてきた一つの文化伝統、一言語伝統を
守つてきた精神を守るといふことだ。しかし、その純粋な日本精神は、目には見えないものであり、形として
示すことができないので、これを守れといつても非常に難しい。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
59: 2011/02/06(日)12:06 ID:uANu1Vdi(6/12) AAS
またいはゆる日本精神といふものを日本主義と解釈して危険視する者が多いが、それはあまりにも純粋化して考へ、
精神化し過ぎてゐる。(中略)
だから私は、文化といふものを、そのやうには考へない。文化といふものは、目に見える、形になつた結果から
判断していいのではないかと思ふ。従つて日本精神といふものを知るためには目に見えない、形のない古くさいものと
考へずに、形あるもの、目にふれるもので、日本の精神の現れであると思へるものを並べてみろ、そしてそれを
端から端まで目を通してみろ、さうすれば自ら明らかとなる。そしてそれをどうしたら守れるか、どうやつて
守ればいいかを考へろ、といふのである。
歌舞伎、文楽なら守つてもいいが、サイケデリックや「おれは死んぢまつただ」などといふ退廃的な文化は
弾圧しなければならない――といふのは政治家の考へることだ。私はさうは考へない。古いもの必ずしも
良いものではなく、新しいもの必ずしも悪いものではない。江戸末期の歌舞伎狂言などには、現代よりももつと
省2
60: 2011/02/06(日)12:08 ID:uANu1Vdi(7/12) AAS
それらを引つくるめたものが日本の文化であり、日本人の特性がよく表はれてゐるのである。日本精神といふものの
基準はここにある。しかしこれからはづれたものは違ふんだといふ基準はない。良いも悪いも、あるひは古からうが
新しからうが、そこに現はれてゐるものが日本精神なのである。従つてどんなに文化と関係ないと思つてゐる人でも、
文化と関係ない人間はゐない。歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが退廃的であつても、そこには日本人の魂が
入つてゐるのである。
私は文化といふものをそのやうに考へるので、文化は形をとればいいと思ふ。形といふことは行動であることもある。
特攻隊の行動をみてわれわれは立派だなと思ふ。現代青年は「カッコいい」と表現するが、アメリカ人には
「バカ・ボム」といはれるだらう。日本人のいろいろな行動を、日本人が考へることと、西洋人の評価とは
かなり違つてゐる。彼らからみればいかにばか気たことであらうとも、日本人が立派だと思ひ、美しいと思ふことが
たくさんある。
省1
61: 2011/02/06(日)12:10 ID:uANu1Vdi(8/12) AAS
西洋人からみてばからしいものは一切やめよう、西洋人からみて蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、
不道徳なものは全部やめようぢやないか――といふのが文明開化主義である。西洋人からみて浪花節は下品であり、
特攻隊はばからしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、と、さういふものを全部否定していつたら、
日本には何が残るか――何も残るものはない。
日本文化といふものは西洋人の目からみて進んでゐるとかおくれてゐるとか判断できるものではないのである。
従つてわれわれは明治維新以来、日本文化に進歩も何もなかつたことを知らなければならない。西洋の後に
追ひつくことが文化だと思つてきた誤りが、もうわかつてもいい頃だと思ふ。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
62: 2011/02/06(日)12:32 ID:uANu1Vdi(9/12) AAS
再び防衛問題に戻るが、この文化論から出発して“何を守るか”といふことを考へなければならない。私は
どうしても第一に、天皇陛下のことを考へる。天皇陛下のことをいふとすぐ右翼だとか何だとかいふ人が多いが、
憲法第一条に揚げてありながら、なぜ天皇陛下のことを云々してはいけないのかと反論したい。天皇陛下を政治権力と
くつ付けたところに弊害があつたのであるが、それも形として政治権力としてくつ付けたことは過去の歴史の中で
何度かあつた。しかし、天皇陛下が独裁者であつたことは一度もないのである。それをどうして、われわれは
陛下を守つてはいけないのか、陛下に忠誠を誓つてはいけないのか、私にはその点がどうしても理解できない。
ところが陛下に忠誠を尽くすことが、民主主義を裏切り、われわれ国民が主権をもつてゐる国家を裏切るのだといふ
左翼的な考への人が多い。しかし天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきてゐる
文化の象徴である。さういふものに忠誠を尽くすことと同意のものであると私は考へてゐる。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
63: 2011/02/06(日)12:35 ID:uANu1Vdi(10/12) AAS
なぜなら、日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである。日本文化を
守ることは、天皇を守ることに帰着するのであるが、この文化の全体性をのこりなく救出し、政治的偏見に
まどはされずに、「菊と刀」の文化をすべて統一体として守るには、言論の自由を保障する政体が必要で、
共産主義政体が言論の自由を最終的に保障しないのは自明のことである。
(中略)
アメリカでいくら黒人暴動が起こつても、黒人暴動で核は使へない。ベトナムでは使へたかもしれないが使はなかつた、
といふことを考へると、日本にこれから危難な起こるとすれば間接侵略形態においてだらう。中共もソ連も海を越えて
攻めてくるかどうかわからないが、さうすると国内戦の様相を考へた場合、一方の政治権力をもつてゐる側も
核を使ふことはできない。その間に反対側の政治勢力に完全に押へられてしまふといふことも、十分あり得るのが
いまの情勢だと思ふ。防衛問題も、ことに陸上自衛隊については、間接侵略にどう対処するかといふことに一番
省2
64: 2011/02/06(日)12:41 ID:uANu1Vdi(11/12) AAS
(中略)
間接侵略においては日本人一人一人の魂がしつかりしてゐたら、日本刀で立ち向つても負けることはないと思ふ。
もちろん小銃、機関銃、無反動砲など、普通科の近代兵器は自衛隊に整備させてゐても、私はやはり市民武装と
いふ形で日本人が日本刀を一本づつ持つことが必要だと思ふ。勿論、ほんたうに日本を守らうと思つてゐない者には
持たせられないことはいふまでもないが……。
私は現在日本刀が美術品として、趣味的に扱はれてゐることに対して、甚だ残念に思つてゐる。日本刀を美術品とか
文化財として珍重するのはをかしなことで、これは人斬り包丁だ――と私は刀屋に冗談話をするのだが、
日本刀のやうに魂であると同時に殺人道具であるといふのは、世界でも稀れなものであらう。
日本刀を持ち出したのは一種の比喩であるが、私は自衛隊の武器は通常兵器でいいが、その筒先をどこに向けるべきか、
といふことこそ問題だと思ふ。
省1
65: 2011/02/06(日)12:42 ID:uANu1Vdi(12/12) AAS
(中略)
これに関して、一説によるとある創価学会の自衛隊員は、「私はいざといふときには上官の命令で弾は撃たない、
池田さんのおつしやつた方に向けて撃つ」といつたといふ。こんな軍隊は珍らしい軍隊で、このやうに、
いざといふときにどつちへ弾が行くのかわからないといふのでは全く困る。
再び魂の問題に戻るが、自衛隊に対しては決して偽善やきれい事であつてはならない。自衛隊は、平和主義の
軍隊であり、平和を守るための軍隊であることに違ひはないが、もつと現実に目覚めて、一人一人高度の思想教育を
行なはなければならない。さうでなければ毛沢東の行なつてゐるあの思想教育に勝てないと思ふ。さうでなければ、
日本の隣にある、このぎりぎりの思想教育を受けた軍隊に勝つことの不可能なことを、私は痛感するのである。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
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