他板に投稿された、興味深い格言の転載スレ 17 (404レス)
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136: 2019/06/11(火)20:53 ID:sQEBcB1Q(47/71) AAS

多く雑誌を出していれば松下グループの広告だけで毎月一億や二億にはなる。
テレビラジオならもっと莫大になる。それを総引き揚げするぞと言われたら松下の批評はできなくなる。
私は浅薄な正義は嫌いだが、こんな脅迫に屈するのはもっと嫌いだから今これを書く気になったのである。


花森安治は耳で聞いて分かる言葉を使え、全部ひら仮名で書いてみて、そのままで分かる言葉を使え。
いい文章を暗記せよ。写せ。英和辞典に出ている言葉は日本語だと思うなと叱咤したという。
そっくりそのまま新聞記事の批評である。テレビのコピーの批評である。


日本人はいつからニセ日本人になったか、私は怪しんで少年のころからじっと見守っていた。
省13
137: 2019/06/11(火)20:54 ID:sQEBcB1Q(48/71) AAS

新聞は、ことに朝日新聞は終始社会主義の味方だった。日教組を手なずけたのは大成功だった。
入試試験は朝日から出るぞとおどして部数をふやした。国鉄民営化にも反対した。


動労は国民に見放されたのになお千葉動労だけでもゼネストはできる、全国の動労に千葉動労の同志がいる、
その一人が一本ずつ犬くぎを抜けば、即ちゼネストだと豪語したが、
さすがに民心は離れたと見たのだろう新聞は全く書かなくなった。
報道がなければその言は存在しない。


新聞は近く日教組を見捨てる。その兆しはすでに投書欄にあらわれているとはいつぞや書いた。
省10
138: 2019/06/11(火)20:54 ID:sQEBcB1Q(49/71) AAS

60年安保のたぐいはわが国の独立運動ではなかった。ソ連または中国の属国になって、
宗主国から首相に任命されて、にこにこして組閣する写真を見たような気がする、
どうしてこんな事になったか。日本人のすべては日米戦争なんかのぞんでいなかったからだ、
あの時我らはすでに「ニセ毛唐」だったのだ。


キャンペーンと称して正義と良心を読者に強い、賛成して共に言うならよし、
なお言わないと読者は読者を村八分にした。書き手と読み手はぐるなのである。


私が正義をほとんど憎むのは、自分のことを棚にあげて初めて正義だからである。
省13
139: 2019/06/11(火)20:55 ID:sQEBcB1Q(50/71) AAS

工場や機械があればそれをかたに銀行は金を貸す。
プランには影も形もないから戦前の銀行は出版には全く貸さなかった。当然である。
戦後貸すようになったのは銀行の堕落だとは前に言った。出版と印刷(製本も)の違いを、
ひと口で言うと右の通りである。何事ごとも複雑に考えないほうがいい。


マスコミが印刷製本を一段下に見るのは奇怪だと、私は昔から不承知でこの世の中で
全く論じられないものの一つに印刷業と印刷術があると書いた。
(中略)出版と印刷の違いを、ひと口で言うと印刷には工場がある、機械がある、
出版には何もない。机と電話とプランがありさえすば〜出版たちどころに成る。
省18
140: 2019/06/11(火)20:55 ID:sQEBcB1Q(51/71) AAS

配給のキリンビールのラベルが墨一色になったのを見て、この戦争も終わりだなと思ったことは以前書いた。


「文章は経国の大業、不朽の盛時」という言葉がある。このごろ絶えて言わなくなったが、昔はよく言った。
文章は不滅であとまで残るというほどのことだから、恥ずかしくて言わなくなったのである。
文章は俗論に反することを述べるものだといえばお分かりだろう。


唐突だが戦前は職業婦人といった。どういうわけか電話の交換手は明治の昔から娘だった。
百貨店の売子、銀行の窓口嬢、昭和になってからはバス・ガールがあった。
いずれも志願者が多く、それをいいことに薄給だった。ただ高給をとったのは派出看護婦で、
省5
141: 2019/06/11(火)20:55 ID:sQEBcB1Q(52/71) AAS

新時代の堕落は、旧時代の堕落に負うところが多い。


犬猫でさえ人類よりましである。第一彼らは銭を持たない、従って売淫しない、戦争しない。


空腹と空腹感は、本来別物だそうだ。


青少年のくせに、何らかの反逆と革新の気概がなく、テレビにうつつをぬかすなら、フヌケである。


新薬の出現によって、百年このかた人は死ななくなった。ほんとは死ぬべき人が、生きてこの世を歩いている。
省20
142: 2019/06/11(火)20:56 ID:sQEBcB1Q(53/71) AAS

俗に自分のことは他人の目で見よというが、いくら他人になっても、他人もまた人である。


居ながら見られるのは便利だが、病人じゃあるまいし、映画や芝居くらい見物に出かけてはどうか。


自動車にもとづいた未来の都市計画案は、私には荒涼たる無人の廃墟に見えます。


その末端にあるカーをクーラーをテレビを享楽して、てっぺんの原爆だけ許すまじと
歌っても、そうは問屋がおろさぬと言ったことがある。


省19
143: 2019/06/11(火)22:20 ID:sQEBcB1Q(54/71) AAS

大げさに言えば、このまずはめでたいの、まずはのなかに、千万無量の思いがこもっている


「春秋に義戦なし」と古人は言ったが、この世の中にニュースはないと、ながめて私は
楽しまないのである。


その席にすわらなかった、あるいはすわれなかったばかりに吐く正論を、私は謹聴しない。


おめず臆せず自分の見たところを言うものは、ばかでなければ勇気あるものである。


省19
144: 2019/06/11(火)22:20 ID:sQEBcB1Q(55/71) AAS

事故を未然に防ぐ親切から作ったと、この悪意は親切を装うほどの悪意である。


女たちは男たちの上品が、口さきだけなのを知っている。


何の目的も学問もないものが、海外に遊んでも得るところはない。大仕掛けな「はとバス」に
乗ったようなもので、故に私は海外に旅しない。


生れるのが自然なら死ぬのもまた自然なのに、こんなに死ににくくなった時代はない。


省18
145: 2019/06/11(火)22:23 ID:sQEBcB1Q(56/71) AAS

論より証拠というのは昔のことで、今は証拠より論の時代だとは何度も言った。
論じれば証拠なんかどうにでもなる。


社員がかけつけるのは見舞のためではない。払わぬ理由をさがすためである。


いくらいいと言われてもキチガイじゃあるまいし、
新聞に求められて原稿料をもらってその紙上に新聞の悪口を書けるものではない。


ひとの懐を勘定して羨むのはいやしむべきことだが、人は本来いやしい存在である。
省19
146: 2019/06/11(火)22:23 ID:sQEBcB1Q(57/71) AAS

私たちが預金をそのままにしておくのは、稼業にはげんだほうがもし成功すればなまじな
利殖よりはるか有利だからである。それにまっ当だからである。


父母が生きているかぎり子と孫は歓迎されるが死んだらされない。


今年の魚が毒なら昨年の魚も毒だろう来年の魚も毒に違いない、魚食うべしいくらでもと
私が書いたら婦人たちはとびかかろうとしたが、そのうちそっぽを向くようになった。


ことに正義は自分にあって相手にないと思うと居丈高になる。
省20
147: 2019/06/11(火)22:24 ID:sQEBcB1Q(58/71) AAS

自分のよく知ることを全く知らない人に知らせることを、難なく出来ると思う人は絶対に出来ない人である。


世間には笑われておぼえることが山ほどあるのである。


いまの私たちの老後の諸問題は昔はみな孝が始末していたものである。


狼に育てられた子供に似て言葉はあとから教えても身につかない。


短くする発想がないのはけげんである。長いばかりが能ではないぞ。
省20
148: 2019/06/11(火)22:25 ID:sQEBcB1Q(59/71) AAS

新しい本は古い本を読むのを邪魔するために出る、
読むべき本があるとすればそれは古典で、十冊か二十冊である。


再販問題で本も雑誌も売れなくなる、文化の危機だと騒いでいるが、こんなものなくなって何の危機か。


戦前は金さえあればどんなお洒落でもできると貧乏人は思ったが、
それがとんだまちがいだということが、うそかまことか一億総中流になって分った。


「とかくこの世はダメとムダ」と私は見ているものだからこんなこと位で怒りはしない。浮世の
省23
149: 2019/06/11(火)22:26 ID:sQEBcB1Q(60/71) AAS

我々はある国に生れたのではない、ある国語のなかに生れたのだ、祖国とは国語だ、国語
以外の何ものでもないというシオランの言葉を私は固く信じるものである。


タダは客と芸人とドラマを限りなく堕落させる。


漱石崇拝に抗して退屈が予想される長編を読むことがいかに苦痛かを書くのは勇気のいることである。敵は幾万である。


私は全くの死語は用いない、半死半生ではあるが、いま使えば息ふき返す言葉なら勇んで
用いる。抵抗である。言葉は五百年千年の歴史あるものは過去を背負っている。
省19
150: 2019/06/11(火)22:27 ID:sQEBcB1Q(61/71) AAS

我々は大ぜいが言うことを、共に言う存在である。
この世の中は、自分で考える力のあるひと握りの人と、
自分では考える力がなくて、すべて他人に考えてもらう大ぜいの人から成っている。


人気さえあれば天から降ってくる芸人の十万円と、
堅気の月給十万円は、同じ十万円ではあっても、全く別ものである。


所詮この世は生きている人の世の中である。


省19
151: 2019/06/11(火)22:27 ID:sQEBcB1Q(62/71) AAS

用もないのに人は遠くへ行かない。
パリの住民でエッフェル塔へのぼったことのないひとはいくらでもいる。


私自身がすすめられてもしないだろうことを、すすめても仕方がない。


町で「合鍵三分でつくります」という看板を見る。
あれを見ると「四分目には泥棒にはいります」と言いたくなると笑った建築家がいた。


物くれる人はよい人だと古人は言っている。
省21
152: 2019/06/11(火)22:28 ID:sQEBcB1Q(63/71) AAS

いまそれが美しいのなら五十年前百年前も美しかったはずです。
当時それを発見しないで、いまごろ発見したのを私は黒人の代わりに不快に思っているのです。


スナックのマスターやそこで知り合った麻雀友だちは、やはり友ではありません。


家庭教師をして何か得るところがあったかと問うと、
希に「家庭教師なんかするものじゃない、ということが分った」と答えるものがあります。


人は獅子や虎を猛獣と呼んで恐れますが、なに彼らは腹がいっぱいなら何もとって食いはしません。
省19
153: 2019/06/11(火)22:28 ID:sQEBcB1Q(64/71) AAS

改まらないものには改まらない十分なわけがある。


物が盛んなときは衰えるときである。


人は言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右される。


千万人といえどもわれ往かんという言葉がある。
自分で考えて正しければ、相手がたとえ千万人でも、自分が一人でも屈しないと訳されて、
今も時々用いられるが、千万人も往くなら俺も往こうと訳すのが本当である。
省9
154: 2019/06/11(火)22:29 ID:sQEBcB1Q(65/71) AAS

言葉というのは電光のように通じるもので、それは聞く方がその言葉を待っているからである


人は分って自分に不都合なことなら、断じて分ろうとしない。


明治の昔の貧乏と、今日のそれとは質的に相違したもので、
電気じかけの貧乏こそ真の貧乏だと、仔細あって私は信じている


高度成長はラクして月給をたくさんくれる仕事をよい仕事だと若者たちに思わせました。


省22
155: 2019/06/11(火)22:29 ID:sQEBcB1Q(66/71) AAS

(嫉妬は)磐石のように存在している。だからその存在は認めなければならない。
認めると、それはそれなりの用をしていると分かるのである。


そこにあるものは目にはいるが、ないものは目にはいらない。したがって、そこにないものに私は注目する。


私は人生に対して「当人」であるより「他人」である。見物人である。
だから当人には見えないものが、時々見えることがある。


私の書くものを進んで読んでしばしば笑う婦人なら、きっと頭のいいひとだろうと勝手ながら私は決めている。
省29
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