[過去ログ] 日本史上最低のゲイ右翼、三島由紀夫を叩くスレ (326レス)
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50: 2009/12/11(金)11:09 ID:yk+ntRT8(1/8) AAS
私は作家として三島由紀夫とは何んの接点もなかった。そう言っていいにちがいない。
彼がすぐれた文学者であったことは私にも判っている。
なみなみならぬ、ケンランたる才能の持ち主であったことも心得ている。
たとえば、「自決」前年の「蘭陵王」――ああいう作品はなかなか書けるものではない。
しかし、人間には好みというものがある。文学の好みにおいて、私は彼と接点がなかった、そう言えばいいだろう。
(中略)
とにかく好みというものがある。私には読んでいるとお尻の下がむずがゆくなって読み通せない作家がある。
いい作家かも知れないが、それを重々判っていても、駄目だ。三島由紀夫にはそんなことはなかった。けっこう読めた。
小田実
「三島由紀夫との接点」より
51: 2009/12/11(金)11:12 ID:yk+ntRT8(2/8) AAS
思想家としての接点はどうか。
…考えてみると、彼はあのころ大学の時計塔にたてこもった「過激派」の学生にいたく共感し、学生は学生で、
彼が「自決」したとき、われわれは負けたと言ったものだ。
…そこでも私が彼と接点がなかったことは、彼の「自決」後、ある雑誌のインタビューで、私は彼の死について
しゃべった――そのインタビュー記事の題名は、「私は畳の上で死にたい」。それがすべてを言いあらわしている。
小田実
「三島由紀夫との接点」より
52: 2009/12/11(金)11:13 ID:yk+ntRT8(3/8) AAS
しかし、接点がひとつあった。確実にあったと思う。
私はそのころベトナム反戦運動に精を出していた。
…私はこの「ただの市民」の運動を自分で考えてやり出し、自分でそれなりに力も時間も金も出してやった。
そして、小説もとにかく書いていた。
三島も「楯の会」で同じことをしていた。彼は「楯の会」を自分で考えてやり出し、力と時間と金も出し、
小説も書きながらやっていた。
それが二人の接点だった。そのころも私はそう思っていたし、今も思っている。
ついでにもうひとつ言っておけば、そうした意味での接点を私が感じとったのは、あとにも先にも、彼ひとりだ。
小田実
「三島由紀夫との接点」より
53: 2009/12/11(金)11:14 ID:yk+ntRT8(4/8) AAS
猪瀬直樹「三島由紀夫は、七十年に自衛隊のバルコニーに立って演説するわけです。
あの演説のとき、自衛隊員に罵倒されたでしょう。あれ、吉本さん、どうご覧になってました?」
吉本隆明「なんてやろうだ!と思ってました。
死ぬ気でいる人間の言葉を、自衛隊に入隊して一緒に訓練した人間の言うことを、黙って
聞いてやることぐらいしたらいいじゃないか。
これじゃ、三島さんが気の毒だ…、というのがホンネでしたね。」
1994年12月2日号「週刊ポスト」より
54: 2009/12/11(金)11:15 ID:yk+ntRT8(5/8) AAS
三島さんのこと少し判ってきたことがある。
(中略)イランとか、近東イスラム教の国家っていうのは、祭政一致でしょ。
あの振舞いは西欧からは不可解なはずなんです。
でも、ぼくは戦争中の天皇というものを見ていると非常によく判る。
あれで類推すれば、もの凄くよく判る面があります。
アジア的な部分で、ラマ教とか、イスラムとか、生き神さまを作っといて、それを置いとくわけですね。
(中略)三島さんは、多分、ぼくの考えですけれども、インドへ行って、インドにおけるイスラム教の
あり方みたいなものを見て、仏教も混こうしているわけでしょう。
そこの所で、天皇というものを国際的観点から再評価したと思います。
それがぼくは三島さんの自殺当時判らなかったのです。
省4
55: 2009/12/11(金)11:24 ID:yk+ntRT8(6/8) AAS
被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった。
(中略)
国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。
憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う。
自衛隊市ヶ谷駐屯地、益田総監
三島裁判での証言より
56: 2009/12/11(金)11:33 ID:yk+ntRT8(7/8) AAS
「まさか、死ぬとは!すごいショックだ。
自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。――死を賭けた言葉なら
静かに聞いてやればよかった。」
陸上幕僚T三佐
三島自決直後の談話
「三島の自決を知ったあとの隊員たちの反応はガラリと変った。
だれもが、ことばを濁し、複雑な表情でおし黙ったまま、放心したようであった。
まさか自決するとは思っていなかったのだろう。その衝撃は、大きいようだ。」
自衛隊の最高幹部
三島自決の日の談話
省2
57: 2009/12/11(金)11:34 ID:yk+ntRT8(8/8) AAS
バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした。
ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した。
野次がだんだん増して行った。舌打ちをして振り返った。
…やるせなかった。無性にせつなくなってきた。
現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の
存在について、大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに――。
…部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ、暴徒によるものであっても、いったん命令で集合を
かけた以上正規の手順をふむべきだ。
こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った。
三島がんばれ!…心の中でそう叫んだ。
省4
58: 2009/12/11(金)11:47 ID:gNS419Dy(1) AAS
三島思想は今こそ必用。
檄文に彼の本当の気持ちと姿がある。尊敬
するね。
59(1): 2009/12/12(土)04:40 ID:GFFTxlX8(1) AAS
磔にされたキリストみたいなキメェ写真あったよな。タイーホされた写真家に撮らせたのが。
あんなの、憂国の士(爆笑)がやることじゃないねー。ヘンタイがやりそうなことです。
憂国の為なら、あんなオサレな軍服もどきをカスタム冥土する必要なんか無いぢゃん。
オヤヂより先に自殺なんて、親孝行を少しでも考えればしないって。単なるエゴイストです。
本当に國のこと考えるなら、後進の為に教育でもしそうなもんだが、
自分が気持ちよく散ることしか考えてないんだもん。騙された“隊員”たちがかわいそうでならん。
死体は、誰かが掃除したんだろ?最期の最期まで、わがまま通したんだろね。
作家として注目されなくなったから、肉体で注目されるしかなくなったわけです。
寺がそんなに美しいなら、保守しようと思うのが健常者の考え方だが、異常者はそれを
破壊して美を独占しようとするのです。自分の肉体も保守できないヘンタイに、國が保守できるわけないねー。
60: 2009/12/12(土)10:32 ID:O+ijl2/O(1) AAS
>>59
逆にそういう殉教的、神聖ヘの合一思考がなければ、行動者になれないでしょう。何の貶しネタになってませんけど。
あんたみたいな哲学も文学も理解できない、低脳パチンコ豚には永久に理解不可能な領域なんでしょうね。可哀想に。
自衛隊員も、死体の処理や遺体搬送なんかしょっちゅうやってますからね。あんたみたいなヘタレと違うでしょ。
それで給料もらってるわけだし。
楯の会の会員も今も三島を尊敬してるから、部外者のあんたが余計な自分の視点で語る意味ないし余計なお世話です。
自分の三島憎しの感情を、心にもないつまんない偽善同情で貶しネタで言っても、
あんたのバカぶりを晒してるだけでした。
アンチ活動お疲れさまでした。
61: 2009/12/12(土)14:00 ID:W+FwzCxR(1) AAS
>自衛隊員も、死体の処理や遺体搬送なんかしょっちゅうやってますからね。
知ったか乙。
62: 2009/12/13(日)01:21 ID:TFhQ2rWX(1) AAS
画像リンク[jpg]:www.yuko2ch.net
63: 2009/12/13(日)16:10 ID:in0ZeOHp(1/5) AAS
「最初はご自宅に伺ったんです。『論争ジャーナル』発刊の主旨、論調は当時反主流でした。
先生(三島由紀夫)は、その当時から一つの輝く北斗の星でしたよ。
思想的な評論など出していましたからね。
例えば、『対話・日本人論』とか、思想的な評論関係の著作を出していましたから。
文学者としてではなく、思想家として見ていましたよ。
小説家三島由紀夫と我々は見てなかったですよ。おそらく誰も。
…あの頃は、慶応で最初の学園紛争がありまして、それから早稲田、日大、明治、東大ってどんどん広がって
いったわけです。当時の思想風景というのは、左翼でなければ人にあらずという……。
想像できないでしょうが、そうだったんです。で、やっぱり、そのうちとんでもないことが起きる、と。
今見れば漫画みたいになっちゃうかもしれないけど、革命というのを、我々は真剣に危機的に感じていました。
省5
64: 2009/12/13(日)16:11 ID:in0ZeOHp(2/5) AAS
「あの頃は、全共闘全盛の時代だった。俺は九州生まれで、全共闘の考え方に馴染めなかった。
ああ、俺の考えは世の中に合わないのかな、と思ったよ。
…学校へ行ってもどうも自分と考えてることが違うなという連中が、我が物顔で歩いている。
肉体的には負けないけど、論争して負けたくないから理論武装したいと思った。
先生(三島由紀夫)の人柄とかに興味津々だったから、たぶん、先生が辟易するくらい質問したよ。
根ほり葉ほり訊いたね。先生は、目が非常に純粋で、僕らのようなひよっこにも丁寧な言葉を使ったし、
時間を守る、威張らないし、そういうことからも魅力を感じた。文豪なんていうそぶりは全然見せなかった。
礼儀正しさとか非常に親切心があるとか、何回かのお付き合いの中で敬意を持つようになった」
仲山徳隆(元楯の会会員)
鈴木亜繪美
省1
65: 2009/12/13(日)16:13 ID:in0ZeOHp(3/5) AAS
「三島先生は、『君が田村君か、さあ座りなさい』とおっしゃり、これが最初の言葉だった。
じっと見られた大きな目がキラキラ輝いていて、印象に強く残った。実にあっけない最初だった。
(中略)
体験入隊終了直前、緊張の連続と疲労の極みで胃液を吐きダウンしてしまった。
薬を飲まされ、隊舎のベッドで横になっていると、三島先生がいらしたんです。
ベッド脇に座られて『大丈夫か』と声を掛けてくださった。『幾つになった』と訊かれ、『十八です』と答えると、
『そうか、俺は君の親の世代なんだなあ。無理するなよ、行けるか?』と。先生のあの声は忘れられないですよ」
田村司(元楯の会会員)
鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
66: 2009/12/13(日)16:15 ID:in0ZeOHp(4/5) AAS
「とにかく入学した前後って、大学紛争が一番大変だった時、最初に入試を受けた時はバリケードがあって
機動隊が出てましたよ。早稲田の文学部は革マル派の本拠地だった。
圧倒的に、革命論争だとか新左翼系の話が主流でした。
でも、いわゆる左翼系の議論には違和感があった。どうもちょっとおかしいと。
それでいろんなものを読んでる中で、一番明解に論を展開していたのが三島先生だった。
そういう意味じゃ、『論争ジャーナル』に出て来て論陣を張ったというのは画期的だった。
自衛隊に行こうと思ったのは、当時はマイナーな存在で、どちらかというとマイナスの評価だった。
それと規律で全部縛られている所では自分がないと言われていましたから、本当に徹底してがんじがらめの
規制の中で人間がどうであるか、自由でありうるか、それを一回やってみたいと思ったんです」
佐原文東(元楯の会会員)
省2
67: 2009/12/13(日)16:16 ID:in0ZeOHp(5/5) AAS
「三島先生の『楯の会』は、思想的に自由な所だったというのが大きかったと思います。
思想的束縛がありませんでした。会自体すごく幅広い人が入って来ていました。
僕なんか、従来型の右翼系の人とは随分違ったと思います。
僕は、三島先生といろいろ話していて、今まで会ってきた人の中であれ程頭のいい人はいなかったですね。
非常に明晰で、クリア。透明なんですよ、透明。なんていうかクリスタルガラスのような、水晶のような、
そんな印象でした。森田さんは、ともかく明るい人でした。話していて非常に気分のいい人。裏表がない人。
そういう意味で翳のない人だよね。生き方にも翳がないし」
佐原文東(元楯の会会員)
鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
68: 2009/12/17(木)16:04 ID:49bNQzhj(1/5) AAS
「三島先生は先駆的な考えをお持ちで、当時、『論争ジャーナル』という雑誌で民兵構想というのを出されていました。
こういうのは、これから面白いなと思った。
つまり自衛隊だけではなくて、民間人が防衛組織の一翼を担うという構想を出されていた。
アメリカでもヨーロッパでもそういう民兵というのはあるわけで、日本だけがそのような民兵組織がなかった。
自衛隊自体が、むしろほとんど否定されていたような世の中だったから、ああいう考え方は非常に新鮮でした。
今でもよく覚えているのは、訓練の時に小銃を持って走るわけですよ。
あの時、三島先生は『銃の重さを知ることが非常に大切なことなんだよ』と語っておられた。
よく記憶しています。国を守るということは、銃の重さを身体で感じることなんだと、理屈ではないんだと。
全くその通りだなと思いました。
ほとんどの話は忘れてしまったけれど、これはよく記憶していますね、銃の重さのことは」
省3
69: 2009/12/17(木)16:06 ID:49bNQzhj(2/5) AAS
「森田とは同じ年だった。ある時、先生が俺をからかって、
『森田には命預けますっていう学生がいっぱいいるんだよ』と言ったんだ。
そうしたら、森田は顔を真っ赤にして、『いやあ、僕の命は先生に』って言った。
僕は自分の日記に書いても先生に直接そんなふうに言ったことないよ」
川戸志津夫(元楯の会会員)
鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
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