【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (806レス)
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648: 2021/10/31(日)21:17 ID:aza9RjQ7(1/2) AAS
>>646
湾奥部や海民ということですが、船橋の研究家先生のお話でも海運と陸運のお話を見ましたが
やはり細かい事への指標みたいのものもまだ定まってはないとのことです。事態解明はまだ難しいようです。
六浦、神奈川、品川、江戸、浅草、船橋、千葉、浜野の港の重要性はおしゃってました。
その中でただ個人的に思うのは、浅草と船橋は寺とのつながりが強いことが一つおっしゃる海民につながる気もします。
つまり海民は僧、商人、漁猟民の混合勢力で、ある種の独自のシステムがあるのかもしれません。
僧はネットワークの顔、商人は流通のシステム、漁猟民は運搬をイメージできるような気がします。
独自の勢力という事である程度は寺と同様に争いに関与しながらも損得で動ける自由さがあったのではないでしょうか。
それからこの仮定論では一応扇谷勢力と旧道灌勢力で線を引き、分けております。品川、神奈川湊は
武蔵吉良氏が今川勢力に与した段階(早い段階)で大きな益は伊勢氏側に武蔵吉良氏を通して移ったと考えております。
省12
649: 2021/10/31(日)21:17 ID:aza9RjQ7(2/2) AAS
>>647
この仮定論では扇谷は義明派としています。また葛西城は義明に降りている
武蔵千葉氏の城と見ています。なので古河公方がなぜ北条にかは筋が通ります。
山内でない理由でありますが触れはしたのですが、憲房ー憲寛を義明派と見ています。
古河に絶対としてついたのは北東関東勢力としています。
そして疑問とされる義明派とした扇谷上杉がなぜ北条を攻めなかったのかでありますが、
葛西城は義明に鞍替えした武蔵千葉氏(岩槻城は扇谷に切り取られる)の城ですからまずは
様子を見たところ、大きな衝突になってしまったのではないでしょうか。
扇谷は北条包囲網形成を望んでいるところでしたが、武蔵千葉い方の葛西城が落ち、
そのまま国府台合戦に発展するとは予見できなかったのではないでしょうか。
省2
650: 2021/11/01(月)22:09 ID:pdAz/CLW(1) AAS
お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳、元自衛隊)をご存知か、この方は将来素晴しい人物になるから覚えておいて損はないぞ
651: 2021/11/01(月)22:14 ID:A2hGpBHW(1/2) AAS
早雲を早雲と呼んではいけないという虚構
自署 宗瑞
「伊勢氏綱社殿造営棟札」早雲寺殿天岳
「北条家朱印状」早雲寺殿
「大道寺盛昌書状」早雲寺殿様
「相模国先達衆言上状」早雲寺殿
「小田原衆所領役帳」早雲寺殿
「相州日牌帳」早雲寺殿
「為広駿州下向記」早雲
「伊奈盛泰書状」早雲
省11
652: 2021/11/01(月)22:17 ID:A2hGpBHW(2/2) AAS
「北条氏康書状」武田信玄
「北条氏照書状」武田信玄/信玄
「小田氏治書状」信玄
「相馬治胤書状」信玄
「上杉輝虎書状」武田信玄/信玄
土屋昌続宛「宇都宮広綱書状」信玄
「織田信長書状」信玄
「板垣信安起請文」奉対信玄様/奉守信玄様 (両角昌守、小幡信実、越後国衆、信濃国衆の起請文も同)
「馬場篤親起請文案」奉対信玄 (馬場篤親は常陸佐竹家臣)
北条高広・景広宛「佐竹義重書状」謙信 (上杉景勝宛も同)
省10
653: 2021/11/01(月)22:36 ID:wuxiYIF+(1) AAS
長々とコピペ御苦労。
しかしお前の大好きな三流講談師を引用し忘れてるぞ。
問うに落ちず語るに落ちる。
頭隠して尻隠さず。
いい加減な所で止めときゃ無事だったものを、ムキになって退き時を見失うから身バレすることになる。
654: 2021/11/02(火)07:28 ID:2O4FuQAY(1/2) AAS
???
カルト宗教か何か?
655: 2021/11/02(火)07:30 ID:2O4FuQAY(2/2) AAS
実証主義が通じない
656: 2021/11/04(木)20:46 ID:6hJiAqT8(1) AAS
1番上の棟札
改行等も正確に書くと
相州故太守早雲寺殿天岳
欲建立而不果矣依之令
太守伊勢平氏綱新造畢
意識的に宗瑞は書かずにいるんではないか
657: 2021/11/04(木)22:59 ID:OrRCJGC5(1) AAS
もし件の伊勢氏が盛を偏諱として使用したとするならば、臼井盛胤はもしかしたら
伊勢盛時とのつながりがあったのかもしれない。さすがにそれは遠いか。
舎人氏
道灌死後の話を書かせてもらったが、この道灌死後の時期においてと考える舎人氏の
動向、その一つとして平手政秀の生母と沢彦宗恩の存在がある。まず舎人氏は近隣の
小見山氏同様いつの時代からは難しい。戦国時代中期に関しては舎人経忠や舎人孫四郎を
確認できる。では政秀母と沢彦だが、政秀母は舎人三河守輝季の娘で政秀が1490年代
生まれだとすると舎人氏と平手氏に関係ができるのは70~80年代、そして輝季は
享徳の乱の時期の生まれと推測でき、後年に舎人氏が存在することから一部が尾張に
移動したか、なんらかの政治の動きがあったかは不明。また沢彦の俗名が
省4
658: 2021/11/05(金)12:10 ID:Rub2bYF2(1) AAS
浅草と島津氏(後藤島津)
まず浅草だが1521年に氏綱の命によって古河公方の所へ富永三郎左衛門は赴いた帰り
に浅草に立ち寄った。氏綱はお金にまつわる話を富永から聞いて小田原に弁財天を
勧請した。(24年の太田資高の内応への誘いはこういった動きの中で
行われたのかもしれない。)24年に近い時に遠山新五郎屋敷への狼藉を禁止する
御触れを浅草郷へ出している。このことは24年の品川の妙国寺、本光寺への
禁制とは真逆(寺への狼藉)で、浅草近辺はまだ後北条氏との繋がりが薄いことが
窺える。仮定論では後年の太田資正の浅草寺や石浜宗泉寺や品川妙国寺、本光寺への
制札があったからといって収めたとはみないのと同様この時はまだ近隣の
義明を後ろ盾にする武蔵千葉氏とせめぎ合ってたと見ている。
省10
659: 2021/11/06(土)10:36 ID:ktQzpqu+(1) AAS
増島重明……1613年練馬高野台に弘法大師像を祀る庵をつくる。
その甥重俊が観音堂などを建て、1640年に小池坊秀算により十一面観音像が作られ
長命寺となる。十一面観音は妙見菩薩と並ぶ千葉氏の信仰である。
〇〇ー重胤ー重興ー重明とするらしいが、
なんとこの○○は北条早雲であり、つまり
そのひ孫だと言う。どちらかと言えば千葉氏な気がするが、刺激的なお話。
660: 2021/11/06(土)21:18 ID:lUYj+1G/(1) AAS
寛永系図か寛政譜の島崎氏も早雲落胤といってたな
661: 2021/11/06(土)21:44 ID:brpZJ4+s(1) AAS
自称落胤やら自称末裔やらがあっちにもこっちにもいたってことは、
伊勢宗瑞も将門公並みの「箔」になるのか。
662: 2021/11/07(日)12:57 ID:f2EZeI6a(1) AAS
まあ名門伊勢氏だもんな
663: 2021/11/12(金)14:28 ID:8g4M4Hao(1) AAS
河村氏
元々は河村城を収めていた通字が秀の氏族か。
河村城地域は戦国時代初頭は大森氏の支配になっている。小田原城になにか関連したか。
その後は遠山綱景の弟秀重が入り、おそらく新倉所領の川村氏も同一族。
新倉は元々武蔵千葉氏の所領の可能性があり、改編後に入植したか。
他にも麻布、府中を収めた狩野氏や同じく府中の井田氏が先の時代や別地域の者と姓が同じものが
多くいるが安易に結んではいけないと感じつつ、徳川氏の幕府設立時の再雇用と同様に
伊勢氏後北条氏によって再台頭した氏族や蕨城の渋川氏系図から義鏡の代ではなく、
その孫の代で枝分かれした三河板倉氏(つまり蕨から移動した氏族)のように人の移動の波が
解明されればまた戦国史が違ったイメージになるような気がする。織田信長徳川家康でさえも
省2
664: 2021/11/13(土)21:41 ID:wXHv2/1K(1) AAS
渋江氏や岩槻が武蔵千葉氏の所領の可能性の補完
岩槻には原氏が居た残り香が存在する、原氏館や妙見信仰があったとされる。
伝承では小西原氏系の原虎胤ではあるが、行方氏と同様に異なった原氏が
移動してしていた可能性を感じる。史料が比べれば残っている下総千葉氏にその影が
ないことから地理的にも単純に武蔵千葉氏と考える方が筋が通る気がするところである。
665: 2021/11/14(日)17:14 ID:6rJozIXT(1/2) AAS
山内・扇谷(旧太田道灌勢力を除く)の最前線、大石・三田・平山(山内)
難波田(扇谷)を想像したいのだが……通説では前の三氏は1546年河越城の戦い後に
後北条氏に従い、難波田氏は同戦いで没落している。また1537年の河越城奪取の際の
少し前に両家共々の最前線に深大寺城(調布)を扇谷上杉氏の命によって難波田氏が
増築している。堅固な守りだったか戦略的にか後北条氏は北上より東征の道を歩んだ。
ただし、難波田氏は扇谷上杉氏の防衛に勤しんだと考えられるが、前三氏が南下し
なかった理由はなぜであろうか……
666: 2021/11/14(日)17:32 ID:6rJozIXT(2/2) AAS
いや武田信虎と合わせて後北条を攻撃しているわけだから南下はあったということか……
667: 2021/11/14(日)18:01 ID:E0RMPSCW(1) AAS
そこが他地域とは全く違う、関東平野・武蔵野台地の怖い(?)ところ。
此処ぞ必争の巷也と見定めて守りを固めたり攻め寄せたりしても
「いつになっても敵が来ねえええええ」ということがよくある。
他地域の如く狭隘な地形に規定された不可避の会戦というのはよっぽど敵味方双方の気が合わなければ(笑)起き難い。
広闊茫洋の地形故に行動経路・順序の自由度が高いから相互が勝手に「独自の戦い」を遂行できてしまう。
敵の拠点を焼いてやったぜ、と凱旋したら己の拠点が焼かれてました、とか。
氏綱期の北條と上杉の闘争には特にこの愉快なパターンが目立つように思う。
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