【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (806レス)
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525: 2021/06/07(月)11:46 ID:bMroHvIG(1/3) AAS
海上氏は森山を領し東氏との繋がりが強い
海上備中守師胤 自胤の元に参上した(東常縁つながりか)
海上胤貞 師胤の弟兄の後を継ぐ、さらに下の兄弟に憲通律師、助秀、小見川粟飯原妻
助秀と子が米野井で打ち死にしてることから木内氏と争ったか、
憲通律師は東氏の系図を東胤重(出奔?)から預かった、胤重と一緒に亡くなった原朗寿がいる
朗〇系(弥冨原氏)は1517年弥冨で打ち死にした朗久や35年小弓で打ち死にの朗典を最後に
第一国府台合戦で活躍した胤行などの原胤清が戻ってきたあとの別の系統に移ったのではないか

海上持秀 父孝秀が家督を継ぐ前にその父助秀と弟共に打ち死にした(1523年より前)
近隣の東氏とはつながりがつよく胤重のあと14年後に憲通律師から東氏の系図を受け取り
1516に復興した東勝繁と特につながりがつよい
海上胤秀 持秀の子/海上胤保 千葉胤富の子、胤秀の養子

辺田海上氏(千葉庄あたり)
海上常元 東常和の子、母は千葉孝胤(関係性から見て千葉自胤の間違いだろう)
成東氏に娘を嫁がせる、森山東氏東教頼は兄弟、東常綱は甥の子
海上胤富(千葉当主胤富) 父は昌胤、母は上総の東野有力一族金田の娘、妻は常元の娘
下総の北東で力をつける森山東氏を封じるためその地域を領すが親胤の死で佐倉に移る
金田氏と庁南武田氏は公方千葉氏方で幾度も反勢力に攻められた
東棟胤 父は胤富、母は常元娘、東直胤養子(守胤の所にいた尚胤との関係はあるか)

押田系図
押田氏は海上氏、千葉守胤、東金氏に娘を嫁がせている、東金氏は東常縁の副将で一緒に
下向した浜春利の一族か(千葉県の春路の地名は春利からきているか)

下総村上氏 八代市米本城主、近くの臼井氏との繋がりは薄い。村上綱清が有名だが、それとは別に
持清(成氏方)ー成清(義明方)、清平(里見方)、義芳(里見方、1521年頃市原市の村上城在城)
八代市の村上氏と通ずる部分がある。また八代地域の板碑は武蔵型で、香取郡は下総方太田道灌による
米本城攻めが関係しているとのこと。臼井景胤が死去し、歳下舅の原胤貞が臼井城に入り、村上綱清が
自殺したとの見方もある。

吉橋城伝説
この地域は戦国後期では高城氏の領域だが、それ以前は吉橋丹後守や吉橋周防守など。
【伝説では北条氏が攻めて、城主(吉橋氏か)は千葉義胤(武蔵千葉氏か千田千葉氏)に
助けを求めたが間に合わず落城、幕張の千葉氏に守ってもらった。また高城氏は山内と
手を組み扇ヶ谷を攻めたが敗退した。里見氏が居城した時期もあった。】
第一国府台合戦直前と見られ、合戦後は高城氏安定して領す。
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