【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (806レス)
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: 2021/06/09(水)13:38
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529: [sage] 2021/06/09(水) 13:38:56.17 ID:Joyo2cWc まず吉良成高だが、蒔田にも所領を持つため早い段階で北条氏と手を結んだと思われる。 そうすると武蔵千葉氏も早い段階で意識はしていただろう。(世田谷世田谷泉沢寺の円城寺、上丸子の所領 から見て北条時代も武蔵千葉氏と武蔵吉良氏のつながりはあると見える)白子の戦いで、北条が敗北し 蕨城が扇ヶ谷に戻るとき、赤塚城に言及されないのは復帰は蕨城のみで武蔵千葉氏はそのまま北条氏方に いるのではないか(余談だが上杉謙信の小田原攻めの際には赤塚城で強奪、放火をしている) 個人的には確かに快元僧都記に1538年2月に葛西城落城とあるんだけれども、 元々1525年の江戸城攻略以前で武蔵千葉氏の葛西城が北条に渡ったんじゃないかと 考えてる、なぜまず武蔵千葉氏か、まずは円城寺事件、次に大石石見守綱周(定久弟か子)が 多摩にいること、そして大石が孤立してこの地いるリスクから考えて円城寺事件で 武蔵千葉氏に移ったとしても不思議ではない。25年周りの岩槻城攻防だが、上記で 武蔵千葉氏の渋江氏と書いたのだけれども、渋江氏にはいくつかの一族がいる。 鎌倉時代から公方に属すもの、古河時代に小山氏の渋江から生まれた一族、そして岩槻太田 家臣だが、太田家臣は近くの渋江からなる、この一族本名が須賀であること (千葉氏には大須賀氏がいる)義氏家臣の渋江景胤、好胤の胤の通字(別の系統の可能性もあるが) 寛政重修諸家譜にて千葉氏庶流とあること。岩槻太田氏がいつごろから岩槻を領したか、 また岩槻城は公方の時代もあるため難しいが、武蔵千葉氏が大宮区の内野郷を 所領していることから、可能性はあると思う。また38年に北条氏が下総側にスムーズに 川を渡っていることは、そこが武蔵千葉氏の影響圏だったからではないかと思う。 遠山氏が葛西城主になるのは1558年頃である。義氏の葛西城での元服は1554年。 北条による資高、渋江の攻略は武蔵千葉氏の功績があるのではないか。 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/529
まず吉良成高だが蒔田にも所領を持つため早い段階で北条氏と手を結んだと思われる そうすると武蔵千葉氏も早い段階で意識はしていただろう世田谷世田谷泉沢寺の円城寺上丸子の所領 から見て北条時代も武蔵千葉氏と武蔵吉良氏のつながりはあると見える白子の戦いで北条が敗北し 蕨城が扇ヶ谷に戻るとき赤塚城に言及されないのは復帰は蕨城のみで武蔵千葉氏はそのまま北条氏方に いるのではないか余談だが上杉謙信の小田原攻めの際には赤塚城で強奪放火をしている 個人的には確かに快元僧都記に年月に葛西城落城とあるんだけれども 元年の江戸城攻略以前で武蔵千葉氏の葛西城が北条に渡ったんじゃないかと 考えてるなぜまず武蔵千葉氏かまずは円城寺事件次に大石石見守綱周定久弟か子が 多摩にいることそして大石が孤立してこの地いるリスクから考えて円城寺事件で 武蔵千葉氏に移ったとしても不思議ではない年周りの岩槻城攻防だが上記で 武蔵千葉氏の渋江氏と書いたのだけれども渋江氏にはいくつかの一族がいる 鎌倉時代から公方に属すもの古河時代に小山氏の渋江から生まれた一族そして岩槻太田 家臣だが太田家臣は近くの渋江からなるこの一族本名が須賀であること 千葉氏には大須賀氏がいる義氏家臣の渋江景胤好胤の胤の通字別の系統の可能性もあるが 寛政重修諸家譜にて千葉氏庶流とあること岩槻太田氏がいつごろから岩槻を領したか また岩槻城は公方の時代もあるため難しいが武蔵千葉氏が大宮区の内野郷を 所領していることから可能性はあると思うまた年に北条氏が下総側にスムーズに 川を渡っていることはそこが武蔵千葉氏の影響圏だったからではないかと思う 遠山氏が葛西城主になるのは年頃である義氏の葛西城での元服は年 北条による資高渋江の攻略は武蔵千葉氏の功績があるのではないか
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