【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (800レス)
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616: 2021/10/15(金)08:50 ID:mTmf7tGh(1) AAS
原氏への雑な考察
まず原氏は宗家から系図では争いに近い時代に分かれた千葉分家筋と
宗家にかなり近い家臣円城氏が八幡荘、千田荘の所領をめぐって争いが生じる。
研究では原氏は古河公方との独自のパイプがあったらしい。なんだけれども自分は
この原氏を一括りにしてしまうのには疑念を持っている。
中心に置かれる原胤房と他の原氏はまた違う見方をしたい。まずどの原氏が原氏主家
だったかはいったん保留にし、弥冨、小西、胤房筋の三流があるとし、胤房筋に近い所に
4つ目の光胤筋が見える。小西は胤隆に与し古河公方に敗した後武田で小西系原虎胤が見えるので
小西筋は胤房筋と歩んでいたとみる。が、弥冨、光胤筋はどうであろうか。
大野城との関連される光胤が死去したのが1466年吉川市にて、一度時を戻して
その息子とされる大蔵と右馬助、この大蔵の方は1459年に八幡(市川)で戦死した。
が、59年は56年の東常縁の奮闘がすでに決着がついた後のことである。武蔵千葉氏も
この時期窮困状態である。ただし道灌は57年に江戸に移ってきて常縁は古河公方に味方するものが多いと
嘆き、ちょうど五十子の戦いの初めの時期であり、堀越公方が下向し成氏が古河に映った時期なので大蔵を
古河公方方と見るのが有力ではあるが……この八幡(市川)の弘法寺に岩橋輔胤が安堵状を出している。
これは新しい勢力として岩橋が担がれたのではなく、自ら参入したのではないか。西では上記したように
堀越公方の事で混乱を生んでいる。つまり、岩橋と原光胤や大蔵の間で争いが起き、
大蔵が戦死したのではないだろうか。では光胤の66年はどうであろうか。66年は山内房顕が死去した。
63年に景仲も亡くなり、この頃から武蔵千葉氏と扇谷方道灌の結びつきは確固たるものになっていく。
光胤の吉川での討死にをどう捉えるか。なんとも言えない場所である……
幕府が65年に古河討伐を今川武田に命じている、川と川との間に合った市川を見ると
市川から古河方に幕府方として北上したのではないだろうか。または吉川市には深井氏の伝承があり
景春の子景忠、その子景孝だとされるのでその救援にでたか、古河公方方なら西に進んだのではないだろうか。
この一族は法名に蓮の付く者とそうでない者と系図で混乱が見える。この蓮の付くの者は後述で重要になる。
最後に最も重要な弥冨である。法名に朗の字がつく一族。某弥冨(胤良?道義?)を祖とし
この時妻が狩野氏(上杉方)であること。ただしおそらく戦さ初期は胤房与しただろう。
1455年の戦いで亡くなった二人の子朗珍朗嶺だが「東方」で亡くなっている。
これは通常場所を指してるとのことだがどちら側で見ることもできるのではないだろうか、
つまり「トウ方」にて。ただし状況は父信濃守(胤良?)と円城寺は戦ってることは目さなければならないが。
そしてもう一人の息子朗意に注目したい。この人物は66年に幕府により松戸城の守りを命じられている。
これが自分の説ではとても重要と考えている。つまり先の記述の光胤も明確に幕府方と見れるのではないだろうか。
そしてその説を補完するように尾張国行方氏系図にてこの朗意の後に妹尾下総守蓮意とある。
この妹尾氏はその後北条氏家臣で見え、一族から行方直清そしてその弟日芸を輩出する。
また妹尾氏の法名の蓮の字から光胤との関連もあると考える。話が少し飛んで真里谷氏の女についてだが、気になる女性を2人。
1人が信嗣の娘とされる三浦義意の妻(扇谷と真里谷を結ぶ線)、と信応の娘とされる六郷殿の妻。
六郷殿は大田区の六郷殿だとすると、上杉氏か行方氏と言われる。もし行方氏であるならばまたどうして繋がりがあるのか考察
してみたいと感じる。
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