【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (806レス)
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: 2021/11/19(金)09:27
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669: [sage] 2021/11/19(金) 09:27:57.89 ID:rvoOE5rL 中条氏 仮定としていくつかのルートの中条氏を示したい。まず熊谷市の中条氏は藤原氏・横山党 ではないという話を採用したい、熊谷中条氏は上野、越後と移動しているようだ、 なので熊谷ルートはここでは除く。そのほかに3ルートを書きたい。 はじめに吉良氏家臣系中条氏、1300年代には吉良氏は世田谷を所領の一つとして持ってたと され、さらに地侍中条出羽守が世田谷と大牧(浦和市)を預かってたようだ。 後述の中条氏も出羽守であると考えられるが、調布の一族はこの一族ではなかろうか。 と、すれば吉良氏の動向と合わせ想像したいところだ。 次に三河国高橋荘などの中条家長の末裔の一族で結城合戦で下向した中条満秀の子 (当主は弟の満平が継ぐ)で持の付く中条氏でおそらく持胤に続く、もしも胤が 武蔵千葉氏と関係するならば下向した時に同一族(上記)から大牧(浦和市)を貰い、 武蔵千葉氏と深い関係になったか。渋川氏の蕨のようなことだったのではないだろうか。 藤原氏系統を名乗る中条氏が胤を用いることに注目したい。 そして最後に信長に滅ぼされた上記の満平の子孫の一族である。のちに景の文字を 持つ一族で氏康に景信が仕えたとある。氏康にというところに重きを置いて年代から 挙母城を追われた後関東へ流れてきたか。 また伊豆国韮山から南条、北条、上条、中条氏が生まれたとされ、その意味を深く 考えたいところである。 多摩井田氏 風土記稿井田村では源義家の頃、井田摂津守が居たという。家伝では三河国発祥で 畠山氏の一族で古くに三河に移り伊勢新九郎に従い関東に赴いたとある。高橋氏が 名乗った井田氏も存在する。家紋の一つに九曜紋があり、下総井田氏との関連も 捨てきれない。また相模平塚の布施氏館の布施氏だが1300年代では 鎌倉幕府問注所執事三善氏の一族の布施氏がいるが、1502年頃所領の山城国から移り 後北条氏家臣になったとある。ただ布施蔵人佐は小机麻生に所領があり、 武蔵吉良氏関連や下総相馬氏の徳誕蔵主の子胤保が布施を名乗っており、上記と 同じ頃と見れるのでそちらとの関連性、こちらも捨てきれない。 また太田資正家臣妹尾氏(原氏)、同じく家臣足立郡の宇田川氏、吉良氏家臣の 宇田川杢頭、白井但馬守、行方氏(原氏)相原氏(粟飯原氏?)武蔵千葉氏家臣末裔 宇田川茂右衛門など後北条氏とはまた別軸で入り混じっている様子が見える。 その随一として円城寺頼長である。1550年に世田谷から川崎に泉澤寺を移し再興した際に 開発の一人に上がる名前であるが、他の者はまだ難しい所であるが円城寺氏は他で見えず 武蔵千葉氏と渡った一族であることは可能性が高いだろう。また地名としても吉良氏の 所領の船橋谷、板橋、梶山(現八幡山)も興味深い。板橋氏ははじめ後北条氏と戦い 死者を出すが、後年では氏康家臣、玉縄衆の板橋民部丞が晴氏(家臣野田氏)との取次役 になっている。元々板橋氏には古河公方とのパイプがあったのであろうか。 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/669
中条氏 仮定としていくつかのルートの中条氏を示したいまず熊谷市の中条氏は藤原氏横山党 ではないという話を採用したい熊谷中条氏は上野越後と移動しているようだ なので熊谷ルートはここでは除くそのほかにルートを書きたい はじめに吉良氏家臣系中条氏年代には吉良氏は世田谷を所領の一つとして持ってたと されさらに地侍中条出羽守が世田谷と大牧浦和市を預かってたようだ 後述の中条氏も出羽守であると考えられるが調布の一族はこの一族ではなかろうか とすれば吉良氏の動向と合わせ想像したいところだ 次に三河国高橋荘などの中条家長の末の一族で結城合戦で下向した中条満秀の子 当主は弟の満平が継ぐで持の付く中条氏でおそらく持胤に続くもしも胤が 武蔵千葉氏と関係するならば下向した時に同一族上記から大牧浦和市を貰い 武蔵千葉氏と深い関係になったか渋川氏の蕨のようなことだったのではないだろうか 藤原氏系統を名乗る中条氏が胤を用いることに注目したい そして最後に信長に滅ぼされた上記の満平の子孫の一族であるのちに景の文字を 持つ一族で氏康に景信が仕えたとある氏康にというところに重きを置いて年代から 挙母城を追われた後関東へ流れてきたか また伊豆国韮山から南条北条上条中条氏が生まれたとされその意味を深く 考えたいところである 多摩井田氏 風土記稿井田村では源義家の頃井田摂津守が居たという家伝では三河国発祥で 畠山氏の一族で古くに三河に移り伊勢新九郎に従い関東に赴いたとある高橋氏が 名乗った井田氏も存在する家紋の一つに九曜紋があり下総井田氏との関連も 捨てきれないまた相模平塚の布施氏館の布施氏だが年代では 鎌倉幕府問注所執事三善氏の一族の布施氏がいるが年頃所領の山城国から移り 後北条氏家臣になったとあるただ布施蔵人佐は小机麻生に所領があり 武蔵吉良氏関連や下総相馬氏の徳誕蔵主の子胤保が布施を名乗っており上記と 同じ頃と見れるのでそちらとの関連性こちらも捨てきれない また太田資正家臣妹尾氏原氏同じく家臣足立郡の宇田川氏吉良氏家臣の 宇田川杢頭白井但馬守行方氏原氏相原氏粟飯原氏?武蔵千葉氏家臣末 宇田川茂右衛門など後北条氏とはまた別軸で入り混じっている様子が見える その随一として円城寺頼長である年に世田谷から川崎に泉寺を移し再興した際に 開発の一人に上がる名前であるが他の者はまだ難しい所であるが円城寺氏は他で見えず 武蔵千葉氏と渡った一族であることは可能性が高いだろうまた地名としても吉良氏の 所領の船橋谷板橋梶山現八幡山も興味深い板橋氏ははじめ後北条氏と戦い 死者を出すが後年では氏康家臣玉縄衆の板橋民部丞が晴氏家臣野田氏との取次役 になっている元板橋氏には古河公方とのパイプがあったのであろうか
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