【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (806レス)
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: 2021/12/17(金)15:50
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682: [sage] 2021/12/17(金) 15:50:24.47 ID:k+urchb2 渋江氏と大須賀氏 渋江氏について同じことを何度も書いてしまっているが、今回は大須賀氏を絡めて重きを 置いて書きたい。まず渋江氏は本名が須賀氏と伝わる。大須賀氏と須賀氏は関連は どうなのかという所だが、葛飾区の小菅(こすげ)に注目したい。元々小菅は千葉村 (前世代の千葉氏由縁か武蔵千葉氏か別か)に所属し由来を万葉集にでる名の可能性も あるが、そちらは埼玉県の小菅の可能性が高いとされる。ではこちらのほかの説はどうか 一つとして下総大須賀氏の移住が言われる。ただし、千葉村からの連想の可能性も 否めない。もしそうだとすると埼玉小菅が須賀氏を生んだ説が有力視されるなら また同時に葛飾区小菅と須賀氏、そして小菅と大須賀氏に関連がある可能性も否定できない。 では大須賀氏の動向を見てみたい。享徳の乱において見えるのは東常縁に従った事、 馬加氏攻めに加わってる事。そして後年は下総千葉氏に与している事である。 その時代の人物は大須賀憲康とされる。系図において2世代前に憲の字が使われる者が いるが、合わせて上杉氏に近かった人物なのかもしれない、また子は常康だが常は 常縁の常か。そしてこれから後年まで系図以外の史料から伺えなくなる。他の大須賀氏 の存在も意識したい。榊原康政の舅である大須賀康高の一族である。生まれは 1527年とされ、その父も三河のものであるが、その祖は下総大須賀氏とあり、かなり 以前の時代に移住とあるが、そこは不明とされている。15世紀中期、後半に移った 可能性も存在している。つまり、東方に属したあと、なんらかの要因でいくつかの 流れに分かれたとも見れるだろう。ここではまず東方のあと武蔵千葉氏に属したもの、 下総千葉氏に属したもの、三河に移住したものとしたいところだ。では武蔵千葉氏に 属したというところの根拠になり得る所だが、1点目が近隣に属する小菅の場所。 2点目が常康(法名大應徹公/宗朝)における伝承、武蔵下総国境において後北条氏を 迎え撃ち松田氏を討取ったとのことだが、時代や背景に矛盾も抱えている。このことを 考えるとき、まずは下総大須賀氏の所領は成田市近辺や香取海近辺と思われる、 下総大須賀氏は下総東氏に近い独立した松子大須賀氏と千葉氏主家の元に属す 助崎大須賀氏に分かれている。その中助崎大須賀氏が主家千葉氏の命令で国境まで 出向いた事も考えられるが、常康は系図で松子大須賀氏となる。ならばこの伝承は 武蔵千葉氏に従ったまた別の大須賀氏のものではないだろうか(仮定の中でこの時期 下総東氏などは武蔵千葉氏と繋がっているとみるのでこれは補完材料となる) 松子大須賀氏と同族の大須賀氏が武蔵千葉氏に従い小菅に居た可能性を示していると 存ずる。と、もしももしもになってしまうが、それが成り立つならば渋江氏の須賀氏は 大須賀氏が元と見ることができると感じる。また渋江氏の胤の字は大須賀氏も 使用しておらず、この事がより従った際に胤の字を用いたと想像できるのでは ないだろうか。後年渋江氏は後北条氏から川口市の浦寺郷を授かる(小菅も川口も 武蔵千葉氏所領近辺) まだ薄い話だが今後大須賀康高が調べられることで発覚することがあるかもしれない。 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/682
渋江氏と大須賀氏 渋江氏について同じことを何度も書いてしまっているが今回は大須賀氏を絡めて重きを 置いて書きたいまず渋江氏は本名が須賀氏と伝わる大須賀氏と須賀氏は関連は どうなのかという所だが葛飾区の小菅こすげに注目したい元小菅は千葉村 前世代の千葉氏由縁か武蔵千葉氏か別かに所属し由来を万葉集にでる名の可能性も あるがそちらは埼玉県の小菅の可能性が高いとされるではこちらのほかの説はどうか 一つとして下総大須賀氏の移住が言われるただし千葉村からの連想の可能性も 否めないもしそうだとすると埼玉小菅が須賀氏を生んだ説が有力視されるなら また同時に葛飾区小菅と須賀氏そして小菅と大須賀氏に関連がある可能性も否定できない では大須賀氏の動向を見てみたい享徳の乱において見えるのは東常縁に従った事 馬加氏攻めに加わってる事そして後年は下総千葉氏に与している事である その時代の人物は大須賀憲康とされる系図において世代前に憲の字が使われる者が いるが合わせて上杉氏に近かった人物なのかもしれないまた子は常康だが常は 常縁の常かそしてこれから後年まで系図以外の史料から伺えなくなる他の大須賀氏 の存在も意識したい榊原康政のである大須賀康高の一族である生まれは 年とされその父も三河のものであるがその祖は下総大須賀氏とありかなり 以前の時代に移住とあるがそこは不明とされている世紀中期後半に移った 可能性も存在しているつまり東方に属したあとなんらかの要因でいくつかの 流れに分かれたとも見れるだろうここではまず東方のあと武蔵千葉氏に属したもの 下総千葉氏に属したもの三河に移住したものとしたいところだでは武蔵千葉氏に 属したというところの根拠になり得る所だが点目が近隣に属する小菅の場所 点目が常康法名大徹公宗朝における伝承武蔵下総国境において後北条氏を 迎え撃ち松田氏を討取ったとのことだが時代や背景に矛盾も抱えているこのことを 考えるときまずは下総大須賀氏の所領は成田市近辺や香取海近辺と思われる 下総大須賀氏は下総東氏に近い独立した松子大須賀氏と千葉氏主家の元に属す 助崎大須賀氏に分かれているその中助崎大須賀氏が主家千葉氏の命令で国境まで 出向いた事も考えられるが常康は系図で松子大須賀氏となるならばこの伝承は 武蔵千葉氏に従ったまた別の大須賀氏のものではないだろうか仮定の中でこの時期 下総東氏などは武蔵千葉氏と繋がっているとみるのでこれは補完材料となる 松子大須賀氏と同族の大須賀氏が武蔵千葉氏に従い小菅に居た可能性を示していると 存ずるともしももしもになってしまうがそれが成り立つならば渋江氏の須賀氏は 大須賀氏が元と見ることができると感じるまた渋江氏の胤の字は大須賀氏も 使用しておらずこの事がより従った際に胤の字を用いたと想像できるのでは ないだろうか後年渋江氏は後北条氏から川口市の浦寺郷を授かる小菅も川口も 武蔵千葉氏所領近辺 まだ薄い話だが今後大須賀康高が調べられることで発覚することがあるかもしれない
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