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91: 闇夜の鮟鱇★ 2011/09/30(金)10:37 ID:???0 AAS
  ●●●東歌の起源について●●●(1/3)

さて、久々に古典講読の万葉集についてですが、今回は先ず、
東歌の由来について、私が感じたことを書いてみようと思います。
この東歌に関しては、当時の民謡であるとか、労働歌であるとか、
様々な人が様々な意見を言っているようですけどね。
でも先ず、ハッキリしていることは、それを民謡だとか、
労働歌だとか考える説は、全く駄目だろうということです。

なぜなら、もしそれが本当の民謡や労働歌であるなら、
57577という短歌形式におさまるはずがないからです。
近代の民謡や労働歌にしたって、57577にはなっていないでしょ!?
で、私が最近、考え始めているのはこういうことです。
結局、今までの私は『和歌が時間と共に東国へと伝播して行って、
その結果、東国の各地では自然発生的に和歌が作られていたが、
それを、誰かが収集・採録したものが東歌である』
という風に考えていた分けですけどね。

でも、今回の講読の内容を色々聞くにつけ、どうも、
そうではないんじゃないかと気がついた分けです。
むしろ、これは割と短い期間に、狭い地域内において、
一気に作られた作品群と考えるのが良いように思います。
使われている方言にバラエティが少ないという事実にしても、
そうしないと、うまく説明できないですしね。

他方、この東歌というものは私が少し調べた限りでは、
短歌ばかりで、長歌は見当たりませんね。
(旋頭歌については、あったのかもしれませんが、
一々語数を数えなかったのでハッキリしません。(^^;))
もし、東歌が東国で自然発生的に作られていたものなら、
その中に長歌がないというのは、何とも不自然ですよね。

で、そうした疑問を解決する為に、次のように考える分けです。
例えば、梁塵秘抄を編纂した後白河院の例もあるように、
いつの時代にも、文芸好きの天皇がいた可能性がありますよね。
その時、東国にくだる役人が万葉集編纂の話を聞きつけて、
『東国の人々も和歌を作って天皇に献上するように』
と命令したとか、或いは推奨したのではないでしょうか。

その場合、当時の東人は、まだまだ生活の為の労働に手一杯で、
和歌なんてものにはまるで縁がなかったのでしょう。
ですから、役人は『短歌というものはこうやって作るんだよ』
と言って、自分で幾つかを作って見せたのではないでしょうか。
冒頭の五首は『方言も少なくて都の人が作ったとも見られる』と言いますが、
その五首がまさに、役人が例示した作品ではないかという気がします。

例えば、その三首目にある『自分は絹の下着も持っているけれど』
なんていう所は、実際に絹の下着を着た経験のある、
都の貴人でないと、なかなか出て来ない発想ですよね。
  外部リンク[htm]:www.h3.dion.ne.jp
  筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも

そういう分けで、この東歌というものは、
案外短い期間にまとめて作られたものであり、それを実際に作った人々も、
役人の出先期間の周辺に住む人々に限定される、と考えるわけです。
これなら、その方言にバラエティが少ないことも説明できますし、
東歌に長歌がひとつもないことも、納得が行きますよね。

で、仮にそう考える場合、東人たちが短歌を作らされるにあたって、
自分たちの持つ知識を総動員したであろうことは、想像に難くないですよね。
つまり、短歌の材料として、当時はやっていた民謡や労働歌、更には、
誰もが知っている伝説などを利用したのはしごく当然でしょうね。
ですから、形式は57577であっても、内容的には民謡みたいだったり、
労働歌みたいだったりするものが沢山あるんでしょう。
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