鬼和尚に聞いてみるスレ part4 (1007レス)
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253(1): 2014/09/07(日)12:25 ID:LC3de7YgO携(28/109) AAS
>>250
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
中村さんの岩波文庫や、鬼和尚のブログを再々読し、関心あるテーマごとにインターネットで検索してその他のサイトなど読んでみます。
やっぱり、行の進捗を早めるには気合いを入れて集中力を高めるしかないですかね!?
254(1): 2014/09/07(日)14:11 ID:0Sk4wvvs0(2/2) AAS
>>251
苦滅が身につくことにより、これまで人生の真理として思い込んでいたこと、例えば人生には苦も楽もあるとか、限られた生を楽しむとかが、単なる観念であり、それは真理でもないし従わなければならないものでもないということが判ってきました。
ただ、あまりにも世の常識と違うために、果たして本当に自分が正しい気づきを得ているのかが疑わしく思えることもあります。
このこと自体が世の常識に囚われているということですね。
とにかく、自我を滅し、記憶に依存した認識を滅し、智慧を得て、本当のところはどうなのかを確認したいと思います。
お答えくださり、ありがとうございました。
255(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2014/09/07(日)22:08 ID:JfE67j4w0(3/3) AAS
>>252 上も居ると言えば居るのじゃ。
それが悟りに近いわけでもないのじゃ。
苦が無ければ悟りに志す事も無いからのう。
変化があるだけなのじゃ。
肉体的には退化したとも言えるのじゃ。
>>253 そうじゃ、日々の修行によって集中力を高めるのじゃ。
その先に全てがあるのじゃ。
出来なかった事も出来るようになるのじゃ。
省3
256(1): 2014/09/07(日)23:31 ID:VqFCgU3w0(2/2) AAS
>>255
お答えいただきありがとうございます。
>>居るといえば居る
私には理解不足でよく呑み込めませんでした。
認識が現実を作る ということなのですかね。
でもいかに技術や精神や医学が発達しても肉体はやはり寿命の長短はあれ
無くなっていくものですよね。
居る、という認識においては肉体がある知的生命はやはりどの星にいても
苦からは逃れられないと私は思いました。
どこに生まれようと悟らない限りは繰り返す、と。
省4
257: 2014/09/07(日)23:38 ID:WL2yRwjAO携(12/19) AAS
ドラゴンボールのフリーザとお釈迦様はどっちが凄いかと言う問いでもあるよな
フリーザが惑星ごとお釈迦様を吹っ飛ばそうとしたとする。
お釈迦様はどうなされるだろう。
人は皆滅ぶのじゃお主も例外ではないとかフリーザに諭すかもしれない
フリーザは死を恐れているし、自分より強い宇宙人が現れることを常に警戒している。
お釈迦様は腕力はチャオズ以下だが、フリーザの心理的弱点は克服している。
258(1): 2014/09/08(月)00:45 ID:LC3de7YgO携(29/109) AAS
>>255
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
より一層集中力をめちゃめちゃ高めるべく頑張ります。
他の質問者に対するお答え、
>常識とは死に対抗するなんの手段も無い知識だけなのじゃ。
棄てて良いものじゃ。
更に進むのじゃ。
を読んでて思いました。
鬼和尚は常日頃、悟りは言葉で説明できることではなく、自らの瞑想実践で実感するしかないと仰り、又、全ては幻想であり、森羅万象は心の作り出したものであるという趣旨のことを仰ってます。
と言うことは、全ては幻想という世界観は必ずしも悟りの様子や真理を語ったものではなく、又、全ては幻想という世界観のもとでは、その世界観自体が幻想でありますから、この世界観を敢えて仰ると言うことは、この非常識な世界観が真実のものであるかどうかを、常識に囚われず自らの集中力で心を観察し、確かめてみろと、行の指針と言うか、記憶や観念に囚われずに研ぎ澄ました観察力で自らの実感するしかないのだと言うことを仰ってるのかな…と思いました。
省2
259(1): 2014/09/08(月)12:55 ID:E6b4s/gc0(1) AAS
>>255
勇気を出して、悟りを得る障害になる全てを棄てていきます。
棄てるのにはたいてい恐怖や不安が伴いますが、棄てた後には、自由と安心が増えるのが感じられます。
モラルや好ましいとされる観念を棄てても、意志により、社会の枠組みの中で正しいとされる行動を選択できることも判りました。
あとは、本当に自分という認識は言葉とイメージに過ぎないのか、また、本当に死を超えられるのか、確かめたいです。更に進みます。
背中を押してくださり、ありがとうございました。
260(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2014/09/08(月)21:43 ID:6fpGPo6k0(1) AAS
>>256 そうじゃ、天の者さえ老病死は免れないのじゃ。
またおいでなさい。
>>258 そのような理解でも良いのじゃ。
全ての教えは道標なのじゃ。
悟りに行く者だけに役立つものじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>259 そうじゃ、実践あるのみじゃ。
またおいでなさい。
261(1): 2014/09/08(月)23:18 ID:LC3de7YgO携(30/109) AAS
>>260
鬼和尚、ありがとうございます!
ヽ(・(∀)・)ノ うぅぅ! ファイトがわくであります! 気をにらみつけてやるであります!!
262(1): 2014/09/09(火)18:53 ID:jfWCoXjM0(3/39) AAS
自我の意識が強くなかなか変性意識に入ることができません。
数息観のほかに何か良い方法があれば教えてくださいm(_ _)m
263(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2014/09/09(火)22:04 ID:JDJBht.w0(1) AAS
>>261 そうじゃ、実践あるのみじゃ。
またおいでなさい。
>>262 心臓の動きを感じるのじゃ。
音を聞こうとしても良いのじゃ。
鼓動と一つになるのじゃ。
全身が心臓に成ったような感じになるまでやってみるのじゃ。
264(1): 2014/09/09(火)23:02 ID:LC3de7YgO携(31/109) AAS
>>263
ヽ(・(∀)・)ノ鬼和尚、ありがとうございます。
思ったのですが、集中力をバカみたいに高めようとすると、自我が強まるんじゃなくて、引っ込んじゃうのでしょうか?
そのためにはバカにならなきゃダメですね! 私は中途半端なバカなので、本物を目指します!
ヽ(;(∀);)ノありがとうございます。
265(1): 2014/09/10(水)10:06 ID:rjrCqQY20(9/21) AAS
鬼和尚さん
私は個体への執着を断ち切りたいのです。
しかし何故私たちは、安楽な境地を離れてこのような無明を体験するに至ったのでしょうか。
元々がそれであるのに、わざわざ人間界(分離の世界)に留まって仏(目覚めた者)を目指す。
それ以前とそれ以後には何の意味も違いもないのでしょうか。
本来はそれ以前も以後も過去も未来も妄想ではあるのでしょうが…。
266(1): 2014/09/10(水)16:27 ID:rjrCqQY20(10/21) AAS
そしてもう一つ、マハラジは「私たちは生きている。何故なら感覚的存在を切望しているからだ」と言っていました。
つまりそれは、個体を持つものの特性のことなのでしょうか、欲望とも言い換えることが出来るのでしょうか。
267(1): 2014/09/10(水)20:54 ID:jfWCoXjM0(4/39) AAS
>>263
ありがとうございます。
今日心臓の動きを感じる瞑想をしてみました。
そこで気づいたのですが
呼吸を見ながら同時に心臓を感じると、雑念がさっぱり沸かなくなります。
このやり方は邪道でしょうか?
呼吸なら呼吸に、心臓なら心臓に集中できたほうが良いですか?
268(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2014/09/10(水)22:42 ID:Fep2We9g0(1) AAS
>>264 そうじゃ、基本が大事じゃ。
またおいでなさい。
>>265 今この時にもおぬしの心の奥には永遠の意識があるのじゃ。
無明すらもあると思っているだけなのじゃ。
個体があるという観念そのものをよく観察してみるのじゃ。
そうすればその観念もまた錯覚であり、あるはずのないものわかるじゃろう。
無いものがあると思い、無いものに執着していたと気付けば個体という観念も離れるのじゃ。
>>266 そのようなものじや。
感覚に執着してよくもあるのじゃ。
>>267 おぬしのやり良いようにやって良いのじゃ。
省3
269(1): 2014/09/11(木)03:16 ID:rjrCqQY20(11/21) AAS
>>268
鬼和尚さん
いつもしつこく同じような質問を繰り返している己が愚かに思えました。
心の奥にある永遠の意識…、それは私の喉元で見張っている何かよりは遥かに自由な意識に違いないと思います。
実践して明らかにするしかないはずの意識でした。
ありがとうございました。
270(1): 2014/09/11(木)12:35 ID:1/XG4j0Q0(2/3) AAS
鬼和尚、
以前、
> 何かをしようとすると自分がしようとしていると認識が起こるのを意識しながら生活するのじゃ。
とお教え下さったのですが、この認識が起こるタイミングを教えてください。
現状の観察では、思考や感情など、心の機能を認識した瞬間には自我は投射されていないようなのですが、気づくと既に自分がしているという認識がされているという状況です。
どうやら、心の機能の認識のすぐ後に自分がしようとしているという認識が起こるようなのですが、他のタイミングということもありますか? どのタイミングに特に気をつけて観察したら良いかが知りたいです。
あと、投射されている自我が正しく観られているかどうかが判らなくなる時があります。苦滅の場合は身体に反応があったり、苦が滅したりするので分かり易いのですが、自我がおぼろげにしか観えていない段階で、自分自身という認識が観念の遊戯ではなく、実際に観られているかどうかを確認する方法がありましたら、お教え下さい。
271(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2014/09/11(木)21:52 ID:iYaVxBMw0(1) AAS
>>269 どういたしまして、またおいでなさい。
>>270 認識が起こる瞬間は何かを知覚してから0.5秒であるというのじゃ。
実際、相当に素早いものじゃ。
かなりの集中力がないと捉えられないのじゃ。
気がつくといつの間にか自我がある居るというのはその瞬間を捉えられなかったからなのじゃ。
集中によって忘我の状態から、何かの刺激で瞬時に起こる自分を観る例が多いのじゃ。
一休が座禅中に烏の声を聞いて悟ったとか、道元がセミの声で悟ったというのがそれなのじゃ。
本当にその瞬間が観られたならば観照が起こり、無我になるじゃろう。
それは見紛う事はない体験なのじゃ。
安らぎと喜びが起こり、全てと繋がる意識が体感出来るじゃろう。
省2
272(1): 2014/09/12(金)16:06 ID:Ixi5VWxw0(4/9) AAS
>>271
どうやら自我が起こった瞬間ではなく、その記憶を観ているようです。
自我が起こる瞬間を本当に観られたら、観照が起こるということで判るのですね。
その瞬間が訪れるように、つとめ励み続けます。
ありがとうございました。
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