[過去ログ] 【元大関】二子山部屋総合スレ20【雅山】 (1002レス)
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383: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)19:49 ID:iEBaIq4y0(1/27) AAS
>>379
勝手な妄想だけど
那須与一とダイレクトに結びついた方がわかりやすくない?
那須と言うと高原をイメージしちゃうので
与一を使いたい
与一雅
与一弓
与一桜
与一山
与一
省2
385: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)20:12 ID:iEBaIq4y0(2/27) AAS
>>384
こっちが本家なんだが
どうでもいいけど
388: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)21:28 ID:iEBaIq4y0(3/27) AAS
生田目は雅山を襲名したいと言ってたな
せめて三役にならんと許可されんやろな
390: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:33 ID:iEBaIq4y0(4/27) AAS
舞蹴が激痩せしたらしい
392: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:38 ID:iEBaIq4y0(5/27) AAS
二子山部屋を継承するのは誰になるんだろ
394: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:39 ID:iEBaIq4y0(6/27) AAS
いやこっちが本スレなんだよね
396: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:44 ID:iEBaIq4y0(7/27) AAS
那須 与一(なす の よいち)は、源頼朝に仕えていた平安時代末期の武将・御家人。系図上は那須氏二代当主と伝えられる。一般的に宗隆[3]と紹介されることも多いが、家督を相続した後は資隆と名乗ったと伝えられる
400: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:48 ID:iEBaIq4y0(8/27) AAS
>>398
そうそう
三田くんの地元の英雄で
三田くんは四股名に那須与一を絡めたいそうなんだよ
401: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:48 ID:iEBaIq4y0(9/27) AAS
名の由来
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与一は十あまる一(余一)、つまり十一男を示す通称である。なお、与一を称した同時代人としては佐奈田義忠・浅利義遠がいる。彼らと那須与一を合わせて「源氏の三与一」と呼ばれている。
403: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:50 ID:iEBaIq4y0(10/27) AAS
略歴
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『吾妻鏡』など、同時代の史料には那須与一の名は見えないため、与一の事跡は軍記物である『平家物語』や『源平盛衰記』に伝えるところが大きい[4]。『平家物語』の記述から逆算すると、嘉応元年(1169年)・永万2年/仁安元年(1166年)・仁安3年1168年)頃、那須資隆の子として誕生した。誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されることが多い。
406: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:51 ID:iEBaIq4y0(11/27) AAS
治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍した。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ[5]、頼朝より5カ国に荘園を賜った[6]。また、為隆を除く9人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆も後に罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐこととなった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。
407: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:51 ID:iEBaIq4y0(12/27) AAS
死亡時期は諸説[7]あるが山城国伏見において死去。家督は兄・五郎資之(之隆)が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の子[8]・頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が、建久4年(1193年)に源頼朝の那須巻狩の際に饗応役を務めた(『吾妻鏡』による)光資である。
409: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:52 ID:iEBaIq4y0(13/27) AAS
異説・伝承
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幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承がある。また、治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。『平家物語』に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名である。
410: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:52 ID:iEBaIq4y0(14/27) AAS
また扇の的を射た功名で得たと伝えられている荘園のうち1つの備中荏原荘がある。この伝承が事実であるかどうかは不明であるが、少なくとも鎌倉時代中期の段階で那須氏の一族(荏原那須氏・備中那須氏)がこの地域を支配していたことを示す記録が残されている[9]。
弓の腕を上げようと修行を積み過ぎたため、左右で腕の長さが変わったと伝えられている。
412: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:53 ID:iEBaIq4y0(15/27) AAS
源氏方に扇の的を差し出した平家方の玉虫御前(鬼山御前)は、平家の落人が逃れたとされる肥後国五家荘の手前に移り住んだという伝承がある[10]。五家荘の伝承によると平家一族の追討にきた那須与一の嫡男の小太郎を先に進ませないよう引き留めているうちに、小太郎と玉虫御前は同地で幸せに暮らすようになったという[10]。玉虫御前の故郷である熊本県御船町には源平合戦後に玉虫御前が平家の菩提を弔うため建立した玉虫寺の跡(玉虫寺跡)が残っている
413: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:53 ID:iEBaIq4y0(16/27) AAS
墓所
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那須與一宗高公御墓所
墓所は、京都府京都市の即成院であるが、兄・資之が功照院という寺を建立し、分骨を埋葬したといい、永正11年(1514年)に、一度は廃寺になったものの、天正18年(1590年)、那須資景が那須氏の菩提寺・玄性寺(栃木県大田原市)として再建し、那須氏では、こちらを本墓としている。
また、兵庫県神戸市須磨区の碧雲寺宗照院には、那須與一宗高公御墓所という与一の墓とされるものがある。この墓にお参りすると、年老いても下の世話にならないとする言い伝えがある。また近くには与一が信仰したとされる北向八幡神社と、地元の人々が与一を祀った那須神社がある。
414: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:54 ID:iEBaIq4y0(17/27) AAS
山形県米沢市中央5丁目の西蓮寺の北西隣の虚空蔵菩薩堂の前には、那須与一の名を刻む高さ約4.2メートルの三重石塔がある。これは与一の供養塔とされ、塔には「那須与一宗隆公」、「千坂対馬守景親公」と刻まれており、裏には「享保四年孟夏十三日建立」と建立日が刻まれている。千坂景親は上杉謙信の重臣だが、千坂氏は那須氏とは婚族関係にあり、与一の守本尊(虚空蔵菩薩像)が伝わっていたとされる。[11]
また扇の的を射た功名で全国に得た荘園のうち1つの備中荏原荘の山中にも与一の五輪供養塔が存在する。また備中荏原の菩提寺として後裔が開基した永祥寺の境内には、屋島での合戦時に破り捨てた片袖を祭った袖神神社がある他、近隣には那須一族の居城とされる小菅城址や那須一族が入部した際に創建したとされる諏訪神社も存在する。
416: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:55 ID:iEBaIq4y0(18/27) AAS
後世への影響
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那須氏の当主の通称は一部の例外を除いて代々「那須太郎」であったが(那須資隆、那須光資等)、江戸時代以降、那須資景など那須氏の歴代当主は通称として「那須与一」を称するようになった。
418: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:56 ID:iEBaIq4y0(19/27) AAS
扇の的は貴族化していた平家の象徴!?
平氏軍は、美しい女性を乗せた小舟を源氏軍陣営のもとへ漕ぎ寄せて来ました。
「扇の的」を掲げる女性
「扇の的」を掲げる女性
するとその女性は、赤地に金箔の日の丸が施された扇を竿(さお)の先に留め、おもむろに高く掲げたのです。そして、岸にいた源氏軍に向けて手招きした女性は、「この扇の的を射落としてみせよ」と言い放ちます。これは、平氏軍からの挑発を意味していました。
いくら休戦中とは言え、この挑発に乗らないのは武士の名誉にかかわること。さらには、この挑発に応じても失敗してしまえば、兵士達の士気を下げてしまうことにもなりかねません。
419: (ワッチョイW cb32-7hLx) 2024/09/27(金)22:57 ID:iEBaIq4y0(20/27) AAS
弓矢を持って愛馬に跨り(またがり)、海に入って10mほど進んだ那須与一。扇の的に向かって弓を構えると、「南無八幡大菩薩」(なむはちまんだいぼさつ)と源氏の守護神に祈りを捧げ、矢を放ちました。そして、70〜80m先にあった扇の的を射落とすことに見事成功したのです。
このとき那須与一は、万が一失敗した場合、その場で切腹する覚悟で臨んでいたと伝えられています。源氏軍はもちろん、平氏軍の兵士達も、那須与一の手練れの技と勇気に感銘を受け、「敵ながら天晴れ!」(あっぱれ)と賛辞を送りました。
なお、平氏軍が合戦の場でありながら刀を交えるなど武具を用いることはせず、扇の的によって挑発を仕掛けたのは、この当時の平家が貴族化していたことに理由があります。
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