我々はどうやって生きて来たか。 (223レス)
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27: 名無しさん [] 2021/01/14(木) 11:03:32.70 ID:NvaMEBXT0 郷土の歴史‥‥‥016 江戸時代の元禄年間の 赤穂事件は亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣大石内蔵助良雄 以下47人が本所の吉良邸に討ち入りして、吉良義央らを討ち、生首を墓前に捧げ自害す るが、此の事件は相当な武家社会にインパクトを与えている。安藤省庵は 石高500石の 柳川藩藩士で重臣、安東親清の次男で、立花忠茂の時代に江戸詰め近侍となっている。 寛永14年(1637年)に島原の乱が起こり、柳河藩も江戸幕府より乱鎮圧を命じられると 、病身ながら従軍している、聡明で好学心が高く、器量があるので立花宗茂より分家の 資格を与えられていた。京都に松永尺五の下で学問を修めている間に、日本に亡命して きた明の学者、江川入徳(中国名:陳入徳)から、朱舜水の情報を得たという。1660年 、安東は長崎に赴き、朱と会談し、師弟の交わりを持った。この時、安東は日本に留住 できるよう長崎奉行に働きかけて、6年間もの間少ない自分の俸禄(200石だが実質は 80石)の半分を朱舜水のためにと贈り続けたという。また、寛文3年(1663年)に長崎 で火事が起こり、朱の家が焼けたときも家を新築し、焼け残った書物や日用品をそこに 収めて無事を祝った。と言われる。彼の知古には大沢氏がいる。柳川のお花別邸は、実 は花園氏という旧領主の土地だったともされている。が田中吉政時代から捨てており、 この近くに 大沢氏を引き入れている。そして大沢氏も後には高家になっていたのだ。 江戸城での刃傷事件だったが、幕府は大阪城を攻めた後には、江戸幕府DEは内政整備 と恫喝と尊攘政治において 諸藩の弱小化を進める方向の大きく舵を切っていた。藩の 関所を認め参勤交代をさせ江戸城はじめ数々の土木工事を各藩の諸大名に請け負わせて 巨大な出費をさせた。この出費は人足と言う労力でも良かったし、米俵と言う食糧でも 代用が出来たが、それなりの技術と負担は膨大なものだった。こうした中で、食い詰め 御家人衆の職に幾つかの役職も決めたのだが、城を持つ藩主とて、相当な貧乏藩にどこ も陥ってしまった。それが江戸の初期に起こっていたのである。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1607510463/27
28: 名無しさん [] 2021/01/14(木) 11:10:04.54 ID:NvaMEBXT0 郷土の歴史‥‥‥017 ではこうした他の貧乏藩の勅使の接待役はどうしてたか、当番制だったので色々画策 していたのである。今回の担当が、赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)だ ったが、実は旗本の実情も多くはあぶれ息子や娘が縁故がなく、本家筋の高尚で有名な 俊才しか用はなく、通常は婿入り嫁入りにあぶれて途方にくれた放蕩組が多かったのだ 。で、柳川の場合宗茂公のには、大きな試練にあった。それが黒田事件である。寛永5 年(1628年)5月に、第2代藩主の黒田忠之の長男として筑前早良郡橋本村の別邸にて 生まれたのが、三代藩主となった黒田光之である。父の忠之公は、側室で生母の坪坂氏 を嫌っていたらしく、筆頭家老の黒田一貫に預けていた。つまり身籠った後、藩の正室 と分けた側室左遷を受けていたのである。承応3年(1654年)の父の死去により家督を 継いだが、すでに、福岡の藩の財政は父の末期に、窮乏化が始まり、光之は厳しい倹約 令を出すしかなかった。藩政改革に取り組んだ光之は、武断よりも文治を好んで、父の 忠之に仕えていた儒学者の貝原益軒を再び召抱え、黒田家の伝承を集めた『黒田家譜』 などを編纂させた。それまでの保守的な重臣を遠ざけて、新参の鎌田昌勝や博多南坊流 を創始した 立花重根を家老として新たに登用し、福岡城三の丸(西の丸)に広大な下 の屋敷(下館)を造営し、新たな居館にした。延宝5年(1677年)2月に、嫡男の綱之 を廃嫡してしまい、東蓮寺藩を継いでいた三男・長寛(綱政)を跡継ぎと新たに定めた 。が、これが原因で家老が処分されるなど、藩内に大きな混乱をもたらす羽目となった 。これが黒田騒動の本筋である。この頃大きく日本は動いていた。お花の横手に、河童 道と称された小道の街路がある。ここはお花にくる外堀の水路と共に、藩内の武家集合 の御濠が集合される。座持ち様とする、大沢大善の家に通じている。御花の対岸にあり 大沢氏は殿様の話相手だった。今でいうならご学友と言った所か。この大沢氏も又高家 に名を連ねている。この大沢掘りや大沢橋は、その遺構の地位の高さだったが、正統な 立花家の家臣とはなっていない。外枠の大名だったからだ。となりの黒田騒動でここに やって来たのである。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1607510463/28
29: 名無しさん [] 2021/01/14(木) 11:25:21.74 ID:NvaMEBXT0 郷土の歴史‥‥‥018 黒田騒動は、加賀騒動・伊達騒動、あるいは仙石騒動と並び、江戸三大お家大騒動と 言われる。「黒田騒動」については、父の黒田長政が、豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛の 息子であった事で天下分け目の関ヶ原で、家の存続に徳川方につき徳川家康を助けて、 福岡の52万石の九州要害の地の初代藩主となった人だ。この旧来の豊臣方の家来達は 当然父の軍師の法は豊臣方につくものとして考えていた。しかし、軍師だけにそれは違 っていた。天下分け目の決戦が長くなるはずと踏んで九州勢の結集を呼びかけ、徳川に 恩顧のある加藤清正と鍋島氏を味方につけ、自らはこれまでの蓄えで私兵で周りを攻め た。息子が徳川方での功績で関ヶ原は2日で終わった。豊臣方が猛将立花氏を排除して 関ヶ原に挑んだからだ。こうした事で家来に一つの溝があった。黒田長政が亡くなると 黒田藩筆頭家老の栗山大膳(くりやまだいぜん)が二代藩主・黒田忠之(くろだただゆ き)を謀反の企てがあるとして幕府に訴え出る。こうして前代未聞の「黒田騒動」が起 きた。祖父の黒田官兵衛は、豊臣秀吉の軍師として、福澤諭吉の産湯地で有名な中津城 主である。豊臣秀吉が天下を取った時、配下の猛将達を大阪城から離れた所に配置した 家康が関東に遠のいたのを筆頭に、剛腕で知られる加藤清正や、海軍知将とされた小西 行長などだ。薩摩を遠ざける防備の狙いもあったが、兎も角近くには置かなかったが、 軍師の黒田官兵衛も又遠ざけられた一人で、鬱憤があった為、旧家臣は、間違った予測 をし、徳川時代の家臣はその意思に無頓着だった。黒田官兵衛は、やはり 日本征服は 無理にしても、関東の家康の様に、九州統一の覇者足らんと願っていた事は言うまでも なく。その為、息子に家康についていけ。と言うのは見せかけだったのだ。豊臣恩顧と 言う息子を、とくと説き伏せ、自分は豊臣恩顧の結集を叫んで家康方と称して、関ヶ原 に息子を送り出すと、傭兵を集めて鍋島・加藤・黒田で 大友氏を追い出し豊前・豊後 そして筑前・筑後を押さえて九州の名城と謳われた、柳川城を包囲したのである。ここ に、築城8回目の柳川の包囲戦が繰り広げられたのである。この柳川城の築城以来、常 にこうした戦禍の中にあった要害の地でもあったのだ。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1607510463/29
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