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7: 名無しさん [] 2021/03/30(火) 12:55:07.46 ID:KcDU8ZSC0 チャーチルの失敗 04 日本は8月12日のウラジオストク上陸以来、増兵を繰り返して協定兵力を大きく超える 兵力7三千万人を派兵した。大陸横断鉄道のハバロフスクや東シベリア一帯を占領する 為に多くの兵団が現地逗留になった。日本の反ボルシェヴィキ政権樹立工作は成功はす るものの、相談する米国将軍は12月にはさっさと帰っていて、そうした中で酷寒とパ ルチザンの抵抗にあって不成功に終ったのである。1919年秋に、白軍のアレクサンドル ・コルチャーク政権が日本の積極的支援を受けられず崩壊したことで、英仏による革命 政権圧殺の計画は不可能に陥り、ヨーロッパ革命情勢への危惧もあって両国はシベリア 撤兵を決定した。コルチャークは帝政ロシア時代の高位のロシアの軍人で、1917年二月 革命当時は黒海艦隊司令長官をしていて舞鶴に寄港し京都で飲んでいた。十月革命直後 ,1918年英国の援助でシベリアのオムスクに反革命政権を樹立し,一時はボルガ川付近 まで勢力を伸ばしたがイルクーツクで捕らえられて銃殺された。その時日本軍は連合国 ( イギリス ・ アメリカ ・ フランス ・ イタリア ・ カナダ ・ 日本 ・ 中国 )の 「革命軍によって囚われた チェコ軍団 を救出する」を名目を忠実に守って旅客鉄道の 確保に動いていた。ところがロシア革命に対する干渉戦争の欧米の思惑ははずれた。こ の時探していたロマノフの財宝は、1917年のロシア革命までに、ロマノフ王家が300年 以上にわたってロシアを支配してきて集めていた財宝である。各時代の世界最高の名匠 によって作られた膨大なコレクションを蓄積して設立した銀行に預けて運営していたの だ。その中には、レガリア(王権の象徴となるもの)、ファベルジェのインペリアル・ イースター・エッグから、ブレスレットやブローチにいたるまで、宝飾品の傑作と呼ば れ、欧州の大使や王侯は感銘を受けて、ロシア帝国宮廷の訪問後に回想録にまで記録さ れている。既に三国干渉などで日露戦争に陥った日本はそうした行動に訝しさを抱いて いて正規軍とは違う諜報部隊を差し向けていた。明石部隊である。彼らが金塊を長春駅 経由で香港の貨物船に送り、台湾の倉庫まで送っていた。とされる。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/7
8: 名無しさん [] 2021/03/31(水) 11:39:21.46 ID:1Mrkwy4U0 チャーチルの失敗 05 ロマノフ家は、ロシア国内有数の貴族である以前は、他の公国と同じ小さな公国王であ る。はっきりとしたことは解らないが、ドイツ、プロイセン地方の血筋でリューリク家 最後の皇帝であるイヴァン4世死去後、首都モスクワを占領していたポーランドを撃退 し居ついた。この功績でミハイル・ロマノフが西暦1613年にツァーリとして擁立された 。ツァーリーとは帝国の中の帝国王だから 公国の王の中で選んだ王という事になる。 14世紀のモスクワ大公に仕えるアンドレイ・カビラという低位の貴族が、ロマノフ家の 先祖と推測されているが、初代ツァーリであるミハイル・ロマノフの祖父ニキータ・ユ ーリエフ=ザハーリンの代にリューリク家の親戚になったことで、徐々にロシア国内で 地位を高めていく。当時のロシアはアジア各国を植民地化し、多くの富を築いていた。 中でもロマノフ家の財力は、オーストリア王室のハプスブルク家をも超えるほどと言わ れており、世界一の大富豪の名を欲しいままにしていた。よく歴史上にでてくる東イン ド会社は1556年にスペイン王に即位したフェリペ2世の異端への弾圧が強まって出来た ものだった。結果、金融業に長けたユダヤ人たちが信仰と商売の自由を求めて逃げて来 てアムステルダムに集まってロシア皇帝の資金を得てオランダ東インド会社を作った。 利益確保のため、オランダの連邦議会で貿易会社を統合する必要性からだ。これに先立 つ1600年、北海を隔てた隣国イギリスでは、対抗した貿易戦争でエリザベス1世により 勅許会社イギリス東インド会社が設立されていた1602年、真似て中小貿易会社が統一さ れ、「オランダ東インド会社(通称:VOC)」が設立されました。この時初めて株券 が発行され「世界最初の株式会社」と呼ばれた。これはポルトガル・オランダと違って 定期就航の船で、出航入港時精算でなく、又有限責任制を取っていた上株の売買を許し たのである。この株価で大損したのが 出来立てほやほやの大日本帝国陸軍の兵站協力 をしていた御用商人山城屋和助である。この頃の欧州株価が高級貴族や王族達のサーク ル組織の運営とは知ってなかったのだ。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/8
9: 名無しさん [] 2021/03/31(水) 11:40:22.88 ID:1Mrkwy4U0 チャーチルの失敗 06 当然ロマノフ家は、当初の当時の貿易会社の大半が当座企業(航海の開始時に出資を募 り、終了時に清算・解散する企業)の常連だったのでオランダの利益の半分はロシアの 懐に入って行っていた。又、対して、事業継続を前提として、長期にわたる 植民地の 維持が可能な株券も、持ち分としての株式の譲渡が自由になったことで敵対のロシアに も保有が可能だった。つまり、株式の所有権を、市場で自由に売買できる株も大半が、 ロマノフの銀行団が保有していたのである。これはどういう事かと言えば簡単な事で、 ロシアには産業が無かったからだ。ロシアは昔から鉱物資源の国だ。黄金もそうだが、 メノウ、ヒスイ、ダイヤモンド。その他色の鮮やかな鉱石もロシア自慢のものだった。 と言うのも農業も育たたない中ででは、近くの珍しい色の石ころに細工物に精出しての 資金を得る事は当然の産業創出の雪の世界と言える。出歩くにリスクあるなら、食糧が 問題ないなら家に居て作業できればそれが一番である。で皇帝はその取れた黄金で投資 し投資で儲けた資金で食糧生産し、その食糧供給や資金で財宝を入れた数々の宝物を創 らせていたのである。これを他の諸侯に見せびらかして高値の物に売りつけて資産を貯 えていた。従ってロマノフの宝石工場の陳列棚が銀行だったのである。こと顛末は1991 年にイズヴェスチヤ紙が報道しているが、それが真実かは解らない。つまりチェコ軍の 奪還に向けて日本軍が駐留した時、ロシアにあった銀行は指令によって、財宝はカザン に集められる事になった。王朝の白軍であったコルチャーク提督側近のペトロフ将軍に 王朝崩壊後の日本軍の保護を前提に、カザンから強奪した黄金22箱を旧満州に持ち込ん だ。とされたのである。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/9
10: 名無しさん [] 2021/03/31(水) 11:40:52.04 ID:1Mrkwy4U0 チャーチルの失敗 07 ペトロフ将軍は外敵に奪われることを恐れ、苦渋の決断の末に黄金22箱を旧満州に居 た日本駐留軍へと預けて兵員の防衛をした。その後終戦に至って、黄金を取り戻すため に日本で裁判を起こすなど奔走したペトロフ将軍でしたが、訴訟は却下され黄金22箱 がペトロフの手に戻ることはありませんでした。コルチャーク(海軍大将)は、ロシア 革命後の内戦で、1918年11月に白軍が樹立した「全ロシア政府」の「最高執政官 」となったが、後に赤軍に敗れて銃殺された人物だ。シベリアのオムスク市に全ロシア 政府が樹立されるに際し、カザンからロシア帝国の金準備(延べ棒)の大部分を当地に 運んできた人物だ。これらは、第一次世界大戦勃発後まもなく、戦火を避けてカザンに 移されていた。とされる。当時の国立銀行オムスク支店での調査では、金準備は総額6 億5000万ルーブルと見積もられた。ところが、コルチャーク敗北後の1921年に 、金がソビエト政権の所有となった際に、再調査してみると、延べ棒の量がかなり減っ ており、4億ルーブル分しかなかった。行方不明となった2億5000万ルーブルにつ いては、エストニア出身の兵士カルル・プルロクが証言している。コルチャーク軍のシ ベリア連隊に所属していた彼は、東シベリアのケメロボ市に近いタイガ駅まで鉄道で金 を運び、穴を掘って埋めたという。1941年になって内務人民委員部(内務省)が、 プルロクをエストニアから呼び出し、現場に立ち合わせてあちこち捜索したが、何も見 つけることはできなかった。この2億5000万ルーブル。金準備(延べ棒)500箱 その内の300箱が 第二次世界大戦後、戦後すぐに東京隅田川の土手岸で GHQに よって掘り進められて川底から引き揚げられ 米国本土に持って行かれたと日本の新聞 は記載してる。つまり、老人ペトロフ将軍の裁判の知識をもとにCIA若しくはFBI の旧帝国軍人捜査で証言から突き止めて 闇のままに本国に持ち去ったと言う形だった 。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/10
11: 名無しさん [] 2021/03/31(水) 11:41:19.91 ID:1Mrkwy4U0 チャーチルの失敗 08 黄金の行方は溶けたとしても、ロマノフ家の財宝の宝石部分は溶けてない。タス通信の 話しでは、ロシア帝国最後の皇帝、ニコライ2世は、1917年の2月革命で退位した あとも当時最大の財産家だった。彼は、シベリアのトボリスクに流された時に、家宝を 持参することが許され、同地で早くも悲劇を予感したのか家宝を3つに分けて、忠実な 人間に託していた。家族と滞留していたトボリスクの知事の邸宅から、家宝を持ち出さ せ隠させた。とされ翌18年7月、エカテリンブルクで皇后と5人の子供とともに銃殺 された。のちに、チェーカー(ソビエト政権の秘密警察)は、隠し場所を調べ出し3つ のうち2つまでは発見している。それは計197点の財宝で、当時の価格で、300万 ルーブル相当あったと言われる。これらはやがて、外国から食糧を購入するのに当てら れた。だが、3つ目の宝の隠し場所は、今日にいたるまで見つかっていない。未確認な 情報によれば、それには、アレクサンドラ皇后の宝石箱、家宝の黄金作りのサーベルと 短剣などが含まれており、警護隊長コブイリンスキーがオムスク市の住民であるコンス タンチン・ペチャコスに託した。ぺチャコスは、宝をオムスクに運んだという。やがて 、チェーカーはこの情報も嗅ぎつけ、ぺチャコスは妻とともに拘束され、尋問されたが 、厳しい拷問を受けても、ついに隠し場所を漏らさなかった。ペチャコスは、宝を隠し たこと自体は否定しなかった。が、警護隊長への約束は。皇帝への約束に等しく、破る ことはできないと言って職務を果たした。当然ペチャコスの家は、地下室から屋根裏の 至る所を何十回も徹底的に捜索されたが、何も見つからなかった。こうしてアレクサン ドラ皇后の宝石箱、ロマノフ家の家宝の黄金作りのサーベルと短剣などは今だ見つかっ ていない。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/11
12: 名無しさん [] 2021/03/31(水) 11:42:08.20 ID:1Mrkwy4U0 チャーチルの失敗 09 とんだ隠し財宝の無駄話になったが、実はこの、ロマノフ家の財宝を一番欲して止ま なかったのが、ユダヤの金融家だったのだ。カザンの奥邸とされるオスマントルコ軍は 歴史的にも、このロシアの王冠と宝石にひれ伏していた。ガリポリの失敗で政治生命を 絶たれていたチャーチル海将を呼び戻ししたのは、そのユダヤのネットワークだった。 大英帝国の中で植民地闘争は、アメリカ独立を得て 殆どその声明に正統性は失ってい た。にも拘らず海軍大将に至るまでチャーチルはボーア戦争(ボーアせんそう)の英国 の正当性を国際社会に訴えていたのである。元々彼自身はこうした白人優位のピラミッ ド社会の植民地を有するユダヤ男爵の執事の家の産まれであった。ボーア戦争はアフリ カでのイギリスとオランダ系アフリカーナーとが南アフリカの植民地化を争った2回に わたる南アフリカ戦争だ。イギリス側は極めて恣意的な中訳でもシネマトグラフにより 、世界で初めてこの戦争の真実を動画で記録している。イギリスは戦果をふまえ、オラ ンダの背後にあるドイツ帝国を脅威と英国民に受け止めさせるに充分だった。そして、 三国協商と日英同盟・日仏協商・日露協約による包囲網を急ピッチで完成させる元にも なっていた。大英帝国もそれまでイギリスが栄光ある孤立を維持できたのは、こうした オランダ系のユグノー資本が、民間レベルで世界に進出融合した後、後追いで、列強の 砲艦外交で国際関係に干渉できたからである。しかし、後続のドイツの 飛躍的な国力 増大を前に、政治を利用した総力戦で伸張を阻む作戦を立ててた為、フランスの強硬な ドイツ叩きの第一次大戦賠償に 反対出来なかったのだ。そうした情報も無しに日本は 脳天気にも 若き宮家の近衛に植民地破棄、人種差別撤回を言わせたのだから、それは もう大英帝国やアメリカやら欧米の連合国の貴族の他国経営の批判や廃止を叫んだもの と受け止められても仕方ないものだった。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/12
13: 名無しさん [] 2021/03/31(水) 13:58:47.19 ID:1Mrkwy4U0 チャーチルの失敗 10 しかし、時代は風雲急を告げる。1929年秋に発生した米国ウォール街での株価の大暴落 は、悲劇の前兆となって英国に襲いかかった。世界中が恐慌の渦に引き込まれる中米国 はニューディール政策を行い、英国・フランスはブロック経済を実施し、自国の経済を 守るための施策を展開した。ところが、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によって 多大な領土を失っていたドイツ、植民地の少ないイタリアは大恐慌の中で有効な手立て を講じることはできなかった。その為、国民の不満は手がつけられぬほどに募っていく 中で社会主義の平等食糧分配に行くしかなかった。状況を打開するための道を模索する 中で、独裁政権が台頭する。遠くアジアでも日本が満州事変を起こし、大陸への侵略を 開始する日本は、いまだ勢いのある日の出の国として危険視されて行く。世界情勢は揺 れに揺れ英国内に不況の波が押し寄せた時、遂に軍拡抑制の海軍の造船規制がしかれた 。各国共失業率は増大。不安定な局面に立たされる一方で、政界で何の影響力も持たず 、隅に追いやられチャーチルの攻撃の対象の、植民地インド独立運動はマハトマ・ガン ディーで頂点にあった。この危機的大英帝国に時代遅れの帝国主義者チャーチルに人気 が再び起こる。18世紀半ばから続く英国の支配反発に、インドも独立運動が盛り上がり を見せて、帝国の栄光と力の証とみなしていたチャーチルは、インドを手放すことは、 自分の両手両足をもぎ取るようなものと訴え人気を博し、ガンディーへの嫌悪感を公言 し独立を反対。しかし、現実には英政府はすでにインドに自治権を与えることを約束し ており、実現するのはタイミングの問題だった。にもかかわらずそれに反対する執拗な インド独立運動攻撃に固執するチャーチルの主張には、当初から政治家の戯言として受 け止められていた。がここでドイツが動き第二次世界大戦が勃発し、チャーチルの政治 生命はここで終わりを迎えていた中で、アドルフ・ヒトラーの登場によって、事態は、 ガンディーに熱を上げるチャーチルに指導者の道にカーペットを敷いたのである。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/13
14: 名無しさん [] 2021/03/31(水) 14:08:00.53 ID:1Mrkwy4U0 チャーチルの失敗 11 世界的恐慌の起こる3年前から、ドイツにはアメリカに資金を強引に持って行くユダヤ の各地の金融投資家によって、未曾有の危機が起こっていた。そもそも第一次世界大戦 に敗け、国家予算の2.5倍と言われる賠償金を30年ローンで支払っている最中で一杯一 杯の状態で好景気などとは無縁状態だった。この返せない金に貸付していたのがユダヤ の各個の高利貸しだった。しかし、産業の中心であったルール工業地帯は、既にフラン スの占領地であり、ドイツの経済が伸びる要素は無かった。そこにアメリカの急成長が 押し寄せる。そりゃ金融家ったって投資家だもの、利益の好いアメリカ株に流れるのは 当然だった。ドイツは1920年前半は失業率が30パーセントに近かく、ハイパーインフレ ーションが終了し、アメリカが賠償金の支払い介入などで、やっと1920年代後半に失業 率が5パーセントにまで軽減し、この調子で行けば何とかやっていけるという矢先だっ た。世界恐慌は、1929年9月4日頃から始まったアメリカの株価の大暴落だったが、あま りにも増えた投資金額に株価が高騰しすぎている。と危険視した大口投資家の引き揚げ がこれをもたらした。つまり、ドイツ投資の資金がアメリカ株式投資に移行して起こっ たのだ。が、更に、不幸にも、ドイツ首相に就任したヒトラーは、機敏に一党独裁体制 を敷くと、打倒ヴェルサイユ条約を掲げ、再軍備を強力に推進したのである。この動き に対して、各国は警戒してただちに策を講じるべき。とは思ってみても先頭切って戦争 に行くことには、躊躇した。戦後間も無くで、傷の癒え切っていない中の国々では決断 出来なかった。当然に英国でも、第一次世界大戦は帝国主義がもたらした戦争だった。 との考えが首脳陣の頭の中にはあって、植民地政策を先頭に立って推し進めた英国内に 、奴隷売買など帝国主義が生んだ歪みから大戦のが起き、その責任をドイツに押し付け たという正確な判断もあって、罪の意識の国内世論も高く、不平等な条約を飲んだ欧州 の敗戦国ドイツの撤廃要求を飲むことも、和平が実現される道筋だろう。と考えた節も 多い。世論においても「軍縮を通じて平和を」との風潮が強まっていた事がそれを物語 る。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/14
15: 名無しさん [] 2021/04/13(火) 11:20:37.39 ID:wasOnNrN0 フィリップ殿下の死を悼む 01 フィリップ殿下は1921年生まれ。ギリシア王家の出身だが、19世紀〜20世紀初頭の 「大英帝国」に君臨したヴィクトリア女王の曾孫でもある。ギリシアでは軍部のクーデタ に遭い、祖国を追われた。1922年、ギリシア王弟だったフィリップ殿下の父には死刑が 宣告され、当時1歳だったフィリップ殿下ら一家はイギリスが派遣した軍艦で脱出。 欧州の各地を転々とした。のちに妻となるエリザベス女王とは、イギリス海軍のダート マス海軍兵学校で出会ったとされる。時のイギリス国王ジョージ6世が愛娘2人を連れ 視察に訪れたこと、これがきっかけだった。出会いの直後、欧州は第二次世界大戦に 突入し、フィリップ殿下も従軍した。エリザベス女王とフィリップ殿下には、もともと 家族としての強いつながりがある。殿下の母、アリス・オブ・バッテンバーグは1885年 2月25日、ウィンザー城で、ヴィクトリア・アリス・エリザベス・ジュリア・メアリー として生まれたが、彼女は、ヴィクトリア女王のひ孫にあたり、名前もそこからとって いる。つまり、フィリップとエリザベスは、“みいとこ”ということになるのだ。 プリンセス・アリスには生まれつき聴覚障害があって、彼女は努力の末、実は数カ国語 を読唇で理解していた。『iNews』によると、彼女は「イギリスの王女」として育てら れたが、子供の頃にドイツとギリシャでも暮らしたことから、ドイツ語も堪能だった。 1903年、彼女はプリンス・アンドリュー・オブ・グリース・アンド・デンマークと結婚 しプリンセス・アンドリューとして知られるようになった。結婚式はドイツで執り行わ れたと、『The New York Times』紙はレポートしている。こうして2人はギリシャに住 み5人の子供をもうけたが、フィリップは一番下で、唯一の男子だった。これがギリシ ア王家として生まれる事になった理由である。ところが先に言う様に革命で転覆する。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/15
16: 名無しさん [] 2021/04/13(火) 11:21:04.10 ID:wasOnNrN0 フィリップ殿下の死を悼む 02 プリンセス・アリスは、第二次世界大戦中、ナチの侵攻によりユダヤ人の命が大きな 危険にさらされていたのだが、ギリシャから逃れる数名のユダヤ人を助けている。また 、彼女は宮殿にコーエン一家のメンバーをかくまい、自分の聴覚障害を利用してゲシュ タポの言っていることが理解できないと信じ込ませ、彼らが敷地内に入ってこないよう にしたと、AP通信はレポートしている。アルベール・コーエンは、アブラハム・アル ベール・コーエンとしてギリシャのコルフ島に生まれたロマニオットの家系だ。ロマニ オットはセファルディムが定住する前の、ヘレニズム時代から2千年以上にわたっての ギリシャに住むユダヤ人と言う家系で石鹸職人、父方の祖父はコルフ島のユダヤ社会の 指導者(ラビ)であった。母はイタリア系ユダヤ人で、母方の祖父は王家の公証人であ る帰属地主と言う事になる言わば王家の現地御庭番だ。彼女の努力により、コーエン一 家は2018年時点で、パリで元気に暮らして行けるようになった。プリンセス・アリスは 後に、ホロコーストの時にユダヤ人を助けたユダヤ人以外の人に与えられる最高の栄誉 「Righteous Among the Nations」の称号が授与された。ここにユダヤ人に守られていた ギリシャ王家の形が垣間見れて、革命によって逃げるユダヤ人を助けてやる王家の姿が あったようである。日本とは、祖父にギリシャ王ゲオルギオス1世、曾祖父にデンマー ク王クリスチャン9世、高祖父にロシア皇帝ニコライ1世、高祖母にイギリス女王ヴィ クトリアがいるので、来日したニコライ1世の方が 近い関係を思うのかもしれない。 イギリス海軍での仕事をし、第2次世界大戦に従軍している。あまり知られてないが、 東南アジアに従軍している。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/16
17: 名無しさん [] 2021/04/13(火) 11:21:46.54 ID:wasOnNrN0 フィリップ殿下の死を悼む 03 東南アジアの戦場では、コヒマの惨劇や、バターンの死の行進が有名な話となってい る。だがこのフィリピンのバターンの死の行進になぞらえてジョホールバルの捕虜行進 を死の行進の様に言う白人がいる。そして戦場にかける橋などが 映画化されている。 まあ史実じゃあるけど この映画の中身は全く間違ったもので、さすがに勝てば官軍、 負ければ賊軍の域で描かれていて、この我々は正義だ。何て言う描かれ方には誤解が、 溢れている。確かに太平洋戦争中、旧日本軍が、軍事物資の輸送などを目的に、タイと ビルマ(現ミャンマー)の間に泰緬(たいめん)鉄道を建設した。1942(昭和17 )年に工事が始まり、翌年10月、全長415キロ(ノンプラドック―タンビザヤ)に 及ぶ全線が、急ピッチて完工され開通した。作業には、日本軍のほか、連合国軍捕虜や 現地のアジア人労働者ら延べ10万人以上が従事。十分な栄養補給や休息もなく、雨期 のジャングルを切り開く過酷な労働環境と熱帯病などが原因で、数万人もの犠牲者が出 た。ところが別名「死の鉄道」とも呼ばれたと言うのは間違いで、勝手に白人の団体が 中国人と共に呼び回った結果で、更に戦後のそうした資料捜索隊は、その慰霊を祀った 日本人墓地すら掘りまくって解体し更地にして帰っているのである。まあ日本軍の悪行 を探ったが全くなかったから。って言うのがその理由で、やる事がなく遺骨を廃棄する に至ったと言われる。開戦直後に日本軍はイギリスにとって最も重要な植民地拠点の、 シンガポールを狙った。インドとアジアを結ぶ重要な地点で、ここに当時英国東洋艦隊 の拠点が置かれて、シンガポールは強力な要塞都市で陥落しない無敵の要塞とされてい た。日本軍は海からの攻撃を諦め、比較的防御の弱いマレー半島の浜から南下していく 作戦を計画した。ここは、太西洋の壁とされた欧州の要塞同様に建設され、日本軍侵攻 は、ノルマンディー上陸作戦より熾烈なものだったようだ。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/17
18: 名無しさん [] 2021/04/15(木) 04:07:14.05 ID:AaoGxqBj0 フィリップ殿下の死を悼む 04 ところが、である。歴史的背景からも 日本軍は常に背水の陣の中にいた。事実歴史 的にも、西洋の植民地主義者から言えば、ロシアに勝った、日本は最後の野蛮な独立国 だったのである。つまり江戸時代以前からアフリカを支配し、中東を収め、インドには 英国服従たらしめ、中国さえも砲艦外交で従わせて賠償金をせしめ、残るは東洋の島国 一国になっていた状態だったのだ。遠く南洋も南米も豪州もみんな白人の天下で原住民 は奴隷だったのだ。この締めくくりに日本と対戦する事が必要だ。と白人のソサエティ つまり知識人クラブは考えていた。そこで対日貿易封鎖を試みたのであって東南アジア がその戦場の中心になる事は何十年も前、一次大戦前の開国当時からの合意した思惑で あったのだ。そこでこの中心が当時としてはシンガポールで、重厚な要塞都市として、 存在していたのだった。大平洋戦争の幕開けは、12月8日(現地時間12月7日)朝の事で ハワイ・真珠湾への攻撃とされる。がしかし、時間的には真珠湾攻撃より1時間50分前 、即ち2時間前に、日本陸軍の部隊が当時イギリス領だったマレー半島・コタバル浜の に上陸を開始している。理由は天皇陛下は皇居で記者に対して、翌日に宣戦布告の詔( みことのり)を発布する故を発表していたからだ。こうしてイギリス軍と戦闘を始めて いた。12月8日に起こった戦闘は多くの死者を出して一応は上陸をはたした。この中 の爆破されたトーチカからは鎖につながれて銃を撃っていたインド兵が沢山出て来た。 彼らも又捕虜として従軍した。更に日本軍に有利だったのは、日本の戦車は板金戦車で 欧州の砲撃に耐える重戦車や走行の速い軽戦車より、さらに軽く小さかった事だった。 軍需物資の米国の地金や鉄鉱石が輸入されない中で木材フレームを取り入れた板金戦車 だったので、走行不能と呼ばれる湿地のジャングルも砂浜も走行していたのである。 装甲は薄いものの 対銃撃の盾には重宝なものだったのだ。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/18
19: 名無しさん [] 2021/04/15(木) 04:07:50.53 ID:AaoGxqBj0 フィリップ殿下の死を悼む 05 こうした日本陸軍の装備を笑っていたフランス軍に異変が起こった。日本軍を迎え撃 つ連合軍司令官はアーサー・パーシヴァル中将だった。4個師団強に相当する8万5千の 兵力があった上7万人の戦闘部隊は38個歩兵大隊は、英印軍17個大隊、イギリス本国軍 13個大隊、オーストラリア軍6個大隊、マレー/シンガポール人の2個大隊と言う混成団で 3個機関銃大隊を基幹としていた。このうち2個師団は1月後に護送船団で到着した者 ばかりであった。新着のイギリス軍M. ベックワース=スミス少将の部隊は、完全編成 部隊ではあったが、戦闘経験と適切な訓練を欠いていた士官クラスだった。又その他の 部隊のほとんどもマレー半島で日本軍の攻撃から受けた損害から回復する時間はなく、 定数を割り込んだ状態であった。現地人大隊はやはり戦闘経験が無く、いくつかの部隊 は戦闘訓練すら未了であった。ここで兵站を背負ってた海上輸送の2月5日到着の最後の 船団であった客船エンプレス・オブ・エイジアが、日本陸軍機による攻撃を受けて撃沈 される事件が起こり搭載物資を全損させた。これは日本の偵察機の誤爆であったがしか し、これによって多くの山に隠れて配備された原住民兵の突き上げに、食糧供給されな い部隊の士官から アーサー・パーシヴァルは食糧要請の突き上げがはじまったのであ る。つまり信任のパーシヴァル将軍は、このデモにも似た現地の古い士官達にどうしよ うもない苦境になったのだった。おそらくこれが日本と欧州の戦闘感覚の違いであろう 。日本のコヒマ侵攻は、食糧を出来るだけ持っては行くが、基本現地調達である。対し て欧州文化の戦争は、基本領地拡大と食糧供給である。兵士には食べ物や銃弾を供給さ れる権利がある。と言うのが基本で、日本人の様に銃弾が無くても竹やりでも戦え。ま しては神風がきっと吹く。なんていう戦闘論はどこにも存在しない。銃弾も食糧もない 。と言うのは撤退するのが鉄則であり当然だったのである。それは砂漠での戦いで特に 承知の事だった。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/19
20: 名無しさん [] 2021/04/15(木) 04:08:24.10 ID:AaoGxqBj0 フィリップ殿下の死を悼む 06 大日本帝国陸軍の第25軍司令官の山下奉文中将の指揮下には、近衛師団(師団長・西村 琢磨中将)、第5師団(師団長・松井太久郎中将)、第18師団(師団長・牟田口廉也 中将)の3個師団からなる3万強の戦闘部隊があった。戦闘員の数では連合国軍に比べ はるかに劣っていたが、その練度と経験、装備の性能でもそう勝るものでもなかった。 近衛師団には九五式軽戦車からなる戦車旅団が配属されていて、日本での最新鋭の一式 戦闘機を擁した第59戦隊と第64戦隊がこれらを空中から援護したが、此の戦闘機の活躍 が大きかった。イギリス空軍にホーカー ハリケーンや、アメリカからのブルースター F2Aバッファローなどの最新の戦闘機と、ブリストル ブレニム爆撃機などセレター 基地などに展開していたが、そんなに性能のいい機体でもなかった。その上、バトル・ オブ・ブリテンで消耗し、さらにヨーロッパで続くドイツ軍との戦いに 最新鋭機は まわされていたことからハリケーン以外の航空機はみな戦闘力に欠けるものばかりであ ったのだ。3倍を超える兵力差、当時難攻不落と謳われたシンガポール要塞、そこを、 日本軍が10日足らずで攻略し駆け抜けていった。イギリスが率いる歴史上最大規模の 将兵だったが降参する。チャーチル首相は自書で、「イギリス軍の歴史上最悪の惨事で あり、最大の降伏」と評した。だが、そうしたトーチカ内の鎖につながれた兵士を見て 植民地化した住民達は盛んに日本軍を応援し 道案内すらしていた。対してイギリス軍 とアメリカ軍による連合軍の食料と何種類かの弾薬は、既に底をつき、降伏を決意した パーシヴァルは、指揮下部隊の司令官たちと協議したあとに日本軍と連絡を取って、フ ォードの自動車組立工場において、両軍の最高司令官による降伏交渉を行う約束を取り 付けるに至ったのである。これまで戦争と言えども、有り余る食糧と退屈な時間を過ご し、ワインをたらふく食って過ごしていた士官達には 耐えきれない兵站の断絶だった のだ。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/20
21: 名無しさん [] 2021/04/15(木) 04:43:47.79 ID:AaoGxqBj0 フィリップ殿下の死を悼む 07 こうしてイギリス陸軍は敗北し、シンガポールが陥落したため約8万人のイギリス軍 将兵やイギリス領インド軍兵士、オーストラリア軍将兵が日本軍の捕虜となり、これま でにマレー半島の戦争で投降した5万人に加わった。さらにセレター軍港や空軍基地を はじめとするイギリス軍の施設はほぼそのまま日本軍に接収され、インド洋やオースト ラリア方面に展開する日本軍に活用されることになった。とされる。植民地大国だった イギリスにとってのシンガポールはインド洋と太平洋、オーストラリアを結ぶチョーク ポイントであり、「東洋のジブラルタル」とも呼ばれた。それゆえ、シンガポール陥落 と2隻のイギリス海軍の有力戦艦が日本軍に撃沈された事実はイギリスには大きな痛手 と精神的激痛を伴った。既に々時期のマレー沖海戦で海を制され、日本軍に、陸空での 優勢をとられたため、連合国軍はその切り札として期待していただろうイギリスの戦艦 プリンス・オブ・ウェールズと、巡洋戦艦のレパルスの2隻が出撃したが、大日本帝国 海軍の陸攻隊に撃沈されてしまっていたのである。陥落前には、キング・ジョージ5世 級戦艦2番艦プリンス・オブ・ウェールズ、レナウン級巡洋戦艦2番艦レパルス、空母 インドミタブル、護衛の駆逐艦エレクトラ、エクスプレス、エンカウンター、ジュピタ ーからなるG部隊が編成されたが、いずれも欧州のドイツとの闘いでの精鋭部隊の艦だ ったが、殆ど海洋戦闘でなく特殊空挺を得意にしていた部隊である。一方日本軍は輸送 船と共に、シンゴラとパタニ方面に第20駆逐隊(朝霧、夕霧、天霧)・第12駆逐隊 (叢雲、東雲、白雲)・掃海艇3隻・輸送船17隻(第二十五軍先遣兵団)、コタバル 方面に軽巡洋艦川内(第三水雷戦隊旗艦)、第19駆逐隊(綾波、磯波、浦波、敷波) ・掃海艇3隻、輸送船3隻プラチャップ方面に輸送船1隻、バンドン方面に香椎と輸送 船3隻、ナコン方面に占守と輸送船3隻、と分散して兵員と艦艇を送っていた。双方に 精鋭の最新艦とはいかなかったが、旧戦艦でも日本軍は 数でも兵員でも勝っていた。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/21
22: 名無しさん [] 2021/04/15(木) 08:47:04.06 ID:AaoGxqBj0 フィリップ殿下の死を悼む 08 実はプリンス・オブ・ウェールズは船名というより称号であった、イギリスの皇太子 に与えられるもので、それほど作られた当時は英国民の誇りが詰まっていたのだ。今般 チャールズ皇太子も、1958年よりウェールズ公と呼ばれているが、実際の叙任式は1969 年7月1日、北ウェールズのカナーヴォン城で行われている。この撃沈は幾つもの衝撃が 起こっている。まずプリンス・オブ・ウェールズはイギリス海軍のみならず 英国民の シンボルであった為、これが撃沈した事は チャーチル始め日本憎しの意識や戦争意識 を高める一致団結する事に寄与した。これまで植民地からの奴隷制度も残っていた中で 第一次大戦後に植民地傭兵は栄誉として国民になっていたが、大勢は経済奴隷のままで 英国民とは軋轢があった。ところがそれが解消された。つまり 雑用の居候が落胆する 旦那様を見た。と言う事であろう。そして第二に航空機の威力が試されて、戦艦よりは 遥かに強い事が証明された。日本の老いぼれ船舶の活躍よりは、そのショックが大きく エンタープライズは、すぐさま改造ドックに引き返し、航空機用のマシンガンから連発 の高射砲に積み替えられ重装備となった。しかし日本の戦艦には新たな高射砲開発が出 来ていなくそれを積み込む事は出来なかった。その上積み込む場所もなかったのだ。と いうのもこの船はパナマ運河を抜けるような 細長く縮小した戦艦フォルムに苦労して 作っていたからだ。もともと海軍は船の建造の割り当てには、大賛成とは言わないまで も賛成していた。海軍にも艦隊派と条約派があったが、1930年(昭和5年)のロンドン 海軍軍縮条約締結により、「条約妥結やむなし」とする海軍省側に、腰抜け政府とする 国民に煽られて、これに反対する艦隊派(軍令部側)という対立構造が生まれ、そこに ある背景は陸軍との予算攻防があった。だがこれは後に統帥権干犯問題に発展し、真珠 湾攻撃の失敗につながっていた。どこの国も軍費捻出に苦労していたのである。実は、 そう言った突き上げや批判が、逆に政府を戦争に導いて言ったと言ってもよかった。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/22
23: 名無しさん [] 2021/04/15(木) 08:51:00.29 ID:AaoGxqBj0 フィリップ殿下の死を悼む 09 そうした中、太平洋戦争中、日本軍はタイとビルマとをつなぐ全長415kmにもわたる鉄道 を日本軍は建設した。当時タイは「泰」ビルマは「緬甸」と書かれたので、この鉄道は 泰緬(たいめん)鉄道と名づけられた。泰緬鉄道の建設速度は、驚くほど速くこの鉄道 を建設するためにつぎ込まれた、連合軍捕虜および現地の強制労働者からでた犠牲者数 も、厖大なものだった。からくも生き残り、終戦とともに日本軍から解放されたすべて の人々にとって、泰緬鉄道は、生涯忘れることのできない忌まわしい思い出として残っ ている。とされる。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/23
24: 名無しさん [] 2021/04/15(木) 08:51:22.70 ID:AaoGxqBj0 一九四二年(昭和十七年)の四月、鉄道建設要員が四地域に集結さ せられた。つまり、マレーの首都のクアラルンプールのプドゥー監獄、シンガポールの チャンギ地区、ジャワのバタビア(現在のジャカルタ)付近の一連の収容所、そして、 スマトラの西海岸にあるパタン地区の四地域である。これらの捕虜たちはやがて、泰緬 (たいめん)鉄道の現地へ移送されることになった。捕虜の大部分は、シンガポールに いた兵士で、1942年二月十五日、5万6千人の英・豪軍、6万人のインド軍を指揮 していたパーシバル将軍の兵士達だった。英・豪軍は10日分の食料と最小限の装備品 をもって、島の北西にあるチャンギまで、シンガポール市内を徒歩行進させられて別の 収容所に送られたインド傭兵部隊との接触は、完全に断たれてしまった。補給用食糧の 貯蔵はなくなり、毎日、単調な米飯に切り換えられた。米はもともと、ヨーロッパ人の 胃には、なじまないものであった。そこで、捕虜たちの大部分は、急速に衰弱しはじめ た。その状態は終戦まで、ずっと続いた。又供給された タケノコや山菜には、我々に 竹を食わせた草を食糧とした。と言う偏見があった。更に泰緬鉄道建設の殆どは日本人 の工作隊で行っていた。と言うのも捕虜たちの大部分は、管理は彼ら自身にほとんど任 され、労働は任意で軍票の支払いによって運営されていたからだ。収容所のまわりには 、塀かつくられていたがその中では、彼らは少なくとも降伏前にあった部隊単位を維持 したし、自分たちの管理について、自ら責任をもっていた。捕虜の大部分は捕獲者の、 つまり日本人を、ほとんど見かけたことがなかったし、文化や食生活どころか国の位置 すら知らない者だった。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/24
25: 名無しさん [] 2021/04/15(木) 08:56:58.04 ID:AaoGxqBj0 フィリップ殿下の死を悼む 10 バンポンの収容所施設は、アタップ(ヤシの葉)屋根で、竹や葉の原始的な木造建築 だった。その形は、低い側面をもつ、梁のある支柱のテントといったようなものである 。以後、宿舎にはこの方式が継承された。この宿舎の建築は簡単で、材料はジャングル に自然にはえている竹、ヤシの葉だけを使い、ひもは繊維質の樹皮から作られた。アタ ップ小屋の建設は技術を要する仕事であり、また多くの経験を必要とした。捕虜たちは 、鉄道作業が終るまでには、熟練工になった。最初に長い竹の棒をテントの支柱のよう に地中にさし込み、建築のための柱とし、それから別の竹を小屋の梁(はり)として、 柱に直角に水平におき、この梁に別の竹を取りつけて屋根の支えとした。多くの小屋は 、垣根が地上にとどくほど傾斜していたので、側壁をもっていなかった。屋根の覆いは 、薄く割った竹と直角に敷かれたアタップの葉ででき、たくさんの、しなやかな、重な りあった瓦(かわら)のように、ひとつひとつは横木の上に巻きつけられ、個別に敷か れた。小屋の室内設備は、きわめて簡単なもので、小屋の長さだけの低い台が両側に一 列ずつあるだけだった。これらの二つの台はまた、普通の竹でつくられ、高さは地上か ら六〇センチであった。この長い台は捕虜たちの寝台となり、各人は横幅約六〇センチ を占めるだけで、実際には、すぐ隣りの人と接触してしまうほどだった。これが、労働 者たちがつぎの日の仕事のために、新しいエネルギーを得るべき場所であった。ある場 合には、一つの小屋に二〇〇人も収容されていた。実は捕虜たちがやった仕事の大半は こうした 小屋作りのもので 戦争で死んだ兵士の片づけとか、営舎建設とか神社建設 や掃除片づけで、至って生活する為にやっている仕事だったのだ。つまり捕虜たちは、 泰緬鉄道建設でなく 建設に携わる労働者の宿舎建設や その雑用しかしてなかったの である。日本からは日本人の鉄道工作隊がやってきて 鉄の橋をかけて開通した。そう あの明日に架ける橋は トンだ映画の為の作り話だったのである。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/25
26: 名無しさん [] 2021/04/15(木) 09:03:28.24 ID:AaoGxqBj0 フィリップ殿下の死を悼む 11 ところがである。41’年12月に開戦して快進撃に陥っていた日本軍に、あっと言う 間に6月ミッドウェー海戦で航空隊がやられ、8月のソロモン沖海戦で空母がやられる のである。これで南方のソロモン諸島やニューギニア島が玉砕されガダルカナル島撤退 に陥るのである。更にドイツがアントン作戦でフランスを配下にしてスターリングラー ド包囲に向かうと、日本陸軍もどういう訳か43’年インパール作戦を決行するのであ る。インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦)は、第二次世界大戦(大東亜戦争)の ビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に帝国陸軍により開始、7月初旬までの 継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市 であるインパール攻略を目指した作戦のことである。とされる。作戦に参加したほとん どの日本兵が死亡したため、現在では「史上最悪の作戦」とされる。当作戦を含めて、 ビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人におよぶ事が知られている。イギリスは 1942年(昭和17年)10月以降は、第一次アキャブ作戦などイギリス軍の反攻作戦を起し たが捕虜奪還には至らなかった。1943年(昭和18年)前半には、オード・ウィンゲート 率いるコマンド部隊が空挺侵入して、地形的に防衛側有利と思われたチンドウィン川の 東方のジビュー山系へもイギリス軍の反攻が可能なことが示された。ウィンゲート旅団 は撃退したものの、今後のさらに活発なイギリス軍の反攻作戦が予想されたからだ。太 平洋方面での日本の戦況悪化が響き、ビルマ方面からは航空兵力が転用されるなど戦力 低下が生じたのだ。日本側は防衛体制の刷新を図り、3月に緬甸方面軍(ビルマ方面軍 )を創設するとともに、その隷下の第15軍司令官に牟田口廉也中将を昇格させた。この 大規模な組織再編・人事異動によって、牟田口以外の要員の多くが入れ替わり悲劇を生 んだのである。現地事情に詳しいのは司令官の牟田口と参謀(防衛担当)の橋本洋中佐 だけとなり司令官の構造的な欠陥要因となり独断専行発生に陥って自滅の道を歩むのだ 。 http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/susucoin/1616467274/26
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