てすと (136レス)
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59: 2021/05/23(日)12:01 ID:inDvw5FS0(4/4) AAS
歴史の群像10 フィリップ殿下の死を悼む 36
その年の11月末までに、ビルマ基地の労働部隊は、鉄道建設の準備として、日本側の
司令部は、バーレイ准将の捕虜管理部と一緒に、タンビュザヤトに集合させ収容所建設
を行った。この時の捕虜は作業隊は戦場掃除として、戦場の瓦礫清掃で、地雷の処理、
道路の建設、ドックでの作業などを行なうもので、ブキテマ高地で戦死した日本の兵士
をまつるため、神社をも建設した。作業隊で働かされた多くの捕虜は、始めて日本兵と
接触し、日本人を評価する機会だった。だがその経験は、あまり品性を高潔にするよう
なものでなかった。しかし捕虜自体は志願であり、無理して働かせて、いつも同じ貧弱
な食事とされ、米飯主体の食事の提供に対し、軍票によってバナナなど原住民から購入
できた。ただ、命令に従わない些細なことは、殴ってでも捕虜たちを従わせたであろう
。宿舎は、増加する病人にたいして、支給する薬品はほとんどなかった。特定の大きさ
の作業隊を提供する必要があったので、多くの病人たちは、健康な仲間たちと 一緒に
なって働くように強制されてもいた。マレー半島で退却戦闘中に、捕えられた連合軍の
捕虜たちは、当初には、降伏地の近くの施設や監獄に収容された。しかし彼らはしだい
に、クアラルンプールの民間人の監獄、プドゥーに集められた。プドゥー監獄では、ヨ
ーロッパ人捕虜の、マレーにおける中央収容所となった。一般的にいって、彼らが得た
唯一の快適なものは、捕虜自身によってつくられたものであった。その材料は島内各所
へ作業隊として働きにでかけたときに、盗んできたものであった。激しい労働、不健康
な宿泊設備、殴打される危険にもかかわらず、作業隊の志願者が不足することは、ほと
んどなかった。なぜなら屋外作業は人々に景色の変化を眺める機会を与えたし、また、
当時の最新のニュースを集める機会もあったである。さらに重要なことは食料や薬品を
盗んだり買ったり、あるいはこれらの必需品を彼らの持っている貴重品と交換したり、
現地調達品をお金で買う機会が与えられていたからである。こうした時英軍の空爆が、
始まろうとしていたのである。
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