てすと (136レス)
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18: 2021/04/15(木)04:07 ID:AaoGxqBj0(1/9) AAS
フィリップ殿下の死を悼む 04
ところが、である。歴史的背景からも 日本軍は常に背水の陣の中にいた。事実歴史
的にも、西洋の植民地主義者から言えば、ロシアに勝った、日本は最後の野蛮な独立国
だったのである。つまり江戸時代以前からアフリカを支配し、中東を収め、インドには
英国服従たらしめ、中国さえも砲艦外交で従わせて賠償金をせしめ、残るは東洋の島国
一国になっていた状態だったのだ。遠く南洋も南米も豪州もみんな白人の天下で原住民
は奴隷だったのだ。この締めくくりに日本と対戦する事が必要だ。と白人のソサエティ
つまり知識人クラブは考えていた。そこで対日貿易封鎖を試みたのであって東南アジア
がその戦場の中心になる事は何十年も前、一次大戦前の開国当時からの合意した思惑で
あったのだ。そこでこの中心が当時としてはシンガポールで、重厚な要塞都市として、
省12
19: 2021/04/15(木)04:07 ID:AaoGxqBj0(2/9) AAS
フィリップ殿下の死を悼む 05
こうした日本陸軍の装備を笑っていたフランス軍に異変が起こった。日本軍を迎え撃
つ連合軍司令官はアーサー・パーシヴァル中将だった。4個師団強に相当する8万5千の
兵力があった上7万人の戦闘部隊は38個歩兵大隊は、英印軍17個大隊、イギリス本国軍
13個大隊、オーストラリア軍6個大隊、マレー/シンガポール人の2個大隊と言う混成団で
3個機関銃大隊を基幹としていた。このうち2個師団は1月後に護送船団で到着した者
ばかりであった。新着のイギリス軍M. ベックワース=スミス少将の部隊は、完全編成
部隊ではあったが、戦闘経験と適切な訓練を欠いていた士官クラスだった。又その他の
部隊のほとんどもマレー半島で日本軍の攻撃から受けた損害から回復する時間はなく、
定数を割り込んだ状態であった。現地人大隊はやはり戦闘経験が無く、いくつかの部隊
省13
20: 2021/04/15(木)04:08 ID:AaoGxqBj0(3/9) AAS
フィリップ殿下の死を悼む 06
大日本帝国陸軍の第25軍司令官の山下奉文中将の指揮下には、近衛師団(師団長・西村
琢磨中将)、第5師団(師団長・松井太久郎中将)、第18師団(師団長・牟田口廉也
中将)の3個師団からなる3万強の戦闘部隊があった。戦闘員の数では連合国軍に比べ
はるかに劣っていたが、その練度と経験、装備の性能でもそう勝るものでもなかった。
近衛師団には九五式軽戦車からなる戦車旅団が配属されていて、日本での最新鋭の一式
戦闘機を擁した第59戦隊と第64戦隊がこれらを空中から援護したが、此の戦闘機の活躍
が大きかった。イギリス空軍にホーカー ハリケーンや、アメリカからのブルースター
F2Aバッファローなどの最新の戦闘機と、ブリストル ブレニム爆撃機などセレター
基地などに展開していたが、そんなに性能のいい機体でもなかった。その上、バトル・
省13
21: 2021/04/15(木)04:43 ID:AaoGxqBj0(4/9) AAS
フィリップ殿下の死を悼む 07
こうしてイギリス陸軍は敗北し、シンガポールが陥落したため約8万人のイギリス軍
将兵やイギリス領インド軍兵士、オーストラリア軍将兵が日本軍の捕虜となり、これま
でにマレー半島の戦争で投降した5万人に加わった。さらにセレター軍港や空軍基地を
はじめとするイギリス軍の施設はほぼそのまま日本軍に接収され、インド洋やオースト
ラリア方面に展開する日本軍に活用されることになった。とされる。植民地大国だった
イギリスにとってのシンガポールはインド洋と太平洋、オーストラリアを結ぶチョーク
ポイントであり、「東洋のジブラルタル」とも呼ばれた。それゆえ、シンガポール陥落
と2隻のイギリス海軍の有力戦艦が日本軍に撃沈された事実はイギリスには大きな痛手
と精神的激痛を伴った。既に々時期のマレー沖海戦で海を制され、日本軍に、陸空での
省13
22: 2021/04/15(木)08:47 ID:AaoGxqBj0(5/9) AAS
フィリップ殿下の死を悼む 08
実はプリンス・オブ・ウェールズは船名というより称号であった、イギリスの皇太子
に与えられるもので、それほど作られた当時は英国民の誇りが詰まっていたのだ。今般
チャールズ皇太子も、1958年よりウェールズ公と呼ばれているが、実際の叙任式は1969
年7月1日、北ウェールズのカナーヴォン城で行われている。この撃沈は幾つもの衝撃が
起こっている。まずプリンス・オブ・ウェールズはイギリス海軍のみならず 英国民の
シンボルであった為、これが撃沈した事は チャーチル始め日本憎しの意識や戦争意識
を高める一致団結する事に寄与した。これまで植民地からの奴隷制度も残っていた中で
第一次大戦後に植民地傭兵は栄誉として国民になっていたが、大勢は経済奴隷のままで
英国民とは軋轢があった。ところがそれが解消された。つまり 雑用の居候が落胆する
省13
23: 2021/04/15(木)08:51 ID:AaoGxqBj0(6/9) AAS
フィリップ殿下の死を悼む 09
そうした中、太平洋戦争中、日本軍はタイとビルマとをつなぐ全長415kmにもわたる鉄道
を日本軍は建設した。当時タイは「泰」ビルマは「緬甸」と書かれたので、この鉄道は
泰緬(たいめん)鉄道と名づけられた。泰緬鉄道の建設速度は、驚くほど速くこの鉄道
を建設するためにつぎ込まれた、連合軍捕虜および現地の強制労働者からでた犠牲者数
も、厖大なものだった。からくも生き残り、終戦とともに日本軍から解放されたすべて
の人々にとって、泰緬鉄道は、生涯忘れることのできない忌まわしい思い出として残っ
ている。とされる。
24: 2021/04/15(木)08:51 ID:AaoGxqBj0(7/9) AAS
一九四二年(昭和十七年)の四月、鉄道建設要員が四地域に集結さ
せられた。つまり、マレーの首都のクアラルンプールのプドゥー監獄、シンガポールの
チャンギ地区、ジャワのバタビア(現在のジャカルタ)付近の一連の収容所、そして、
スマトラの西海岸にあるパタン地区の四地域である。これらの捕虜たちはやがて、泰緬
(たいめん)鉄道の現地へ移送されることになった。捕虜の大部分は、シンガポールに
いた兵士で、1942年二月十五日、5万6千人の英・豪軍、6万人のインド軍を指揮
していたパーシバル将軍の兵士達だった。英・豪軍は10日分の食料と最小限の装備品
をもって、島の北西にあるチャンギまで、シンガポール市内を徒歩行進させられて別の
収容所に送られたインド傭兵部隊との接触は、完全に断たれてしまった。補給用食糧の
貯蔵はなくなり、毎日、単調な米飯に切り換えられた。米はもともと、ヨーロッパ人の
省9
25: 2021/04/15(木)08:56 ID:AaoGxqBj0(8/9) AAS
フィリップ殿下の死を悼む 10
バンポンの収容所施設は、アタップ(ヤシの葉)屋根で、竹や葉の原始的な木造建築
だった。その形は、低い側面をもつ、梁のある支柱のテントといったようなものである
。以後、宿舎にはこの方式が継承された。この宿舎の建築は簡単で、材料はジャングル
に自然にはえている竹、ヤシの葉だけを使い、ひもは繊維質の樹皮から作られた。アタ
ップ小屋の建設は技術を要する仕事であり、また多くの経験を必要とした。捕虜たちは
、鉄道作業が終るまでには、熟練工になった。最初に長い竹の棒をテントの支柱のよう
に地中にさし込み、建築のための柱とし、それから別の竹を小屋の梁(はり)として、
柱に直角に水平におき、この梁に別の竹を取りつけて屋根の支えとした。多くの小屋は
、垣根が地上にとどくほど傾斜していたので、側壁をもっていなかった。屋根の覆いは
省13
26: 2021/04/15(木)09:03 ID:AaoGxqBj0(9/9) AAS
フィリップ殿下の死を悼む 11
ところがである。41’年12月に開戦して快進撃に陥っていた日本軍に、あっと言う
間に6月ミッドウェー海戦で航空隊がやられ、8月のソロモン沖海戦で空母がやられる
のである。これで南方のソロモン諸島やニューギニア島が玉砕されガダルカナル島撤退
に陥るのである。更にドイツがアントン作戦でフランスを配下にしてスターリングラー
ド包囲に向かうと、日本陸軍もどういう訳か43’年インパール作戦を決行するのであ
る。インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦)は、第二次世界大戦(大東亜戦争)の
ビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に帝国陸軍により開始、7月初旬までの
継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市
省15
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