くまんこっ! Part2 (51レス)
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12: 2023/07/12(水)19:35 ID:AApGezaU0(1/3) AAS
 ?・・・・陰間と衆道
 奈良・平安時代には仏教の広まりとともに、寺院での男色もかなり広まったと考えら
れている。奈良時代には貴族の子弟が寺院に入り、僧の身の回りの世話などをすること
が制度として確立した。男色の対象とされた少年達は、元々は稚児として、寺に入った
者ら達である。彼らは有髪の少年は寺稚児、垂髪、渇食などと呼ばれた。こうした稚児
を寵愛する風習は、奈良時代以降から、かなり仏教界に広まっていた。天台宗などでは
僧と稚児の初夜の前に行われる「稚児灌頂(ちごかんじょう)」という儀式があった。
稲垣足穂『少年愛の美学』に詳しくかく。灌頂を受けた稚児は観音菩薩の化身とされ、
僧侶は、灌頂を受けた稚児とのみ性交が許された。寺社内での男色を知る貴重な資料に
、平安時代に成立したとされ、稚児灌頂について記された『弘児聖教秘伝』や、大分後
のもので、京都醍醐寺所蔵の「稚児之草紙絵巻」(元享元年鎌倉末期)などが存在する。
奈良時代には、めぼしい男色の記録はないが『万葉集』には、大伴家持らの男性に宛て
た。と、思われる恋愛を詠んだ和歌が、多数収められている。また、奈良時代後期には
孝謙天皇の、皇太子に立てられていた皇族・道祖王が「先帝(聖武天皇)の喪中である
にもかかわらず、侍童と姦淫をなし、先帝への服喪の礼を失した。」などの理由で廃嫡
に追い込まれた。との記録がある。つまり男色には、ちゃんと掟や決まりがあってその
行為で、皇太子さえも廃位させられたのだ。平安時代末期には、この風習の男色の流行
が公家にも及んだ、その片鱗は、例えば、複数の男色関係を明言している時の権力者の
藤原頼長(平安時代末期)の日記『台記』に窺える。また源義経(平安時代末期- 鎌倉
時代初期)と、武蔵坊弁慶や佐藤継信・佐藤忠信兄弟との主従関係に、制度的な片鱗を
見出す説がある。北畠親房(鎌倉時代後期- 南北朝時代)は『神皇正統記』で、男色の
流行に言及しており、その頃にも流行していた証拠とされている。14世紀(鎌倉末期-
室町初期)に成立したと推定されている『稚児観音縁起』には稚児と僧の関系が描かれ
ている。
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