くまんこっ! Part2 (51レス)
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13: 2023/07/12(水)19:36 ID:AApGezaU0(2/3) AAS
?・・・・陰間と衆道
その後、平安末期には武士社会は台頭していたが、中世室町時代には武士の間で男色
が盛んになり、その主従関係の価値観と重ね合わせられた。後にこの関係は「衆道」と
呼ばれた(後述)。三代将軍・足利義満は、能役者の世阿弥が少年だった頃、彼を寵愛
したようだ。この二人の男色関係は、芸能の発展において多大な影響を与えたとされて
いる。また六代将軍・足利義教は、赤松貞村という武士を愛して領地を加増した。その
後、同族の赤松満祐に これを不満に思われたことも理由の一つとなり、義教は、暗殺
された。八代将軍・足利義政は有馬持家、烏丸資任ら寵童を側に置いた。その他の武士
にも男色を風雅の道として行う者がいた。この時代に成立した能や狂言には、男色が、
とても多く取り入れられており、代表的なものに『菊慈童』、『花月』などがあるとい
う。また『幻夢物語』、『嵯峨物語』、『鳥辺山物語』などの稚児物語が多くつくられ
、内容は公家や寺院におけるものが多くを占める。これは物語をつくる能力が、公家ら
に独占されていたからだとされ、武士の間で男色が少なかったことを意味してはいない
。しかし、この衆道も、戦国時代の随筆「梧窓漫筆」に、「戦国の時には男色盛んに行
なはれ、寵童の中より、大剛の勇士多く出づ。」とあるように、戦国時代には、武士の
男色がますます盛んになった。戦国大名が小姓を男色の対象とした例は数多く見られ、
織田信長(1534年)と前田利家・森成利(蘭丸)の例は有名だ。他も、武田信玄(1521年)
と姓不詳の小姓・源助(信玄は源助に対し別の小姓・弥七郎との関係を否定する起請文
を提出している)。上杉景勝(1556年)と清野長範、伊達政宗(1567年)と片倉重綱・只野
作十郎(政宗から浮気を疑われた作十郎は疑いを晴らす為、自ら腕を刀で突き血でした
ためた起請文を送っている)、豊臣秀次(1568年)とその美貌が後世まで語り継がれる、
不破万作などが有名な例として挙げられる。武士道と男色は矛盾するものとは考えられ
ておらず、後の江戸時代中期に出された武士道について説いた『葉隠』にも、男色を行
う際の心得を説く一章がある。しかし衆道では浮気は法度らしく、死を意味した。
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