台湾の偉人 Part10 (770レス)
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60: 2022/07/29(金)19:39 AAS
 
つづき

 対する李はしかし、「突然、総統になったが、権力も派閥も何もない、カランカランの状態だった」と当時を振り返った。台湾出身である本省人の李の最大の弱点は、蒋経国という後ろ盾を失った時点で、中国大陸出身の外省人が中枢にいた国民党の内部に、なんら権力基盤をもっていなかったことだ。(河崎真澄著『李登輝秘録』)

 李登輝は外省人ではない。台湾生まれで本省人と呼ばれる。蒋経国に見出され、彼の急死によって副総統にあった李登輝が総統の座を引き継いだ。後継の座を虎視眈々と周囲が狙う四面楚歌。誰ひとり味方のいない中で、ひとつ間違えば失脚が待っている。

 蒋経国逝去の前年、1987年7月15日に戒厳令が解除されていたとはいえ、それで一気に民主的な社会に様変わりしたわけではない。民主化は、少しずつ、一歩ずつ、切り拓かれていった。

党の軍隊から国家の軍隊への移行

 では、鄭さんは総統時代の李登輝の功績はどんなことだと捉えているのか。「国民党の軍隊から、中華民国の軍隊に切り替えた」ことだと言う。

 「軍隊というのは本来、国家のものであるはずなのに、台湾では国民党が支配していました。李登輝さん以前の軍は国民党の軍だったんです。それを、李登輝さんは調査機関や軍隊を全部、国の機関にした。それと、参謀総長だった郝柏村をまず国防部長にして、それから行政院院長にした。軍は全部、郝柏村が抑えていたのを、まず彼から軍の統帥権を取り上げて、次に行政長官にした。2段階に分けて全部取り上げたんです。だから、李登輝さんはすごいんですよ」

 当時の軍の位置付けについて、次のような記述がある。

 1988年以前、戒厳令下の党国一体体制では中華民国国軍は事実上国民党の軍隊であった。国防部(防衛省)の下に政治部と呼ばれる政治工作を専門とする情報局(通称は軍統)があり、加えて法務部の下に調査局(かつては国民党の下部組織で通称は中統)があり、この3つの系統による複雑な情報機関と治安警察とを合わせて、特務機関として「内部の敵」に対して治安維持の機能を発揮していた。特に初期には、特務警察が「99人の冤罪者を出しても、共産党のスパイを1人たりとも逃すな」とのスローガンの下に、密告や自白の強制を奨励し、多くの「政治犯」を作り出した。(『台湾を知るための60章』「第55章安全保障」明石書店)

 ここで改めて押さえておきたいのは「民主化」とはどういうことなのか、である。辞書には、次のように定義されている(リンク)。

 考え方や体制などを、民意が反映するように変えること。より民主的なものに変えていくこと。また、考え方や体制などがそのように変わっていくこと。

 日本は台湾と違って民主主義がある種、“自動的に”付与された。一方の台湾はそれまで民意の反映されない社会だった。歴史的経緯や李登輝本人の言から、蒋介石以下、外省人が社会の中枢で実権を握り、政権運営は彼らが行っていたことが伝わる。李登輝は、中枢にたどり着いたとはいえ、その座をどうすれば維持できるか、必死だったはずだ。著作には、長老のもとに通い詰め、地固めしていた様子が描かれている。

国防予算と権力の移行
 そして、軍である。今でこそ、国家予算全体の20%以下という台湾の国防費だが、過去の数字を見ると大きく変化してきた(数字は中華民国「國防報告書」各年度より)。

台湾の国防予算比率の推移(%)
1983年度 57.15 ←戒厳令解除前
1987年度 50.80 ←戒厳令解除
1989年度 47.42 ←蒋経国逝去の翌年
1992年度 27.74(2,712億元) 
1996年度 22.76(2,583億元)←直接選挙で李登輝総統誕生
2001年度 16.48(2,697億元)
2006年度 16.06(2,525億元)
2017年度 16.18(3,193億元)←蔡英文総統の2年目
2021年度 16.94(3,618億元)

 李登輝が総統に就任した当時、国家予算の半分が国防予算だった。国防予算の変遷をまとめたある論文によれば、1970年代から1980年代半ばまでの台湾は、断交など国際的に不利な立場にあり、国防費を上昇させていたと分析している。

 そしてこの頃、参謀総長の立場にあったのが、郝柏村(1919-2020)であった。この人物は中国・江蘇省生まれで、1937年に入隊。蒋介石と共に1949年、台湾に渡り、一貫して軍人としての道を歩んできた。そして蒋経国本人から軍権を渡されたのが張本人である。李登輝が恐れないはずはない。後年、李登輝本人が次のように語っている。
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