【愛媛】[新居浜市]新居浜太鼓祭り[2019/10/15-18] (319レス)
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25: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/08/28(月) 17:18:23.91 ID:i3UHc2su 65歳を過ぎると、どんなに注意をしていても、調子の悪いところが1つ、2つと増えていきます。それが 「老いる」ということであり、生きている証です。ところが、医療では、病気を薬の力で抑え込もうとします。 オーストラリアでの調査報告では、全入院患者の3%前後が、薬の服用に起因した入院でした。 高年の患者ではその比率がさらに高くなり、15〜20%とされています。 薬の飲みすぎで重篤な状態になる人が、こんなにもいるのです。 薬を処方しすぎる薬大国・日本では、その比率ははるかに高いと見て間違いないでしょう。 実際、それによって患者さんの健康を害することが起こっています。薬の数が増えれば、 必然的に副作用も多くなります。ちなみに高年者の場合、薬の数が6種類以上になると、 副作用が増えるとされています。「最近、頭がボーッとするし、寝込むことが多い」と思っていたら、 多剤服用による副作用だったケースも珍しくありません。認知症と間違われたり、 足元がふらついて転倒し、寝たきりになったりすることも起こっています。 では、なぜ、日本の医師は薬を多く出しすぎるのでしょうか。最大の理由は、医療の専門分化にあります。 ある時期から、医学教育の専門化が進みました。たとえば、大学病院には内科という診療科はなく、 呼吸器内科、内分泌器内科、消化器内科、循環器内科というように、臓器別の診療科が並んでいます。 日本の医学教育には、オールマイティに患者さんを診られる総合医を育てる教育システムがほとんどなく、 専門医はほかの領域に関して詳しい知識が、ほぼありません。このために、 大学病院などの大きな病院を受診すると、1つ調子が悪いところが現れると、受診する診療科も増えます。 各診療科では、それぞれ薬が処方されます。調子の悪い箇所が1つ、2つと増えていけば、 そのたびに新たな薬が追加されていきます。このため、大病院にかかると、 高年者は薬漬けになりやすいのです。では、開業医のところに行けば、 多剤服用の問題は避けられるのでしょうか。たとえば、内科クリニックの医師も、 もともとは大学病院や大きな病院で特定の臓器だけを診てきた医師が、ほとんどです。 医学部で基本的な知識は学んでいるため、専門外の患者さんを診ることはできます。 ただし、医師は、専門外の疾患に対して、医療マニュアルに頼ります。 標準治療を示すマニュアルには、1つの疾患に対して2〜3種類の薬が推奨されています。 そのため、薬についてしっかりと勉強していない医師を受診すると、不調の数とともに、 薬の数も増えやすくなるのです。「毒を以って毒を制す」。これは、薬の本質を示す言葉です。 病気という毒を、薬という名の毒を使って抑え込むため、病気以外の場所にも作用します。 たとえ1つの病気を抑えられても、作用は他所にも及び、意図する反応とは異なる症状を生み出します。 これが副作用です。ですから、自分が飲む薬については、副作用を確認しておきましょう。 薬が処方される際、効能の話はあっても、副作用の説明はされないことが大半です。その場合には、 患者さん自身が、「この薬にはどんな副作用がありますか」と尋ねましょう。患者さんが尋ねれば、 信頼に足る医師なら、きちんと答えてくれるはずです。薬を飲み始めて体調が悪くなったと感じたときには、 頑張って飲み続ける必要はありません。すぐに体調の悪化を医師に相談して、 服用をいったんやめるか、別の薬に替えることが、ご自身の健康のために必要です。 副作用の話をすると、「絶対に薬を飲まない」という極端な選択をする人がいます。 しかし、それで人生のご褒美時間を楽しむだけの健康を保てるでしょうか。 薬の使用も、白か黒かの二分割思考ではなく、副作用のリスクを理解しつつ、 必要な治療は取り入れていくという、自分なりのグレーの部分を見つけていきましょう。たとえば、 何十年も、就寝前に市販の頭痛薬を飲み続けている高年の女性が、患者さんにいます。それを飲むと、 よく眠れるのだそうです。医学的に見れば、睡眠の質という点において、その薬に意味はありません。 むしろ、依存性や胃腸への負担も大きく、継続して飲まないほうがよいと伝えたいところです。とはいえ、 患者さん自身にとっては、今のところ困った症状は何も出ておらず、それを飲むことで気持ちが落ち着き、 よく眠れるといいます。ということは、飲み続けることが、彼女にとって最良の選択となります。 このように、その薬が自分に必要かどうかは、自分の体と心が教えてくれるのです。 私も、自分自身の健康管理のために、薬を何種類か服用しています。まず、胃腸薬を飲んでいます。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/25
26: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/08/28(月) 17:25:47.99 ID:i3UHc2su なぜ飲むのかといえば、慢性の下痢や胃痛に悩まされているためです。 飲んだほうが一日を元気で過ごせるため、服用しています。高血圧の薬も飲んでいます。現在のところ、 薬を飲まないと最大血圧が200mmHgを超えるほど上がるので、薬の力を借りているのです。 なお、血圧の正常値は、最大血圧が140未満mmHg、最小血圧は90mmHg未満です。 高血圧治療ガイドラインが示すこの数値まで血圧を下げると、 頭がボーッとしてどうにも調子がよくないので、正常値より高めの170mmHgを維持しています。 この数値だと頭がスッキリして思考力が保たれ、元気に過ごせるのです。すでに動脈硬化がある高年者に、 正常値より数値が高いからといって「薬の力で正常値まで血圧を下げる」という引き算医療は、 ダメージを与えます。動脈硬化を起こすと、血管の壁が厚くなります。 そのため、血圧を多少高くしてでも血液を巡らせないと、脳に酸素や栄養素が届きにくくなります。 つまり、加齢によって血圧が高くなるのは、動脈硬化に対処するための適応現象なのです。 にもかかわらず、正常値まで血圧を下げると、脳は酸素と栄養が不足します。これによって、 頭がボーッとする、だるい、足がヨタヨタする、などの不調が現れます。低血圧の人は、体がだるい、 動くのが億劫になるなどの症状を訴えます。それと同じ状態が、高血圧の人が降圧剤を多く飲むと、 人工的に作り出されてしまうのです。ですから、高齢者は血圧を高めにコントロールするほうがよい、 と考えます。また、血糖値が高くなった場合も、薬で正常値まで下げる引き算医療が始まります。 血糖値も、動脈硬化が進むと、脳にブドウ糖を送るために高くなるのが自然現象です。 それなのに、血糖値を下げる薬を使ってしまうと、正常値を維持していたとしても、ふらつきや動悸、 痙攣といった低血糖の症状が出ることがあります。なお、「糖尿病はアルツハイマー病を引き起こす」 という人がいますが、それは「糖尿病の治療を受けている人」の話です。研究結果では、 糖尿病の人は糖尿病でない人に比べ、アルツハイマー病の発症率が3分の1にとどまっていました。 この結果もあり、病院では血糖値を高めにコントロールしていました。自身も糖尿病ですが、 歩くこととスクワットで血糖値が300mg/dLを切ることを目標にコントロールしています (基準値は110mg/dL以下)。300mg/dLを超えたときだけ薬を飲んでいます。 糖尿病合併症が起こりやすい眼底と腎機能の検査は定期的に受けていますが、 今のところ問題は起こっていません。薬の服用は最小限にとどめ、 不調のときに飲むように心がけるとよいでしょう。脳の老化は前頭葉から始まります。 前頭葉とは大脳の前部にある部位の1つであり、知能や人格、理性、言語、運動などを司っています。 ここが衰えてくると怒りっぽくなったり、気分がふさぎ込んで不機嫌になったり、 意欲や好奇心が失われたり、身の回りに無関心になったりするほか、 長引けばうつ状態になってしまいます。 さらには車の運転に必要な注意力や判断力といった能力の低下にもつながります。その意欲や判断力、 記憶力の衰えは、加齢による男性ホルモン(テストステロン)の分泌の減少によって引き起こされます。 その減少を食い止めるに一番手軽にできることは、 男性ホルモンの分泌促進効果がある食べ物を摂取することです。男性ホルモンの分泌促進には、 アミノ酸を多く含むタンパク質をとることが必要です。そして、その理想的な食べ物が「肉」なのです。 肉にはトリプトファンという必須アミノ酸が多く含まれています。 これはセロトニンという神経伝達物質の材料となり、 さらに肉に含まれるコレステロールが脳に運んでくれると考えられています。 セロトニンとは別名「幸せホルモン」と呼ばれ、幸福感と密接に結びついている物質です。 これが減少してくると気分が沈んだり、イライラしたり、感情の不安定さを招きます。 しかもセロトニンは加齢によって減少していく物質であり、その減少が認知症の原因となります。 このように、タンパク質が不足すると様々な弊害が生じます。肉を食べることは、 セロトニンをつくる手助けにもなるのです。肉以外にも、男性ホルモンを合成するために必要な「亜鉛」 を含んだ食材(牡蠣など)、末梢血管を広げて血行を促進して脳を活性化する「ビタミンE」を含んだ食材 (ほうれん草など)、認知機能や筋肉の衰えを防ぐ「ビタミンD」を含んだ食材(鮭など)なども有効です。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/26
27: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/08/28(月) 17:31:58.75 ID:i3UHc2su 加齢とともに徐々に食が細くなっていくので、普段の食事にできるだけこれらの食材を取り入れて、 日頃から認知症予防を心がけていきましょう。高齢者の方々は男性ホルモンが減少しがちです。 これが減っていくと、物事に取り組む前向きな意欲が衰えてきます。物事を記憶するのに役立つのが 「意欲」や「好奇心」ですので、男性ホルモンの低下は、記憶力の減退につながっていくのです。 男性ホルモンが減少してきますと、短期記憶を担っている神経伝達物質 「アセチルコリン」がつくられにくい状態になります。最近の研究では、 男性ホルモンが記銘力の中枢である海馬という部分に直接働きかけることも知られています。 つまり男性ホルモンが減ると、記憶力が悪くなってしまうのです。男性ホルモンの減少には、 肉や魚などのタンパク質を多くとることです。食べ過ぎると「コレステロール値が高くなるから」 と気にする方もいらっしゃいますが、一般的に言われている「善玉コレステロール値」や 「悪玉コレステロール値」というのは、数値がいわゆる「正常値」より少々高くても健康には関係なく、 逆にコレステロール値が低いと問題が起こります。善玉、悪玉という区別は動脈硬化にとってだけの話で、 実は悪玉コレステロールと言われるものは男性ホルモンの材料になっているのです。 「私は胃が健康だ」「私は脳の衰えが少ない」と言っても、胃だけで生きている人はいませんし、 脳だけで生きている人もいません。「健康の良し悪し」は総合的にしか判断できず、 その「総合的」な判断には、「統計」しかないのです。統計によると、 コレステロール値が少し高めのほうが長生きできるということなので、 それが最も健康的な方法という結論に至ります。歳をとってくると、食欲が落ち、 食が細くなっていく一方です。しかし、食事は軽食だけで済ませないようにしましょう。 どうしても食べる気にならない人は「好きなもの」を食べてください。好きなものなら、 食欲がなくても食べられるでしょう。肉や魚、麺類から加工食品、ジャンクフードまで何でもOKです。 身体(脳)が欲している、食べたいと思っている、その気持ちを優先しましょう。 加工食品に関していえば、発がん性物質を多く含んでいると言われるものもありますが、 それを食べて実際にがんを発症する確率は、100万人に1人とか、ごく稀なスケールの話に過ぎません。 いちいち怖がっていたら、何も食べられなくなります。中国や台湾では、人工調味料をたくさん使います。 中華料理には「うま味調味料」が当たり前のように入っています。それに比べて、日本の食品添加物なんて、 微々たるものです。一般的に身体に良いとされている食べ物が全ての人に効果的だとは限りません。 慢性型のアレルギーは一人ひとり違うものです。以前検査で「海藻やそばが良い」と言われ、 意識してたくさん食べていたら、逆に海藻やそばの慢性型アレルギーになってしまいました。 一般的に「身体に良い」と言われているものでも、自分にはあわないこともあるのです。 「誰にとっても良いもの・悪いものはあまりない」という考え方のほうが人生楽しく生きられます。 カレーや牛丼といった高カロリーな食事でも、あえて避ける必要はありません。 そのとき食べたいものを食べればいい。夜中にラーメンを食べたければ食べればいいのです。 ラーメン屋巡りが大好きですし、カップラーメンも食べます。 自分の身体や脳が欲するサインに対して素直に応じ、食べたいものを食べればいいのです。 コレステロールは脳に良い、という話をしましたが、脳に栄養を行き渡らせるために、 朝食はしっかりとりましょう。朝はブドウ糖が不足しているからです。 普通、朝食と昼食の間は4時間ぐらいです。昼食と夕食の間は、だいたい7時間ぐらい。ところが、 夕食から朝食までは12時間もあります。つまり、低血糖を一番起こしやすい時間帯は、朝なのです。 ブドウ糖が不足した状態は、脳の働きには絶対良くありません。 もちろん記憶力にも大きなマイナス要因です。脳はものすごくエネルギーを消費します。 1日中勉強をしていると、運動もしていないのに、お腹が空いた経験のある方も多いことでしょう。 朝、ブドウ糖が不足している脳には、できるだけ早くエネルギーを補給する必要があるのです。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/27
28: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/08/29(火) 16:12:30.96 ID:OAgKLQXP 世界の見え方や人との関係性も変わってしまうということです。 人間が記憶を持つのは4歳くらいだと言われています。言葉が使えるようになってから、 ああしてーこうしてーこうなったという、時系列を持った物語記憶ができるようになるのが大体4歳なんです。 4歳までは、時系列という物差しがない感情的な記憶や身体感覚、 自律神経系の反応を身体が無意識に覚えているんです。0から4歳までの間に守ってもらえなかったとか、 愛されなかった、私は大切にされないとか、私は生きていてはいけないとか、 そういうネガティブな感覚っていうのは身体感覚として右脳に残っているといわれています。 そして私達は、その感覚を映写機のように現実に投影します。 ネガティブな体験をいろんな人間関係に投影してしまうんです。ネガティブな感情のフィルターがかかって、 世界が汚染されてしまう。トラウマは世界の見え方も変えてしまうんです。 例えば約束の時間に相手が少し遅れてきたとしたら、 もう自分が大切にされていない理由になってしまうんです。加害被害の意味付けをしやすくなってしまう。 例えば、相手が遅れて「ごめんね遅れて、急いだけど電車が遅れちゃった」と言われた時に 「嘘だ!言い訳して!」と捉えてしまったら、対人関係ってうまくいかないですよね。 でも本人は意地悪でそう思うのではなくて、本当に大切にされてないと感じているし、 そう感じることが本当に苦しいからそう思ってしまうんです。その背景には、 覚えていないような時期の解消されない怒りが深いところにあるんです。被害を受けた人が、 他者に対して被害意識が強くなって、厳しく接してしまい、人間関係が築きにくくなってしまうんですね。 さらにトラウマによって、物事の捉え方自体が変わってしまう。 “問題がある人”みたいに思われてしまうけど、辿っていくとすごく傷ついた体験があるんですね。 確かにすごく傷ついた人は、言われたことを曲解してしまったり、 全部自分を責めている言葉のように捉えて、攻撃的になってしまって、 不要な衝突や不和がおきてしまうということはあります。見方がすごく固定的なものになって、 俯瞰できなくなってしまうんです。他者に対して信頼が持てないから、 基本的に人が怖いし、誰の言うことを信じたらいいんだろう、誰も信じられないとなってしまう。 偏屈な人だなとか、被害者的になって人を責めるとか言われやすいですが、 本当は深いところにある解消されていない傷や感情が物事の見え方に投影されてしまっているだけなんです。 周りとの繋がりがよくて、すくすく育った場合、「耐性の窓」といって、感情の耐性が大きくなるんです。 だけどトラウマのある人の本当の耐性の窓は小さいんです。赤ちゃんも耐性の窓が小さいですが、 何かあるとギャーッてすぐ泣くし、ちょっとびっくりするとことんって寝ちゃいますよね。逆境体験、 例えばDVの目撃をしていたとします。お父さんと母さんに助けを求めることも上手にできなかった。 そうすると何が起きるかというと、いい子のふりをするようになるんです。 まるでやれているみたいだけれども、実はそうじゃない。 やれてますと言っていても、キャパをはるかに超えてとても無理している状態。 「偽りの耐性の窓」といいます。こういう人はとても多いと思います。 自分の状態がトラウマの影響を受けているということに気づくことって難しいですよね。 基本的に自分が受けた傷は過小評価してしまいがちだと思います。 自分がこれだけの被害を受けたというのを受け止めることってすごく力がいるので、 別に自分は大丈夫だったって思うようになってしまいます。平気平気って思ってしまうんですよね。 認めていたら生きてこられなかったと思います。認めないことによって精一杯生きてきたから、 それはおかしなことでも悪いことではないんです。だから、今まではそれでやれてきたことに感謝して、 気づいたら着ぐるみを脱いで、自分の小ささや幼さを愛しんで、 小さい耐性の窓を少しずつ広げていくことができたらいいですよね。 「人々が抱える生きづらさや傷つきやすさの背景に心的外傷(トラウマ)があるかもしれないと、 みんなが考えるようになれば、きっと優しい社会になる」とおっしゃっていましたよね。 確かにちょっと人間関係が築きにくい人を見た時に、 “嫌な人”って思ってしまうんですけど、その人も何かしら被害を受けて、酷く傷ついて、 自分でもどうしようもないけれど人を疑ったり責めてしまうのかもしれないという視点は必要ですよね。 トラウマによって、ものの見方自体が変わるというのはすごく驚きですし、知られていないですよね。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/28
29: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/08/31(木) 10:29:10.22 ID:eKeHZvmY この精神医療の世界に関わって15年ほど。これまで数多くの方と知り合ってきました。 不必要な薬によって人生を左右されてしまった人も多くいます。そうした中、先日、 フェイスブックを覗いていたら、ふと、以前「統合失調症」という診断を受け、大量の投薬、 その後入院までした方が、現在は介護士として活躍している記事にぶつかりました。 あの人が介護士になっていた!大量の薬による副作用から不安定になり、 そのことで薬への不信感が生まれて、自ら薬を減らしていって、断薬。もちろん通院もやめたしまったところ、 病院からは受診するようにとの矢の催促をうけました。それでも、障害者手帳を返納して社会復帰をする、 という決意までは知っていました。が、その後の数年は連絡も途絶えたまま。その人が介護士として、 来年には国家資格にも挑戦するとのこと。もしあのとき、医師の言うなりに「治療」を続けていたら、 薬を飲み続けていたら……。そう考えると、まったく不思議な気持ちになってきます。 医療という前提のもと、統合失調症と診断をして、治療のために薬を飲ませる。 その行為がどれだけその人のためになっていたのか。普通、医療というものは、 その人のために行われる行為のはず。しかし、精神医療に限っては、どうもそう単純な話ではないようです。 統合失調症は放置しておいてはいけない(その人のためにも、あるいは社会のためにも)。といっても、 まあ、前者は後者を守るために精神医療が作り出した詭弁でしょう。だから、アウトリーチをしてまでも、 「統合失調症」と診断した人につきまとうのです。自分たちの診断力がどれほどのものなのか、 わかっているのかと、この方の例を待つまでもなく、問いたくなります。もしあのとき「治療」を続けていたら……。 いや、もしあのとき「薬」をやめていたら……。どちらも人生が大きく変わっていた可能性のある「医療」。 「医療」から離れたことで「病気」から解放されるとしたら、いったいこれまでどれくらいの人が 「医療」を受け続けることで、あったかもしれない可能性をつぶしてしまってきたことか。 あるいは、使われてしまった「薬」のために、もう「薬」から逃れられなくなってしまって、 本当の病人としての人生になってしまった人もいるでしょう。しかし、精神医療の側から見れば、 いやいややっぱり「病気」だったから、薬がずっと必要なのだ、ということになります。 そのあたりのことが、非常に巧妙にこんがらがっているのが精神医療の世界です。 それにしても、離れたことで人生が好転していく医療とは、いったい何のでしょう。この人が特別なの? いやいや、同じような人をこの15年、たくさん見てきました。それはいったいなぜなのか? ずっと私のなかでくすぶり続けている問題です。(薬が必要な人もいる。 薬があるから人生が成り立っている。たぶん、そういう意見が精神医療にぴったりはまって、 くすぶり続ける問題をさらに深い霧の中へと押しやっているように感じます。)だからといって、 今薬を飲まれている人が、急激に薬を減らしたら、やめたりしたら、大変なことになります。 それも精神医療、精神薬の巧妙さ、面倒なところです。今より状態が悪くなる可能性もあり、 さらに精神医療に深くはまることになります。どうか減薬、断薬は慎重のうえにも慎重に。 精神薬は生易しいものでないことを肝に銘じてください。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/29
30: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/08/31(木) 20:24:43.47 ID:eKeHZvmY 日々、カウンセリングをしていて、目の前のクライアントの話を聴けば、「この人は、どのような薬を、 どのくらいの量、どのくらいの期間飲めば、どのくらい良くなるのかそれとも良くならないのか」 概ね判断がつきます。精神医学や薬の知識は、カウンセリングスクールではなく、 大学で習い、身につけました。さらに、精神科医が書いた本を読むなどして勉強しました。 薬が効きそうなクライアントには、病院に行くことを勧めます。もちろんタイミングは見計らいますし、 慎重に言葉を選んで病院に行くことを勧めますが。薬が必要なクライアントに対し、 病院に行くことを勧めないのは、心理臨床家として不誠実だと思っています。 そんな中、「薬は絶対に飲みたくない」とおっしゃる人に会うことがあります。そんな、 病院に行くことを頑なに拒否する人に、その理由を尋ねると、「薬は所詮、対症療法に過ぎないから、 根本解決には結びつかないから」とおっしゃったり、「病院に行くと、薬漬けにされ、 廃人になってしまうから」とおっしゃったりすることが多いです。そんなクライアントに対し、 大切なお薬の話をしたいと思います。まず、1番目の「薬は、対症療法に過ぎないから」 というご意見ですが、ひとくちに心の病と言っても、心の病にもいろいろあります。 例えば神経症=ノイローゼの場合は、薬は対症療法に過ぎないという面は確かにありますが、 うつ病や双極性障害や統合失調症などの精神病の場合は、対症療法とは言えない部分が多々あります。 というのは、神経症の場合は、環境調整および認知を変えることが根本解決であり、 お薬の服用が根本解決にはならないという面が確かにございますが、 精神病の場合は、脳の神経化学伝達物質の量に異変が生じて、症状が発生しているわけですから、 お薬を飲んで脳の調子を整えることが根本解決になる場合が大いにあるということです。 ですから、「お薬を飲むことは、所詮、対症療法にしか過ぎない」というのは、正解とは言えません。 「誤りである場合がある」と言えます。続いて、「病院に行くと、薬漬けになる」というご意見ですが、 そうなることもありますが、そうならないことのほうが圧倒的に多いです。 特に、最近の精神科医は、お薬を出すことに大変に慎重になっており、よって10年20年前と違って、 薬漬けになる恐れは非常に少ないということが言えます。ただ、ここからが、本題になるのですが、 世の中には、薬が比較的よく効く心の病と、薬があまり効かない心の病があって、 薬があまり効かない心の病を抱えている人は、医師に向かって、「薬が効かない、全然良くならない」 ということは、なるべく訴えないほうがいいです。何故なら、そんなことをすると、 医師は薬をどんどん増やそうとしかねないからです。精神科医の仕事は、 患者の心に寄り添うことではありません。精神科医の仕事は、患者に薬を出すことです。 薬があまり効かない心の病を抱えている人は、薬を少し飲もうがたくさん飲もうが、 やっぱり良くはなりません。そういう場合、薬を効かない患者さんは、医師に向かって、「薬が効かない、 全然良くならない」ということを訴えることが多くなるのですが、「その結果、どうなるか」と言いますと、 さらに薬をたくさん出され、そしてたくさん飲むようになり、やがては、「調子が悪いのは、 病気のせいなのか薬の副作用によるものなのか」 わからなくなってしまいます。 よって大切なことは、薬を飲んで良くならない場合に、「どうしたらいいか」考えることです。 「医師に、薬が効かないことを繰り返し訴え、薬を増やされるのがいいのか 薬以外の方法で治すことを考えるのがいいのかどっちなんだ」ということです。精神病院に行って、 薬漬けになってしまう人の多くは、薬があまり効かない心の病を抱えているにも関わらず、 薬だけで治そうとしている人であることが多いということは言えるでしょう。 逆に、薬が比較的よく効く心の病を抱えている人は、少量の薬でもよく効くので、 薬がどんどん増えていってしまうことはなく、よって薬漬けになる恐れはありません。 ちなみに、割合で言えば、薬がよく効く心の病の人は、少ないです。 薬があまり効かない心の病の人のほうが多いです。にも関わらず、今日も、 お薬を出すだけの精神病院は患者さんでいっぱいです。もう1度言います。心の病になって、 薬を飲んで効かなかった場合は、医師にそのことを繰り返し訴えないほうがいいです。 何故なら、そのような行為をすると薬漬けになってしまう恐れがあるからです。 大切なのは、薬を飲んで効かなかった場合は、薬以外の方法で治す方法を考えることです。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/30
31: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/01(金) 21:04:09.44 ID:QtJB7iAu 「時間外労働の実態は申告よりはるかに多かった」旨を主張している。 同院で事件後に作成された「医師の時間外労働と自己研鑽についての取り扱い指針」によると、 「手術や処置等の予習や振り返りは自己研鑽」「(業務/自己研鑽は)最終的には上司が判断します」 などの文言が並んでいた。「長時間労働の軽減」「再発防止」というより 「書類上の労働時間を減らして、病院管理者の罰則を避けたい」としか思えない内容であった。 大学病院や有名病院の多くは公立病院であり、令和になっても年功序列文化が強い。 常勤医はめったにクビにはならず、管理職として決定権を持っているのは60〜 70代の高齢男性がほとんどだ。高齢管理職医師は概して「若手はベテランの決定に従うべき」 「最初の10年は24時間体制で滅私奉公すべき」という昭和的感覚から卒業しておらず、 その結果「めんどくさい問題は若手に押し付ける」ことで職場内の諸問題を片づけたと錯覚しがちだ。 それでも昭和時代のように「外科や内科には、毎年10人以上の若手医師(しかも男性が大部分) が就職する」時代ならば、組織はピラミッド型となり、年功序列にモノを言わせて「雑用は若手」 方式でも組織は回った。しかしながら、近年の若手医師は自分の生活優先タイプが主流となり、 かつてメジャー科と呼ばれて花形だった外科や内科は「拘束時間が長くコスパが悪い」と不人気科となり、 新規就職者も減少の一途である。加えて、女医率は上昇の一途であり、育休・育児時短は「当然の権利」 となった。それ自体は問題ないが、同僚が育休や時短を取得しても患者数や仕事量は変わらない。 育休時短職員の仕事の穴埋めは、同僚や後輩の無料奉仕でカバーされることが多く、 特に若手男性医師は穴埋め要員とされやすい。 本病院のホームページを確認すると内科に女医は少なくないし、 また内科の中だけでも「部長」「診療部長」「参事」「消化器センター長」 「副院長」「院長代行」と序列は不明だが管理職を想起させる肩書の医師が多い。 「不人気内科の少ない若手」「多い管理職」「増える女医率」のような環境で、 「内科には毎年10人就職」だった昭和的感覚の管理職が数少ない若手医師にバンバン仕事を回せば、 若手医師はメンタルを病んでしまっても不思議はない。 内科外科の不人気と表裏を成して、美容医療への就職が大人気である。 美容外科を全国展開するTCB東京中央美容外科の2022年医師採用実績は119人だったそうで、 大学病院研修医採用数ベスト3の東大病院(97人)、東京医科歯科大(94人)、 京大(75人)を超える時代となった。「初年度平均年俸2500万円」とうわさされる一方で 「コロナ前は3000万円だったのに」「1年で3割が雇止め」とささやかれる厳しい世界であるが、 若手医師の就職は増加の一途である。美容外科の魅力は高年収もさることながら、 「報酬や職務内容(ジョブ)を明確に定義して職務記述書を締結する」 という医療界ではまだまだ少数派のジョブ型雇用にあると思う。 「地方出張や長時間労働は報酬で報われる」「年功序列文化が薄くアラサーで院長可能」 「時短勤務も可能だがフルタイム同僚と報酬差があるので軋轢がない」 といったジョブ型の雇用スタイルが若手医師を引き付けるのだろう。「雇い止めされやすい」 という不安定雇用も「ダメな同僚は淘汰されるので、長期間フォローしなくても良い」 「働かない高齢高級管理職がいない」と好意的に受け取る若手も多い。 また、渉外弁護士事務所や外資系コンサルティング業界も激務で有名だが、 若手の人気は高く過労自殺ニュースを聞かない。というのも、美容外科同様のジョブ型雇用であり、 長時間労働は報酬で報われるし、優秀なら若手でも出世できるし、 ダメ管理職は淘汰されるからだろう。あるいはメンタルを病んだ職員は早めに雇い止めされるので、 自殺まで追い込まれにくいとも言える。過労自殺は「長時間労働」のみで発生するのではなく、 「報われない長時間労働」で発生しやすい。そして「助け合い」「奉仕の精神」 のような聞こえの良いフレーズで無償労働を強要する日本型年功序列雇用が続く限りは、 医師に限らず過労自殺はなくならないだろう。今後のさらなる女医率上昇が不可避である以上、 年功序列組織の破綻は時間の問題である。撲滅すべきは「長時間労働」ではなく 「長時間サービス残業」である。小手先の労働時間制限よりも、 美容外科や外資系のようなジョブ型雇用の導入こそが過労自殺対策であり、同時にそれが女医支援策となり、 内科外科へのリクルート策やプロフェッショナルファームとしての職場の健全化にもつながるだろう。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/31
32: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/03(日) 15:47:54.02 ID:EL1fLeCI 県感染症情報(8月21日―27日) 新型コロナウイルス感染症1035例。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/32
33: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/04(月) 17:19:00.99 ID:+oRUa2k2 解離性障害は、重大なストレスによって生じる「一時的な自我の破綻」である。 虐待を受けていると必発するわけではないが、とくに被虐待者は発症しやすいのではないかと思っている。 そして、一般に行われている治療だけでは、効果は十分ではないとも感じている。 その理由は、ふたつある。ひとつ目は、今日の精神科で行われている治療の主体が薬物療法であることだ。 心の傷によって発症した心の病には、精神科薬の効果が薄いことが少なくない。ふたつ目は、心理療法 (体系化された理論を用いて行う心の治療の総称)では、どうしても治療者の主観が入り込んでしまって、 被虐待者の特殊な心理を捉えていくことが難しいことである。それゆえ、 これらの問題を理解しないで治療を行った結果、かえって彼らを追いつめてしまっていることがある。 彼らへの治療が、なぜ、うまくいかないのかを私なりの視点で記していく。 そして、彼らとの関わりから見えてきた精神科医療の問題点も取りあげていく。以下で紹介するのは、 聞いているこちらが耳を塞ぎたくなるような悲惨な虐待を生き延びてきた女性である。 それによって負った心の傷が、大人になって解離性障害として現れた。 精神科病院に通院し、生活保護を勧められた。彼女のこれまでの人生を知れば、 虐待というものがどれだけ心に深い傷を負わせるのかがわかるだろう。 そして、虐待する側の異常性も見えてくるだろう。しかし、ときにその異常性を、 専門家ですら見落としてしまうことがある。35歳の話を聞くようになったのは、ある事件がきっかけだった。 それは、自殺未遂事件である。だが、自殺を企てたはずの当の本人に、その記憶がまったくない。 気づいたら知らない町にいた、そこは交番だった、それから、彼女の担当ケースワーカーが迎えにきた。 記憶にあるのは、それだけ。しかも、直近3日間の記憶自体が、すっぽりと欠落しているというのである。 「記憶がないあいだに、なにか変なことをしていたらどうしようと思って怖いです。 数時間、記憶がなくて、気がつくと買い物していたり、道路の真ん中に立っていたり。 自分がおかしくなってしまったんじゃないのかと思って怖い。この前は、踏切のなかにいたみたいだし」 穏やかな平日の朝。彼女が住む町から電車でどんなに早くても2時間はかかる静かな町にいた。 沿岸部に位置するその町は、都市と都市との中間に位置していて、列車の往来はそこそこに多い。 小さな駅舎からは海が見える。急行列車が往来する踏切の前に、見知らぬ女性が佇んでいた。 その姿を近くで商店を営む男性が目撃していた。きっと、近所では見たことのない顔だと思ったのだろう。 踏切が開いても渡ろうとすることなく、ただその場にじっとしているだけの彼女を怪訝に思っていたそのとき、 轟音とともに列車が踏切に進入してきた。彼女は、踏切のなかへ吸い寄せられるように向かっていった。 間一髪のところ、必死に駆け寄った店主によって彼女は踏切から引きずりだされた。 その光景を見ていた周りの通行人らが集まって、ちょっとした騒動になった。それに気がついて、 近くの交番の警察官が駆けつけた。彼女の手荷物を確認した警察官が、福祉事務所に連絡し、 担当のケースワーカーが迎えに行った。「気づいたら交番にいて、え!ここどこって。そうしたらお巡りさんが 『ようやっと気づいた、よかったよかった。なにを話しても反応しないし、ただ涙だけ流すし、 心配したんだから。いま、福祉事務所の担当の人が向かっているからね』って。 ケースワーカーさんにも申し訳なくて。あのまま電車に轢かれていてもよかったんですけど」 自分の身に起きたことのはずなのに、どこか遠くの出来事を語るような客観的な口調だったことが、 やけに印象的だった。記憶がない。まるで物忘れのような報告を聞いて、最初に認知症を疑った。 しかし彼女の場合は、認知症にしては記憶の途切れ方(なくなり方)が明確だった。 それに、記憶がないということを自分で認識している。そして、ある一定期間、 ある部分だけの記憶があきらかに欠落している。よく考えると、話す言葉の選び方、 その行間からにじみ出る緊張感は、いずれも認知症のそれとは異なっていた。 彼女の話す内容から、その症状は解離性障害に違いなさそうだった。たとえてみよう。 ある日、あなたが道を歩いていると大きな爆発音を聞いた。一体、なにが遠くで起きたのかを確認しようと、 あなたは一歩ずつ、爆心地と思われるほうへと進んで行った。すると、景色は徐々に一変してきた。 瓦礫が散乱している。どこからともなく呻き声が聞こえる。目に飛び込んできたのは、痛々しい姿で横たわる人々だった。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/33
34: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/04(月) 17:25:44.47 ID:+oRUa2k2 それから気がつくと、あなたは仮設テントのなかにいた。 保護されたらしい。肩に毛布をかけられて椅子に座っていた。思いだせるのは、 大きな爆発音を聞いてその方向へ行ったこと、そして、かすかに残る悲惨な光景の残像だった。 あなたを保護した人の話によると、爆心地付近をふらふらと力なく歩いており、 「助けなきゃ、助けなきゃ」と繰り返していたという。ところが一向に思いだせない。 このとき、あなたに起きている症状が解離性障害である。心に重大なストレスがくわわった結果、 心があなたから離れた。この間の記憶はない。解離性障害は、「同一性の破綻」によって 「自己感覚や意志作用感のあきらかな不連続を意味し(註:いつもの自分が途切れてしまっていること)、 感情、行動、意識、記憶、知覚、認知および/または感覚運動機能の変容を伴う」とされ、 「これらの徴候や症状は他の人により報告される場合もあれば、 本人から報告される」場合もあり、自己の連続性が途切れている点が特徴である。 解離性障害は、重大なストレスによって引き起こされることが多い。 たとえば、大事件や大災害など自分の力ではどうしようもできない圧倒的な出来事である。 巻き込まれたら、心(自我)が押しつぶされて誰でも解離性障害が起こるかもしれない。 これは、あくまでも心理的に起きた異常事態から自分を守るために起こる防衛機制である。 ボクサーがノックアウトされた瞬間を思いだせないなど、 物理的な衝撃が脳にくわわったことによる一時的な健忘とは異なる。 事件や事故、または災害などに巻き込まれて解離性障害を起こしている人は、 きっかけや原因を自覚できていることが多い。しかし反対に、自覚できていない場合には、 幼少期からの虐待を疑う。虐待が慢性的に続くと、これが当たりまえになってしまい、 虐待であると認識することができなくなるからだ。彼女にたずねた。「なぜ記憶がなくなってしまうのかの、 心あたりはありますか」「わからないです」どのような幼少期だったのかを聞いていった。 生まれたのは東北地方だった。家と家とが5、6軒ごとに集落になっているようなところで、 周りには田園がひろがっていた。そんな静かな村の民家で人知れず起きていたのは、 身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(養育放棄)、心理的虐待といった、 児童虐待防止法に規定されているすべての虐待だった。「母親がめちゃくちゃ怒鳴りまくる人で、 手も足も出て、投げ飛ばされて、ここ、ガラス片が刺さったんです。窓を突き破って。 病院に連れて行ってもらったことなんかないから、自分で接着剤をつかって塞いだんです」 そう言って、彼女がシャツの袖をめくって見せてくれたのは、たしかに自然と傷口が塞がった痕だった。 彼女には歳の離れた兄と姉がいたが、このふたりも母親には逆らえなかった。 兄は母親から猫可愛がりされていた。姉は母親からあまり好かれていなかった。その姉のストレスは、 自然と年少者の彼女に向いた。力の差では、幼い彼女が歳上の姉に敵うはずがなかった。 乱暴する姉に向かって母親は、もっと彼女を殴るように囃し立てた。 一方、かわいがられていたとは言っても母親に怯えるという点では兄のストレスも多く、彼には抜毛症 (ストレスで頭髪や眉毛など自分の毛を抜いてしまうこと)や皮むしり行為があった。彼の指先は、 いつも血だらけだった。父親は、あまり家に帰ってこなかった。「服を脱いでこっちへこい」と、 ある晩に母親に言われて彼女は従い、そのまま奥の間に入って行った。小学3年生くらいのときだった。 母親の隣には見知らぬ男の人がいて、彼女の裸を見て母親とふたりでゲラゲラと笑っていた。 その晩から、その部屋は彼女が一生涯忘れることのできない部屋になってしまった。 「いまでも、あのときの部屋の匂いとか、天井の雨染みの形とか、 全部覚えているんですよね。なにをされているのか、あのころはよくわからなかったけど、 体中を舌が這うような感触と唾液の匂いだけが、こびりついて離れない。それから記憶が飛んでいて、 なぜかパンツだけ履いて上裸の状態で布団のなかにいました」直接的な表現はしなかったけれども、 彼女の話すそれがなにを指しているのかは想像がついた。そして、彼女にとってはじめての解離症状が、 このときだった。それから、家のなかで起きていたという耳を疑うような話が続いた。 裸で縛られて屋根裏に放置されて、ネズミがかじりにきて怖かったこと。 「形が悪い」と言った母親が、彼女の耳たぶを裁ちばさみで切ったこと。 髪をかけて隠している左耳は、たしかに奇妙にえぐりとられたような形をしていた。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/34
35: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/04(月) 17:32:15.63 ID:+oRUa2k2 高校生のときに強姦被害に遭った彼女に向かって母親が言ったのは、 「どうせあんたが誘ったんじゃないの、この色魔!」だった。寄り添ってくれた女性警察官は、 やさしかった。その帰り道で母親は、自分の彼氏だという男の人の性器の写真を 「すごいでしょ」と言って彼女に見せてきた。解離性障害は、 大事件や大災害に巻き込まれるなどの圧倒的に太刀打ちできない状況に遭遇すれば、 誰にだって起こるかもしれない精神症状だ。彼女にとっては、 人生そのものが大事件や大災害に匹敵する異常事態だった。 彼女の記憶の欠落が解離性障害によるものであり、悲惨な虐待が原因であると、確信した。 高校生のとき、彼女は県が主催する論文のコンテストで大賞を獲った。地方新聞でも取りあげられた。 彼女は本を読むことが大好きだった。しかし、母親はそれを快く思わなかった。 「名前が知れ渡って恥ずかしいから、出て行け」と言った。彼女は、それに従った。 退学することを知った高校の先生は驚いて必死に止めてくれていたが、「決めたことなので」 と言って押し通した。高校を中退した。そして上京した。それから、年齢を偽って働いた。 母親から金の無心があったから、それに応えるためにほとんど休まなかった。20代の半ばで、 はじめて精神科を受診した。ときおり、短時間だけれども記憶がなくなるようになったからだ。 最初は眠れていないことが原因だと思った。睡眠薬を処方されたが、眠れるようにならなかった (虐待を受けてきた人は、慢性的な不眠を抱えていることが多い。過大な緊張感が原因だろう)。 記憶がなくなることも変わらなかった。医師は休職を勧めた。しかし、 彼女はなかなか首を縦に振らなかった。休めない事情でもあるのかと聞かれ、素直に母親の件を話した。 「お母さんからの要求を断れないの」と医師はたずねてきた。「でも、 言っても聞いてくれるような親ではなくて」と彼女は答えた。「無視すればいいじゃない」「そうなんですけど」 「だって、自分の母親でしょそれくらい言えるでしょ」医師からの当たりまえの提案に、彼女は黙ってしまった。 彼女は、母親の言うことを聞かなかったら、もっとひどいことをされるのではないかと怖かった。 しかし医師は、ひどいことをしてくる母親だとはいっても、 事情を説明すれば理解を示してくれないはずはないと思っているようだった。 このときに、母親の言いなりになっている歪(いびつ)な母子関係に医師が疑問を感じたら、 また違った治療がなされていたかもしれない。しかしその場ではそれ以上、母親のこと、 家族のことを聞かれることはなかった。毎月かなりの額を母親に仕送りしていた。 そのために必死で働き、仕事をいくつも掛け持ちした。しかし、心は正直だった。 精神症状は悪化していった。不眠、不安、ときには突如、ひどい恐怖心が襲った。 徐々に働けなくなっていった。働けなくなったら仕送りができないという恐怖は、ますます高まった。 記憶がなくなる頻度は増した。ふと目が覚めると、記憶から計算した日付と、 目の前で朝のテレビニュースが言っている日付とが合致しなかった。職場の同僚に連絡した。 「昨日、私、ちゃんと出勤してた?」「なにを変なこと言ってんの昨日、会ったじゃん。 なんか具合悪そうではあったけど」それを聞いて余計に怖くなった。 自分の知らないあいだに行動しているらしかった。医師に眠れるように薬を出してほしいと言うと、 もう必要十分に処法していると言われた。それから、やはり休職するように助言された。 彼女が「休職することはできない」と言うと、「じゃあ、どうしたいの」と診察室で怒鳴られてしまった。 医師からしてみたら、これだけ状態が悪いのに頑なに休職を拒む理由と、 親のことを怖がっているというのに連絡を取りあっていて無視できない様子が、 理解できなかったのだろう。彼女は病院を変えたが、今度は薬しか出してくれないようなところだった。 その当時の薬手帳を見せてもらったことがあるが、かなりの処方量だった。体が思うように動かなくなった。 収入が途切れた。このときの主治医から生活保護を受けるように勧められ、彼女はその申請をした。 自殺未遂事件を起こす、つい半年前のことだった。その申請の場で、 「支給される生活保護費の一部を母親に仕送りすることはできますか」 と真面目な顔をして聞いたものだから、申請の相談を担当した職員は呆気にとられていたという。 「困っているのは、あなたのほうじゃないの」と言われ、言うまでもなく仕送りをすることは認められなかった。 やがて、母親からの電話が鳴りやまなくなった。「お金が振り込まれていない」 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/35
36: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/04(月) 17:36:45.16 ID:+oRUa2k2 「いままで育ててもらった分の返済義務があると思え!」 「私が取りに行ってもいい。住所を教えろ!」「なんの取り柄もないんだから、金くらい払え!」 幼少期の、母親からされた虐待の数々がフラッシュバックした。 気がつくと、どこか知らない海沿いの町の小さな交番にいた。 傍らには、迎えにきたケースワーカーが心配そうな表情をして立っていた。解離性障害の治療は、 非日常的な外傷体験によって飛び出てしまった日常の世界に再び「戻る」ことである。 しかし、それはあくまでも普通の環境で生きてきた人に適用できる方法である。 もともと異常な環境で育った彼女は、異常であることが日常だった。だから、「戻る」 という表現は適切ではないかもしれない。正確には、日常生活のなかには安心と安全があるのだと、 カウンセリングの過程ではじめて「知る」ことなのだろう。 この効果は、精神科薬を内服するだけでは得ることができないものである。 ほかにも、解離性障害によるエピソードをいくつか挙げる。ある女性は、台所で食器を洗っていた。 窓から見える高層マンションを、ぼんやりと眺めていた。「あそこから落ちれば終われる」 その日は不意に、そんなことを思っていた。寒い冬の日だった。 気がつと、ジーンズを穿いて、下着のうえに半袖のTシャツしか着ておらず、化粧もせず、裸足で、 その高層マンションの最上階の外階段に立っていた。柵を乗り越えようとしているところで気がついた。 「普段は絶対に化粧をして外出します。それに、この季節なのに半袖なんて着るわけがないじゃないですか。 しかも裸足。食器を洗って、それから部屋を掃除しようとしていたところまでは、覚えているんです」 そう報告してくれた。また別の、ある男性の話。「気がついたら病院にいて、 『死ぬところだったんですよ!』って言われてびっくりしました。輸血をたくさんしたみたいです。 公園にいたところまでは覚えています」救急隊の話によると、公園のベンチに座っていた彼は、 おもむろに立ちあがって喉を刃物で切り裂いたらしい。それを目撃していた通行人が通報した。 そこまで激しいものではなくても、気づくと雑踏のなかに立っていたとか、 コンビニにいて買い物をしていたとか、日常生活のなかでの解離性障害の報告もある。 すべてが死に関連づけられるものではない。彼ら彼女らに共通していたのは、幼少期からの激しい虐待であった。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/36
37: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/05(火) 15:28:30.87 ID:BWdgRS4r 児童虐待防止法には、虐待が4つに分類されて定義されている。ここで、その中身について確認しておく。 身体的虐待:殴る、蹴る、叩く、激しく揺さぶる、縄などで拘束する 性的虐待:子どもへの性的行為、性行為を見せる、ポルノグラフィの被写体にする ネグレクト:家に閉じ込める、食事を与えない、ひどく不衛生にする、車のなかに放置する、病気やけがでも病院に連れて行かない 心理的虐待:言葉による脅し、きょうだい間の差別、無視、子どもの目の前で暴力を振るうなど、子どもに対して著しく拒否的な態度で「心的外傷を与える言動を行うこと」 以上が、各虐待の分類と、その大まかな定義である。大概、これらの虐待は重複しながら起きている。 身体的虐待があれば、その最中は罵っていることが多いし(心理的虐待が混在している)、 性的虐待であれば、その被害に遭った子どもの痛みに気づくことなく、放置され続けている (ネグレクトが混在している)。一方で、ネグレクトと心理的虐待は、それぞれが単独で起きていることも多い。 ネグレクトは、必要な世話がなされていない様子が比較的に見えやすい。 それに対して心理的虐待だけが単独で起きている場合には、周囲も、本人も、 それが心理的虐待であることに気づかないことがある。結果、心は静かに蝕まれていく。その心の傷は、 大人になって目立つようになる。きっかけは、うつ病と診断されて治療が開始されるときである。 ところが、抗うつ薬がほとんど効かず、心理療法も効果が見られない。典型的なうつ病とは異なり、 非常に強い緊張感と焦燥感と消耗感を抱えている。しかも、それらの症状はしつこく、 なかなか軽快していかない。再発を繰り返すことも多い。このような特徴のうつ病を患う人のなかには、 虐待を受けてきた人が少なくない。次に紹介するのは、その一例である。48歳は、うつ病と診断されている。 その経過は、とても長い。彼がうつ病と最初に診断されたのは、働き盛りだった28歳のときだった。 それから40歳、45歳と、それぞれうつ病で倒れている。再発を繰り返していた。 45歳のときの3度目のうつ病をきっかけにして、生活保護を受けることになった。長年、 通院し続けていても回復していかないうつ病に対して、「治療の仕方を変えたほうがいいんじゃないか」 と担当ケースワーカーが彼に話した。彼も同じように思っていたようだ。 うつ病がなかなかよくなっていかない場合、どこかに重大な見落としがあるはずだ。 彼がやってきた初回のカウンセリングで、彼の症状がどこからくるものなのか、 なにか見落としているものはないか、などを念頭に置きながら成育歴を慎重に聞きとった。 次第にわかってきたことは、家族関係を細かく聞きとらなければ見えてこなかっただろう 「隠された事情」だった。父親、継母、継母の連れ子である弟との4人家族だった。 父親の話によると、実母は彼が1歳のころに出て行ってしまったらしい。だから、実母の顔を知らなかった。 父親は小さな町工場を経営していた。従業員の雇用のために、よく働いていた。 零細企業の下請けだった。その工場の会計を担当していたのが、継母だった。継母は、変わった人だった。 「多分、僕のことはあんまり好きじゃなかったんだと思います。血がつながっていないですし」 彼は、やんわりと、意味ありげに継母との関係になにかあったことを匂わせた。 なぜ継母が彼のことを好きではないと思ったのかを聞いた。 「いつも、弟には扱いの差がありました。ご飯がないとか、物を買ってもらえないとか、 そういうのはないですけど。態度が違うというか、とにかく、弟のことはかわいがっていました」 継母は血のつながっていない彼と、血のつながっている弟とのあいだで、あきらかな差をしていた。 たとえば、学校のテストでいい点数がとれると、弟にはご褒美で好きなおもちゃを買い与えたり、 外食に連れて行くなどしていたりしたが、彼にはない。真新しいおもちゃを手にして遊ぶ弟を、 彼は見ていた。食事の時間も、食事をとる場所も、彼だけ別だった。 継母と弟は、たくさんの料理を食べた。テレビを観ながら食卓を囲んでいた。 その一方で彼は、ふたりが食べ終わるまで待たされていた。継母と弟の食べ残しが彼の食事だった。 おかわりは禁止されていた。すべては、父親が不在のときに行われていた。 やがて、彼が小学校中学年くらいになると、継母から家事をやらされるようになった。 「あなたは頭が悪いから、勉強が必要でしょまずは家のことをやりなさい」という指示だった。 頭が悪いという言葉を、継母は彼に対して頻繁につかっていた。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/37
38: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/05(火) 15:36:43.72 ID:BWdgRS4r 思わず、「そんなことが」「それはひどいですね」と呟いていると、それに反応した彼が、 「血がつながっていないと、こういうものじゃないんですかね、それが普通だと思っていましたけど。 自分も出来が悪いんで。継母の求めるレベルに達していなかったんでしょうね」と言った。 彼が高校生のとき、父親の経営する工場の業績が悪化した。原因は、 会計を担当していた継母の私的流用だった。取引先に支払うためのお金にまで手をつけてしまっていた。 工場は信用をなくしてしまった。詰問する父親に対して継母は、「あなたの子どもには、 お金がかかるの」と、暗に原因は彼にあると訴えていた。父親が自殺したのは、数年後のことだった。 彼が高校3年生のときだった。通夜、葬儀などの手配は、すべて彼が行った。「あなたの父親でしょ」 と継母に言われたからだ。継母から彼への心理的虐待は日常的だった。この言葉が凶器になる虐待は、 子どもの心を静かに蝕んでいく。なんとなく、漠然と、いつも「自分が悪い」という自責感が心に巣くう。 慢性的な生きづらさが、緩やかにひろがっていく。目立つ虐待を受けているものとは明確に異なる、 心の傷の結果である。心理的虐待を受けている人は、そのほかの虐待を受けている人にくらべて、 その生きづらさの理由が虐待の結果による心の傷だとも、受けていたものが虐待だったとも自覚しにくい。 それを虐待だと伝えても、理解していくまでに時間を要することもある。多くの場合で、本当に「自分が悪い」 と思っているし、それを信じている。逆を言うと、そう思うしか心あたりがない。そんな子どもが大人になって、 精神科を受診することになったり、貧困に陥ったりして、そこでやっと虐待の傷が見つかることがある。 彼も、そのうちのひとりだった。彼の症状はうつ病かもしれないが、 根っこにあるのは虐待による心の傷である。それが、治らないうつ病に「隠された事情」だった。 父親の知りあいの工場経営者が、「うちで働きなさい」と声をかけてくれた。 寮に住まわせてくれるという。自分がいないほうが継母と弟にとっていいのではないかと思った彼は、 高校を卒業すると同時に家を出た。それから30年、継母と弟には会っていない。 工場では一生懸命に働いた。「こんな自分のため」に寮まで用意してくれて、 雇うと申し出てくれたことに、申し訳なさがあったからだ。働きぶりが認められて、 工場のなかでも取引先との営業を担当する部署に配属が変わった。そこでは、 任された仕事をこなすのではなく、自分から能動的に取引先に出向いて行かなければならなかった。 それが彼には緊張を強いた。ずっと、「あんたは頭が悪い」と継母から言われて育った。だから彼は、 いつも自己否定していた。自分がちゃんとできているのか不安だった。営業先に行くことが怖かった。 契約してもらえるだろうか、何回も訪問してきてしつこいと思われるのではないか、 契約をとらずに帰ったら「ダメなやつ」と思われるのではないか。ゆえに彼は努力した。おかげで、 だんだんと契約もとれるようになった。すると、また異なる役割を与えられた。部署を統括する立場である。 出世もした。給料もあがった。だが、彼には満足感や達成感が一切なかった。その代わりに募るのは、 「こんな自分に任せてもらっているのだから、結果をださなきゃ申し訳ない」という焦りだった。 一層、仕事にのめり込んだ。同僚が、「やり過ぎじゃないの」と声をかけてきたこともあったが、 「平気、平気。これくらいなんのその」と言って笑ったという。残業代を申請せずに働く彼を、 同僚は「ばかだ」と言った。それからしばらくして、彼はうつ病で倒れた。朝になっても体に力が入らず、 起きられなかった。無断欠勤だった。しばらく、なにもできず布団のなかにいた。 何度も携帯電話が遠くで鳴っているのが聞こえた。昼ごろになってようやっと布団から出られた。 身も心も重たかったが、会社に電話をかけなければならなかった。「すみません、寝坊しちゃって。 ちょっと休めば大丈夫なので、明日は出勤します」働きはじめてから10年が経ったが、 仕事に遅刻したことも早退したことも、休みさえとったことのなかった彼だった。 翌日も、やはり体が動かなかった。職場に事情を説明すると病院に行くように言われた。 体が動かないという問題から、彼は内科を受診した。しかし、診察の結果は「異常なし」。 彼の話を親切に聞いてくれた医師は、精神科に行って相談するように助言してくれた。 精神科では「うつ病」と診断された。抗うつ薬を処方されて、しばらく経過観察していくことになった。 医師も会社も休職を勧めた。彼はこれに従った。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/38
39: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/05(火) 15:42:10.65 ID:BWdgRS4r 彼の話を聞きながら考えていた。強い義務感、緊張感、焦燥感、そして消耗感。 さらに、自己肯定感がない、もしくは極端に低い。また、抗うつ薬があまり効かず、治りにくい。 緊張の糸が、ぷつりと切れてしまったきりで動かなくなってしまったかのような彼の容態は、 「燃え尽き症候群(Burnout Syndrome)」に違いなかった。人生の初期、彼ら“虐待サバイバー” は守ってくれるはずの親から守られず、むしろ積極的に虐げられてきた。ゆえに、親に頼る、 助けてもらうということを経験してこなかった。だから、目の前のことは自分でこなすしか選択肢を知らず、 人に助けを求めたり、頼ったりすることを極端に避けてしまう。これは、“虐待サバイバー” に共通の心理でもある。親に頼れなかった経験は、大人になって強い義務感として現れ、緊張感を強いる。 褒められた体験もないか乏しいから、自分を認めて甘やかすことも知らない(自分に報酬を与えられない)。 こうして彼らは絶えず緊張していて、気持ちが緩むこともない。ゆえに、「情緒的消耗感」 が彼らは普通の何倍も激しいのだろうと思う。以上の理由から、“虐待サバイバー” は燃え尽き症候群を発症しやすいのではないかと私は感じている。28歳のときに最初のうつ病を発症した。 厳密に言うと、それは燃え尽き症候群だっただろう。しかし、主治医の制止を振りきって職場に復帰した。 休んでいるほうが落ち着かなかった。休職したのは、1ヵ月ほどだった。 仕事を休んでしまったという後ろめたさがあった。それで、彼は勤めていた工場を辞めて、 別の会社に就職した。それから十数年が経ち、40歳のときに再び倒れてしまった。 うつ病が完治したと思っていた彼は、精神科への通院はやめていた。そこで、また別の精神科にかかり、 再び抗うつ薬を処方された。傷病手当をもらいながら治療に専念することになった。 今度は心理療法も追加された。だが、それもあまり効かなかった。 傷病手当を受けとれる期間が終わりそうになり、彼は職場に復帰した。 それから5年後の45歳のとき、三度、彼は倒れてしまった。今度は、まったく体に力が入らなかった。 そのころには疲れていても眠れず、睡眠薬を処方されても効かなかった。 ただ、体が重くなるだけだった。40歳で倒れたときから彼を診ている主治医は、入院を勧めた。 それで彼は、しばらく入院することになった。そのあいだに仕事は辞めた。退院後、 就職活動をしたが、休職が多いことを指摘されて採用にいたることはなかった。そして、預貯金が尽き、 生活保護の申請に赴いた。生活保護になったという負い目から、彼は就職活動に必死だった。 しかし、うまくいかなかった。せっかく仕事に就いても、疲れきっていて体が思うように動かなかった。 仕事の覚えも悪く、迷惑がかかると思った彼は、職を辞しては、 また新たな職場に勤めるということを繰り返していた。なかなか自立には向かわなかった。 自立しようとがんばるが余計に疲弊していく。そんな悪循環があった。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/39
40: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/06(水) 19:07:39.52 ID:Iv7nNrcG 虐待されてきた本当の理由を知るという、自身の生い立ちに関する理解は、“虐待サバイバー” の心の傷の回復には重要である。しかし、これはつらい過程でもある。残酷な事実も突きつけられる。 これまでのがんばりと我慢によって、必死に見ないようにしてきたものが眼前に次々と容赦なく現れ、 深い眩暈(めまい)が襲い、心がよじれることもあるだろう。彼らにとっての回復とは、 深く自分に向きあう過程である。と同時に、カウンセラーにとっても、 自分の限界と向きあうきっかけにもなる。以下で、自身の過去に向き合うことで心の傷から回復した、 ひとりの女性の事例を紹介したい。「ひきこもるために生活保護費をだしてもらっているわけではないのに」 と初回のカウンセリングで漏らした、43歳である。彼女は強い対人恐怖が原因で、 人と関わらず、ひきこもりの生活を長年にわたって送っていた。 ごく簡単に生活保護になるまでの経緯と成育歴を聞きとった。そうして得られた情報は、 彼女が虐待環境下で育ってきたことを示していた。人前に出られないほどの極度の緊張。 町を歩くだけでも嵩じる恐怖心。その背景には幼少期からの虐待が深く関係しており、 愛着障害による影響があることを、彼女に伝えた。 これまでに通った精神科クリニックや親子関係を専門に扱うカウンセラーからは、 親子の問題を指摘されることはあっても、愛着関係(親との情緒的なつながり)そのものが「ない」 かもしれないと指摘されたことは、なかったという。どのカウンセリングでも共通することだが、 その目的はクライエントが自分を深いところで知ること、理解することである。 「自分の気持ちを見ていくといいと思います」いつもカウンセリングの終わりに伝えるのは、この言葉である。 「自分の気持ちを見ていくといい、と言われて考えていました。母からされたことが本当につらくて、怖くて。 ずっと、そのことを母にわかってほしいと思っていたんです。母に正直な気持ちを伝えれば、 絶対にわかってくれると考えていました。多分、それは無理だとここで言われたので、 先生への反抗もあったんだと思います。母は共感性が乏しいから、理解しあうことは無理だと、 はっきり言われたのははじめてでした。それで、急にたしかめたくなったんです。 十数年ぶりに実家に行って、母と話しました」と彼女は、 前回と今回のカウンセリングのあいだの出来事を話しはじめた。彼女の実家は、 夜行バスで走り続けて7時間のところだった。十数年ぶりの母親との再会。 駅で待ちあわせると、不機嫌そうな顔をして立っている母親がいた。 「勇気をだして、小さいころに叩かれて押入れに閉じ込められたのがすごく長い時間だったので、 とても怖かったと、言ってみようと思ったんです。そのとき、家はいろいろと大変でした。 父は借金があってお酒ばかり飲んでいたし、弟は小学校に行きたくないと言っていたし。 だから、母も大変だったんだと思って。そんな最中だったから、いまとなれば、 あれはひどいことをしたと思ってくれているだろうと思ったんです。『悪かったね』 と言ってくれるのを期待していた私がいました。だけど母は、『そんなことあったっけ』 『あんたの記憶違いじゃないの』『そんなことするはずないでしょ大事に育ててきたんだから』 という返事でした。もし母が本当に私のことを大事に思ってくれているのなら、 ちょっとくらい連絡してきてくれてもいいのに、と思いました。それも言ったんです。 そしたら母は、『あんたから電話してこなかったんじゃないのこっちは忙しいのよ』って。 しかも、私が受けた母からの暴力や暴言の数々は、母の頭から綺麗さっぱり消えているんです。 そんな人に、私が一生懸命につらかったと訴えても、なんにも響かないというか。すごく残念というか、 なんというか、どうにもならないような、打ちのめされた気持ちになりました。無力感です」 母親は、家に着くなり荒々しく玄関の扉を開けた。そして、どかりと板の間に座り込んで言った。 「あんたの話に付きあっていたら疲れた」そういう母親の態度に、彼女はいつも怯え、機嫌をうかがっていた。 彼女は、母親に機嫌を直してもらおうとした。なにかしてほしいことはないかと聞くと、「掃除」とひとこと。 彼女は従った。しかし、カビだらけになった風呂場の掃除をしていると涙が出てきた。それから少しして、 彼女は言った。「急な用事を思いだしたから、今日はもう帰るね」それを母親は止めなかった。 そして、再びひとことだけ言った。「掃除は終わったんだよね掃除してもらうために、 わざわざ駅まで迎えに行ったのに」「言われたことは本当でした。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/40
41: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/06(水) 19:12:04.20 ID:Iv7nNrcG 本当だ、本当だ、って実家を出てきてバス乗り場に着くまで、何回も心のなかで繰り返していました。 母は人の気持ちを考えられない、だから行動の前後に整合性がない、それに、 その場の感情で動いているから子どもの気持ちを汲みとれない、と言われたことを思いだしていました」 彼女は、カウンセリングで指摘したことを反芻したという。気がつくとバスターミナルの待合に座っていた。 いつの間にか乗るべきバスは到着していた。発車を知らせるアナウンスが聞こえてきて、慌てて飛び乗った。 「小さいころからの記憶が、母のなかでまるっきりなかったことになっていたんです。 母のなかにないのであれば、それはもうないんだろうと思います。私は母のなんなのか。 母は私のなんなのか。母になにを期待して、なにを求めてきたんでしょうか」 急に、これまでの人生の意味が失われたような気がした。と同時に、 本当にひとりぼっちだったのだと思った。母親からの愛情を、必死に信じようとしていた自分が見えた。 バスの車内。遠く離れていく自分の育った町を見た。あの無数にある家々のうちのひとつで、 長いあいだ過ごしていた。小さな町の、小さな家だった。小学校からの帰り道は決まってひとりだった。 その道を遠く離れて見ると、小高い丘に続く住宅街へとのびていた。 いつも向こうのほうの家に帰っていく子どもたちを遠くから見ていた。 やさしいお母さんがいていいなと思った。手をつなげていいなと思った。 授業参観にきてくれていいなと思った。 おいしそうなご飯の匂いが家のなかから外まで漂っているのを嗅いで、「家庭」を感じた。 風呂場できゃっきゃと騒いでいる子どもと父親の声を聞いて、「家族」を想像した。 彼女が座る席の近くには、母親が女の子を抱きながら一緒に眠っていた。眠っているはずの母親なのに、 柔和な表情で、すやすやと寝息を立てている女の子を見つめているかのようだった。 「あんなにやさしそうな眼差しで母が私のことを見てくれたことなんて、ないように思いました。 母に理解してもらおうと、がんばっていました。だけど、それは無理でした。そんな自分を理解したから、 いままでのことは、もうどうでもいいです。叶いもしない願いのために、一生懸命だったんです」 彼女は、その小旅行の一部を聞かせてくれ、そしてこう付けくわえた。「よく、がんばってきたんだと思います」 母親をたしかめに行った日から、また数週間が経った。「もう少し、自分を褒めてあげようと思います。 あの家のなかでよくやってきたと思います。あの母のもとに生まれた自分がかわいそうに思えました。 いまは、子どものころの母親になって、抱きしめて、頭を撫でてやりたいと思います。 えらかったねと、言ってあげたいです。よく、ひとりでやってきたんだよと、言ってあげたいです」 そう言って、彼女は静かに泣いた。そういえば、彼女の最初の主訴であった対人恐怖は、 いつの間にか治っていた。電車に乗ることができそうだという。もうしばらくしたら、 就労移行支援事業所に通おうと思っていると報告してくれた。「この前、 久しぶりに家の近くの駅前を歩きました。いままでは、みんなが私の悪口を言っていると思ったんです。 だけど、よく耳をすませると、私のことなんか話していないんですよ。当たりまえですよね。 みんな、『今日のご飯どうしよう』とか『仕事を休みたい』とか、そんな話題でした。 いままで、自分が悪いという固定観念しかなかったですけど、それがなくなりました。 悪いことなんてひとつもしていませんでした。だからもう少し、胸を張って生きようと思います」 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/41
42: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/07(木) 18:52:17.50 ID:vnCn56B6 「今思えば、何でも話せる人がいなかった。1人でもそういう人がいたら、そういう関係性を作っていたら、 その人に頼ることができていたら、違っていたかもしれない。 過去の私はそういう人や関係性を持ち合わせていなかった」初めて市販薬を過剰摂取したのは、 17歳のときだった。当時、何かあったわけではないが、何となく学校になじめないと感じていた。 「友だちから嫌われているんじゃないかとか、充実している毎日を送る周りの人がうらやましいとか、 そんなふうに思っていました」ぽっかり空いた穴を埋めるため過食に走った時期もあったが、 太った自分を見てさらに自己嫌悪に陥る。未成年だが、酒を飲むようにもなっていた。 そんな日々のなかで出会った1人の男性から、市販薬の過剰摂取を勧められた。 「何となく仲良くしてくれて、うれしかったんですよね。その彼が勧めるものだし、(違法じゃない)市販薬だし、 目の前で使っている人たちが楽しそうだし、1回ぐらいなら大丈夫だろうって思って。それがきっかけです」 薬を過剰摂取することで、何となく感じていた「生きづらさ」が解消され、生きることが楽しくなったという。 結果、初めは男性と会うときだけにしていた市販薬の乱用がやめられなくなくなる。毎日1瓶、 2瓶空けるようになった。高校を卒業し、専門学校に通いはじめた。1人暮らしを始めた。 市販薬を買う費用は親の仕送りから捻出したが、それでも足りなくなり、接待を伴う店で働くようになった。 その時期から学校にも行かなくなった。「薬はまとめて買うと店員さんから変な顔をされるので、 いろんなお店をハシゴして買い集めましたね。住んでいる地域にはドラッグストアがたくさんありましたから。 ただ、それとは別に1つ御用達のところもあったんです。近所にあった薬局で、毎回『咳止め4つね』 とか言って、棚から出してくれました」毎日50錠ぐらいを一度に服用する。この使い方は 「普通じゃないってわかっていました」と言う。「でも、私は生きやすさを求めて使っていたので、 それを取り上げられたくなかった。やめることはまったく考えていませんでした」彼女の場合、 使う薬の種類がどんどん増えていった。というのも、周りには違法薬物を使う人たちも少なくなかったため、 勇さんも彼らに勧められてそれらを使うようになる。抵抗感はなかったという。 「いきなり覚醒剤だったら怖いと思ったのかもしれませんが、薬による気分の高揚を知ってしまったので、 これもやってみようかなという感じでした。それでも、注射器を見たときはドキッとしました」 市販薬の過剰摂取に覚醒剤。薬漬けの毎日に体も心もボロボロになっていることは、自覚していた。 やめたほうがいいことや、このままではダメになっていくことも想像がついた。しかし、朝、 目が覚めると薬を探しはじめる。空き瓶が転がっている部屋で、薬が残っていないか探しまくる。必死だった。 「この感覚って、わかりますかね。発狂しそうになりながら薬を探し続けるんです」薬をやめるきっかけは、 仲間の逮捕だった。警察に捕まりたくない。そう思った自らの意思で精神科医療施設に入った。 ただ、そこで薬の使用をやめることはできず、医師や看護師の目を盗んで処方薬を過剰摂取した。 薬の入手方法はここでは伝えられないが、常に大量の抗精神病薬を入手し、使っていた。 仲間は逮捕、彼女の薬物依存を知った親とは疎遠となり、精神科医療施設の医者からも 「あなたのような依存症患者は治せません」と見捨てられた。行き場がなくなった受け入れたのが、 今のダルクだったという。22歳になっていた。薬をやめてから20年あまり。10年、 20年使わなかった仲間がある日、ふとしたときに薬を使う言い訳を始める。そんな様子を見ていた自身、 「使いかけたこともあるし、薬を使わない日が続けば続くほど、そこは本当に気を遣う」と話す。 薬物依存に完治はないと自分自身に言い聞かせる。「あのとき、本当はいろんなことで満たされていたり、 愛されていたりしたのに、自分は嫌われている、捨てられるって思ってしまっていた。 生き方や考え方がゆがんでいて、何が真実なのかちゃんと見えていなかった」 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/42
43: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/08(金) 19:11:04.20 ID:WJghO4VH 市販薬の乱用が原因で薬物依存に陥った。初めて使ったのは大麻。大学2年生のときだった。 「大学に入って1人暮らしを始めて、1年目は何とかなったんですけど、2年目で学校になじめなくなった。 それで精神的にうつっぽい状態になっていったんです」家に閉じこもるようになった、 隣に引っ越してきた男性と仲良くなる。男性は大麻をやっていて、手を出してしまう。 強制されたわけではなかったが、仲間外れになるのが怖く、「断りづらかった」という。 「それから数回、大麻を使いました。でも、やっぱり違法薬物はよくないっていう罪悪感が出てきたんです。 そこでやめればよかったんですが、“じゃあ、市販薬にすればいい”って言われて。 これは売っているものだから、違法じゃないからと、何かと理由をつけて使い続けるようになりました」 添付文書に書かれている使用量の倍以上飲むと、高揚感が出て、集中力が増す。 研ぎ澄まされるような感覚を覚えた。一方で、薬が切れると全身がだるくなる、気力もまったくなくなった。 最も嫌だったのは、薬が切れると現実が見えてしまうことだった。大学に行っていないこと、 単位が取れていないこと、そういう問題から目をそらすため、市販薬の過剰摂取を続けた。 両親が問題行動に気づいたのは、3年生のときだったという。「うつ症状がひどくなったので、一度、 実家に戻ったんです。もちろん薬はやめられないので、部屋で隠れて使っていたんですが、ある日、 親が大量の薬を見てしまって、それで発覚しました。それからは半ば開き直って、使っていました」 一人っ子。親の愛情を一身に受けて育った。何でも言うことを聞いてくれ、何でも買ってくれる親だった。 それは息子が市販薬を過剰摂取していることがわかってもなお、変わらなかった。 なかば脅すような感じで金銭を要求すると、渡してしまう。「両親自身、 薬物依存症の息子とどう接すればいいか、わからなかったんだと思います」 その状況が変わったのは、両親が地域の精神保健福祉センターに相談にいってからだ。 たまたまその場にいたダルクのスタッフに相談し、以来、家族会にも参加するようになった。 そこで親の態度が変わったという。「薬物依存のサイトなどを見せて、こうしたらどうかとか、 これを見たらどうかといった過干渉が止まりました。『困ったことがあったら、 相談窓口に連れて行くから』とだけ言われ、お金も必要以上の額は出さなくなりました。それが、 自分が変わるきっかけの1つだったと思います。ダルクに相談にいこうって思ったんですよね」。 こう振り返る。それから14年。今はダルクのスタッフとして支援する側にいるが、 それは簡単な道のりではなかった。やめてはまた服用し、やめてはまた服用し、 というなかで徐々に“クリーン(薬が止まった状態)”になっていった。 今は、薬で失ったものを徐々に取り戻している段階だという。「自分自身、 ダルクで多くの仲間と話して、初めて大学時代に感じた『生きづらさ』がどんなものなのか、 わかった。薬をやめてからは大学に戻ってやり直し、新しい友人もできた。いずれは結婚するとか、 子どもができて家族をつくるとか、そういうものを少しずつ積み重ねていきたい。 今は(薬を使うという)選択肢はない」「家族の関わり方が、市販薬の過剰摂取をやめるきっかけとなった」 と話したが、両親は当初、薬を取り上げたり、強く叱ったりして、何とか薬の使用をやめさせようとしていた。 だが、あるとき両親は娘への対応を変えた。「親から『これ以上私たちにできることは何もない。 あとは自分でやってください』って言われました。そのときに『本当に見捨てられる。このままではダメだ、 リハビリをしないといけない』と思ったんです」これがダルクに入寮したきっかけの1つだったという。 自身の経験も踏まえてこう話す。「家族は、自分たちだけでなんとかしたいと思うかもしれませんが、 はっきり言って何もできないと思います。逆に子どもを自分たちから手放して、 こういう施設や自助グループがあることを伝えること。さらには、自分たちも家族の会などに入って、 (薬物依存について)学んでいくことだと思います」「困りごとがあったら、 まずは地域の精神保健福祉センターに相談にいってほしい。ダルクでも相談を受けています。 自分たちだけで解決しようとせずに、専門家の助言を受けることがとても大切です」 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/43
44: 情報発信元:七七四通信社 [sage] 2023/09/09(土) 18:10:28.05 ID:z3VzK2vV 怒りを表に出すと一時的には血圧が上がりますが、ストレスを発散したことで爽快感を得られます。 それに対して怒りを出さずにため込んでいますと、ストレスを発散できないままで、 怒りの感情を忘れることはありません。思い出してはまた怒りを感じる。それを繰り返すことで、 ジワジワと血圧が上がるというのが問題です。怒りは、そもそもは急性的な感情です。 ところがうまく発散できずにため込んでしまうと、慢性化してしまうのです。怒りが慢性化すると脳が疲弊し、 なにをしても無駄だという虚無感に襲われます。それが進むと、うつを引き起こしてしまいます。 怒り以外でも、病気のリスクを高める感情があります。たとえば敵意性。怒りに近い感情ではありますが、 これは相手に対し敵意を持つという態度であり、相手を攻撃的にライバル視するイメージです。 この感情が強い人は、循環器疾患、特に心筋梗塞になりやすい傾向があります。 加えて敵意性の強い人は、体内の抗酸化物質が減りやすいこともわかってきました。 抗酸化物質は、活性酸素の働きを抑制したり活性酸素を取り除く役割を果たします。 それが減ってしまうと病気にかかりやすく、老化が進みやすくなります。不安も、健康にはよくありません。 不安を感じた人は、それを解消させる作業が必要になります。人間というのは本能的に、 食べると落ち着きます。お腹がいっぱいになると、不安な気持ちも解消されて落ち着いてくるのです。 これが過食を引き起こしてしまうこともあります。ストレスが免疫を下げることは知られてきましたが、 それ以外にも大きな問題を引き起こします。ストレス状況の高い職場にいると、 脳卒中のリスクが2.73倍になるというデータが発表されているのです。 またストレス状況の高い職場では、4.1倍も自殺しやすいというデータもあります。 このように体に悪影響を与える負の感情を少しでも取り除きたい。そのためには「我慢」 をしないことが重要なのです。がん患者には大きく分けて2種類のタイプがあるそうです。1つ目は、 医師の言うことをよく守ってくれる患者さん。2つ目は、医師の言うことを守らないわがままな患者さん。 同じがん患者ですが、後者のほうが長生きをするというのです。これには明確なエビデンスはありませんが、 どうも間違いないようです。医師は、「医師の指示をまじめに聞く必要はない」とは言い難いのですが。 「○○はやってはいけません」という指示をまじめに聞いて自分の中でストレスをため込むよりは、 やりたいことをやって発散させたほうがいいようです。 がんの発症と心理的要因とには直接的な関係がないことがわかっています。 しかし、がんと宣告された予後に関していえば、心理的要因が影響をするようです。 がんと言われた後、多くのソーシャルサポートを受ける人、前向きにとらえることのできる人、 怒りをはじめとする負の感情を持たない人は、予後が良いケースが多いのです。 がんと言われて不安になり日々を恐れて過ごすよりも、気分を切り替えてパッと楽しく暮らす人が、 長生きできるのです。「人生を楽しむ」ことは、長生きの秘訣でもあるのです。 40歳から69歳の日本人男女8万8175人を対象にした調査があります。 生活を楽しんでいるかどうかを尋ねたうえでの追跡調査で、 「楽しんでいない」と回答した人は、「楽しんでいる」と回答した人に比べて、 12年間に循環器疾患で亡くなるリスクが2倍近いということがわかったのです。 人生を楽しむことが大切だとはわかっていても、実際には、年齢を重ねていくにつれて、 やりたいことを我慢することが増えていくでしょう。医師から指導を受けたり、 あるいは健康常識にのっとって、食べるのを我慢したほうがいい物が増えたりします。 また、「いい年をしてこんなことをやったらみっともない」という自制の気持ちが働いて、 やりたいことを我慢することもあるでしょう。好きな食べ物についての我慢ということでしたら、 トレーディングという方法をとればいいと思います。たとえば 「塩分を減らしてください」と指導されても、塩気のあるものを食べたいという人がいることでしょう。 そういう人はカリウムやカルシウムをたくさん摂取することで、 塩分を体外に排出しましょう。野菜や海藻、豆腐などをたくさん食べるのです。 体に良い物を摂ることで、悪い物を摂ったことを相殺するというやり方です。 カロリー摂取量を減らすよう指示されても、どうしても甘いものを食べたいという人もいるでしょう。 そういう人は運動をしてカロリー消費量を上げて相殺するといいでしょう。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1571067647/44
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