[過去ログ]
★お薬に関する疑問質問に答える「モナー薬局」151 (889レス)
★お薬に関する疑問質問に答える「モナー薬局」151 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/
上
下
前
次
1-
新
通常表示
512バイト分割
レス栞
抽出解除
必死チェッカー(本家)
(べ)
レス栞
あぼーん
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
29: mim [sage] 2014/01/30(木) 00:42:41.27 ID:WCFfLoEg 親父の実家は自宅から車で二時間弱くらいのところにある。 農家なんだけど、何かそういった雰囲気が好きで、高校になってバイクに乗る ようになると、夏休みとか冬休みなんかにはよく一人で遊びに行ってた。 じいちゃんとばあちゃんも「よく来てくれた」と喜んで迎えてくれたしね。 でも、最後に行ったのが高校三年にあがる直前だから、もう十年以上も行っていないことになる。 決して「行かなかった」んじゃなくて「行けなかった」んだけど、その訳はこんなことだ。 春休みに入ったばかりのこと、いい天気に誘われてじいちゃんの家にバイクで行った。 まだ寒かったけど、広縁はぽかぽかと気持ちよく、そこでしばらく寛いでいた。そうしたら、 「ぽぽ、ぽぽっぽ、ぽ、ぽっ…」 と変な音が聞こえてきた。機械的な音じゃなくて、人が発してるような感じがした。 それも濁音とも半濁音とも、どちらにも取れるような感じだった。 何だろうと思っていると、庭の生垣の上に帽子があるのを見つけた。 生垣の上に置いてあったわけじゃない。 帽子はそのまま横に移動し、垣根の切れ目まで 来ると、一人女性が見えた。まあ、帽子はその女性が被っていたわけだ。 女性は白っぽいワンピースを着ていた。 でも生垣の高さは二メートルくらいある。その生垣から頭を出せるってどれだけ背の高い女なんだ… 驚いていると、女はまた移動して視界から消えた。帽子も消えていた。 また、いつのまにか「ぽぽぽ」という音も無くなっていた。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/29
30: mim [sage] 2014/01/30(木) 00:43:26.27 ID:WCFfLoEg そのときは、もともと背が高い女が超厚底のブーツを履いていたか、踵の高い靴を履いた背の高い男が女装したかくらいにしか思わなかった。 その後、居間でお茶を飲みながら、じいちゃんとばあちゃんにさっきのことを話した。 「さっき、大きな女を見たよ。男が女装してたのかなあ」 と言っても「へぇ〜」くらいしか言わなかったけど、 「垣根より背が高かった。帽子を被っていて『ぽぽぽ』とか変な声出してたし」 と言ったとたん、二人の動きが止ったんだよね。いや、本当にぴたりと止った。 その後、「いつ見た」「どこで見た」「垣根よりどのくらい高かった」 と、じいちゃんが怒ったような顔で質問を浴びせてきた。 じいちゃんの気迫に押されながらもそれに答えると、急に黙り込んで廊下にある電話まで行き、どこかに電話をかけだした。 引き戸が閉じられていたため、何を話しているのかは良く分からなかった。 ばあちゃんは心なしか震えているように見えた。 じいちゃんは電話を終えたのか、戻ってくると、 「今日は泊まっていけ。いや、今日は帰すわけには行かなくなった」と言った。 ――何かとんでもなく悪いことをしてしまったんだろうか。 と必死に考えたが、何も思い当たらない。あの女だって、自分から見に行った わけじゃなく、あちらから現れたわけだし。 そして、「ばあさん、後頼む。俺はKさんを迎えに行って来る」 と言い残し、軽トラックでどこかに出かけて行った。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/30
31: mim [sage] 2014/01/30(木) 00:44:09.01 ID:WCFfLoEg ばあちゃんに恐る恐る尋ねてみると、 「八尺様に魅入られてしまったようだよ。じいちゃんが何とかしてくれる。何にも心配しなくていいから」 と震えた声で言った。 それからばあちゃんは、じいちゃんが戻って来るまでぽつりぽつりと話してくれた。 この辺りには「八尺様」という厄介なものがいる。 八尺様は大きな女の姿をしている。名前の通り八尺ほどの背丈があり、「ぼぼぼぼ」と男のような声で変な笑い方をする。 人によって、喪服を着た若い女だったり、留袖の老婆だったり、野良着姿の年増だったりと見え方が違うが、女性で異常に背が高いことと頭に何か載せていること、それに気味悪い笑い声は共通している。 昔、旅人に憑いて来たという噂もあるが、定かではない。 この地区(今は○市の一部であるが、昔は×村、今で言う「大字」にあたる区分)に地蔵によって封印されていて、よそへは行くことが無い。 八尺様に魅入られると、数日のうちに取り殺されてしまう。 最後に八尺様の被害が出たのは十五年ほど前。 これは後から聞いたことではあるが、地蔵によって封印されているというのは、八尺様がよそへ移動できる道というのは理由は分からないが限られていて、その道の村境に地蔵を祀ったそうだ。 八尺様の移動を防ぐためだが、それは東西 南北の境界に全部で四ヶ所あるらしい。 もっとも、何でそんなものを留めておくことになったかというと、周辺の村と何らかの協定があったらしい。例えば水利権を優先するとか。 八尺様の被害は数年から十数年に一度くらいなので、昔の人はそこそこ有利な協定を結べれば良しと思ったのだろうか。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/31
32: mim [sage] 2014/01/30(木) 00:44:47.44 ID:WCFfLoEg そんなことを聞いても、全然リアルに思えなかった。当然だよね。 そのうち、じいちゃんが一人の老婆を連れて戻ってきた。 「えらいことになったのう。今はこれを持ってなさい」 Kさんという老婆はそう言って、お札をくれた。 それから、じいちゃんと一緒に二階へ上がり、何やらやっていた。 ばあちゃんはそのまま一緒にいて、トイレに行くときも付いてきて、トイレのドアを完全に閉めさせてくれなかった。 ここにきてはじめて、「なんだかヤバイんじゃ…」と思うようになってきた。 しばらくして二階に上がらされ、一室に入れられた。 そこは窓が全部新聞紙で目張りされ、その上にお札が貼られており、四隅には盛塩が置かれていた。 また、木でできた箱状のものがあり(祭壇などと呼べるものではない)、その上に小さな仏像が乗っていた。 あと、どこから持ってきたのか「おまる」が二つも用意されていた。これで用を済ませろってことか・・・ 「もうすぐ日が暮れる。いいか、明日の朝までここから出てはいかん。俺もばあさんもな、お前を呼ぶこともなければ、お前に話しかけることもない。 そうだな、明日朝の七時になるまでは絶対ここから出るな。七時になったらお前から出ろ。家には連絡しておく」 と、じいちゃんが真顔で言うものだから、黙って頷く以外なかった。 「今言われたことは良く守りなさい。お札も肌身離さずな。何かおきたら仏様の前でお願いしなさい」 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/32
33: mim [sage] 2014/01/30(木) 00:45:29.77 ID:WCFfLoEg テレビは見てもいいと言われていたので点けたが、見ていても上の空で気も紛れない。 部屋に閉じ込められるときにばあちゃんがくれたおにぎりやお菓子も食べる気が全くおこらず、放置したまま布団に包まってひたすらガクブルしていた。 そんな状態でもいつのまにか眠っていたようで、目が覚めたときには、何だか忘れたが深夜番組が映っていて、自分の時計を見たら、午前一時すぎだった。 (この頃は携帯を持ってなかった) なんか嫌な時間に起きたなあなんて思っていると、窓ガラスをコツコツと叩く音が聞こえた。 小石なんかをぶつけているんじゃなくて、手で軽く叩くような音だったと思う。 風のせいでそんな音がでているのか、誰かが本当に叩いているのかは判断がつかなかったが、必死に風のせいだ、と思い込もうとした。 落ち着こうとお茶を一口飲んだが、やっぱり怖くて、テレビの音を大きくして無理やりテレビを見ていた。 そんなとき、じいちゃんの声が聞こえた。 「おーい、大丈夫か。怖けりゃ無理せんでいいぞ」 思わずドアに近づいたが、じいちゃんの言葉をすぐに思い出した。 また声がする。 「どうした、こっちに来てもええぞ」 じいちゃんの声に限りなく似ているけど、あれはじいちゃんの声じゃない。 どうしてか分からんけど、そんな気がして、そしてそう思ったと同時に全身に鳥肌が立った。 ふと、隅の盛り塩を見ると、それは上のほうが黒く変色していた。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/33
34: mim [sage] 2014/01/30(木) 00:51:44.06 ID:WCFfLoEg 一目散に仏像の前に座ると、お札を握り締め「助けてください」と必死にお祈 りをはじめた。 そのとき、 「ぽぽっぽ、ぽ、ぽぽ…」 あの声が聞こえ、窓ガラスがトントン、トントンと鳴り出した。 そこまで背が高くないことは分かっていたが、アレが下から手を伸ばして窓ガラスを叩いている光景が浮かんで仕方が無かった。 もうできることは、仏像に祈ることだけだった。 とてつもなく長い一夜に感じたが、それでも朝は来るもので、つけっぱなしの テレビがいつの間にか朝のニュースをやっていた。画面隅に表示される時間は確か七時十三分となっていた。 ガラスを叩く音も、あの声も気づかないうちに止んでいた。 どうやら眠ってしまったか気を失ってしまったかしたらしい。 盛り塩はさらに黒く変色していた。 念のため、自分の時計を見たところはぼ同じ時刻だったので、恐る恐るドアを 開けると、そこには心配そうな顔をしたばあちゃんとKさんがいた。 ばあちゃんが、よかった、よかったと涙を流してくれた。 下に降りると、親父も来ていた。 じいちゃんが外から顔を出して「早く車に乗れ」と促し、庭に出てみると、どこから持ってきたのか、ワンボックスのバンが一台あった。そして、庭に何人かの男たちがいた。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/34
35: mim [sage] 2014/01/30(木) 00:52:42.33 ID:WCFfLoEg ワンボックスは九人乗りで、中列の真ん中に座らされ、助手席にKさんが座り、 庭にいた男たちもすべて乗り込んだ。全部で九人が乗り込んでおり、八方すべてを囲まれた形になった。 「大変なことになったな。気になるかもしれないが、これからは目を閉じて下を向いていろ。 俺たちには何も見えんが、お前には見えてしまうだろうからな。 いいと言うまで我慢して目を開けるなよ」 右隣に座った五十歳くらいのオジさんがそう言った。 そして、じいちゃんの運転する軽トラが先頭、次が自分が乗っているバン、後に親父が運転する乗用車という車列で走り出した。 車列はかなりゆっくりとしたスピードで進んだ。おそらく二十キロも出ていなかったんじゃあるまいか。 間もなくKさんが、「ここがふんばりどころだ」と呟くと、何やら念仏のようなものを唱え始めた。 「ぽっぽぽ、ぽ、ぽっ、ぽぽぽ…」 またあの声が聞こえてきた。 Kさんからもらったお札を握り締め、言われたとおりに目を閉じ、下を向いていたが、なぜか薄目をあけて外を少しだけ見てしまった。 目に入ったのは白っぽいワンピース。それが車に合わせ移動していた。 あの大股で付いてきているのか。 頭はウインドウの外にあって見えない。 しかし、車内を覗き込もうとしたのか、頭を下げる仕草を始めた。 無意識に「ヒッ」と声を出す。 「見るな」と隣が声を荒げる。 慌てて目をぎゅっとつぶり、さらに強くお札を握り締めた。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/35
36: mim [sage] 2014/01/30(木) 01:04:31.77 ID:WCFfLoEg コツ、コツ、コツ ガラスを叩く音が始まる。 周りに乗っている人も短く「エッ」とか「ンン」とか声を出す。 アレは見えなくても、声は聞こえなくても、音は聞こえてしまうようだ。 Kさんの念仏に力が入る。 やがて、声と音が途切れたと思ったとき、Kさんが「うまく抜けた」と声をあげた。 それまで黙っていた周りを囲む男たちも「よかったなあ」と安堵の声を出した。 やがて車は道の広い所で止り、親父の車に移された。 親父とじいちゃんが他の男たちに頭を下げているとき、Kさんが「お札を見せてみろ」と近寄ってきた。 無意識にまだ握り締めていたお札を見ると、全体が黒っぽくなっていた。 Kさんは「もう大丈夫だと思うがな、念のためしばらくの間はこれを持っていなさい」と新しいお札をくれた。 その後は親父と二人で自宅へ戻った。 バイクは後日じいちゃんと近所の人が届けてくれた。 親父も八尺様のことは知っていたようで、子供の頃、友達のひとりが魅入られて命を落としたということを話してくれた。 魅入られたため、他の土地に移った人も知っているという。 バンに乗った男たちは、すべてじいちゃんの一族に関係がある人で、つまりは極々薄いながらも自分と血縁関係にある人たちだそうだ。 前を走ったじいちゃん、後ろを走った親父も当然血のつながりはあるわけで、少しでも八尺様の目をごまかそうと、あのようなことをしたという。 親父の兄弟(伯父)は一晩でこちらに来られなかったため、血縁は薄くてもすぐに集まる人に来てもらったようだ。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/36
37: mim [sage] 2014/01/30(木) 01:05:32.97 ID:WCFfLoEg それでも流石に七人もの男が今の今、というわけにはいかなく、また夜より昼のほうが安全と思われたため、一晩部屋に閉じ込められたのである。 道中、最悪ならじいちゃんか親父が身代わりになる覚悟だったとか。 そして、先に書いたようなことを説明され、もうあそこには行かないようにと念を押された。 家に戻ってから、じいちゃんと電話で話したとき、あの夜に声をかけたかと聞 いたが、そんなことはしていないと断言された。 ――やっぱりあれは… と思ったら、改めて背筋が寒くなった。 八尺様の被害には成人前の若い人間、それも子供が遭うことが多いということ だ。まだ子供や若年の人間が極度の不安な状態にあるとき、身内の声であのよ うなことを言われれば、つい心を許してしまうのだろう。 それから十年経って、あのことも忘れがちになったとき、洒落にならない後日談ができてしまった。 「八尺様を封じている地蔵様が誰かに壊されてしまった。それもお前の家に通じる道のものがな」 と、ばあちゃんから電話があった。 (じいちゃんは二年前に亡くなっていて、当然ながら葬式にも行かせてもらえなかった。じいちゃんも起き上がれなくなってからは絶対来させるなと言っていたという) 今となっては迷信だろうと自分に言い聞かせつつも、かなり心配な自分がいる。 「ぽぽぽ…」という、あの声が聞こえてきたらと思うと… http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/37
38: mim [sage] 2014/01/30(木) 01:06:40.22 ID:WCFfLoEg 八尺様 お わ り http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/38
39: mim [sage] 2014/01/30(木) 01:19:16.69 ID:WCFfLoEg 「野球に連れていってくれた母」 幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。学もなく、技術もなかった 母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。それでも当時住んでいた 土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で質素に暮らしていけた。 娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに 遊びに行っていた。給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。 ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。俺は生まれて初めての プロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。 野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。母がもらったのは 招待券ではなく優待券だった。チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わ なければいけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、外の ベンチで弁当を食べて帰った。電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、 母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。 俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。 新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、母に孫を見せて やることもできた。 そんな母が去年の暮れに亡くなった。死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように 「野球、ごめんね」と言った。俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/39
41: mim [sage] 2014/01/30(木) 20:59:50.50 ID:WCFfLoEg 「ポルポト派の狂気」 ●カンボジアのポル・ポト政権、戦慄の歴史 カンボジアは北海道の2倍程度の面積の国だ。人口は現在約1千万人。 首都はプノンペン。カボチャはこの国から伝わったのでその名がついた。 カンボジアの歴史は苦難の一言に尽きる。 かの有名な遺跡、アンコールワットが建設された12世紀では インドシナ半島で最強の国家だったものの、その後は衰退の一途を辿った。 ベトナムやタイに領土を奪われ、第二次世界大戦渦中はフランスの植民地だった。 その状況を打破したのが王族の血を引くシアヌークだった。 大戦後、彼は国際世論を巧みに操り、フランスから国土を解放した。 1953年のことである。 この功績により彼は「カンボジア独立の父」として民衆に敬愛されることになる。 多少独裁の色は濃いとはいえ、彼の手腕で国はそれなりに機能した。 それでも後のポルポトによる圧政時代と比べれば格段に自由な時代で、 当時を懐かしむ人々も多いという。 そう、それほどポルポトの時代は酷かったのだ。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/41
42: mim [sage] 2014/01/30(木) 21:00:38.73 ID:WCFfLoEg 1970年。米ソ冷戦下。 アメリカのバックアップでロンノル将軍がクーデターを蜂起し、 シアヌークは中国に亡命する。 クーデターを実際に画策したのはCIA。完全にアメリカのわがままだった。 このアメリカの暴挙には以下のような背景があった。 1961年からのベトナム戦争でアメリカは南ベトナムを応援した。 腐政に苦しむ南ベトナムの農民&ベトナムの統一を目指す北ベトナム軍 VS 利益を守るために邪魔な共産主義を排除したい南ベトナム軍。 資本主義のアメリカはこの構図にも関わらず南ベトナムを応援した。 民衆の幸せなんて一切考慮していない。 ただ、北ベトナムの共産主義が気に食わないから南側を応援したに過ぎない。 ベトナムの南側と国境を接するカンボジアとしては 南ベトナムが勝利して力をつけると自国が占領される恐れがあった。 よってシアヌークはベトナム寄りのカンボジア領に北ベトナム(解放軍)の 補給基地をつくることを暗黙の上で了解した。 これで南ベトナム軍は南北から挟撃される形になってしまった。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/42
43: mim [sage] 2014/01/30(木) 21:01:21.42 ID:WCFfLoEg アメリカとしてはカンボジア領の補給基地を爆撃したいが 国際世論もあるのでカンボジアの了解が要る。 ただ要請するだけではシアヌークは承知しない。 よってアメリカは経済援助の凍結を武器に何とか爆撃を認めさせた。 そしてカンボジアの民衆ごと補給基地に爆撃を浴びせた。 ベトナム軍だけでなく、カンボジアからも難民が大量に発生した。 この事実を証拠にシアヌークが国際世論に訴えれば、 アメリカはベトナムから手を引かざるを得ない。戦争に負ける。 そこでカンボジアの要人・ロンノル将軍を使ってシアヌークを追放し、 カンボジアを意のままに操ろうとしたのだ。 「世界の警察」は随分身勝手なことをする。 むしろいない方がいいのでは? ロンノル政権に移ってからは、弾劾される可能性はないので アメリカはさらに爆撃を徹底して行うことができた。 カンボジア人の死亡者は30万人。200万人の難民が新たに発生した。 それと同時にロンノル政権は重税をかけて国民を苦しめた。 亡命したシアヌークはすぐに軍隊を編成し、協力者を募った。 賛同したのはロンノル政権を排除したい北ベトナム軍。 そしてクメールルージュ。筆頭はかの有名な暴君、ポルポトだった。 民衆に人気の高いシアヌークの名を全面に押し出すことで クメールルージュは多数の志願兵を得た。 ここで解放軍の実質上のトップにポルポトが踊り出た。 ただしこの時点ではポルポトは温厚で、農民と共に汗を流し、 田畑を耕したりもした。兵士達も皆、友好的だったという。 そしてベトナムがアメリカと合意して戦線を離脱したにも関わらず、 ポルポト率いるクメールルージュは1975年にロンノル政権を倒し カンボジアをロンノル将軍から解放したのである。 ここまではポルポトよりもむしろアメリカの方が悪者である。 ここまでは。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/43
44: mim [sage] 2014/01/30(木) 21:02:06.56 ID:WCFfLoEg ポル・ポト率いる解放軍は首都プノンペンに入るとすぐに民衆を着の身着のままで 強制的に地方の農村部に移すということを開始した。 逆らう者は容赦なく殺した。次々と殺した。 同様の行いが大小含む全ての都市でなされた。 これらはあまりに迅速に実行されたので国外に逃げられた人はほとんどいなかった。 そして国内を「平定」した後は以下の政策を迅速に施行した。 ・私有財産の強制的な没収、貨幣制度の廃止 ・電話、電報、郵便、ラジオ等の連絡機関の廃止 ・バス、鉄道、飛行機等の移動手段の廃止 ・全ての教育機関の廃止と書物の焼却 ・仏教の禁止、寺や像の破壊、民族音楽や古典舞踊の禁止(関係者は全て殺された) ・都市市民の農村部への強制移住 ・家族概念の解体。2〜5歳以上の子供は全て親から隔離 ・自由恋愛の禁止、無作為の相手との強制的な結婚 異論を唱えた者、従わなかった者は全て処刑された。 投獄なんて生易しいまねはしない。全て殺された。 徹底していると普通は思うだろう。 これだけでも歴史上類を見ない暴虐だと思うだろう。 しかしポルポトはそうは思わなかったらしい。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/44
45: mim [sage] 2014/01/30(木) 21:02:40.03 ID:WCFfLoEg 次にポルポトは理想国家の建設のために協力者を集めた。 『例えロンノル政権に加担していたとしても私は許す。 資産家、医師、教師、技術者、僧侶は名乗り出て欲しい。 それから海外に留学している学生も帰って来て欲しい。 理想国家を作るためには君達の力が必要だ。 大切なのはカンボジアの未来なのだから』 国を良くするため、という言葉に共感した<インテリ>が次々と現れ、 それこそ国内のほとんどの高い教養を得た人々、 海外に留学していた学生達がポルポトの元に集った。 彼らはポルポト兵に連れて行かれ、二度と帰って来なかった。 ポルポトは大嘘をついていた。 彼はフランスに留学していたので民衆の集団決起の強さを知っていた。 よって理想国家を作るためどころか、将来自分に歯向かうかもしれない民衆、 その指導者になれそうな教養を持った人間を一掃したかったのだ。 そして民衆を少ない食事で朝から晩まで牛馬のごとく働かせた。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/45
46: mim [sage] 2014/01/30(木) 21:10:32.02 ID:WCFfLoEg 不満を言う者、働けない者はどんどん殺した。 『疲れた』と言っただけで、スプーンをなくしただけで殺された。 次のような者も即刻殺戮対象となった。 ・眼鏡をかけている者 ・肌が白い者 ・手が綺麗な者 そして、 ・美形 家族に至るまで、全て。 ポルポト率いるクメール・ルージュ政権は、密告を奨励した。 妻が夫を、夫が妻を、子が親を密告し、隣人を密告する、 そうした恐怖の密告社会の中で、国民は互いに殺し合った。 少しでも正義感が強いとか、物事を考える者はそれだけで殺された。 家族、一族もろとも。 誰も信用できず、栄養が足りず、指導者もおらず、 反乱の芽は種になる前に焼かれた。 国民はポルポトに従うしかなかった。 ポルポト兵に入隊できるのは13歳以下の少年に限られた。 ポルポトの意向通りに洗脳し易いからだ。 結果、少年達はポルポトを神とあがめ、 命令があれば肉親でも殺す鉄の兵隊になった。 そうしてポルポト兵は狂信的集団へと収束していった。 1975年から1978年の3年間のポルポト政権の期間で カンボジアでは約300万人の死者が出た。 これは国民の1/3に当る大虐殺であった。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/46
47: mim [sage] 2014/01/30(木) 21:11:46.69 ID:WCFfLoEg なぜ世界がこの虐殺を取上げなかったのか。 それには大まかに2つの理由がある。 1つはポルポトが徹底した鎖国政策をとり、人の移動や情報を封鎖したこと。 もう1つは突拍子のない話で、真実味が感じられなかったこと。 実際に何とかこの虐殺を報道するまでに至ったこともあったが、 自国民をそこまで意味もなく虐殺するなどあり得ないと判断されたのだ。 国家にとって何の利益ももたらさないではないか、と。 だから誰も信じなかったというわけだ。 しかし虐殺疑惑の波紋は止め様もなく、取材の依頼が殺到した。 拒否し続けて国連の視察団が来れば致命的と判断したポルポトは 限定地域、限定期間での取材を承諾した。 そこでは裏工作がなされ、平和な村を装ったので事実は隠蔽された。 疑問を解消できなかったジャーナリストの一部は 果敢に独自の取材を展開したが、そのほとんどは行方不明になった。 まず間違いなくポルポトの命で殺されたのであろう。 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/47
48: mim [sage] 2014/01/30(木) 21:13:09.42 ID:WCFfLoEg ポルポトによる狂気は1979年のベトナム軍の侵攻をもって、 公式の上では終わりを告げた。 そこでベトナム軍の兵士たちは戦慄に震えた。 実はベトナムの情報筋も、クメール・ルージュによる虐殺の噂は 尾ひれのついたものであろうとたかをくくっていた。 だが、蓋を開けたときに見たものは、噂を遥かに超える『事実』だったのだから。 ポルポト軍はタイ国境のジャングルへ逃げ落ちた。 ポルポトは逃げる前に軍人以外の民衆800万人を殺そうとした。 未然に防げたからいいようなものの、もし実行されていれば 生き残ったのは軍人5万人と逃げていたカンボジア人5万人。 わずか10万人ではもはや国家とは呼べない。 カンボジア解放後、残った国民の85%が14歳以下の子供であった。 これらの出来事が起こってからまだ30年弱。 決して遠い昔の話ではない。 つい最近に現実にあった悪夢。 これがクメール・ルージュ、そして純朴なる共産主義者・ポルポトの夢見た『理想』のなれの果てなのだ。 END http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/48
49: mim [sage] 2014/01/30(木) 21:25:21.60 ID:WCFfLoEg 遺書 母を慕いて 母上お元気ですか 永い間本当に有難うございました 我六歳の時より育て下されし母 継母とは言え世の此の種の女にあるが如き 不祥事は一度たりとてなく 慈しみ育て下されし母 有難い母 尊い母 俺は幸福だった 遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺 幾度か思い切って呼ばんとしたが 何と意志薄弱な俺だったろう 母上お許し下さい さぞ淋しかったでしょう 今こそ大声で呼ばして頂きます お母さん お母さん お母さんと 相花信夫少尉 第七七振武隊 昭和二○年五月四日出撃戦死 一八歳 http://toro.5ch.net/test/read.cgi/utu/1390839003/49
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
Google検索
Wikipedia
ぬこの手
ぬこTOP
0.028s