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【三戦板】 三戦板白馬党 3 【解放区】 (1001レス)
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: 2015/06/01(月)06:11
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813: [] 2015/06/01(月) 06:11:03.32 革田役と穢多役の武力行使 広島は西国街道が貫き、東西の出入り口に革田の居住地が置かれていた。 後藤陽一によると、東は現在の尾長町、西は福島町の辺りである。 1599(慶長4)年に、広島城が築城され、町割りされた。 これら二つの被差別部落は、起源をその時代に求めることができる。 また1818(文政初)年に、東の出入り口に革田215人、定非人328人、 西の出入り口に革田513人、定非人373人が定住したという記録がある。 西の革田の人口が東の2倍近くで、非人の人口もやや多い。 後藤は、その理由を、西方からの軍事的圧力が強かったためとしている[後藤 1982:268]。 さらに革田は、村役人の了解のもとに、郡中革田を支配下に置いており、郡中へ直接出動することもあった。 また郡中革田は、必要に応じて配置転換が行なわれた。 それは、福山藩においても同様であった[橋本1979:256]。 革田や穢多が置かれた状況には、戦略的な意味が大きかったと思われる。 江戸幕府が統治した260年間は、経済が順調に発展し、戦争がない時代であった。 そのため、革田や穢多の軍事能力を判断できる史料は、乏しい。 しかし、百姓一揆の際や幕末の内乱時に、彼らが優れた戦闘能力を発揮した事例が、いくつかある。 なかでも、1786年に福山藩で起きた天明一揆の例は、興味深い。 一揆は、藩主阿部正倫の幕閣就任などにより、藩の財政が逼迫したことが原因で起きた。加えて、凶作となり物価も上昇した。 福山藩は、危機回避策として、年貢月割先納という政策を採った。 農民はこれに反発し、同年12月から翌年の3月までの、長期に及ぶ一揆を行なった。 この時、藩命に従って一揆の鎮圧に出動したのが、穢多頭・三八配下の40-50名の人々であった。 彼らは、左右が竹薮という地勢において、8,000名もの農民に包囲され、投石などの攻撃を受けた。 しかし彼らは、脇差しを抜き、農民の包囲を破って帰還する[青木 1968:360]という戦闘能力の高さを示した。 三八の勢力は、深津郡三吉村(現福山市)を拠点としていた。農民は、そこに火をかけて、備中方面へ逃亡しようとした。 彼らは、藩が手勢を割いて消火に当たって、追跡が手薄になることを知っていたからである[青木 1968:376]。 このことからも、福山藩の穢多の戦略的役割が浮かび上がる。 従来の研究では、三八配下が農民の襲撃を受けたことだけが強調され、彼らの戦闘能力に触れられることはなく、 また、彼らの居住地がもった戦略性も無視されてきた。 幕末の1866年に広島藩が出した通達に、「御触書并諸国状写帖」がある。 そこには、「屈竟ノ革田ドモ得物持参、成ルタケ多人数急速ニ罷リ出候様取リハカライ申スベシ」と記されている。 それは、幕府と長州の戦争に革田の動員を命じたものである。その際、革田の得物すなわち武器は、自前であった。 このことも、革田が恒常的に武装していたことを示している。この点も、従来の研究では注目されることがなかった。 早くより経済が発展した後背地を抱える瀬戸内の海賊は、藩をおおいに悩ませていた。 江戸期には「水軍」は消滅していたが、海賊の軍事力は侮れるものではなかった。 革田は、その海賊の取締りも行なった[広島県 1973b:988, 990]。 藩にとって、他面で、被差別民の高い戦闘能力や、犯罪者の追捕能力は、大きな脅威となった。 革田が経済的に豊かになり、権力のイデオロギーから自由にでもなれば、革田の居住地は、権力が及ばない空間ともなりかねない。 このように、革田は軍事的存在であり、役の実行は、軍事力の行使であった。 http://hayabusa6.5ch.net/test/read.cgi/warhis/1368456151/813
革田役と多役の武力行使 広島は西国街道が貫き東西の出入り口に革田の居住地が置かれていた 後藤陽一によると東は現在の尾長町西は福島町の辺りである 慶長年に広島城が築城され町割りされた これら二つの被差別部落は起源をその時代に求めることができる また文政初年に東の出入り口に革田人定非人人 西の出入り口に革田人定非人人が定住したという記録がある 西の革田の人口が東の倍近くで非人の人口もやや多い 後藤はその理由を西方からの軍事的圧力が強かったためとしている後藤 さらに革田は村役人の了解のもとに郡中革田を支配下に置いており郡中へ直接出動することもあった また郡中革田は必要に応じて配置転換が行なわれた それは福山藩においても同様であった橋本 革田や多が置かれた状況には戦略的な意味が大きかったと思われる 江戸幕府が統治した年間は経済が順調に発展し戦争がない時代であった そのため革田や多の軍事能力を判断できる史料は乏しい しかし百姓一の際や幕末の内乱時に彼らが優れた戦闘能力を発揮した事例がいくつかある なかでも年に福山藩で起きた天明一の例は興味深い 一は藩主阿部正倫の幕閣就任などにより藩の財政が逼迫したことが原因で起きた加えて凶作となり物価も上昇した 福山藩は危機回避策として年貢月割先納という政策を採った 農民はこれに反発し同年月から翌年の月までの長期に及ぶ一を行なった この時藩命に従って一の鎮圧に出動したのが多頭三八配下の名の人であった 彼らは左右が竹薮という地勢において名もの農民に包囲され投石などの攻撃を受けた しかし彼らは脇差しを抜き農民の包囲を破って帰還する青木 という戦闘能力の高さを示した 三八の勢力は深津郡三吉村現福山市を拠点としていた農民はそこに火をかけて備中方面へ逃亡しようとした 彼らは藩が手勢を割いて消火に当たって追跡が手薄になることを知っていたからである青木 このことからも福山藩の多の戦略的役割が浮かび上がる 従来の研究では三八配下が農民の襲撃を受けたことだけが強調され彼らの戦闘能力に触れられることはなく また彼らの居住地がもった戦略性も無視されてきた 幕末の年に広島藩が出した通達に御触書諸国状写帖がある そこには屈ノ革田ドモ得物持参成ルタケ多人数急速ニ罷リ出候様取リハカライ申スベシと記されている それは幕府と長州の戦争に革田の動員を命じたものであるその際革田の得物すなわち武器は自前であった このことも革田が恒常的に武装していたことを示しているこの点も従来の研究では注目されることがなかった 早くより経済が発展した後背地を抱える瀬戸内の海賊は藩をおおいに悩ませていた 江戸期には水軍は消滅していたが海賊の軍事力は侮れるものではなかった 革田はその海賊の取締りも行なった広島県 藩にとって他面で被差別民の高い戦闘能力や犯罪者の追捕能力は大きな脅威となった 革田が経済的に豊かになり権力のイデオロギーから自由にでもなれば革田の居住地は権力が及ばない空間ともなりかねない このように革田は軍事的存在であり役の実行は軍事力の行使であった
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