[過去ログ] ワンピース強さ議論と雑談スレ692 (1002レス)
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624: 2018/02/13(火)21:27 ID:4H1rIoi8(3/8) AAS
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1881年10月25日午後9時30分、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市のプラス・ラ・メルセド15(当時は36)に生まれた。
長男。父はアンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペス[2]。1891年、ガリシア地方ラ・コルーニャに移住。父ドン・ホセは同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任。1892年、
ラ・コルーニャの美術学校に入学。1894年、父ドン・ホセは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に自分を凌駕している息子の才能への賞賛が原因とされる[2]。1895年、
バルセロナに移住、美術学校に入学。1月の猶予のある入学製作を1日で完成させる。初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた
。1897年、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』がマドリードで開かれた国展で佳作を受賞、マラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、
マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。だが、ピカソはアカデミズム・学校で学ぶことの無意味さを悟り、中退する。プラド美術館に通い
、ベラスケスらの名画の模写することで絵画の道を求めていった。1898年、春猩紅熱にかかりオルタ・デ・エブロで療養[2]。1899年、バルセロナに戻ってきた。バルセロナで若い芸術家(サロン)たちと交わりながら熱心に絵を描く。
店のメニューをデザインしたり、アールヌーヴォー調のポスターを描いたりした。1900年、カサヘマス、パリャーレスとともにパリを初訪問。その後バルセロナとパリの間を何度か行き来する。
1901年、雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで初の個展。「青の時代」の始まり。1902年10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む1904年4月、詩人のマックス・ジャコブによって
〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。1905年、「ばら色の時代(Picasso's Rose Period)」または「桃色の時代」[3]が始まる(〜1907年)。
1907年、『アビニヨンの娘たち』製作。1911年9月、ルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』が盗まれ、容疑者の一人と
して逮捕された(ただし1週間で釈放された)。同じく逮捕された友人のギョーム・アポリネールについて、「彼は知人ではない」と証言したせいで、そ
の後彼としこりを残した。1912年、モンパルナスへ移る。1913年、父ホセ・ルイス・ブラスコ死去。1916年、パリ郊外モンルージュに移る。
1917年、バレエ『パラード』の装置、衣装を製作。1918年1月、オルガ・コクローヴァと結婚。パリ、ラ・ボエシーに移る。1919年5月、ロンドンで『三角帽子』の装置、衣装を製作。1920年、
『プルチネルラ』の衣装を製作。新古典主義時代。1921年、息子パウロ誕生。1922年、コクトーの『アンティゴーヌ』の装置、衣装を担当。1924年
、バレエ『メルキュール』(ディアギレフ)の装置、衣装を製作
。1928年、彫刻に専心。1930年、『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受賞。1931年、『変身譚』の挿絵を制作。1932年、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。
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