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712: 2005/04/06(水)09:25 0 AAS
>>710
漢初になるけど、季布、劇孟、郭解らの連続短編形式の『一諾』もでてるね。
>>711
『裂果』はあまりお薦めできないかも。
史料に親しんで当時の概念や風習、制度なんかを知ってると、首をかしげたく
なる場面が多いと思う。
その点で、『田釐子・成子』も自分は馴染めなかった。
713: 2005/04/06(水)12:40 0 AAS
漢の武帝の時に、周の末裔が召しだされて侯に封じられたよね?
あれはどの系統なんだろ?
秦に滅ぼされた西周?それとも、衛や魯とか?
714: ntt2-ppp24.osaka.sannet.ne.jp 2005/04/06(水)12:54 0 AAS
715: 2005/04/06(水)14:05 0 AAS
周王室じゃなくて周公の子孫だったと思う。
魯侯か周公かまでは知らない。
断続的かもしれないけど魏までは続いていたはず。
王莽とか光武帝とかも封じているから。
716: 2005/04/06(水)15:22 0 AAS
周王の子孫じゃない?周の子南君のことだよね?
717: 2005/04/06(水)18:06 0 AAS
孔子の子孫はなぜか商の祭祀を継いでることになってるんだよな……
なぜだ!?
あと、五胡・南北朝以降にも時の権力者に爵位を封じられた古代名家ってある?
718(2): 2005/04/06(水)18:16 0 AAS
武帝の元鼎4年に周の後裔姫嘉を周子南君(史記周本紀によると三十里で列侯同等)に
封じた。その後元帝が初元元年に延年を周承休侯に進めて諸侯王に継ぐ席次とした。と漢
書の各本紀に有ります。
その後成帝は綏和2年、殷の子孫の内孔吉を正統なものとして殷紹嘉侯とし、更に翌月周承休侯とともに公とし、領地は方百里となっています。
平帝の元始元年には、周公の子孫(魯公の系統?)公孫相如を褒魯侯、孔子の子孫孔均
を褒成侯に封じています。また同時に孔子を褒成宣尼公に追封しています。
この後孔子の子孫は、中断があったり爵は変化したりしますが、概ね清末に至るまで爵
位を継いでいくことになります。
その後元始4年正月には殷紹嘉公を宋公、周承休公を鄭公(漢書王莽伝では衛公になっ
ています。変更があったのでしょうか?)に改められました。
省13
719: 2005/04/06(水)18:51 0 AAS
なんで周の末裔(?)はちゃんと姫姓なのに、殷の子孫は微子姓じゃなくて孔姓なの?
720(1): 2005/04/06(水)19:04 0 AAS
>>718
721: 2005/04/06(水)19:12 0 AAS
>>720
殷の孔姓については書いてないよ
722: 2005/04/06(水)20:09 0 AAS
漢儒の運動のおかげでしょう。孔子が宋の孔父嘉の子孫だという
かなり怪しい伝承のもとに無理矢理孔家を殷の正統にしたのでは?
723: 2005/04/06(水)20:29 0 AAS
孔子生魯昌平郷陬邑.其先宋人也
724: 2005/04/06(水)21:17 0 AAS
>>718
王の死による自然消滅じゃなくて、西周が秦に滅ぼされた時に廃位されたんじゃないの?
725: 2005/04/06(水)23:04 0 AAS
十八史略では、西周が韓・魏とともに秦にケンカを売って大敗し、
周王は跪いて無条件降伏したというような記述があるから
西周の滅亡と共に周王も廃されたというところじゃないかな。
または、秦のご機嫌を取って保身をはかるために自ら王号を放棄したとか。
誰も後をつがなかったのは、東周もその他の残党も、みすみす秦にケンカをうるような
マネをしたくなかったんじゃないか。それこそ皆殺しは確実だろうし。
726: 2005/04/06(水)23:20 0 AAS
特に殺されたりしたとの記述もないよな。
なんで一行も史書にのってないんだろう?
727: 2005/04/06(水)23:33 0 AAS
秦末の動乱時期に周王の復興を目指す動きはありました?
動きがあったのが戦国七雄の国ばかりだったので不思議に思った。
728: 2005/04/07(木)00:05 0 AAS
ないない、秦・斉・燕・魏・趙・韓・楚がみんな
王を称していたのに、なんで棺おけに入ってる王様を
引っ張りださなけれりゃいけないのよ?
729: 2005/04/07(木)11:56 0 AAS
周は秦統一以前の正統なる支配者だからこそ価値があったわけで秦に滅ぼされたらそんな権威もなにもあったもんじゃない と
730: 2005/04/07(木)15:52 0 AAS
>>727-929
戦国七雄は面積も大きく人口もそれなりに多い。
独自の文化や同国人としてのまとまったアイディンティティーも
それなりに育まれていたから秦末の動乱で復興したんでしょう。
東周・西周は都市国家に毛が生えたような狭小な国だから
人口もそれなりに少ない。で、復興運動を支える人材人脈の結集
と意欲が致命的に弱かったんじゃないか?それで経済基盤・総合国力
が不足したと。
洛邑などは天下の大都会だけど、地方と往復してる商人とかの
コスモポリタンな連中や、へたれな都市民が多かったんじゃないか。
省2
731: 2005/04/07(木)17:47 O携 AAS
だいいち、周の故地は秦の本国だしね。
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