中原を乗っ取った漢民族 (48レス)
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13: 07/12(金)00:38 ID:0(13/48) AAS
北方遊牧民から何もかも盗んで自分の功績にしてる民族
周時代の中国からも高頻度で観察されていることから、ハプログループQが上古中国語の担い手であったことも想定され、シナ・チベット語族とナ・デネ語族の近縁性が示唆されていることも注目される。
14: 07/12(金)13:30 ID:0(14/48) AAS
黄帝は周王室と同じハプロN
神農は羌族のDだろうね
15: 07/12(金)13:36 ID:0(15/48) AAS
武川鎮出身の有力者は、後に武川鎮軍閥、さらに後には関隴集団と呼ばれる、西魏・北周、および隋・唐の支配層を形成していた集団となっていきます
孝文帝の死後に北魏は東西に分裂し、東魏(534~550年)は北斉(550~577年、国祖の高歓は懐朔鎮出身の鮮卑人で、六鎮の乱に加わった人物)に、西魏(534~557年)は北周(557~581年、国祖の宇文泰は匈奴を先祖に持つ武川鎮出身の鮮卑人で、やはり六鎮の乱に加わった人物)に取って代わられます。やがて北周は北斉を滅ぼし、その北周は隋(581~618年)に取って代わられます。これらはみんな、鮮卑系の王朝と言えます。
隋の楊は北魏の漢化政策の時につけられた姓であり、『普六茹』という鮮卑風の姓は北周の鮮卑化政策でつけられたものではなく、本来の姓である」と言う説もあり、はっきり鮮卑人だと言い切っている本も多いです。
おまけに、先に出てきた宇文泰が580年に西魏に置いた八柱国(柱国大将軍に任じられた8名の将軍のこと)の下に置かれた大将軍の一人が楊忠です。最低限、楊堅は「鮮卑系」と見做して差し支えないでしょう。
隋末に各地で反乱を起こした群雄のうちに李淵・李世民父子がいました。李淵は先に挙げた八柱国の一人の李虎の孫であり、武川鎮軍閥のなかでの家格は隋王室の楊氏よりも上位に当たります。
16: 07/12(金)13:37 ID:0(16/48) AAS
李淵の一族は大野(だいや)氏という胡姓を持ちますが、ある学説では「実際は鮮卑系の出自で本来の姓も大野氏であり、中原の支配権を正当化するために自身が漢民族の末裔であることを主張した」
隴西李氏について書いていくと、北周の八柱国の家系で、かつて北魏においては皇后を出す資格のある家柄の一つとして重んじられた北朝の名門でした。李淵が隋の文帝の信任を得るきっかけとなったのは、その独孤皇后(五胡十六国時代の南匈奴の独孤部の末裔で、独孤氏は北朝から隋唐の時代にかけての名門貴族)が李淵の叔母にあたることによります。
17: 07/12(金)13:38 ID:0(17/48) AAS
ここまでの流れをご覧いただくと、
・北魏に始まる鮮卑系王朝のルーツが、北魏→東魏・西魏→北斉・北周→隋・唐と引き継がれていること
・これらの皇帝には、北魏のつくった武川鎮にゆかりのある人物・宇文泰と何らかの縁のある人物だらけであること
また、皇后たちも、文帝の独孤皇后も李淵の太穆竇皇后も匈奴系、李世民の長孫皇后は鮮卑拓跋部です。敢えて北族を嫁がせているとしか思えません。漢民族と北族のどちらにアイデンティティを感じていそうか、雄弁に物語っています。
18: 07/12(金)13:38 ID:0(18/48) AAS
唐代に書かれた南北朝時代を扱った歴史書『南史』『北史』は659年に完成しましたが、南史を見ると、宋の君主・梁の君主・陳の君主・全て「本紀」で扱われ、みな正式に「皇帝」と呼ばれています。まあこれは当然です。魏の正統を引き継いだのが西晋、これが匈奴に追われていったん滅亡して南遷した以後が東晋で、東晋から禅譲を受けて宋が誕生するわけなので、中国の伝統的な正統観からすれば、これらは正統でなければおかしいわけです。
ところか、北史を見ると、遊牧民系の北魏も、東魏も、西魏も、北斉も、北周も、隋も、全て皇帝として「本紀」で扱われています。「三国志」では、魏だけに「本紀」を立て、正式に「漢」と称したのを無視してあくまで地域名で「蜀」として、「中国世界に皇帝は一人」という建前を守ったのとは大違いです。おかげで、「南史」「北史」が示しているのは、「北朝も南朝も正統である」という、中国世界の大前提を掘り崩す、恐るべき世界観です。
19: 07/12(金)13:38 ID:0(19/48) AAS
唐が本当に漢民族王朝なのであれば、鮮卑人の北魏を正統とはしないでしょう。隋・そしてそれを承けた唐の帝室が鮮卑起源であることを自分たちがよく知っているからこそ、北魏をも正統とする歴史書を書いたのです。唐は、自ら北魏の系譜であると言っているようなものです。
20: 07/12(金)13:47 ID:0(20/48) AAS
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
周王朝の羌族出身だと思われる后妃
炎帝神農氏(しんのうし)は、伝説上の姜姓の氏族である。
周王朝の<姬(き)とは?>
中国史では、姬姓は元々、黄帝、帝嚳の別姓とされる。嚳の子孫の后稷はこの姬を姓として使ったという。后稷の子孫とされる古公亶父が周の始祖であり、その曾孫の武王が殷を滅ぼして、周王朝を築いたためその国姓となった。
21: 07/12(金)13:50 ID:0(21/48) AAS
漢族は黄帝の子孫じゃないね
黄帝は周王朝と同じウラル系民族
22: 07/12(金)15:55 ID:0(22/48) AAS
漢民族の国
漢 漢民族
新 漢民族
蜀、魏、呉 漢民族
劉宋 漢民族
南斉/梁 不明
陳 不明
中華民国
中華人民共和国
未来
省2
23(1): 07/13(土)12:57 ID:0(23/48) AAS
>>2
諸葛亮は荊州生活が長く
諸葛亮以降の蜀も荊州出身者によって運営された
ようするに楚の亡命政権
蜀漢は楚が蜀を制圧してできた政権
最も本拠地の楚、荊州は呉によって奪取されたが
24: 07/20(土)10:16 ID:0(24/48) AAS
ちなみに最近連中が漢服と自称しているものは
日本の伝統的な着物の形、製法をそのままパクリ、更に好き勝手に手を加えた
過去に一度も存在したことのない謎の服である
何故こうなるかと言うとシナ大陸は満州人に征服され、満州の服装と髪型をしないと死刑になったため
漢服は400年以上前に跡形もなく消滅した
今や漢民族を名乗るシナ人ですら漢服というものがどういうものか、作り方すらわからないのが現実だから
勝手に日本の着物や髪飾りをパクって過去に存在しない服や飾りを映画やドラマなどに出しているのである
25(1): 07/20(土)10:18 ID:0(25/48) AAS
シナの歴史的な服というのは日本の着物とは全く違う
何故ならシナの歴史とはモンゴルや満州など騎馬民族に負け続け、その服や文化を強制されたりパクった歴史なので
モンゴルのような服が多く、チャイナ服と言われるのは満州人の服である
26: 07/20(土)11:59 ID:0(26/48) AAS
夷の言語を忘れて
中国語が母語で
中原の生活様式に(冨貴は問わない)そまったらもう漢民族だろう
趙匡胤とかはもう漢化してる
それに遺伝子がものを言うとなればオスマン帝国は欧州人の王朝になる
オスマン家のハプロはRだから
27: 07/21(日)10:07 ID:0(27/48) AAS
>>1
元祖漢族の単一Y-DNAハプログループというものが存在して、それはO系統だろうという前提で
話をしているようだが、その前提はとても怪しい。
Y-DNAハプログループの大系統C, D, E, ..., Qへの分岐は6万〜2万年前で、そのような太古の
原始人が現在の語族に直接繋がる言語を既に持っていたとは考えにくい。これらの原始人たちの
混血後に語族が発生したと思われる。つまり、漢族は元々C, D, N, O, Qの混成集団だったはず。
28: 07/21(日)15:00 ID:0(28/48) AAS
あの時代の貴族にハプロOは居ない
29: 07/21(日)21:22 ID:0(29/48) AAS
日本の場合、天皇家がDみたいだけどDが日本では一番多い
貴族階級や皇族が臣籍降下して地方に散らばったからだと思うが
古代中国も同じこと起ってないとおかしくないか?
30: 08/05(月)23:34 ID:0(30/48) AAS
目医者に寄り添えるアスリートが選ばれてると思うが
31: 08/05(月)23:38 ID:0(31/48) AAS
結論、若い世代は保険で出るみたいにソロ敬遠敬遠でええやろ
32: 08/05(月)23:46 ID:0(32/48) AAS
>>25
この記事になるわな
実質何もしないと思うわ
サウナなんて風潮もなかったっぽい
ソヌのいる宿舎で吸ってクラブ行ってスーパー銭湯行ってどうでもいいのに基礎点が入る
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