中原を乗っ取った漢民族 (48レス)
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(1): 07/12(金)00:29 ID:0(2/48) AAS
歴代王朝の皇帝の大半は遊牧民

歴史上、モンゴル人が北中国を征服し、北中国人が南中国人を征服し、南中国人が東南アジアに避難して現地の経済や政治を掌握する流れはあってもその逆は1度たりとも無かった
三国時代の争覇戦も、涿県(今の北京周辺)出身の劉備や山東省出身の諸葛亮が、中原では落ち延びたにも関わらず南方の荊州や益州ではいとも簡単に皇帝や丞相になってしまうという河北人酋長モノと言える
そしてその蜀は南征を行うが、当然その逆は無い

つまりある時代の南人というのは1つ前の時代の漢人であり、ある時代の漢人というのは1つ前の遊牧民であった可能性が非常に高い事

これに対し、中国人は「自分たちの土地は豊かだったから北に移住する必要は無かったんだ」と主張するが、人口というのはその土地の食糧生産高に対して飽和するまで増加するのだから、全体としての生産量が多くとも1人あたりの豊かさで見れば、均衡するものである

中華文明というのは中国人の言う異民族によって主導されてきた文明であり、現在漢民族と自認する人々はその文明における一介の同居人に過ぎなかった
誤解を恐れずに言えば、実態としては古代ギリシアにおけるヘイロータイのようなものだった
3: 07/12(金)00:29 ID:0(3/48) AAS
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春秋時代の黄河河口に居たのは
現代西ヨーロッパ人に近縁であった
4: 07/12(金)00:30 ID:0(4/48) AAS
漢民族の統一王朝は漢と明だけである

その漢も匈奴の属国だった
漢王朝の建国者の劉邦は、白登山の戦いで北方遊牧民の匈奴に敗退し、屈服しました。漢王朝は大量の貢物と一族の娘を人質として匈奴に嫁がせることになります。漢王朝は50年間、匈奴の属国だったのです。
5: 07/12(金)00:30 ID:0(5/48) AAS
晋朝皇室:复旦大学对山东临沂的洗砚池墓地被确认为晋元帝司马睿第五子司马焕和孙子司马安国的其中一具遗骨进行基因检测,父系为C-F1319,故推测晋朝皇室司马懿家族父系属于C-F1319支系;

支那の復旦大学の研究結果で明らかになった事実
晋の皇帝はモンゴルツングース系のY染色体を持ってる
6: 07/12(金)00:30 ID:0(6/48) AAS
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長年漢民族王朝扱いを受けてた宋
遺伝子解析で趙匡胤の突厥沙陀族がバレた

趙匡胤の父趙弘殷は突厥沙陀部の国家である後唐の近衛軍の将官だから憶測で突厥言われてたけど、DNA解析で明らかになった
7: 07/12(金)00:31 ID:0(7/48) AAS
支那人御自慢の世界三大発明活版印刷・火薬・羅針盤

火薬はモンゴル人王朝の唐
活版印刷、羅針盤の北宋はトルコ人の王朝
8: 07/12(金)00:32 ID:0(8/48) AAS
夏 羌族
殷 蒙古系
周 ウラル系民族
秦 チベット系民族
漢 漢民族
新 漢民族
三国 漢民族
晋 蒙古系
劉宋 漢民族
南斉/梁 不明
省16
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(1): 07/12(金)00:33 ID:0(9/48) AAS
契丹古伝とは、

遼(契丹)太宗耶律堯骨の会同五(942)年に耶律羽之によって撰ばれた契丹王家の祖先に関する伝承を纏めた古文書とされています。

古代中国の尭・舜・殷はこのシウカラ系の国家であったが、「海漠象変」と表現される天変地異とともにシウカラ族は没落し、西族(漢民族)によって中原を追われる。

『契丹古伝』によれば、のちに東夷や北狄とよばれるようになる蒙古民族こそが中国大陸に超古代王朝を築いた先住民であり、契丹王朝もその末裔であった。

東大神族(シウカラ)は、漢民族が登場する以前から存在したユーラシア大陸の先住民。
省4
10: 07/12(金)00:34 ID:0(10/48) AAS
『帝王世紀』には「伏蒙は成紀に生まれる」とある。「伏蒙」は三皇(中国最古の三人の皇帝。ほかの2人は神農と黄帝)の1人目で、「成紀」は今日の甘粛省南部天水地区、古くは「方羌の地」とされる。
『史記・補三皇本紀』では、炎帝は「姜水で育つ」という。姜水は甘粛省定西市渭源県の方渭河、その支流の歧水で、今日では渭河という。渭河の源はすなわちチャン人の本拠地である。『国語・晋語四』の解釈では、「昔少典は有嬌氏を娶り、黄帝と炎帝を生んだ。黄帝は姫水で育ち、炎帝は姜水で育つ。育った場所を異にするため、黄帝を姫、炎帝を姜と呼ぶ」。つまり、黄帝と炎帝は兄弟で(一説には異母兄弟)、2人とも間違いなくチャン族部落の人である。これは、なぜ古字の「羌」と「姜」が同じ文字であるかを説明している。ここから今日我々がいう炎黄子孫は、実はチャン人の末裔であると分かる。
『史記・六国年表』には「禹は西羌に興る」とあり、また『孟子・離婁下』には「文王は歧周に生まれ、畢郢で没す、西夷の人である」とある。西夷は間違いなく西羌のことである。そこで歴史学者の翦伯賛氏は「炎帝の姓は姜……西戎チャン族の一系統で、西から遊牧して先に中部に入る」という。

三皇五帝も孔子も元は漢人じゃない」

そう、つまり華夏族の黎明期の崇敬を集める帝王でさえ今の漢民族とはかけ離れた存在だったわけである
11: 07/12(金)00:36 ID:0(11/48) AAS
O2の王朝

漢朝 O2 劉邦、武帝(劉徹)、光武帝(劉秀)
蜀漢 O2 劉備
孫呉 O2 孫権
劉宋 O2 劉裕
明朝 O2 朱元璋、永楽帝

朝鮮
高麗 O2 王建 モンゴルの属国
李氏朝鮮 O2 李成桂 清の属国

たったこれだけw
12: 07/12(金)00:37 ID:0(12/48) AAS
他民族に侵略されてただけの情けない歴史
13: 07/12(金)00:38 ID:0(13/48) AAS
北方遊牧民から何もかも盗んで自分の功績にしてる民族

周時代の中国からも高頻度で観察されていることから、ハプログループQが上古中国語の担い手であったことも想定され、シナ・チベット語族とナ・デネ語族の近縁性が示唆されていることも注目される。
14: 07/12(金)13:30 ID:0(14/48) AAS
黄帝は周王室と同じハプロN
神農は羌族のDだろうね
15: 07/12(金)13:36 ID:0(15/48) AAS
武川鎮出身の有力者は、後に武川鎮軍閥、さらに後には関隴集団と呼ばれる、西魏・北周、および隋・唐の支配層を形成していた集団となっていきます

孝文帝の死後に北魏は東西に分裂し、東魏(534~550年)は北斉(550~577年、国祖の高歓は懐朔鎮出身の鮮卑人で、六鎮の乱に加わった人物)に、西魏(534~557年)は北周(557~581年、国祖の宇文泰は匈奴を先祖に持つ武川鎮出身の鮮卑人で、やはり六鎮の乱に加わった人物)に取って代わられます。やがて北周は北斉を滅ぼし、その北周は隋(581~618年)に取って代わられます。これらはみんな、鮮卑系の王朝と言えます。

隋の楊は北魏の漢化政策の時につけられた姓であり、『普六茹』という鮮卑風の姓は北周の鮮卑化政策でつけられたものではなく、本来の姓である」と言う説もあり、はっきり鮮卑人だと言い切っている本も多いです。

おまけに、先に出てきた宇文泰が580年に西魏に置いた八柱国(柱国大将軍に任じられた8名の将軍のこと)の下に置かれた大将軍の一人が楊忠です。最低限、楊堅は「鮮卑系」と見做して差し支えないでしょう。

隋末に各地で反乱を起こした群雄のうちに李淵・李世民父子がいました。李淵は先に挙げた八柱国の一人の李虎の孫であり、武川鎮軍閥のなかでの家格は隋王室の楊氏よりも上位に当たります。
16: 07/12(金)13:37 ID:0(16/48) AAS
李淵の一族は大野(だいや)氏という胡姓を持ちますが、ある学説では「実際は鮮卑系の出自で本来の姓も大野氏であり、中原の支配権を正当化するために自身が漢民族の末裔であることを主張した」

隴西李氏について書いていくと、北周の八柱国の家系で、かつて北魏においては皇后を出す資格のある家柄の一つとして重んじられた北朝の名門でした。李淵が隋の文帝の信任を得るきっかけとなったのは、その独孤皇后(五胡十六国時代の南匈奴の独孤部の末裔で、独孤氏は北朝から隋唐の時代にかけての名門貴族)が李淵の叔母にあたることによります。
17: 07/12(金)13:38 ID:0(17/48) AAS
ここまでの流れをご覧いただくと、

・北魏に始まる鮮卑系王朝のルーツが、北魏→東魏・西魏→北斉・北周→隋・唐と引き継がれていること

・これらの皇帝には、北魏のつくった武川鎮にゆかりのある人物・宇文泰と何らかの縁のある人物だらけであること

また、皇后たちも、文帝の独孤皇后も李淵の太穆竇皇后も匈奴系、李世民の長孫皇后は鮮卑拓跋部です。敢えて北族を嫁がせているとしか思えません。漢民族と北族のどちらにアイデンティティを感じていそうか、雄弁に物語っています。
18: 07/12(金)13:38 ID:0(18/48) AAS
唐代に書かれた南北朝時代を扱った歴史書『南史』『北史』は659年に完成しましたが、南史を見ると、宋の君主・梁の君主・陳の君主・全て「本紀」で扱われ、みな正式に「皇帝」と呼ばれています。まあこれは当然です。魏の正統を引き継いだのが西晋、これが匈奴に追われていったん滅亡して南遷した以後が東晋で、東晋から禅譲を受けて宋が誕生するわけなので、中国の伝統的な正統観からすれば、これらは正統でなければおかしいわけです。

ところか、北史を見ると、遊牧民系の北魏も、東魏も、西魏も、北斉も、北周も、隋も、全て皇帝として「本紀」で扱われています。「三国志」では、魏だけに「本紀」を立て、正式に「漢」と称したのを無視してあくまで地域名で「蜀」として、「中国世界に皇帝は一人」という建前を守ったのとは大違いです。おかげで、「南史」「北史」が示しているのは、「北朝も南朝も正統である」という、中国世界の大前提を掘り崩す、恐るべき世界観です。
19: 07/12(金)13:38 ID:0(19/48) AAS
唐が本当に漢民族王朝なのであれば、鮮卑人の北魏を正統とはしないでしょう。隋・そしてそれを承けた唐の帝室が鮮卑起源であることを自分たちがよく知っているからこそ、北魏をも正統とする歴史書を書いたのです。唐は、自ら北魏の系譜であると言っているようなものです。
20: 07/12(金)13:47 ID:0(20/48) AAS
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周王朝の羌族出身だと思われる后妃

炎帝神農氏(しんのうし)は、伝説上の姜姓の氏族である。

周王朝の<姬(き)とは?>
中国史では、姬姓は元々、黄帝、帝嚳の別姓とされる。嚳の子孫の后稷はこの姬を姓として使ったという。后稷の子孫とされる古公亶父が周の始祖であり、その曾孫の武王が殷を滅ぼして、周王朝を築いたためその国姓となった。
21: 07/12(金)13:50 ID:0(21/48) AAS
漢族は黄帝の子孫じゃないね
黄帝は周王朝と同じウラル系民族
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