[過去ログ] 日蓮って ver.29 (720レス)
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326
(3): 山椒島 ◆AUtVVr2znk 2014/09/06(土)12:25 ID:3XJs2WQe(4/8) AAS
>>323 さん
字数の違い、行法の違い。まぁ何でも良いですが、いずれにしても法門の勝劣ではないですね。

と言いますか、あなたの論は正宗系の各教団が唱える日蓮本仏論ともかなり異なるようです。
日蓮本仏論では、釈尊所説の妙法蓮華経と、文底独一本門の南無妙法蓮華経は別物です。
それら異なる法門の正邪勝劣を判じたのが種脱相対です。そもそも五重の相対自体がそうです。

ですから、種脱相対を主張するのなら、本尊抄の「但し」以前を「実は同一でない」と置き換える
文底解釈が不可欠で、その為の「金口嫡々の御内証」であり「大聖人直結の信心の血脈」です。

ザッと見た限り、創価学会でも日蓮正宗でもこの点に関する主張は今も変わっていないようですし、
私もそれを踏まえてこれまでレスを書いてきたのですが、あなたは何を根拠に書かれているのでしょう。

種脱相対論は、主として日寛の「文段」に拠ります。まずはその辺りとの整合を取って下さい。
省1
327
(2): 山椒島 ◆AUtVVr2znk 2014/09/06(土)14:12 ID:3XJs2WQe(5/8) AAS
>>325 さん
これで連投規制にかかると思いますが・・・あら?ID:cb6y4l16 さんは別の方ですか?

日蓮本仏論における「別物」の理解は>>326の通りですが、天台の定義?を削った?からとは
知りませんでした。かつては聞きかじって知っていたかもしれませんが、とうに忘却の遥か彼方です。

 「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」

建治・弘安年間以降も、こういった記述が無数にあり、日蓮は身延最晩年期まで法華経を読み、
釈迦立像の仏前にも供え、門下に講義し、勧めもし、その身に携行もしていたのは御存知の通り。
私はもう買い被られるほどの見識もありませんが、それでも日蓮らの言動とは辻褄が合いません。

それは文上だから?示同凡夫だから?不相伝の浅識だから?まぁ、色々と言われますね。
ではその文底なり、人師論師の釈なり、相伝とやらなりの正当性は何か。そこに行き着くわけでしょう。
省1
328
(2): 2014/09/06(土)15:22 ID:cb6y4l16(3/7) AAS
>>326
>ですから、種脱相対を主張するのなら、本尊抄の「但し」以前を「実は同一でない」と置き換える文底解釈が不可欠で、

「文底解釈」と言うのが何に対して言われているのか、あなたが勘違いしているのでしょう。
法華経に関して日蓮が「文底解釈」したと言う話ですから、法華経に関する日蓮の書自体を二重に「文底解釈」する必要は
無いでしょう。「所謂一往之を見る時は久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ、」と
あるように、「久種を以て下種為し」ですから、「此れは種」の「種」は同じ「種」を示しています。
「但し」、「彼は脱」としていますから、釈迦の法華経では下種以降、生死を繰り返して、法華経本門で仏になる法だと言う、
既存の法華経解釈で言われる衆生が仏になる時期を比較して、「彼は脱」、「此れは種」と対比していることになります。
そして、「一品二半」と「題目の五字」が「一同に純円」の仏になる法であるならば、
日蓮が主張した「題目の五字」で今生に仏になるとの話しから言えば、「脱」より「種」が勝っていることになります。
省4
329
(2): 2014/09/06(土)15:27 ID:cb6y4l16(4/7) AAS
>>320-321
あなたが別の話をしたので回答を後回しにしました。

>これが真実なら、末法と言う観念は当然、破綻します。
あなたが言う教主釈尊の常住不滅は、「仏」の常住不滅ですから、仏がその時折に説いた「法」の常住不滅では無いでしょう。
このため、末法と言う観念が破綻する根拠にはなりませんね。

>羅什訳法華経の題名を音読みで唱えることが導かれるのでしょうか。
あなたの言っているのは日蓮が示した修行法のことですから、論点がずれていますね。
もっとも、あなたが『仏が示した修行法も「法」である』と言う立場であるならば、「日蓮が示した修行法」は、
「日蓮と言う仏が説いた法」と成り得るでしょうから、あなたがその立場で言っているのあれば、少し考えたい気はしますね。

>羅什を仏宝、題目を法宝、日蓮を僧宝とすべきではないでしょうか
省3
330
(1): 2014/09/06(土)18:09 ID:F1HC6NxZ(1/5) AAS
>>329
>あなたが言う教主釈尊の常住不滅は、「仏」の常住不滅ですから
>仏がその時折に説いた「法」の常住不滅では無いでしょう。

やっと、>>80の“一つの質問”に答えてくれましたね。ありがとう。

>>79の貴殿のレスを読みますと、
このように仰っておりますね。

>常住不滅=末法など存在しない…ではないのだよ。

要するに貴殿は、末法にも釈迦の常住不滅の観念が破綻することはないということを述べたものでしょう。
この貴殿が自ら述べた趣旨にそって、議論をしてもらいたい。二枚舌はよくないですから初めの論点から取り違わないように。
そこで、二つ目の質問。
省1
331
(3): 山椒島 ◆AUtVVr2znk 2014/09/06(土)18:44 ID:3XJs2WQe(6/8) AAS
>>328 さん
違います。

 天台「並に脱し並に熟し並に種し 番々息まず」 妙楽「時々世々念々皆種等の三相有る故なり」
 本尊抄「在世に於て始めて八品を聞く人天等或は一句一偈等を聞て下種とし或は熟し或は脱し」

この通り、在世は脱だけではありませんし、成道のために生死を繰り返しが必須なわけでもありません。
末法で下種を受けても信じなかったり、一旦は信じても後に捨ててしまえば今世の成道はかないません。

繰り返しますが、在世と末法の違いは順縁・逆縁の徒のどちらが多いかであって、勝劣論ではありません。
そもそも法が同じなら既に種熟脱の三益と具備しているのですから、勝劣を論じること自体が無意味です。
そして、「いや、文底の深義はそうではない」とし、日蓮>釈尊の最終勝劣を論じるのが種脱相対です。

あなたの論は賛否いずれの人達とも認識が異なります。続けるのでしたら相応の根拠を挙げて下さい。
332
(1): 2014/09/06(土)19:32 ID:F1HC6NxZ(2/5) AAS
>>331山椒島さん

ちょっと今の議論からはずれてしまいますが、>>156で発言した者でして、横レス失礼いたします。

その“逆縁”なる末法時に折伏の実践法を機時国抄にて「毒鼓の縁」を用いて行うような趣旨で延べらいると私なりに
解釈をしてしまいましたが、これは私の見当違いでありましたでしょうか?
、、と言うのは、いくら日蓮でもこのような真似をするとは酷すぎると思いましたので。
その該当箇所が、
 「謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし 毒鼓の縁と成さんが為なり 例せば不軽菩薩の如し」

もし宜しければご教授くださいませ。
333
(1): 2014/09/06(土)21:05 ID:HxdhrO+C(4/4) AAS
>>329
いえ、私は「仏」の常住不滅を問題にしているのです。仏は実は常住不滅で、入滅するフリをするのは人々を励ます方便だと寿量品にあります。
ところが末法は仏の滅後○○年という設定です。しかし仏は実は常住不滅なわけですから、末法のためのカウントダウンは永久に始まりません。

私が聞いているのは、なぜ有効期限が切れた経の特定の漢訳名に帰依するのがどういう道理で法なのかと言うことです。
あなたのように予め日蓮が本仏だとの前提に立てば、日蓮のやることなすこと全てが仏法でしょうから何の問題も生じないでしょう。

しかしナマス・サッダルマプンダリーカス−トラでも南無正法華経でもなく南無妙法蓮華経でなければならないわけでしょう?
同様に十如是を導くためには羅什訳でなければ困るでしょう?だが釈尊は中国語で説法したわけではない。それは羅什であった。
つまり天台や日蓮の教義は羅什の漢訳以外では成り立たない。つまり天台や日蓮にとって法を提示したのは羅什ということになる。
むろん天台大師も日蓮も梵語を読めなかったので、自分たちが飛びついた部分が実は梵本にないなどとは知らなかっただけです。
334
(2): 2014/09/06(土)21:46 ID:cb6y4l16(5/7) AAS
>>330
>この貴殿が自ら述べた趣旨にそって、議論をしてもらいたい。
>>79は私ではありませんよ。

>釈迦の法は不滅しておられますか?
「釈迦の法」自体は不滅でしょう。「末法」は仏法が正しく行われなくなり、悟る人がいなくなる時期のこと。もしくは、
仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期のことで、「釈迦の法」自体の滅・不滅では無く、釈迦が説いた法では仏になる
人達がいない時期のことです。そもそも、正法・像法・末法という三つの時期は、釈迦の在世を基点とした概念で、
「釈迦自身が仏に成った法」は「久遠」から存在しているとの解釈ですから、正像末の概念に捉われる事無く、末法でも、
仏に成ることが出来る法であるということでしょう。
335
(1): 2014/09/06(土)21:49 ID:cb6y4l16(6/7) AAS
>>331
>違います。
何が違うのか不明な返答をしていますね。

「この通り、在世は脱だけではありませんし」とあなたが言っても、仏になる時点は在世では「脱」でしょう。
これは、在世にあっても仏になる時点は、今生が「脱」の時期にある衆生が仏に成るという、既存の法華経解釈でしょう。
日蓮の主張では「久種を以て下種為し」と言う、その「久種」を「下種」した時点で、仏になるという解釈で、
これにより、釈迦自身が仏になったのもこの「久種」によるもので、「種」「脱」を比較して、
「種」の優位性を示しているのでしょう。

>繰り返しますが、在世と末法の違いは順縁・逆縁の徒のどちらが多いかであって、勝劣論ではありません。
それは、「在世と末法」の定義の話で、種脱相対の話ではありませんよ。
省5
336
(4): 2014/09/06(土)21:53 ID:cb6y4l16(7/7) AAS
>>333
>ところが末法は仏の滅後○○年という設定です。
方便で滅してから○○年という設定でしょう。カウントダウンが始まらないと言う根拠にはなりませんね。

>あなたのように予め日蓮が本仏だとの前提に立てば、日蓮のやることなすこと全てが仏法でしょうから何の問題も生じないでしょう。
では、あなたが問題の無い方の前提に立った解釈をすれば、あなたの問題の全が解決しますね。

>つまり天台や日蓮の教義は羅什の漢訳以外では成り立たない。
天台や日蓮が「正法華経」を否定したということが無ければ、あなたがどの漢訳法華経に拘っているかの問題でしょう。
「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」の翻訳としては、どちらのタイトルも間違いでは無いでしょうから、
日蓮が唱題行を考案するに当たり、題目として唱えやすい「南無妙法蓮華経」を選択しただけではないでしょうかね。
天台や日蓮が「正法華経」を否定し、「妙法蓮華経」のみを用いていたとする根拠が無ければ、単にあなたの問題ですよ。
337
(2): 2014/09/06(土)22:21 ID:n5Ey5vi9(1) AAS
ここのところ難解な仏法用語が、飛び交っていますが、この原因は天台教学
が、難解であるためと思いますね。
もともと中国では、法華経は人気がなかったのです。しかし、法華経が大好
きな人々が集まり、天台宗を作りました。世間的に人気がない法華経を、優
位に立たせるため、法華経解釈を無理やり難解にしたものと思います。

天台智の一念三千は、十界×十界×十如是×三世間=三千となりますが、
十界は、法華経の色んな経典から抜き出して合成したものであるし、十如是
は、鳩摩羅什の訳にはありません。
338: 2014/09/06(土)22:23 ID:DQbMAQJ1(3/4) AAS
>>336
>題目として唱えやすい「南無妙法蓮華経」

意味不明。
339
(1): 山椒島 ◆AUtVVr2znk 2014/09/06(土)22:26 ID:3XJs2WQe(7/8) AAS
>>332 さん
佐前の書で日興写筆ですが、「唱法華題目抄」に日蓮の考えが詳述されているようです。
書かれているレスから察するに、私の浅見よりも実際に読んでいただいた方が早いかもしませんが・・・

「変な奴らには説くな」とする譬喩品と、構わず強いて説き回った不軽品との相反する記述について、
「要は時期と相手とをよく考えろということだ。末法の今は『説け』だ!」みたいな結論を出しています。

同じ堕地獄でも、既に下種有り(本已有善)なら、不軽品のように時間はかかるがまだ救いはある。
だが未だ下種無し(本未有善)なら、それが果てしなく絶望的な遠回りになる − という感じでしょうか。

同様な表現はその後も各書に見受けられますが、特に身延入山以降は急激に影を潜め、その代わりに
佐渡以降の弱気・煩悶といった表現が多くなります。折伏についても何か思う所があったのかもしれません。
340: 2014/09/06(土)22:28 ID:DQbMAQJ1(4/4) AAS
日蓮正宗の相承の儀では「ナム サツリダルマ フンダリキャ ソタラン」だからなあ。
まあ、どこかの段階で、羅什訳では流石にアレだと思ったのだろう。
というか、唱題じゃなくてマントラだよなこれは。
341
(1): 山椒島 ◆AUtVVr2znk 2014/09/06(土)22:38 ID:3XJs2WQe(8/8) AAS
>>335 さん
「あなたが言っても」ではなく、天台・妙楽・日蓮が揃って言っていることです。
「本尊抄」をそのままに読んでも種脱相対の根拠にはならないから挙げているのです。

読めると言うのならちゃんと読んで下さい。
種脱相対も同様です。解説しているサイトはいくらでもあるでしょう。

あなたのような見解は、少なくとも私は他に見たことがありません。
私が知らないのなら一通り知ってから検討します。オリジナルでないという根拠を挙げて下さい。

>>337 さん
私もそう思います。要は「この経は凄いぞ!」と繰り返しているだけですものね。
342
(1): 2014/09/06(土)23:06 ID:F1HC6NxZ(3/5) AAS
>>334
>「釈迦の法」自体は不滅でしょう
>釈迦が説いた法では仏になる人達がいない時期のことです。

その時期に釈迦が姿を現すのではないのですか。

 『我時に衆生に語る 常に此にあって滅せず
  方便力を以ての故に 滅不滅ありと現ず
  余国に衆生の 恭敬し信楽する者あれば
  我復彼の中に於て 為に無上の法を説く
  汝等此れを聞かずして 但我滅度すと謂えり
  我諸の衆生を見れば 苦海に没在せり
省10
343
(1): 2014/09/06(土)23:07 ID:F1HC6NxZ(4/5) AAS
〜上レスの続き

貴殿も知っての通り寿量品の一節であります。
この文証の“底”の69384字以外に何の字が隠されているのでしょうか?
そこで、法蓮抄の日蓮云く
「今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る
 人は水と見 天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は
 盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る、
 されば経文に云く「若し能く持つこと有るは・即ち仏身を持つなり」等云云、
 天台の云く「稽首妙法蓮華経一帙・八軸・四七品・六万九千三八四・一一文文・是真仏・真仏説法利衆生」等と書かれて候。

と、これなら併合できる解釈が可能でありましょうが、貴殿は以前から「末法には法華経は無益!」といっていることは間違いではありませんかね。
省2
344
(1): 2014/09/06(土)23:22 ID:F1HC6NxZ(5/5) AAS
>>337
えっ、、鳩摩羅什は十如是を訳してないのですか?
これは初耳でした。
345
(1): 2014/09/07(日)00:00 ID:NPLUSXcz(1) AAS
>>344
この十如是は鳩摩羅什が訳出した法華経にのみ見られるもので、他の訳や
梵文(サンスクリット語)原典には見当たらないので、鳩摩羅什の意訳と
いうことです。十如是は、原典にない物を、鳩摩羅什が創作してしまった、
ということですね。
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