[過去ログ] 日蓮って ver.30 (737レス)
上下前次1-新
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
177(1): 2014/10/25(土)10:10 ID:0W/ZZ7kA(1/3) AAS
>>169‐170
山椒島さん、このブログの「もちださん」が仏法寺出土の柿経を忍性のものと「確かめられた」と思っておられることはわかります。
そして山椒島さんが言うように、「>>150・>>159の対談と同一の調査結果を受けての記事」と私も思います。
同対談記事は当該の柿経が忍性のものと断定などしていませんが、忍性説のソースを尋ねた私の145末尾の問いに対し、山椒島さんが
150でこの対談記事を示して「終盤で言及されています」と書かれたのと同様の読解を「もちださん」もされたのではないでしょうか。
また信徒が柿経を供養するにしても、常識的に考えて、経典の写本がそう普及していたはずはありません。それを木片に書き写すのですから、
お寺で経典を借覧して自分で書写するとか、あるいは布施をしてお寺の写経僧に書写してもらって私家版の写本を作り、それをもとに、自宅で
家人とともに木片に書写するとかの方法になります。全部では大変なので、お寺の僧侶に一部の章節だけを書写させてもらったりもしたでしょう。
こういうことができるのは貴族や上級武士や富裕な商人など社会の上層だけです。この場合、信徒といっても一般庶民のことではありえません。
そもそも戦前ですら、字を知らない人はそれほど珍しくなかったようですから、鎌倉期では一般庶民は漢字を書写することなど無理だったでしょう。
省4
178(1): 2014/10/25(土)10:56 ID:0W/ZZ7kA(2/3) AAS
177の続き
また「わざわざ請雨池まで登る理由は何だろうか」(170)とのことですが、まさに159の境内図にある通り、当時の極楽寺の境内は広く、
池の位置は昔の人にとっては「わざわざ登る」というほどのことはないと思います。広いといっても関西の名刹に比べれば狭いものです。
それに177で書いたように通常の写経なら、おっしゃるように本殿や拝殿などに納めるでしょうが、柿経にするのは、池や河川に沈めたり、
山に埋めたりすることを前提にしていた場合がむしろ多かったのではと思われます。仮に全国の柿経の発見例で寺の建物の中から発見
された例が多かったとしても、それはそのほうが保存状態がよかったからとしか考えられません。忍性は病人や浮浪者にも憐みをかけ、
そのための施設を造って保護し、無償で医療を授けた人です。忍性なら信徒の要望次第で、支障のない場所を提供したでしょう。
それが請雨池でも何も異とするに足りません。そもそも池から出土した柿経が忍性時代のものかどうかも私は疑わしいとおもいます。
ン千年前±ン百年などという炭素14法なのか、堆積法なのか、干上がった池の底から出土した木片の時代を数十年の範囲に特定
できるものでしょうか。また仮に忍性の時代と実証できたとしても、それが「極楽寺の請雨池だから忍性が祈祷に使ったものに相違ない」
省2
179(1): 2014/10/25(土)12:29 ID:0W/ZZ7kA(3/3) AAS
>>171
山椒島さん、蒙古調伏の祈祷が忍性だからといって、請雨池出土の法華経の柿経が忍性のものである必然性は全くありません。
まして前者が護摩という密教修法であるならなおさら、密教修法とはいえない柿経が忍性にものである根拠は薄弱になります。
だとすれば、159の座談会で「誰も忍性とは無関係と言っていない」、「これは誰々のだと言っていない」のは当たり前ではないでしょうか。
要は、誰のものかわからない、特定しようがないというのが真相ということでしょう。
また日蓮説については知りませんでしたが、江戸期までそういう説があったのなら、それはそれで何かいわれがあるのでしょう。
まあ「法華経といえば日蓮」みたいな通念が江戸期には庶民層まで広がっていたということではないかと私は単純に思います。
そもそも忍性が祈雨祈祷に法華経の柿経を使ったとするためには、真言においてこれが護摩などと同様に密教の標準的な修法として
相伝されていたはずです。そういう経文も論書もないのは、それが密教固有の儀式ではないからだと常識的には考えられます。
色々調べても、忍性説を事実とするのは根拠不明の個人の観光案内ブログくらいしかないのが実情なのではないでしょうか。
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 558 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.017s