野々村元県議の今後を考える7 (992レス)
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642: 2024/04/16(火)12:11 ID:YG5tM1bf0(1/5) AAS
最初のキリシタン大名・大村純忠の「排仏毀釈
一神教の激しさ恐ろしさをあらためて感じました。
あの松永弾正による東大寺焼打ちも実は敵方のキリシタンによる廃仏毀釈の一環
643: 2024/04/16(火)12:12 ID:YG5tM1bf0(2/5) AAS
最初のキリシタン大名・大村純忠の「排仏毀釈
一神教の激しさ恐ろしさをあらためて感じました。
あの松永弾正による東大寺焼打ちも実は敵方のキリシタンによる廃仏毀釈の一環
644: 2024/04/16(火)12:31 ID:YG5tM1bf0(3/5) AAS
「島原の乱」が純然たる信仰のための抵抗ではなく、年貢軽減を求める農民一揆としての一面があるからです。
ローマ教皇庁は、一揆は君主に対する暴力的反乱として、キリスト教の教義に反するものであるという立場を取っていますので
、島原の乱で戦死したキリシタンたちを、殉教者として認めないのです。
「殉教者」と認められてないのは「カトリック教会」の作法で洗礼してないから
飯嶋和一著「出星前夜」大佛次郎賞(小学館文庫)を読みました。
「出星前夜」は、江戸時代初期の第三代将軍家光の時期(1637年)に起きた「島原の乱」とその乱に関わった人々を描いた小説です。
「島原の乱」の蜂起勢の中には、教会に認められるような「殉教」を望む者などはおらず、誰もがただ「人としてふさわしい死をむかえること」を願っていただけだ、という作者の見解
645: 2024/04/16(火)15:40 ID:YG5tM1bf0(4/5) AAS
島原の乱」が純然たる信仰のための抵抗ではなく、年貢軽減を求める農民一揆としての一面があるからです。
ローマ教皇庁は、一揆は君主に対する暴力的反乱として、キリスト教の教義に反するものであるという立場を取っていますので
、島原の乱で戦死したキリシタンたちを、殉教者として認めないのです。
「殉教者」と認められてないのは「カトリック教会」の作法で洗礼してないから
飯嶋和一著「出星前夜」大佛次郎賞(小学館文庫)を読みました。
「出星前夜」は、江戸時代初期の第三代将軍家光の時期(1637年)に起きた「島原の乱」とその乱に関わった人々を描いた小説です。
「島原の乱」の蜂起勢の中には、教会に認められるような「殉教」を望む者などはおらず、誰もがただ「人としてふさわしい死をむかえること」を願っていただけだ、という作者の見解
646: 2024/04/16(火)17:40 ID:YG5tM1bf0(5/5) AAS
160年前に何があったかというと「不平等条約」として有名な『安政五カ国条約』。
「江華島条約は不平等!ここから日帝の侵略が始まった!」
とか未だに言ってるどこぞの国と違うのだよ
「三国同盟」はただアジア共産化を防御する目的であり、当時米国はソ連と同盟だったからだ。
近衛文麿公の弟の秀麿公も海外でオーケストラ活動しながらユダヤ人を救出したといわれています。近衛公は皇族です。
日本は国ぐるみでユダヤ人を救出したのです。
杉浦千畝 や 樋口李一郎 だけ聖人化し、この救出計画を考えた
東條英樹 総理をA級戦犯と言いつづけるのは非常に歪んだ歴史観です
ノルマンディー上陸作戦の「映像の世紀」は力作だが食い足りない。R・キャパとサリンジャーに触れたのはいい。だが米英軍の爆撃でフランス人3万5千人が死亡した事は伝えたが、
そんな事より上陸後の連合軍がパリ解放までにフランスの民間人15万人を死傷させ、4千件に及ぶ強姦が起きた事を伝えない。日本に戦争を仕掛けたルーズベルトの非道と50万近い日本民間人を虐殺した米軍の実態を伝えない。
647: 2024/04/17(水)11:07 ID:Un5A/l6i0(1/8) AAS
韓国にとって「日帝の仕業」は根拠を必要としない魔法の言葉だよな
そもそも朝鮮半島で貴金属が潤沢に採掘出来るのならば中国が直轄地にしているでしょ
いっそのこと本当に全部収奪してやればよかったんだよなぁ。
韓国人は本当の恐怖を与えられた相手には滅法弱くて文句言えなくなるんだから。
今韓国人が文句を言ってくるのは、それだけ日本が優しかったという反証なんだもの
当時、李氏王朝が自由にできる莫大な金があれば、日本に国を売らずにその金塊で借金を支払えばよかっただけだ。
お前らは鉱山の利権まで売り払ってた
李氏朝鮮時代の金山は、欧米に売却されたもの。
それを日本が買い戻しただけ。
物々交換だった李氏朝鮮時代を恨めよ。
省20
648: 2024/04/17(水)13:01 ID:Un5A/l6i0(2/8) AAS
若い人は知らないだろうがかつてNHKは何でも韓国に行って無理やりルーツ探しをして番組作ってたんだぞ。
例えば若冲のドット画は韓国の工芸品がルーツだと発見したっ!とかな
中国仏教は病気の治療を行って、信者を増やして経緯があって
お茶は当社は漢方薬として処方してたんだよな
(三国志でも若い頃の劉備が母の為にお茶を買い求めるってのがある)
だもんで、お茶自体は仏教伝来の頃から日本に存在する(奈良時代に記述あり)
作法としてのお茶は唐代の陸羽が元
鎌倉時代に道元が禅の修行と一つとしてお茶を取り入れた
(禅宗は料理も修行してやってる 米粒一つ残さない食べ方とか有名)
鎌倉時代には中国でのお茶の楽しみ方の闘茶(産地当てゲーム)もしている記録が残っている
省22
649: 2024/04/17(水)13:45 ID:Un5A/l6i0(3/8) AAS
1917年7月20日~28日、天津では9日間にわたって大雨が降り
泥水が引かず、蚊の栄養となるゴミや糞などの汚物が出てきて、さまざまな細菌が突然増殖して感染症が蔓延したため、疫病はさらに深刻でした
天津大洪水の際、日本の総務省は「近代水制御の父」と呼ばれる水利専門家の沖野忠雄氏を含む内務省の技術職員6人を天津に派遣し
洪水による疫病の蔓延にもかかわらず、華北には感染症病院が1つもなかった。 東京に住んでいる祖父は、一般の中国人の目には常識に反し、
日本人と中国人の価値観の違いの結果、このニュースを聞いて天津に足を踏み入れました。 というのも、中国人は一般的に他国に移住する際には自国よりも条件の良い場所を選ぶが、海外に移住する
日本人は「命の価値を体現する」ことを前提としなければならないからである
利益よりも救済目的が大きい日本の病院
1917年、祖父が天津に来て、中国で最初の日本法人と日本初の感染症病院を設立しました。
日本軍は天津に30以上の病院を開設したが、これは租界地の駐在員が必要とする数をはるかに上回る数であり、治療を受ける余裕のない中国人に無料で治療を提供した。 私が子どもの頃、天津には、これらの日本の病院を覚えていて
、日本人から大きな恩恵を受けていたことを覚えているお年寄りがたくさんいました
省4
650: 2024/04/17(水)14:11 ID:Un5A/l6i0(4/8) AAS
1937年8月13日、数万人の国民軍精鋭部隊が上海の日本領事館と上海の華僑日本人公邸に押し入った。
国民党と共産党がそれを隠蔽しようと必死なのは、国民が8月13日の真実を知れば、
彼らの政治的嘘はすべて「蟻塚で崩壊した千里の堤防」のように崩壊するからだ。
1937年8月13日は日中戦争が勃発した日であり、「日本の侵略」ではなく「中国の侵略」
「なぜ日本人は中国に現れたのか? これは侵略ではないのか?」 この論理に従えば、中国大使館や領事館、世界中の華僑に当てはめれば、
たとえ自分の居住国の軍隊や暴力団が家に押し入ってボロボロにされても、黙っているだけでなく、
他人の領土に行けば侵略に等しいので、世間の罪悪感に苦しむことになります。
中国政府によって承認され、国際法によって保護され、不可侵である合法的な居住地です。 8月13日の在外日系人総領事館への武力侵攻は、
国連の侵略の定義に照らせば、目に余る侵略である。 しかし、前世紀の中国の凄惨な侵略は、中国版の歴史書では認識できないほどに捏造され、上海に駐留する日本海兵隊を含む自衛の対応
中国共産党は当初、昭和12年(1937)7月7日盧溝橋事件は日中戦争勃発の日」と言っていたが、
省2
651: 2024/04/17(水)15:57 ID:Un5A/l6i0(5/8) AAS
日本との間では1871年に締結された日清修好条規は対等な条約であったが、日清戦争後の1896年に日清通商航海条約で
日本の治外法権(租界の設置)・関税特権などが欧米と同じように認められ、不平等条約関係となっていた。
清朝を倒して成立した中華民国もこれらの不平等条約を継承したので、
半植民地状態から脱却し近代国家として自立するためには条約改正は不可欠
日本の租界は1897年から99年にかけて設置されていったが、それは欧米列強の中国分割と同調していた。
ただしその多くは商業地に適していないところが多く、日本の専管租界として発展したのは、天津と漢口であった。
上海の日本租界は専管租界ではなく、共同租界の中
652: 2024/04/17(水)16:26 ID:Un5A/l6i0(6/8) AAS
1937年(昭和12年)8月13日
「予報技術者として、断じて第2次上海事変だけは日本が仕掛けたものではない」
「おそらく中国が海軍陸戦隊と上海で事をかまえたのは、この台風が東シナ海へと突入してくる気配をみて、増援隊が日本から到達しないうちに、
陸戦隊をもみつぶせると考えたものにちがいない」と述べた
同日夜には日本海軍が渡洋爆撃命令を発令
653: 2024/04/17(水)20:42 ID:Un5A/l6i0(7/8) AAS
古くから中国では疲労回復に効くとされていた豚肉
もともと朝鮮半島でも食されていたが、三国時代に仏教が伝えられると肉食は禁止された
その復活には、モンゴルの影響が大きいという
歴史考証の稲垣史生や名和弓雄の著述読めば明らかなこと、つまり結論は李氏朝鮮では武器は青銅槍 棍棒、刀剣を使っていない。基本存在しない 大陸からの輸入刀、剣術などある筈ない。
例の鞘を常に携帯し帯紐に固定しない 出来ないんだよ
朝鮮兵の武装は本来「槍と弓矢」であり「刀剣」はほとんど無かったが正解。あったとしても王宮身辺警護の私兵(親衛隊)で、左手に小盾と比較的短い(片手で扱える)軽い刀剣と記載されている。
つまり日本刀のような両手で戦う剣法ではなかった、剣道起源騒いでいて見苦しい。
相変わらず刀を左手に常に持っているな♪最近、日本の映画でも同じようにしている場面がよくある。なぜか調べてみたら、監督がアチラ系ばかりだったよ 崔とかの「カムイ外伝」なんかそうだった。
徐々に間違っている事象を当たり前のように印象操作してる
ま、韓流時代劇はワンパターンだからな、王宮があり、けばけばしい衣装と派手な色彩感覚、なんか余裕ないのな アクションにしても素人剣法 殺陣なんて滅茶苦茶 話にならないよ。
省7
654: 2024/04/17(水)21:07 ID:Un5A/l6i0(8/8) AAS
韓流の時代劇に「動物」がいない。馬は便宜上登場しても、猫、犬、小動物、その他鳥類、家畜の豚や牛 等キレイさっぱり一切登場しない 演出の決まりなのか?
日本の時代劇とは全く違っている。祭りや四季折々の風俗の香りすらない。
だいたい雨の場面極めて少ない。
1619年サルフの戦いは明対清の戦いです。明は朝鮮に援軍を要請しますが李氏朝鮮は秀吉朝鮮出兵の助けてもらったお返しに兵を送ります。ところが清の強さに勝ち目なしと見るや朝鮮兵は明を裏切り後金(清)についてしまいます
サルフの戦いで残された史料「満文老棟」には このときの朝鮮軍が鉄の鎧でなく、段ボールのような粗末な「紙の鎧を着て」木を尖らせた槍で戦ったと残されています。朝鮮軍は自分たちを率いていた明の将軍を殺し後金軍に差し出し助命嘆願しているのですから呆れます。
655: 2024/04/18(木)11:01 ID:MhVPPrRk0(1/7) AAS
黒澤明『椿三十郎
スプラッター”なシーン。黒澤監督は後に「やりすぎた」と後悔していたそうですが、このシーン以降、安直な「残酷時代劇」が増えてしまった
時代劇と言えば東映だったのが、その東映の時代劇作品を押さえての大ヒットに、東映の関係者はショックを受けます。
三十郎は敵方の侍を簡単に斬り殺してしまいます。それを見た奥方は
「人を殺してはいけませんよ」
と諭し、
「あなたはまるで抜き身(抜いた刀)のよう。でも本当に良い刀は、鞘に納まっているものですよ」
と真っ直ぐに三十郎を見据えながら語りかけます。
三十郎は何も言えず、ただ眩しそうに目をそらすばかり
お見事!と思わず声を掛けた若侍に
省10
656: 2024/04/18(木)12:22 ID:MhVPPrRk0(2/7) AAS
配達されない三通の手紙」の栗原小巻の新劇的演技に爆笑
「Wの悲劇」の三田佳子の演技がいいって言ってる人が結構いるけど正気かなと思う
ああいうの好きなら映画より演劇見に行った方がいいってずっと演ってくれるから
話がかなり変だし栗原の狂気じみた一人芝居でもないとバカバカしい作り話になっちゃうと思うんだよね
和田誠が「お楽しみはこれからだ」の「日本沈没」で〈ぼくは本来、中年過ぎた芸達者たちの火花を散らす演技合戦が好きなのだが、
ここでは丹波哲郎、島田正吾、小林桂樹、それぞれ勝手な演技プランによる大芝居が統合を欠いているようで、
客席から失笑が起こる部分さえある〉と言っている
淀川さんは熱狂的な溝口健二のファンで日本映画の黄金期は1920年代と言うほどだが
雨月物語には不満があって前作の西鶴一代女で溝口がワガママ言い過ぎて水谷浩が怒り参加しないとなった
そのため大映は美術監督に伊藤憙朔を招いたが元々演劇の世界の大家だったために溝口の得意とする移動撮影用のセットが造れず雨月物語は溝口作品にしてはワンシーンワンカットが少ない
省3
657: 2024/04/18(木)12:25 ID:MhVPPrRk0(3/7) AAS
江戸時代に入って、武士たちは戦功による出世の道を閉ざされた。剣の道の精進以外には生きる術を持たず、剣の奥儀に鬼気迫る執念を燃やした男たちを描く
658: 2024/04/18(木)13:02 ID:MhVPPrRk0(4/7) AAS
ソ連追放後のトロツキーは第四インター(四トロ)を設立しますが、息子以外はみんなソ連情報機関員だったと言います。道化ですね。日本の4トロを作ったのが太田龍でしたが、後に黒歴史、恥部の扱いになりました。大田、竹中労、平岡正明の3人を吉本隆明が「3馬鹿」と呼んだのは好意的すぎました
アイヌ語辞典を作ったバチェラーは、日本各地の地名をアイヌ語で解釈して、そのことは後世に悪しき影響を残すことになった。」
アイヌの鮭漁は産卵の終えた鼻曲がりのはず
659: 2024/04/18(木)15:34 ID:MhVPPrRk0(5/7) AAS
刀剣を常に左手で携帯し★戦う時にサヤから抜いて右手片手のみ用いる。(左手にはサヤが残されている)→つまり、両手で刀剣を持つことは滅多にない。(時々、サヤを地面に棄てて殺陣をする場合もある、その場合戦闘場面が変わってもナゼかサヤが足元にある)不思議だ。
そもそもあの刀剣を片手で扱えるのだろうか韓国刀とは日本刀と比べ軽量な造りなのか?
日常でも刀剣を常に身に帯びていた民族は日本だけではない、アラブの兵隊は三日月刀を左腰に差していた、勇気の象徴として 欧州でも騎士ナイトは短剣を左腰に差し護身の具としていた。
不思議な事に、刀剣伝承のなかったアフリカの諸部族は槍と戦闘斧で戦うのが常であり、身に帯びることなく手に持っていた。韓国も同じ 常に身に帯びず左手に持ち歩く→つまり元々刀剣伝承のなかった証拠なのだ。槍と棍棒が正解
しかし、時代劇作者と時代考証家は悩んだだろう。槍はあっても刀剣がない時代劇では見栄えしないと… 致し方なく、中国の時代劇を真似た殺陣を工夫し 韓服では貧弱なキツキツ帯なので敢えて刀を座さず常に左手で持つ苦しい工夫となったのだと思う。
勿論、鉄刀が全くなかった訳ではない。明 清王朝から戴いた貴重な刀剣は 一部の貴族の御宝として大切に保管され 戦闘には決して使われなかった。もし有るとしたら「権威」の象徴として王や側近たちが儀式で持っていたかも知れない。
少なくとも 兵士が鉄刀 鉄剣を常に身に帯びる習慣がそもそも無かったが正解だ。
あの韓服の帯では剣は固定できない、百歩譲って 新たに腰紐で固定するか西洋剣(サーベル)のように吊るすことも可能なのに 韓国人時代考証家はそうしなかった。単純に剣を持たせた しかも常時左手に持たせた、戦う時も鞘を握って…
馬に乗る時剣を持たせると不都合が生じた 弓矢を使えないのだ、だから馬上で弓矢 鉄砲は皆無だ。史実では馬上戦があったにも関わらず(槍戦闘か)矛盾だらけな韓国時代劇。
660: 2024/04/18(木)15:41 ID:MhVPPrRk0(6/7) AAS
刀剣を左手に持っている。(サヤを捨てない限り) 結果右手のみの戦闘となる 両手での戦いを見たことがない それで剣道の起源主張はおかしい。
刀剣を誰一人として腰にきちんと帯紐に差している姿を見たことがない。たまに忍者のように背中に背負う姿の者もいるが ほとんどは刀剣を必ず左手に常に持っている。馬に乗る時も手綱の邪魔になるだろう、
要するに韓国では刀剣は使われなかったのだ。
要するに韓国時代劇は日本の時代劇を真似てチャンバラをしようとしたのだが、イザ刀剣を帯紐では固定出来ない かと言って吊るす工夫も出来なかった だから便宜上 剣士は常に左手にサヤごと持って戦う 厳しい殺陣をせざるを得なくなったのでしょう。
日本の侍(さむらい)が左腰に二本の刀を差す場合、刀紐を「§」字形に結び固定してしっかり結びつける。たぶん韓国には 刀を差す習慣がなかったので 時代劇でも左手に携帯するようにしたのだろう
あの腰帯紐では物理的に無理だ
我が国日本でも刀剣は大魔神のモデル「埴輪武人像」を見る陰り刀剣は左側前に吊るして携帯している。平家源氏合戦あたりから馬合戦が主流となり、弓矢を射る為にも刀剣は必ず左側に帯に固定した。韓国のように刀剣を保持したまま馬上で弓矢を射るのは不可能だからだ。
ちなみに、武道では左手を「弓手(ゆんで)」…弓を保持している手だからだ。右手を「馬手(めて)」…馬の手綱を保持したからだ。
太刀(長刀)と(中刀)は左腰 右には複数の小刀(馬手差しと呼ぶ)が帯に差し咄嗟に投げ討つので手裏剣の原型になったと云う。
省2
661: 2024/04/18(木)15:58 ID:MhVPPrRk0(7/7) AAS
鎖国なるものが実体としても概念としても、江戸時代には存在しなかったというのは学術の世界では定説化して久しいが、本書はその研究の一つの到達点を示したものである。
江戸時代日本の外交政策は実は「鎖国」ではなく、反キリスト教を国是とした、戦略的かつ管理されたものだった
著者によると江戸日本を「鎖国」とみなす考え方は江戸時代初期にはなく、18世紀後半にロシア船の来航が相次ぐようになってから松平定信が「鎖国」こそ幕府開闢以来の伝統であると表明した一種の過去の書き換えに由来するという
江戸時代を通じて、日本と朝鮮の関係は良好であり、朝鮮通信使が、何回も往復し、日本の文化になじんでもいた。それが、明治になって、征韓論などがでてきたのは、
長州の吉田松陰らの過激な思想、とくに、いにしえの文書を早飲み込みをして、朝鮮は
日本より下だだという偏見(ヒットラーのユダヤ観に近い)からもたらされたとする
富士山は、日本の自慢であり、すでに世界一であると、当時の日本人は考えており、それは中国など海外にも知られていた。
幕末に日本に来た外交官が富士登山に成功したが、下山時に、台風に襲われたとことを、汚れた外国人が清い富士山に登ったから、神様が怒ったと評された
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