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146: 06/14(金)09:59 ID:+sLCpRey2(9/15) AAS
中立のリアル・・・・・・・58
キャラック船の登場は、当時の大型造船技術において、ひとつの技術的到達点を示し
、完成された帆船ともいえるが、決して万能というわけではなく、必ずしもキャラック
船を用いるのが出来ない場所も多くあった。即ち、海流があったり、浅瀬においては、
船底が深い分、影響が大きく適切で場合があって、輸送の他に、上陸という他目的とい
うものも、一方で存在した。当初、スペイン人やポルトガル人の探検家はキャラック船
を用いて、西アフリカ海岸や大西洋へと漕ぎ出していったが、キャラックのように巨大
では、重装備を誇る大型船には、航行の精度を保つという点において、要する人員数に
おいても、労力の点でも負担が大きかった。未知の海域での調査という目的に必ずしも
向いているものではなかったのだ。そこでまもなく、探検家たちは 100トン前後の、軽
省10
147: 06/14(金)13:08 ID:+sLCpRey2(10/15) AAS
中立のリアル・・・・・・・59
スペインは、イギリスがオランダ独立戦争を支援し、さらに私掠船が度々スペインの
貿易船を襲撃して海賊行為を行うことに手を焼いていた。そこでフェリペ2世は、海軍
派遣を決意、本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」「至福の
艦隊」とされ、他国からは無敵艦隊(アルマダ)と言われて恐れらていたスペイン海軍
をイギリスに派遣し、イギリスを制圧することに乗りだした。英国議会は、いち早く、
この情報を得ていて議会は紛糾した。1588年5月、メディナ・シドニア公率いる約130隻
のスペイン無敵艦隊がリスボンを出発した。無敵艦隊は7月初頭にグラヴリンヌ沖に、
ついて、大きな船団を整える為に、整列し一夜をまった。しかし、この6月期に英国は
とんでもない男に、英国の命運を預けた、私掠船の親玉、海賊のドレークである。無敵
省11
148: 06/14(金)15:54 ID:+sLCpRey2(11/15) AAS
中立のリアル・・・・・・・60
スペインが大型帆船を主力としていた事に対し、イギリスは小型帆船のガレオン船に
よる機動力で、ほぼほぼ、優位に立ったといわれている。更にその他に「火をつけた船
を敵のド真ん中に突撃させる。」というまさに奇想天外な外道な戦法も使っていました
。砲弾は、近い小舟には、撃てない。更に隊列を敷き、並んだ船では、停泊すれば波の
力で、同じ方向を向くのは解っていた、望遠鏡や双眼鏡を片手に、充分に隊員に、船の
弱点をレクチャーし、潮目に合わせて、火をつけ、火薬の自爆や、砲弾の同士討ちを、
目論んでの戦法を仕掛けたのである。更にスペイン艦隊は、長旅の疲れで、そうそうに
隊員達や、船団のやり取りはスムーズでは無かったのだ。良くて手旗信号ぐらいしか、
連絡出来無い時代の闘いであって、海や風や潮目や船を知り尽くした海賊相手に海戦は
省15
149: 06/14(金)16:01 ID:+sLCpRey2(12/15) AAS
中立のリアル・・・・・・・61
第7代メディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマン・イ・デ・スニガ=ソ
トマイヨール、いわゆる、スペイン・グスマン家の代7代当主は、スペイン王国の貴族
で軍人ではあった。無敵艦隊の総司令官の栄誉を授かったものの、散々な敗北だった。
ポルトガル王ジョアン4世の妃ルイサは、孫娘に当たる。ポルトガル王とも縁故でもあ
ったのだろう。ファン・カルロス・デ・グスマンの名は、国王カルロスの名を継ぐとい
う、縁戚である事を示している。(1555年没)先代第6代目メディナ=シドニア公フア
ン・アルフォンソ・ペレス・デ・グスマンの長男と、レオノール・マンリケ・デ・スニ
ガ・イ・ソトマイヨールの息子として、1550年に生まれている。1559年に祖父が死去す
ると、メディナ=シドニア公位を継承、ヨーロッパ有数の大富豪になったという。1565
省13
150: 06/14(金)16:18 ID:+sLCpRey2(13/15) AAS
中立のリアル・・・・・・・62
アルマダの海戦以降も、海軍提督やアンダルシア知事などの官職を務めたが、1596年
にイングランド=オランダ連合艦隊がカディスを襲撃したときにも、対応出来ずに敗北
を喫し、フェリペ3世が スペイン王に即位した後の1606年にもジブラルタル近くで、
オランダに艦隊を壊滅させられた。これらの不名誉な戦果を受け、同時代の作家ミゲル
・デ・セルバンテスはメディア=シドニア公を風刺するソネット(十四行詩)を著して
いる。1565年にわずか4歳のアナを娶った時、1550年生まれなので6男で15歳なのだから
1615年に65歳で死去した。彼の人生は、正に国王の席に振り回される人生だったに違い
ない。周りの兄弟も身体が弱く、息子が産まれ、フアン・マヌエル・ペレス・デ・グス
マンとして爵位を継承したことは、せめてもの救いだったかもしれない。1640年には、
省15
151: 06/14(金)16:19 ID:+sLCpRey2(14/15) AAS
中立のリアル・・・・・・・63
ポルトガルのオポルトで、ポルトガル王ジョアン1世の三男として、エンリケ王子は
生まれている。航海王子として大航海時代を開いた人だ。母はイギリスのランカスタ公
の娘で、幼い頃は宮廷で育てられた。と言われる。早くから騎士道物語や占星術に没頭
して星を読む技術を習得していた。当時の航海技術の一つの知識でもあって、騎士道の
物語では、騎士がドラゴンを倒してお姫様を救出するような冒険物語の性質を帯びて、
当時のイベリア半島で流行していた。1415年、ポルトガルがアフリカ北部のモロッコの
主要都市セウタを攻略し、陥落させた。これが、西洋世界の大航海時代の始まり、とさ
れている。エンリケ航海王子は、兄弟と共にこれに参加した。なぜ、ポルトガルがモロ
ッコ進出を始めたのか。主な理由として、ここでは2点挙げられる。第一の理由では、
省12
152: 06/14(金)16:25 ID:+sLCpRey2(15/15) AAS
中立のリアル・・・・・・・64
同時に、1410年代に、新しいジョアン1世に不満を抱く貴族も多くいた。レコンキス
タで、やっとできた新領地である。イスラムもキリストもなく、武力の実力の世界が、
横たわっていた。ジョアン1世の主な敵が、フランスと敵対するスペイン王だったが、
これらの地方貴族達が、スペイン王に味方する恐れもあった。ジョアンは、これらの、
国内不満分子を、国内から遠ざける必要はあったものの、スペインには行かせたくなか
ったし、イギリスとの連携にも障害となっていた。そこで、別の戦地に送り込もうとし
た。このように、ジョアン1世が新たな王権を安定化させるために、対外拡張を選んだ
のであった。1411年に、スペインとの和平が成立した為、1415年に思い切って、セウタ
攻略に踏み切ったのである。第二の理由は、セウタ攻略がこのレコンキスタの延長線上
省14
153: 06/15(土)15:14 ID:+zz0HSoUP(1/5) AAS
中立のリアル・・・・・・・65
しかし、結果的に、これらの事業を推進し、成功した事は歴史に残った。1427年には
アゾレス諸島に到達し、1434年、ボジャドール岬を通過した。ここはそれまでの、ヨー
ロッパ人が、誰も越えることのできなかった地点だったのである。1443年には、ギニア
に到達し1456年、ヴェルデ岬諸島を発見した。1460年、ポルトガルは、こうしてシエラ
レオネまで到達している。これが、結果的に国内で反乱因子となっていたユグノー信者
古代ユダヤ教の隠れ信徒の入植になって、スペイン・ポルトガルを安定させた。実は、
カルヴァン主義、即ち人類は先祖の罪を背負って産まれ出て、神の下に救いを得る事が
最上の生き方であり、永遠の昔に救われるべき人々を神は選んでいて否定する事は出来
ない。救われるべき人々を無条件に選ばれ−神が選ばれた人々の恵みに人は反抗する事
省8
154: 06/15(土)17:20 ID:+zz0HSoUP(2/5) AAS
中立のリアル・・・・・・・66
まさにアフリカ中央部に行く入り口、西アフリカのギニアやシエラレオネに達した時
この年に、航海王子のエンリケは没したのであった。その後もポルトガルの探検航海は
続けられ、遠洋航海によって喜望峰が発見されることになった。まだまだ天動説や平面
地球が信じられている中で、エンリケらは、上述の理由でセウタを 占領したのだが、
その後に、他の目的も追加されるようになるほどポルトガルを救った。理由はアフリカ
の金と奴隷の貿易の成功である。主に三点あげれば、アフリカの、黄金や奴隷の貿易に
参加して、大きな収益を得ようという狙いがあったなど言われる。ところがこの頃酋長
部族で生活していたアフリカでは、獲物の取り合いで、領土争いが絶えず部族ごと対立
し、自ら勝った種族が、黒人を奴隷として売りに来た。更にセウタでは、アフリカ中の
省10
155: 06/15(土)17:21 ID:+zz0HSoUP(3/5) AAS
中立のリアル・・・・・・・67
セウタの街は、紀元前からの史料が残る。紀元前7世紀に、フェニキア人が定住地を
築き、アビラと呼んだとある。、紀元前319年にカルタゴの支配下となり、紀元前201年
、第二次ポエニ戦争でカルタゴが降伏すると、街はヌミディアへ割譲。紀元前47年には
現地人マウレタニア領となった。しかし紀元後40年、カリグラ帝がマウレタニアを併合
し、ローマ属州の都市になった。この時に勃興してきた西ゴート王に、島の王女が凌辱
されたと言う。この事がイスラム勢力の怒りを呼んで、スペイン侵攻に繋がったと言う
。5世紀半ば、ローマ人の手を離れ、ヴァンダル人の支配に帰した様だが、ユスティニ
アヌス1世時代に、将軍ベリサリウスが占領し 東ローマ帝国領となった。710年には、
イスラム系のウマイヤ朝が侵攻し、当時の西ゴート王国のセウタ伯ユリアヌスは寝返り
省13
156: 06/15(土)17:23 ID:+zz0HSoUP(4/5) AAS
中立のリアル・・・・・・・68
その後、ポルトガルは、貪欲に黄金を探し求め、ギニア沿岸の、金産出エリアに到達
した。次に、奴隷については アフリカの探検航海が進むにつれて、ポルトガル人は、
黒人奴隷の、商品的価値に目をつける。1440年代頃から、探検・征服事業は、金と奴隷
の交易によって、財政的に支えられるようになって行く。こうした、2つの理由と共に
、大きな目的はインド貿易にあった。エンリケらの当初から狙いは、インド貿易の実現
を目標としていた。だが、航海での印度貿易であったわけではない。まだまだ世界地図
での地球の俯瞰が出来ないでいた頃、中東やインドからの、香辛料貿易を目指していた
が、インドが集められた香辛料が売られるだけで、誰もその産地を知らなかったのだ。
海の向こうの、誰も知らない小さな香辛料の地がアフリカにもあるのでは、と思った訳
省12
157: 06/15(土)17:26 ID:+zz0HSoUP(5/5) AAS
中立のリアル・・・・・・・69
スペインの古記録によると、彼らは呪術師集団で、大柄大男の集団であったようだ。
時々やって来ては、自分達の持つ伝統工芸の、織物や金宝飾と砂糖などを持ってきて、
塩・毛皮・刃物などと交換して帰って行ったと言う。その中で、医療品としてコカの葉
や、カートの葉やケシの実が、集まってきていた。今でも南米では最古の栽培植物の一
つとして、この葉が嗜好品として用いられ、今でも疲れにくく食欲を減らすため、鉱山
労働者など、広く使用されている。これらが持ち込まれ、そして、販売してきたのが、
雑貨商を営んできたサスーン商店である。スペインに起源を持つセファルディムの出身
で、父サレハは、バグダードと現在のイラク南部を支配したパシャの主任会計を務めた
とされる。元々紀元前からのユダヤコミュニティーを率いる資産家だったようだ。その
省11
158: 06/17(月)09:37 ID:mP4xFF9rs(1/24) AAS
中立のリアル・・・・・・・70
考えてみれば、スペイン・ポルトガルのイベリア半島は、欧州の先住民が、東欧近く
からドンドンと逃げてきた人の行き着いた場所だ。実は、このイベリアと言う名称も又
イベリア文明にある。スペイン南部の都市バサの北、セロ・デル・サントゥアリオ遺跡
がある、古代ローマ以前の墓地遺跡である。1971年、発掘作業員がここで掘り当てた物
に、色の付いた岩があった。土を取り除くと女性の顔が現れ、太陽の光を浴びたのは、
高さ1.2mの石灰石の彫像で、「バサの貴婦人」と名付けられた。翼をもつ 玉座に座る
婦人だ。ドレスと宝石で着飾った女性が座っている像は、かつては 鮮やかに彩色され
たもので今でもその顔料の名残りがある。バラ色の頬やマントの縁の市松模様などに見
られ、右側の物入れの中から火葬された人骨が見つかり、年代測定で、バサの貴婦人は
省10
159: 06/17(月)09:37 ID:mP4xFF9rs(2/24) AAS
中立のリアル・・・・・・・71
アフリカ起源で、人類の移動が始まって以来、現在の、スペイン・ポルトガルが位置
するイベリア半島は、アフリカ、欧州、地中海沿岸の文化が混じり合う場所となった。
8000年にわたって、このイベリア半島の古代人の遺伝的特徴をまとめた新たな論文が、
遺伝学者と考古学者からなる研究チームにより、発表された論文によると、遺伝子は、
非常に複雑に入り混じっているという。また、約4500年前に謎の大移動が始まり、それ
だけで古代イベリア人男性のDNAが完全に一新されたことが示唆される。紀元前2500
年頃から、イベリア半島の古代人の遺伝子構成は、青銅器時代に劇的に変化し始めた。
黒海とカスピ海周辺のステップ地帯に暮らしていた人々に関連する遺伝子が、イベリア
半島の人々から検出され始めたのだ。その後、古代イベリア人のDNAの多くが、この
省11
160: 06/17(月)09:38 ID:mP4xFF9rs(3/24) AAS
中立のリアル・・・・・・・72
アルガル文化は紀元前1500年頃に崩壊したが、紀元前1000年頃から、複雑なイベリア
社会が新たに現れ始めた。アルガル文化の祖先たちと同じく金属加工が得意で、地中海
東部の商人との交易で裕福になった。としている。紀元前8世紀に、新たに台頭して来
たのがケルト人で、海からスペインに入り込み始めた。そして、現地のイベリア人と、
混ざり合い、2つの文化が融合した「ケルティベリア(ケルト・イベリア)」文化が、
生まれた。と言う分類をしている。しかし、ケルト人はイベリア半島南東部の、地中海
沿岸には進出しなかったため、そこでは本来のイベリア先住民の割合が高く保たれた。
と言う。南東部のイベリア人部族の中に、紀元前4世紀〜前3世紀頃にかけて強い影響力
を持った部族があった。後にローマ人は、この部族を、彼らの首都バスティにちなんで
省12
161: 06/17(月)09:38 ID:mP4xFF9rs(4/24) AAS
中立のリアル・・・・・・・73
この、中東からの行商人たちは、古くから地図を持って、正確に地球が丸い事を知っ
ていた。アリストテレス時代からの図書館や、文物や資源の利用法や数多くの叡智を持
って、インド洋、そして東南アジアの島々にまたがるエリアで、貿易を行っていたのだ
。そして彼らは、アフリカとインドの貿易ルートの海路も知っていたのである。さらに
ベネチア商人はこの香辛料貿易を奪取したいと、神聖ローマに掛け合い、イスパニアと
ローマ・ベネチアの三者連合で、ペルシャ海軍に挑んでプレヴェザー海戦をおこした。
元々、地中海はエジプト勢の海運が主だったしかしペルシャ帝国が勃興し航海を仕切る
。しかし、ローマ帝国に敗け、そのローマも滅んでいく。ローマ帝国を滅ぼしたのは、
遊牧民フン族とされる。馬に乗り、草原を縦横無尽に強奪の限りを尽くしたとされる。
省11
162: 06/17(月)09:39 ID:mP4xFF9rs(5/24) AAS
中立のリアル・・・・・・・74
その後ローマ帝国に敗けて、ローマが滅ぶ迄、地中海においてはガレー船が商船とし
て多用された。ガレーとは船を意味する。一応帆はつけているが、常時使用はしない物
で固定された小さい物で、基本櫂(かい)つまりオールの漕ぎ手が2〜40人ぐらいに
載せて航海していたのである。1538年、オスマン帝国のスレイマン1世の時代になって
も、このガレー船の戦闘時代だった。フン族達は騎馬隊で蹴散らしても、船による遠征
までに至らなかったのである。ところが、中央アジアの覇者となるオスマン帝国でも、
新たな潮流には負けたのである。。ガレー船は中世に入ってからも地中海の東方貿易で
盛んに用いられたが、櫂を上下に配置する大型ガレー船は次第に少なくなった。中東で
は、人口の増加に森林の伐採が進み、大型船が造れなくなっていたのだ。14世紀頃か
省12
163: 06/17(月)13:52 ID:mP4xFF9rs(6/24) AAS
中立のリアル・・・・・・・75
ここで軍用船としてのガレー船が用いられなくなった理由は、漕ぎ手を集めることが
次第に難しくなったことと、海戦に大砲が用いられるようになると、漕ぎ手で、容積が
一杯になってしまうガレー船では、大砲を多く艦載できないことにあった。それでも、
地中海では徒刑囚を漕ぎ手とするガレー船が、19世紀まで用いられていた。と言う。
最初に敗けたプレヴェザー海戦で、ヨーロッパの香辛料は途絶えて、僅かの量になり、
その価格は金以上ともなった。オスマンの手中になって、より多く輸出されそうなもの
だが、知っての通り原料は、印度若しくは東南アジアだったのだ。そして買い付けには
ユダヤのベネチア商人が運んでいたのである。その為オスマンは破格の通行税を取り立
てたのであった。一旦スペインなどキリスト教側について戦ったヴェネツィアの共和国
省11
164: 06/17(月)13:53 ID:mP4xFF9rs(7/24) AAS
中立のリアル・・・・・・・76
モロッコ進出は、このような時代と国家の要請で決まった。王権安定化の手段となり
進出を決めた。他の理由もあった。リスボン商人も又海外商人に敗けていたからだ。他
の国の商人達は、こぞって貿易の拡大を図り、この国の商人も国家の拡大策を望んでい
たのである。グローバル化が、再びジブラルタル海峡を勢力争いの前線にしていたのだ
。貿易船が安全に通過出来るためでもあったし。あるいは、エンリケ航海王子らが、つ
くった騎士道精神の影響もあって、武勲を立てたい。という貴族階級の願望もあった。
ただし、エンリケ自身は、航海王子と呼ばれながらも、自らは、探検航海と遠征に参加
する事はしなかった。船酔いの為だと言われることもある。その真実は不明だが。終生
未開地探検を応援した。エンリケの父、ジョアン1世は、新たなアヴィス朝を安定化さ
省12
165: 06/17(月)15:59 ID:mP4xFF9rs(8/24) AAS
中立のリアル・・・・・・・77
探検事業の目的が、インド貿易と言うより香辛料貿易を行う事は大きな動機になった
。香辛料、すなわち、主にコショウのことで、当時のヨーロッパ世界で、コショウは、
考えられないほどの高値で取引された。つまり、コショウ1オンスが、金1オンスと同
じ価値で取引されたのである。つまり、コショウは、同じ重さの金と交換できたのだ。
当時に、このコショウが飛ぶように売れた理由は、その機能性である。まだまだ当時の
欧州の食卓は貧しいものだった。つまり新鮮な生肉か魚か、牛乳と卵、小麦で出来た物
と共に、干し肉と葡萄酒や麦酒。と言ったもので、日本で言えばお菓子のでる居酒屋の
食べ物であった。しかし、これを一変させるのが、胡椒とアヘン粒だった。コショーは
、香りづけや臭み消しに使うことができ、防腐作用もあるため、秋にシメた家畜の肉を
省13
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