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21: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:32:13.72 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 020 この「 United States=合衆国」という訳語は江戸時代末期から使われてきたのだが 由来については、はっきりしていない。現在では、「United」の語には、「連合国」の 訳語が当てられることが多い。少し前には、ロシアは、複数のソビエト社会主義共和国 から構成される「連邦国家」としてソビエトがあった。しかし、正式にはソビエト社会 主義共和国連邦(しゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)は、ロシア語表記の正式名称 Союз Советских Социалистических Республик は、略称で頭字語: СССРとしていた。しかし、英国の英語表記から、Union of Soviet Socialist Republics、略称はUSSRが用い られていた。ところが、現在ロシア連邦になってからは、海外でも単にロシアとされる 。まあ、このロシアが、連邦国家か、共和制国家か、決めるに決めかねるまま推移した と言うのが正解であろう。その「共和国」という国家は、「共和制をとる国家」という 意味の言葉であって、「Republic(リバブリック)」の訳語になります。ここで「共和 制」とは、と言う意味が使われている。つまり「国民が主権を持ち、直接・間接的に、 選挙で選ばれた、元首や代表者が、一定期間ごとに国を治める政治形態。」と言う方式 を言う。つまり、「パブリック=政府機能」が、「Re=変わる」と言うリバイバルと かの「流行・流動」を示しているのだ。これは「君主制(monarchy)」の反対語にあた る言葉で使われている。mon・ar・chy(モナーキー)の、一人が、全ての鍵を持つ、と 云うもので、これに対抗した議会制政治が一般的である。現在、世界の多くの国では、 この共和制の形をとる国として世界に示してはいる。が「共和制=民主制」と捉えられ るべきだが、実際には共和国の名称であっても、独裁政治が行われる例は多くあって、 必ずしも同義とは言えない世界が広がっている。つまりソ連が、わざわざCCCPとの 表記としたのは、自由主義社会の民主主義体制ではないので、本来の連邦と呼ばなかっ た。という事になる。この意味では言葉とは、難しい物がある。特に国際社会に於いて は。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/21
22: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:55:32.71 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 021 「共和国」は単に、国王のような君主制を反対し、国民から選ばれた大統領などが、 統治する国を指していて、その意味では「合衆国」も種別では「共和国」の一種である という言える。一方で、「王国」は君主が治めるという点で、日本も「共和国」とは、 一線を隔し、英国と共に違っている。「王国(おうこく)」は、文字通りに、「王が、 支配する国」という言葉で、君主として王が統治している国家を指す。英語表記では、 「Kingdom」と表記される。「王国」では、「グレートブリテン 及び、北アイルランド 連合王国」の正式名称を持つ大英帝国(イギリス)」や「オランダ王国」「デンマーク 王国」「スペイン王国」「ベルギー王国」「ノルウェー王国」などが挙げられるだろう 。ちなみに、日本の場合、天皇は「国の象徴」であって、統治はせず主権は国民にある 、としてる為「皇国」=「王国」とはしてない事もあって、日本国は単に英語表記でも Japanのみの表記である。「王国」と「共和国」の違いが、前述のように、「君主 が存在する」点での違いだ。ここで「君主」とは、世襲で位につく統治者の事で、その 意味では日本は、天皇王国になるのかも知れない。しかし、一方で「公国」というのが あって、「王国」と似ていますが微妙な違いがある。つまり、「公国(こうこく)」と は、「“公”の称号を持つ者が、元首として存在する国」を意味する。「公」の称号と は、具体的には「Prince(プリンス)」や「Duke(デューク)」などのことで、しばし ば公爵とも訳される。つまり帝国下でも、自治を保ち領地を持って統治してきた国であ る。こうした貴族が君主として、代々統治している国を指し英語では、「Principality (プリンシパリティ)」と表記される。prin・ci・pal・i・ty、領地占有者なのである 。欧州社会に於いて、キリスト教は純然たる権威を持つ。我々日本人が思う以上に教皇 と言う立場の意見は、世界を左右する。962年に ローマ教皇ヨハネス12世オットーに、 ローマ皇帝の冠を授けた。いわゆる「オットーの戴冠」である。これによって、「神聖 ローマ帝国」が成立した。しかし実際に「神聖ローマ帝国」という表現が史料上で現れ るのは、実は13世紀半ばなのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/22
23: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:55:56.01 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 022 神聖ローマ帝国は 英語で「 Holy Roman Empire」で、かつて中央ヨーロッパに存在 した国だ。ローマ王(ドイツ王)たる神聖ローマ皇帝によって統轄された諸領域の呼称 で、ドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部・フランス東部を中心に存在してい た多民族国家、もしくは国家連合であった。最初は統一国家であったが、14世紀から、 国家機能を徐々に停止し、統治下の非ドイツの領土も増え、最終的に 国内の300以上の 王国・公国・帝国自由都市・教会領・侯領・伯領および他の小貴族の領地となり事実上 の独立を獲得して、ドイツ人の国家連合となった。ただ、オーストリア大公国のハプス ブルク家のみは別格で、皇帝の座を独占し帝国とされた。こうした「公国」は「王国」 同様にヨーロッパに残る。現在は「リヒテンシュタイン公国」「モナコ公国」「アンド ラ公国」の3ヵ国、更に「ルクセンブルク大公国」大公の国4つがある。「大公国」は 「大公(Grand Duke)」が元首を務める国のことであって、英語は 「Grand Duchy」と 書かれる。このように「公国」も君主制の国家という点では独裁国家であるし「王国」 とはさしたる違いはないのだが。ただ、元首を務めるのは王ではない「Prince」などの 、爵位を持つ者である点で使い分けられて、厳然たる差別がある。日本も戦前は皇位を 爵位のように扱われた経緯もある。「連邦(れんぽう)」とは、「州や共和国などの、 複数の支分国が、単一の主権のもとに結合して形成する国家」という意味のである。と 前述した。「連邦」内においては、各支分国はそれぞれ自治権や独自の統治構造を維持 し、対外的には統一国家の形を取る。英語で、「federation(フェデレーション=認証 国家)」と訳される。現在の国名に「連邦」が含まれる国は、「アラブ首長国連邦(U AE)」「オーストラリア連邦」「スイス連邦」「ドイツ連邦共和国」「ブラジル連邦 共和国」「ロシア連邦」などが挙げられる。「連邦」では、「2つ以上の州や国から成 る」という点で、「合衆国」と同じだ。「連邦」「合衆国」「連合国」の3つは、名称 が異なるだけで、実質的に違いはそれぞれ作る国家体制でしかない。又実態は、連邦制 で、これらの政体名を国号に含まない国も多くあり、逆に連邦制で独裁の政体も出てき ている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/23
24: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:56:21.85 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 023 又「共和国」と「王国(公国)」なども、君主制の有無については問わない点で区別 されても同じではない。そのため、「共和国」と「王国」のどちらでも、連邦制を取る ことが出来て可能である。ではマハラジャ制度は、どういう物だったのかを、推測する 。一般的に西洋と東洋では、集団と個の取り組み方や考え方が違っている。性格や生活 気候や食糧や水事情が違うからであろう。更に昔と今でも、大きく違う宗教への依存性 や集団統治への入り込みが、全く違っていて、現代の世界観や生活感では、およそ予想 できないくらいの、人生の指針になっていたであろう慣習性や因習性が横たわっていた 。北部インドで、月氏による「クシャーナ朝」が成立した結果、パルティアの東部国境 の大部分が、国情安定に至ったとされている。この結果、前1世紀半ばでのパルティア は、主として南部よりは、北部のローマに対して、積極的な対策に出ていく。北部国境 の安全を勝ち取ることに集中した。ミトラダテス2世が、アルメニアを征服した翌年に 、ユーフラテス川で、パルティアの外交官オロバズスと、ローマのキリキア属州総督の (プロコンスル)ルキウス・コルネリウス・スッラが会談した。この会談で、両者は、 恐らくユーフラテス川を パルティアとローマの国境とすることに合意したのだろう。 ただし、複数の学者はこの結果に、スッラはこの条項を、ローマ本国に伝達する権限し か持っていなかった。と主張している。つまり意向の伝達のみで、同意とか全権を持っ た大使では無かった。としている。それがその後の、パルティアはシリアでセレウコス 朝のアンティオコス10世(在位:前95年〜前92年)の戦いになり、彼を殺害している。 と見ている。最末期でのセレウコス朝の君主の、デメトリオス3世は、バロエア(現: アレッポ)の包囲を試みた。が、パルティアでは、現地住民に、援軍を送り、デメトリ オス3世を撃退している。このオロデス1世(ウロード1世、在位:前90年〜前80年頃 )や、ドラクマ貨ミトラダテス2世の治世の後、パルティアの王権は分裂したように、 思われている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/24
25: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:57:43.04 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 024 セレウコス朝アンティオコス時代は、かなりに殺伐とした政治風景がある。アンティ オコス3世の子で、アンティオコス4世となった王は、もともと、ミトラダテスという 名前であった。つまり他に4世がいたのだ。しかし即位後か、又は兄アンティオコスの 死後に、アンティオコス4世という名前を、名乗り出て持ったようである。この、アン ティオコス4世は、セレウコス4世の死後、権力の座につくのだが、彼は 紀元前188年 には、この地にいなかった。共和政ローマとの、シリアの同盟関係で結ばれたアパメア 和約を受けて、ローマへの人質となっていた。同地ローマで暮らしたが、セレウコス4 世の、正統な後継者である嫡子デメトリオス1世ソテルと、交換されシリアへ戻って来 た。とされている。まあ人質だが交換留学とも言える。しかし、アンティオコスはこの 機会を逃さず、まだ幼いセレウコス4世の継承者アンティオコス王子の摂政の座につき 、数年してアンティオコス王子を葬ることに成功している。恐らくセレウコス4世の、 長男の子で、本家筋の王子に分家筋の甥が牙を剥いた形だったのだろう。アンティオコ ス4世の時代の事跡で、特筆すべきは、この当時大国エジプトのプトレマイオス朝との 戦いに、何故だか勝利を収めたことである。この勝利で、アンティオコス4世はエジプ ト征服の寸前までいく。しかしながら、中東の軍事バランスが崩れることを危惧した民 がいた。ユダヤである。ここでエジプトとローマの輸出入交易で富を貯めていたユダヤ は、ローマ軍の介入をさせ、反乱(マカバイ戦争)を起している。このため、断念して 軍を引きかえさせるのである。アンティオコスは、ユダヤに対して圧政を持って臨み、 エルサレムを破壊した。ここで多くの敵対者や商人達を処刑した。これに対してユダヤ 人たちは、ユダ・マカバイの一族であるハスモン家をリーダーとして立ち上がるのだ。 市街戦で、アンティオコスの派遣した軍を撃破し、各地で奮闘した。アンティオコスは 怒りにかられて、自らユダヤ侵攻軍を率いた。が、道半ばにして急死。紀元前 163年の ことであった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/25
26: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 23:40:22.64 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 025 実はこのユダ・マカバイの一族であるハスモン家こそは、今のイスラエルの王朝子孫 だった。アンティオコス4世は勃興しつつあったパルティア王国への派兵も繰り返して いる。作戦の当初においてパルティア軍を打倒したが、これも王の急死によって断念さ れた。アンティオコス4世の継承者となったのが、まだ幼かったアンティオコス5世の エウパトルであった。こうして、この時代はセレウコス朝が勢いを見せた最後の時代と なった。彼の死後、幼い王子が残されたため、セレウコス朝は混乱して、以後は衰退の 一途をたどることになり 約100年後にローマによって滅ぼされることとなる。それでも セレウコス朝アンティオコス時代は継承されて、アンティオコス10世(在位:前95年〜 前92年)が現れている。発掘調査では、紀元前80年の記録で、バビロニア出土の粘土板 に初めて現れる10世であった。代わりに、それまでのパルティア王ゴタルゼス1世の名 は、突然に現れなくなる。おそらく、ゴタルゼス1世と、争いがあったと思われるのだ 。その後のオロデス1世は短期間しか統治しなかった。紀元前76年または75年の粘土板 には、アルシャカン(おそらくシナトルケス)という名の王と、彼の姉妹で妻であった イスブバルザという王妃の名が現れる。バビロニアを、ゴタルゼス1世が、王国の東部 をオロデス1世 (ウロード1世、在位:前90年頃〜前80年頃)が、それぞれ統治した。 ようだ。この分割統治体制は、大きくパルティアを弱体化させ、アルメニア王ティグラ ネス2世が、西部メソポタミアでパルティアの領土を切り取ることを可能とした。この 時失われた領土は、シナトルケス王(サナトルーク、在位:前78年頃〜前71年頃)の、 治世まで、パルティアに戻ってきていない。アナトリア地方で、ローマとポントス王国 の間で戦争が勃発。(第三次ミトラダテス戦争)である。ポントス王ミトラダテス6世 (前119年〜前93年)と、同盟を結んでいた アルメニア王ティグラネス2世は、ローマ ローマ抵抗同盟を、パルティアに依頼した。が、パルティア王シナトルケスは、救援を 拒否したのである。此の時パルティアはローマとの闘いが出来るほどの国力はなかった のだ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/26
27: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 23:40:52.33 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 026 ハスモン王朝の起こりについては、フラウィウス・ヨセフスの著作および旧約聖書の 外典(第二正典)の「マカバイ記」1・2に詳しく書かれている。マカバイ記は七十人訳 聖書に含まれていたために、カトリック教会と正教会では、旧約聖書の一書として受け 入れられたが、公会議のヤムニア会議以降のユダヤ教とプロテスタント諸派は、これを 正典として受け入れなかった。マカバイ記の記述によれば、セレウコス朝のシリアの王 アンティオコス4世エピファネスは、エルサレム神殿において、異教の神への捧げ物と 祭儀を行って、これを冒涜した。このため、紀元前167年に モディンという村の、祭司 マタティアとその息子達の、ヨハネ、シモン、ユダ、エレアザル、ヨナタンが、シリア の役人を殺害して、荒れ野に逃れて抗戦を呼びかけた。としている。紀元前166年に 父 マタティアが死ぬと、息子であったユダ(ユダ・マカベウス)がマカバイと呼ばれて、 そのあとを次いだ。ここで軍事蜂起を行ってシリア軍を排除し、紀元前164年の キスレ ウの月(12月)の25日に、聖所を清めた。今も行われるユダヤ人の祭り「ハヌカ」は、 このユダが聖所を清めた出来事を記念している。と言う。シリア軍は、依然としてエル サレムの要塞に拠っていたが、シリアで将軍リュシアスが実権を握ると、エルサレムに 大攻勢をかけて、ユダたちは窮地に陥った。しかしながら、セレウコス朝内の権力闘争 が起こり、リュシアスは、ユダたちと和解し、ユダヤに対するシリアの主権を認める。 と言う事と引き換えに、ユダヤ人の宗教的自由を完全に認めるという協定が結ばれた。 その後、シリアによって任命された大祭司アルキモスに ユダ達が叛旗を翻したことで 、再びシリアとの間に軍事衝突を引き起こされる。ユダは、その争い中の 紀元前160年 に戦死する。ユダの戦死後、指導者となった兄弟のヨナタンは、シリア王との戦闘の末 に講和を結び、大祭司としての地位を承認された。正統な祭司の家系に属さない人物が 大祭司になったことに衝撃を受けた敬虔派の人々は、ハスモン家と距離をとっていく。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/27
28: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 23:41:19.32 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 027 その後、紀元前142年 ヨナタンは敵将トリュフォンの手に落ちて殺害された。兄弟の シモンがヨナタンの後をついで大祭司となり、シモンは兄を継承し、軍事的指導者にし て大祭司という立場に収まったのである。シモンの時代には、ユダヤ人はエルサレムに 駐留するシリア軍を撃退し、撤退させたことで、シリアから政治的独立を認められた。 ハスモン家の祭司として、正当性に疑問を持つユダヤ人たちも少なくなかったが、ハス モン一族は、政治的実績の前に異論とならなかった。多くの人々が、「忠実な預言者の 出現するまでは、シモンが彼ら(ユダヤ人)の指導者、大祭司とするのを、よしとした 。」のであった(マカバイ記1 14:41)。こうして 紀元前142年から紀元前135年にかけ て、このシモンの時代に、ユダヤはシリアからの事実上の独立を勝ち取ることに成功。 シモンは、そのままローマに使者を派遣して、自らの権威の承認を求め、元老院達は、 これに応じて、シモンの政権掌握に同意し承認したのである(マカバイ記1 15:19)。 しかし、紀元前135年2月、突然に、シモンは、娘婿プトレマイオスに 暗殺された。と される。シモンは此の時、二人の息子マタティアとユダと共に殺害されたため、三男の ヨハネ・ヒルカノス1世が後を継いだという。彼の治世は、紀元前135年から紀元前104 年まで及んでいるので、比較的穏やかに進んだようだ。それでも、ヒルカノス1世は、 傭兵を用いて サマリアやかつてエドムと呼ばれたイドマヤにまで支配権を及ぼすこと に成功している。ハスモン朝の世襲体制に対して、当初ハスモン一族の対シリア戦争に 対して協力的だった ユダヤ教の敬虔派などは、批判に転じるようになった。此の頃、 敬虔派の中から、律法への忠実さを特色とするファリサイ派が発生してきていた。ヒル カノスはファリサイ派でなく、サドカイ派と接近し、統治体制に組み込むことでユダヤ 教の指導層をつなぎとめようとした。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/28
29: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 23:41:45.83 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 028 ヒルカノス1世の死後は、遺志によってその妻が、息子アリストブロス1世を大祭司 にたてる形で、代理でユダヤを統治した。しかし、実権のない大祭司の地位が不満だっ たままで、アリストブロス1世は、母親と兄弟を捕縛、獄に投じて母を獄死に追い込み 、政教両面の指導者の地位を強引に手にしたのであった。彼は「大祭司」にして「王」 の称号を持つという、ユダヤ的独特の神権政治を具現した初めての人物となった。しか し それもつかの間の事で、一年たらずあと 紀元前103年にアリストブロス1世は苦痛 の中で病死したのである。アリストブロス1世の死後は、アレクサンドロス・ヤンナイ オスという、ギリシャ風の名前を名乗った弟の ヨナタンが後を継いだ。彼は2人の弟 と共に獄中にあったが、アリストブロス1世の未亡人サロメ・アレクサンドラによって 釈放された。更に彼女と結婚することで王位につくことが出来た。アレクサンドロスは 紀元前103年から 紀元前76年まで統治し、遠征先の、ラガバ要塞の包囲中に死去した。 もともと ユダヤ民衆はハスモン朝に対して、多くは冷ややかであったが、ヤンナイオ スは、反対者に対して極刑で望んだため、その恐怖政治にハスモン朝に対するユダヤ人 の反感がさらに高まった。アレクサンドロスの後、妻サロメ・アレクサンドラ(在位: 紀元前76年〜紀元前67年)、さらに息子アリストブロス2世(在位:紀元前67年〜紀元 前63年)によって継承されていった。本来は、大祭司であった兄のヨハネ・ヒルカノス 2世が王位をついでいたのだが、弟のアリストブロス2世が武力によってこれを奪取し この兄弟争いがハスモン朝時代の終わりを早めることになっていった。一旦王位を追わ れ、大祭司職も剥奪されたヒルカノス2世。ここでイドマヤ人の武将のアンティパトロ スの支援を受けて体制を建て直し、エルサレムに迫ってアリストブロス2世と決戦を迫 った。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/29
30: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 23:42:14.45 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 029 しかしながら、中東進出を果たし、セレウコス朝を倒したグナエウス・ポンペイウス とローマ軍が、ユダヤの地に到来したため、両勢力は競ってこれに接近した。ポンペイ ウス将軍は、有能なアリストブロス2世を危険視し、無能なヒルカノス2世こそが傀儡 にふさわしい。と判断して、アリストブロス2世をローマへ連行し、ヒルカノス2世を 大祭司に復職させた(エルサレム攻囲戦)。このローマの影響力の前に、ハスモン朝の 支配力は、すでに名前だけのものになっていた。が、ヒルカノス2世は、そのローマの 後ろ盾によって、なんとか王位についていることができたのであった。(在位:紀元前 63年〜紀元前40年)。しかし、ヒルカノス2世は、次の苦難が押し寄せる。その頃には 、東方から進出してきたパルティアがいたからだ。パルティアに密約と結んだアリスト ブロス2世の遺児アンティゴノスによって、ヒルカノス2世捕らえられ、王位を奪われ た。アンティゴノスは、このパルティアの支援によって、父の仇を討って王と大祭司の 地位を手にいれることに成功した。紀元前40年から紀元前37年まで在位したアンティゴ ノスも又、大祭司にして王という、絶大なる権力の、ユダヤの二大称号を保持したが、 この最後の人物となった。というのも、ヒルカノス2世を支えていた武将のアンティパ トロスの息子ヘロデ(ヘロデ大王)も、アンティゴノスに命を狙われたが、辛くもその 手を逃れ、ローマに渡ってその支持を得ることに成功したからだ。ユダヤ王として承認 され、マルクス・アントニウスが率いたローマ軍と共に ユダヤに戻ったヘロデは、す ぐに、パルティア軍を追い払い、後ろ盾を失ったアンティゴノスを破って 紀元前37年 に、名実共にユダヤの王となった。ローマ軍の捕虜となったアンティゴノスは斬首され 、ハスモン朝は滅亡した、こうしてヘロデ朝が成立した。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/30
31: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 23:42:35.76 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 029 しかしながら、中東進出を果たし、セレウコス朝を倒したグナエウス・ポンペイウス とローマ軍が、ユダヤの地に到来したため、両勢力は競ってこれに接近した。ポンペイ ウス将軍は、有能なアリストブロス2世を危険視し、無能なヒルカノス2世こそが傀儡 にふさわしい。と判断して、アリストブロス2世をローマへ連行し、ヒルカノス2世を 大祭司に復職させた(エルサレム攻囲戦)。このローマの影響力の前に、ハスモン朝の 支配力は、すでに名前だけのものになっていた。が、ヒルカノス2世は、そのローマの 後ろ盾によって、なんとか王位についていることができたのであった。(在位:紀元前 63年〜紀元前40年)。しかし、ヒルカノス2世は、次の苦難が押し寄せる。その頃には 、東方から進出してきたパルティアがいたからだ。パルティアに密約と結んだアリスト ブロス2世の遺児アンティゴノスによって、ヒルカノス2世捕らえられ、王位を奪われ た。アンティゴノスは、このパルティアの支援によって、父の仇を討って王と大祭司の 地位を手にいれることに成功した。紀元前40年から紀元前37年まで在位したアンティゴ ノスも又、大祭司にして王という、絶大なる権力の、ユダヤの二大称号を保持したが、 この最後の人物となった。というのも、ヒルカノス2世を支えていた武将のアンティパ トロスの息子ヘロデ(ヘロデ大王)も、アンティゴノスに命を狙われたが、辛くもその 手を逃れ、ローマに渡ってその支持を得ることに成功したからだ。ユダヤ王として承認 され、マルクス・アントニウスが率いたローマ軍と共に ユダヤに戻ったヘロデは、す ぐに、パルティア軍を追い払い、後ろ盾を失ったアンティゴノスを破って 紀元前37年 に、名実共にユダヤの王となった。ローマ軍の捕虜となったアンティゴノスは斬首され 、ハスモン朝は滅亡した、こうしてヘロデ朝が成立した。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/31
32: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 23:43:01.41 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 030 戦前69年エルサレム攻囲にローマは、将軍ルキウスが、アルメニアの首都ティグラノ ケルタに進軍。ポントス王ミトラダテス6世とアルメニア王ティグラネス2世は、再び パルティアのプラアテス3世フラハート3世前71年〜前58年に、約束だろ。援軍を寄こ せと、依頼した。しかし、結局プラアテス3世はどちらにも、援軍を送ることはなく、 ティグラノケルタ陥落の後に、ユーフラテス川は、パルティアとローマの国境である事 を再確認する協定を結んだのである。この混乱の中で、アルメニア王ティグラネス2世 の息子であった小ティグラネスは、父親からの王位簒奪を企んで失敗している。それ程 国内も混乱していた。息子は、パルティア王プラアテス3世の下へ逃亡して来た。彼を 説得し、アルメニアの新たな首都アルタクシャタに進軍させることを決意させた。この 進軍と、その後の包囲は、既に弱っていたパルティアである。少ない兵力で失敗してし まうのは当然で、小ティグラネスは、今度は、ローマの将軍ポンペイウスの下へと逃亡 していく。アルメニア王の息子は、ポンペイウスにアルメニアの道案内をすると約束。 しかし、ティグラネス2世は、ローマの属国の領主となることを受け入れる協定を結び 、小ティグラネスは人質としてローマに送られたのである。この後、プラアテス3世は 、ポンペイウスに、小ティグラネスを自身の下へ送還するよう要求した。が、よっぽど ポンペイウスは、この王子を気に入ったのか、パルティアを軽く見ていたのか、拒否さ れている。この結果、プラアテス3世はゴルデュエネ(現:トルコ南東部)への侵攻を 開始した。これはローマの執政官(コンスル)ルキウス・アフラニウスによって、排除 されたと伝わる。ルキウス将軍・・・そう、後にローマで回想録を書き、『ユダヤ戦記 』『ユダヤ古代誌』を、完成させ、一族が暴君ネロの家庭教師になったルキウスなのだ http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/32
33: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/07(日) 04:29:21.40 ID:Ou2ks9y6o 閑話休題x 032 当時、地中海で猛威を振るっていた海賊を討伐する為の法案「レックス・ガビニア」 を提案して、元老院での反対を受けたが、市民集会の熱唱と喝采で可決されたのだが、 この、レックス・ガビニアは、「ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)以東の海面及び 海岸」の海と、「海から 400スタディオン(約72キロ)以内」の陸地に対する、命令権 と、「元老院議員から構成される15名の副官、ポンペイウスが望む限りの予算を与える 。」という内容であった。とされる。これは、実際には、勝手なローマの権限によって ガビニウスと言う地位を持った遠征軍に、権限と予算を際限なく与える。と言うパクス ・ロマーナの先駆けたる物だった。ローマ市民に、このパックス・ロマーナの意志であ る「ローマによる平和」を意味し、多くの戦争や領土拡大、反乱などにもかかわらずに 、「領域拡大」し「属国維持」と「内部の覇権的平和」とを行う。と言った思想の発端 で、その後に多大な影響を与えた黄金時代の5賢帝時代の秩序の元になった。またこの 時、護民官(ガビニウス)の、任期中に非ローマ人に対して、資金の貸与が可能となる 法律も可決させたのである。こうして、ポンペイウスはレックス・ガビニアの法執行に よって、地中海海賊の征討を果たし、オリエントの征服にも、成功することとなった。 彼は、当然乍ら、当初バビロニアの征服に成功し、前55年まで セレウキアでコインを 発行して名声を維持した。この年、オロデス2世の将軍がセレウキアを再占領し、有能 とされ、土地を追われたミトラダテス3世は、捕まえられ処刑された。この将軍の名前 はスレナス(スーレーン氏族の者の意)という。彼の出身氏族名でのみ知られている。 しかし、ルキウス・アエリウス・カエサルは凱旋帰国後に、ローマ皇帝ハドリアヌスの 養子となってその後継者とされた副皇帝の名称を貰ったが早世した。後の、共同皇帝ル キウス・ウェルスの父であり、カエサル=副帝の称号の初代となった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/33
34: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/07(日) 04:29:48.91 ID:Ou2ks9y6o 閑話休題x 033 その後、忘れ形見の子ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス・ウェルスも、マルク ス・アウレリウス・アントニヌスと共に共同皇帝となって統治し、アントニウスに毒殺 されたのか 急死する。葬儀に至り、ディウス・ウェルス(神君ウェルス)の、称号を 貰い、死後に神となった。ウェルスはローマでも享楽的な生活で、友人を集めた夜通し の宴会や戦車競走に熱中していた。常々マルクス・アウレリウスはこれに苦言していた が、168年春 マルコマンニ戦争にパンノニア遠征をする。ドナウ川添いに、ゲルマン系 の、アラマンニ族とマルコマンニ族が来襲しウェルスはこれを迎え撃つために出陣した 。マルコマンニ戦争は180年まで続いた。169年1月、ウェルスとマルクス・アウレリウ スが冬を避けて、戦場からローマに帰還する道中、ウェルスは食中毒で数日後死亡した 。戦場においては、有能なウェルスであったが、平和時に政務においては出来ることは ほとんどなく、ウェルスの享楽的生活の批判が噂されて、公務には影響していたのだ。 この友人マルクス・アウレリウスは、ウェルスへの追悼コメントで「大変に怠慢であっ たウェルスが死去し、これで自らが、一から国家作りを始めることが出来る。」といい 、「従来はウェルスの功績と考えられてきたパルティアでの戦いは自らが指示したもの である。」と公然と語ったため、マルクス・アウレリウスによるウェルスへの毒殺説が 強まって、この風評が広まるのを恐れたマルクス・アウレリアウスがウェルスの親族や 関係者に多くの特権や褒賞を与えたと伝わっている。その為神格化される葬儀となった 。こうして、後のローマを作った五賢帝最後の皇帝の甥マルクス・アウレリウス・アン トニヌスだった。第15代皇帝アントニヌス・ピウスの后妃 ファウスティナ・マイヨル の甥で先帝の外戚である。またファウスティナは、ハドリアヌスとトラヤヌスの、傍系 血族でもある。新たにローマのシリアの属州総督(プロコンスル)となり、三頭政治の 一角を成したマルクスである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/34
35: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/07(日) 04:30:13.38 ID:Ou2ks9y6o 閑話休題x 034 しかし、皇帝マルクス・アウレリウスの人生と治世に関する資料は、信憑性の薄い物 が多い。主要な情報源とされる「ローマ皇帝群像」などは多くの問題を持った資料で、 引用する資料価値は低いというより無いに等しい。マルクス・アウレリウス・アントニ ヌスこと、マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルスは、貴族マルクス・アン ニウス・ウェルス3世の子としてローマに生まれた。と言う。自出については、父方の 一族であるウェルス家は、属州ヒスパニア・バエティカのコルドバに領主で、1世紀頃 からローマ中央でも知られた存在にまで台頭し始めた。と言う。曽祖父アンニウス・ウ ェルス1世が元老院議員として議席を与えられ、祖父のウェルス2世の代で貴族に列さ れた。その後アンニウス・ウェルス3世はドミティア・ルキッラと結婚してカティリウ ス・セウェルス(アウレリウス)という子を儲けた。ウェルス3世も元老院で、法務官 などの要職を歴任していた為に皇帝まで上り詰めている。実はこの間に、ローマ内戦が 起こっている。紀元前49年から紀元前45年の間に起きた共和政ローマ期の内戦である。 グナエウス・ポンペイウス及び元老院派とガイウス・ユリウス・カエサル派の間で起こ ったのだ。一連の戦争で、カエサルが当時の国家に対して仕掛けたもので、イタリア、 ギリシア、エジプト、北アフリカ及びヒスパニアでも争い、カエサル派が、最終的に元 老院派を打倒して独裁体制を確立していった。実はこの内戦は、都市化構造の中での、 都市開発の有無を問うものであった。つまり、現代のアメリカの極左と極右の政争と、 ほぼ同じとも言えるのだ。コモンウエルズの原義である、「共通善」「公共の福祉」と いった概念での「国家」や「集団」を尊重した結果、従来通り海外との緩やかな連帯で モンロー主義的国家を選ぶか、現代に生きる為の拡大拡張のファースト主義の革命政府 の道を選ぶのか、であった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/35
36: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/07(日) 04:30:36.32 ID:Ou2ks9y6o 閑話休題x 035 当然ながらかつて元老院が認めた、軍政の全権護民官(ガビニウス)は覇権を争って 、一種の理想的な共和政体を概念としての共和国は、ローマ時代も現代も、開発暴力の 上の資源に頼っている。ので、それを強化する必要に迫られて、軍事の強大を狙ったが 、それに対して、それでも有限体なので、贅沢で豪奢な生活者には窮屈でも、綿々と、 伝統の上の子孫と繁栄の国造りの元老院には、杞憂の元であった。特に海外は遠かった 。情報も文化も、言語や習慣も違う国に、戦争でなくても乗り入れる事すら憚られた。 本国での共和政ローマは、グラックス兄弟による一連の改革に始まって、ガイウス・マ リウスやルキウス・コルネリウス・スッラらによる支配が出来るに及んで、ポプラレス (平民派)と、オプティマテス(閥族派、元老院派)の争いが、熾烈になるなどした。 後世「内乱の一世紀」と呼ばれる政情不安な状態が続き、紀元前59年にポンペイウス、 カエサル、マルクス・リキニウス・クラッススは第一回三頭政治と、後に呼ばれる統治 体制を構築し、平民を押さえて権力を握り、カエサルは自身の娘ユリアをポンペイウス へと嫁がせ基盤を固めたのである。その後、カエサルはガリアなど3つの属州の総督と して赴任し、ガリア戦争を戦い、紀元前55年にポンペイウスとクラッススが共に執政官 (コンスル)を務めた。しかし、こうした拡大主義での覇道は、戦争・紛争も多く、絶 えず戦闘に及んだ。紀元前54年にユリアが死去、紀元前53年にパルティアとのカルラエ の戦いでクラッススも戦死した。此処に第一回三頭政治が、崩壊をみるのである。また 、カエサルが、ガリア戦争の成功によって、ポンペイウスと同等の軍事上の権限を得た ことに対し、元老院派は、カエサルの権力拡大を危惧して ポンペイウスと接近した。 紀元前52年にはプブリウス・クロディウス・プルケル暗殺に伴い、ローマ国内の混乱へ 対処するため、ポンペイウスを唯一のコンスルに選出した。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/36
37: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/07(日) 12:34:04.43 ID:j1CN2MH+u 閑話休題x 035 当然ながらかつて元老院が認めた、軍政の全権護民官(ガビニウス)と覇権を争って いた。一種の理想的な共和政体を概念を持った政府は、ローマ時代でも現代でも、開発 暴力の上の、天然資源に頼っていた。その搾取不足で軍事強化の必要に迫られていたが 、それに対して、それでも有限資源なので、贅沢で豪奢な生活者には窮屈でも、綿々と 、伝統的生活で子孫繁栄の国造りを残すべきだと元老院は対峙した。他国への干渉には 、杞憂があった。砲艦外交はもとより、占領略奪、奴隷や難民の移住など 海外は遠く 情報や文化も、言語や習慣も違う国に、戦争でなくても 乗り入れる事すら憚られた。 本国での共和政ローマは、グラックス兄弟による一連の改革に始まって、ガイウス・マ リウスやルキウス・コルネリウス・スッラらによる支配が出来るに及んで、ポプラレス (平民派)と、オプティマテス(閥族派、元老院派)の争いが、熾烈になるなどした。 後世「内乱の一世紀」と呼ばれる政情不安な状態が続き、紀元前59年にポンペイウス、 カエサル、マルクス・リキニウス・クラッススは第一回三頭政治と、後に呼ばれる統治 体制を構築し、平民を押さえて権力を握り、カエサルは自身の娘ユリアをポンペイウス へと嫁がせ基盤を固めたのである。その後、カエサルはガリアなど3つの属州の総督と して赴任し、ガリア戦争を戦い、紀元前55年にポンペイウスとクラッススが共に執政官 (コンスル)を務めた。しかし、こうした拡大主義での覇道は、戦争・紛争も多く、絶 えず戦闘に及んだ。紀元前54年にユリアが死去、紀元前53年にパルティアとのカルラエ の戦いでクラッススも戦死した。此処に第一回三頭政治が、崩壊をみるのである。また 、カエサルが、ガリア戦争の成功によって、ポンペイウスと同等の軍事上の権限を得た ことに対し、元老院派は、カエサルの権力拡大を危惧して ポンペイウスと接近した。 紀元前52年にはプブリウス・クロディウス・プルケル暗殺に伴い、ローマ国内の混乱へ 対処するため、ポンペイウスを唯一のコンスルに選出した。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/37
38: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/10(水) 09:06:53.04 ID:UnfWmRqOG 閑話休題x 036 ここで元老院のポンペイウス派は、カエサルの、ガリア総督としての任期切れ後に コンスルに立候補する意向であることを知り、阻止に働きかける。カエサルから軍隊を 引き離すことを模索し、紀元前50年12月に、ポンペイウスもが軍隊を解散させるならば 自分(カエサル)も軍隊を手放す。と元老院に伝書を送ったが、元老院はカエサルが 不法に軍を維持するのならば「国家の敵とする。」と、議員一致で宣告したのである。 まあ、今のトランプ大統領と米国議会のようなものだが、裏に軍隊がいる司令官の地位 だから、血なまぐさい。カエサルの幕僚であるマルクス・アントニウス及びクィントゥ ス・カシウス・ロンギヌスは友人だったが、カエサルから「応じられない」とする意向 が元老院へ送られてきた。元老院はこれを拒否し、ここで、思想対立の権力闘争から、 現実的対立の市民戦争に及んだのである。紀元前50年、ポンペイウス及び元老院派は、 プロコンスル(前執政官)としての、カエサルの任期が終わった事で、ローマに戻り軍 を解散するよう指令する。カエサルがコンスルに立候補するのを禁じ、軍の解隊を命じ たのである。しかし、カエサルはコンスルの地位も軍隊の力もなしにローマに戻るなら 、スキピオ・アフリカヌス(救国の英雄で汚職で断罪された)のごとくに罪に問われ、 政治的に失脚させられる。と考えた。紀元前49年1月、元老院は更にカエサルに対して 、「元老院最終勧告」を発する。紀元前49年 1月10日カエサルは子飼いの部隊であった 第10軍団と共に、異郷ガリア・キサルピナと、イタリア本土のローマの境界であった、 ルビコン川を越えるのである。この事で近代では「ルビコン川を渡る」という言葉は、 決定的な一歩を踏み出した。あと戻れない河を渡った。と解される。当時イタリア本土 は、ルビコン以南、ブルンディシウム以北」で、この外から、ローマ市内への軍隊を率 いて侵入する事は、禁じられていた。が、実際には、過去にマリウスやスッラも攻め込 んでいる。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/38
39: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/10(水) 09:07:19.98 ID:UnfWmRqOG 閑話休題x 037 なお、この際にカエサルはalea iacta est(賽は投げられた)と言った。とされる。 又後世に於いての、「ルビコン川を渡る。」とは、引き返せない危険に入る、という事 の意味になった。彼の言った、スキピオ・アフリカヌス(救国の英雄)の事を少し語れ ば、ポエニ戦争時の時の英雄である。当時は、エブロ川以西のヒスパニアは、完全に、 カルタゴの支配下にあり、ハンニバルの弟のハスドルバル・バルカと、ハスドルバル・ ギスコとがここを統治していた。ギリシャ・ローマには、多くの国民がいたが、平野が 少なく農作物は獲れない秋吉台のような半島大地である。オリーブの実を油にして交易 し、他国の小麦粉と魚を食糧にしていた。その食糧を供給には海上輸送。つまり、船の 運行が欠かせない。その安全を脅かす地位に、カルタゴがいた。アフリカのベルベル人 の海岸には、今でも海賊が多く移民の船が運行されるが、そうした船の防衛にトルコ側 のユダヤの商人はカルタゴに依存していたので、このカルタゴの兵力はローマにとって は、目の上のたん瘤だったのだ。カルタゴはアフリカの海洋国家で、エジプトすらも、 従わせるほどの巨大国家で、エジプトの穀物がギリシャに、特にローマに輸出する事に 大いに不満だった。既に領土的にヒスパニア、つまりスペインやフランスの地中海の入 り江を占領していたのだ。そこに、ヒスパニア遠征で海路エブロ川流域に上陸し戦いを ギリシャのローマが挑んでいた。紀元前の遠いから昔から、東地中海の雄ギリシャの、 ローマ軍と、同じに西地中海を治めるアフリカの雄の、カルタゴ軍が、いずれ激突する のは、時間の問題でした。特に、地中海の要衝、シチリア島が、その最前線になって、 何度も、ギリシャ(主に植民都市シラクサ)と、カルタゴが戦いを交えながら拮抗状態が 続いていたのである。しかし、間隙を縫って急速に勢力を伸ばして来たのが、イタリア 半島のローマである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/39
40: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/10(水) 09:07:43.43 ID:UnfWmRqOG 閑話休題x 038 紀元前3世紀も前に、100年以上に渡って 大きな戦争が、三度も交わされていたのだ 。ローマ対カルタゴの、この大戦争がポエニ戦争で、すでに火蓋が切って落とされてい た。カルタゴは名将と称賛されるハミルカル・バルカ、ハンニバル・バルカ父子の活躍 によって、ローマを苦しめている、最後には力尽き、ローマによってカルタゴ市民は、 虐殺され、市街は徹底的に破壊された。現在の、カルタゴ遺跡はユリウス・カエサルが 再建したローマ領カルタゴが大半である。フェニキア時代の中心であったビュルサの丘 の復元図にも描かれていた、軍港・商業港の跡や墓標が並ぶ聖地トフェ等など、遺跡で しか、フェニキア時代のカルタゴの姿を語り継ぐものはない。が、遺構でその偉大さが 偲ばれるので、観光客もやって来ている。そうした中で、英雄スキピオ・アフリカヌス のヒスパニア遠征では、海路エブロ川流域に上陸し、、直接カルタゴ・ノウァ(現カル タヘナ)を、急襲して占拠して、カルタゴ勢を驚かせている。カルタゴ・ノウァは現在 のスペインのカルタヘナで良好な港街である。バルセルナから、西にバレンシア海岸を 行けばバレンシア市の更に西に当たる。こうして、敵の勢力の中心部を速やかに攻略し たスキピオは、ここのカルタゴ・ノウァの財力を元手に、ヒスパニア現地民を買収し、 カルタゴの圧制からの解放者。というイメージを演じた。要するにプロパガンダに於い て、パレードをやったのである。この時、地元の部族から戦勝祝いとして美しい娘を妾 に。と、贈呈されたが、娘に婚約者がいることを知り、両親から送られた金銀を添えて 娘を婚約者の元へ返したという美談まである。また小回りの利く短めの剣・グラディウ スを加工させ、これもここの工房で生産し、ローマ兵の防備にしたという。こうして、 スキピオは、ヒスパニアでの戦争を有利に展開していった。が、同時に元老院の戦略上 の関心は、遠いヒスパニアにではなく、イタリア本土で対峙しているハンニバルにあっ た。こうした事で、本国からの増援は望めず、スキピオはヒスパニアの現地民からなる 軍団を編成する。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/40
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