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21: 2024/04/05(金)21:32 ID:GFm9LfXLc(9/20) AAS
 閑話休題x   020

 この「 United States=合衆国」という訳語は江戸時代末期から使われてきたのだが
由来については、はっきりしていない。現在では、「United」の語には、「連合国」の
訳語が当てられることが多い。少し前には、ロシアは、複数のソビエト社会主義共和国
から構成される「連邦国家」としてソビエトがあった。しかし、正式にはソビエト社会
主義共和国連邦(しゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)は、ロシア語表記の正式名称
Союз Советских Социалистических Республик
は、略称で頭字語: СССРとしていた。しかし、英国の英語表記から、Union
of Soviet Socialist Republics、略称はUSSRが用い
られていた。ところが、現在ロシア連邦になってからは、海外でも単にロシアとされる
省15
22: 2024/04/05(金)21:55 ID:GFm9LfXLc(10/20) AAS
 閑話休題x   021

 「共和国」は単に、国王のような君主制を反対し、国民から選ばれた大統領などが、
統治する国を指していて、その意味では「合衆国」も種別では「共和国」の一種である
という言える。一方で、「王国」は君主が治めるという点で、日本も「共和国」とは、
一線を隔し、英国と共に違っている。「王国(おうこく)」は、文字通りに、「王が、
支配する国」という言葉で、君主として王が統治している国家を指す。英語表記では、
「Kingdom」と表記される。「王国」では、「グレートブリテン 及び、北アイルランド
連合王国」の正式名称を持つ大英帝国(イギリス)」や「オランダ王国」「デンマーク
王国」「スペイン王国」「ベルギー王国」「ノルウェー王国」などが挙げられるだろう
。ちなみに、日本の場合、天皇は「国の象徴」であって、統治はせず主権は国民にある
省15
23: 2024/04/05(金)21:55 ID:GFm9LfXLc(11/20) AAS
 閑話休題x   022

 神聖ローマ帝国は 英語で「 Holy Roman Empire」で、かつて中央ヨーロッパに存在
した国だ。ローマ王(ドイツ王)たる神聖ローマ皇帝によって統轄された諸領域の呼称
で、ドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部・フランス東部を中心に存在してい
た多民族国家、もしくは国家連合であった。最初は統一国家であったが、14世紀から、
国家機能を徐々に停止し、統治下の非ドイツの領土も増え、最終的に 国内の300以上の
王国・公国・帝国自由都市・教会領・侯領・伯領および他の小貴族の領地となり事実上
の独立を獲得して、ドイツ人の国家連合となった。ただ、オーストリア大公国のハプス
ブルク家のみは別格で、皇帝の座を独占し帝国とされた。こうした「公国」は「王国」
同様にヨーロッパに残る。現在は「リヒテンシュタイン公国」「モナコ公国」「アンド
省16
24: 2024/04/05(金)21:56 ID:GFm9LfXLc(12/20) AAS
 閑話休題x   023

 又「共和国」と「王国(公国)」なども、君主制の有無については問わない点で区別
されても同じではない。そのため、「共和国」と「王国」のどちらでも、連邦制を取る
ことが出来て可能である。ではマハラジャ制度は、どういう物だったのかを、推測する
。一般的に西洋と東洋では、集団と個の取り組み方や考え方が違っている。性格や生活
気候や食糧や水事情が違うからであろう。更に昔と今でも、大きく違う宗教への依存性
や集団統治への入り込みが、全く違っていて、現代の世界観や生活感では、およそ予想
できないくらいの、人生の指針になっていたであろう慣習性や因習性が横たわっていた
。北部インドで、月氏による「クシャーナ朝」が成立した結果、パルティアの東部国境
の大部分が、国情安定に至ったとされている。この結果、前1世紀半ばでのパルティア
省14
25: 2024/04/05(金)21:57 ID:GFm9LfXLc(13/20) AAS
 閑話休題x   024

 セレウコス朝アンティオコス時代は、かなりに殺伐とした政治風景がある。アンティ
オコス3世の子で、アンティオコス4世となった王は、もともと、ミトラダテスという
名前であった。つまり他に4世がいたのだ。しかし即位後か、又は兄アンティオコスの
死後に、アンティオコス4世という名前を、名乗り出て持ったようである。この、アン
ティオコス4世は、セレウコス4世の死後、権力の座につくのだが、彼は 紀元前188年
には、この地にいなかった。共和政ローマとの、シリアの同盟関係で結ばれたアパメア
和約を受けて、ローマへの人質となっていた。同地ローマで暮らしたが、セレウコス4
世の、正統な後継者である嫡子デメトリオス1世ソテルと、交換されシリアへ戻って来
た。とされている。まあ人質だが交換留学とも言える。しかし、アンティオコスはこの
省14
26: 2024/04/05(金)23:40 ID:GFm9LfXLc(14/20) AAS
 閑話休題x   025

 実はこのユダ・マカバイの一族であるハスモン家こそは、今のイスラエルの王朝子孫
だった。アンティオコス4世は勃興しつつあったパルティア王国への派兵も繰り返して
いる。作戦の当初においてパルティア軍を打倒したが、これも王の急死によって断念さ
れた。アンティオコス4世の継承者となったのが、まだ幼かったアンティオコス5世の
エウパトルであった。こうして、この時代はセレウコス朝が勢いを見せた最後の時代と
なった。彼の死後、幼い王子が残されたため、セレウコス朝は混乱して、以後は衰退の
一途をたどることになり 約100年後にローマによって滅ぼされることとなる。それでも
セレウコス朝アンティオコス時代は継承されて、アンティオコス10世(在位:前95年〜
前92年)が現れている。発掘調査では、紀元前80年の記録で、バビロニア出土の粘土板
省15
27: 2024/04/05(金)23:40 ID:GFm9LfXLc(15/20) AAS
 閑話休題x   026

 ハスモン王朝の起こりについては、フラウィウス・ヨセフスの著作および旧約聖書の
外典(第二正典)の「マカバイ記」1・2に詳しく書かれている。マカバイ記は七十人訳
聖書に含まれていたために、カトリック教会と正教会では、旧約聖書の一書として受け
入れられたが、公会議のヤムニア会議以降のユダヤ教とプロテスタント諸派は、これを
正典として受け入れなかった。マカバイ記の記述によれば、セレウコス朝のシリアの王
アンティオコス4世エピファネスは、エルサレム神殿において、異教の神への捧げ物と
祭儀を行って、これを冒涜した。このため、紀元前167年に モディンという村の、祭司
マタティアとその息子達の、ヨハネ、シモン、ユダ、エレアザル、ヨナタンが、シリア
の役人を殺害して、荒れ野に逃れて抗戦を呼びかけた。としている。紀元前166年に 父
省13
28: 2024/04/05(金)23:41 ID:GFm9LfXLc(16/20) AAS
 閑話休題x   027

 その後、紀元前142年 ヨナタンは敵将トリュフォンの手に落ちて殺害された。兄弟の
シモンがヨナタンの後をついで大祭司となり、シモンは兄を継承し、軍事的指導者にし
て大祭司という立場に収まったのである。シモンの時代には、ユダヤ人はエルサレムに
駐留するシリア軍を撃退し、撤退させたことで、シリアから政治的独立を認められた。
ハスモン家の祭司として、正当性に疑問を持つユダヤ人たちも少なくなかったが、ハス
モン一族は、政治的実績の前に異論とならなかった。多くの人々が、「忠実な預言者の
出現するまでは、シモンが彼ら(ユダヤ人)の指導者、大祭司とするのを、よしとした
。」のであった(マカバイ記1 14:41)。こうして 紀元前142年から紀元前135年にかけ
て、このシモンの時代に、ユダヤはシリアからの事実上の独立を勝ち取ることに成功。
省12
29: 2024/04/05(金)23:41 ID:GFm9LfXLc(17/20) AAS
 閑話休題x   028

 ヒルカノス1世の死後は、遺志によってその妻が、息子アリストブロス1世を大祭司
にたてる形で、代理でユダヤを統治した。しかし、実権のない大祭司の地位が不満だっ
たままで、アリストブロス1世は、母親と兄弟を捕縛、獄に投じて母を獄死に追い込み
、政教両面の指導者の地位を強引に手にしたのであった。彼は「大祭司」にして「王」
の称号を持つという、ユダヤ的独特の神権政治を具現した初めての人物となった。しか
し それもつかの間の事で、一年たらずあと 紀元前103年にアリストブロス1世は苦痛
の中で病死したのである。アリストブロス1世の死後は、アレクサンドロス・ヤンナイ
オスという、ギリシャ風の名前を名乗った弟の ヨナタンが後を継いだ。彼は2人の弟
と共に獄中にあったが、アリストブロス1世の未亡人サロメ・アレクサンドラによって
省12
30: 2024/04/05(金)23:42 ID:GFm9LfXLc(18/20) AAS
 閑話休題x   029

 しかしながら、中東進出を果たし、セレウコス朝を倒したグナエウス・ポンペイウス
とローマ軍が、ユダヤの地に到来したため、両勢力は競ってこれに接近した。ポンペイ
ウス将軍は、有能なアリストブロス2世を危険視し、無能なヒルカノス2世こそが傀儡
にふさわしい。と判断して、アリストブロス2世をローマへ連行し、ヒルカノス2世を
大祭司に復職させた(エルサレム攻囲戦)。このローマの影響力の前に、ハスモン朝の
支配力は、すでに名前だけのものになっていた。が、ヒルカノス2世は、そのローマの
後ろ盾によって、なんとか王位についていることができたのであった。(在位:紀元前
63年〜紀元前40年)。しかし、ヒルカノス2世は、次の苦難が押し寄せる。その頃には
、東方から進出してきたパルティアがいたからだ。パルティアに密約と結んだアリスト
省11
31: 2024/04/05(金)23:42 ID:GFm9LfXLc(19/20) AAS
 閑話休題x   029

 しかしながら、中東進出を果たし、セレウコス朝を倒したグナエウス・ポンペイウス
とローマ軍が、ユダヤの地に到来したため、両勢力は競ってこれに接近した。ポンペイ
ウス将軍は、有能なアリストブロス2世を危険視し、無能なヒルカノス2世こそが傀儡
にふさわしい。と判断して、アリストブロス2世をローマへ連行し、ヒルカノス2世を
大祭司に復職させた(エルサレム攻囲戦)。このローマの影響力の前に、ハスモン朝の
支配力は、すでに名前だけのものになっていた。が、ヒルカノス2世は、そのローマの
後ろ盾によって、なんとか王位についていることができたのであった。(在位:紀元前
63年〜紀元前40年)。しかし、ヒルカノス2世は、次の苦難が押し寄せる。その頃には
、東方から進出してきたパルティアがいたからだ。パルティアに密約と結んだアリスト
省11
32: 2024/04/05(金)23:43 ID:GFm9LfXLc(20/20) AAS
 閑話休題x   030

 戦前69年エルサレム攻囲にローマは、将軍ルキウスが、アルメニアの首都ティグラノ
ケルタに進軍。ポントス王ミトラダテス6世とアルメニア王ティグラネス2世は、再び
パルティアのプラアテス3世フラハート3世前71年〜前58年に、約束だろ。援軍を寄こ
せと、依頼した。しかし、結局プラアテス3世はどちらにも、援軍を送ることはなく、
ティグラノケルタ陥落の後に、ユーフラテス川は、パルティアとローマの国境である事
を再確認する協定を結んだのである。この混乱の中で、アルメニア王ティグラネス2世
の息子であった小ティグラネスは、父親からの王位簒奪を企んで失敗している。それ程
国内も混乱していた。息子は、パルティア王プラアテス3世の下へ逃亡して来た。彼を
説得し、アルメニアの新たな首都アルタクシャタに進軍させることを決意させた。この
省11
33: 2024/04/07(日)04:29 ID:Ou2ks9y6o(1/4) AAS
 閑話休題x   032

 当時、地中海で猛威を振るっていた海賊を討伐する為の法案「レックス・ガビニア」
を提案して、元老院での反対を受けたが、市民集会の熱唱と喝采で可決されたのだが、
この、レックス・ガビニアは、「ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)以東の海面及び
海岸」の海と、「海から 400スタディオン(約72キロ)以内」の陸地に対する、命令権
と、「元老院議員から構成される15名の副官、ポンペイウスが望む限りの予算を与える
。」という内容であった。とされる。これは、実際には、勝手なローマの権限によって
ガビニウスと言う地位を持った遠征軍に、権限と予算を際限なく与える。と言うパクス
・ロマーナの先駆けたる物だった。ローマ市民に、このパックス・ロマーナの意志であ
る「ローマによる平和」を意味し、多くの戦争や領土拡大、反乱などにもかかわらずに
省12
34: 2024/04/07(日)04:29 ID:Ou2ks9y6o(2/4) AAS
 閑話休題x   033

 その後、忘れ形見の子ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス・ウェルスも、マルク
ス・アウレリウス・アントニヌスと共に共同皇帝となって統治し、アントニウスに毒殺
されたのか 急死する。葬儀に至り、ディウス・ウェルス(神君ウェルス)の、称号を
貰い、死後に神となった。ウェルスはローマでも享楽的な生活で、友人を集めた夜通し
の宴会や戦車競走に熱中していた。常々マルクス・アウレリウスはこれに苦言していた
が、168年春 マルコマンニ戦争にパンノニア遠征をする。ドナウ川添いに、ゲルマン系
の、アラマンニ族とマルコマンニ族が来襲しウェルスはこれを迎え撃つために出陣した
。マルコマンニ戦争は180年まで続いた。169年1月、ウェルスとマルクス・アウレリウ
スが冬を避けて、戦場からローマに帰還する道中、ウェルスは食中毒で数日後死亡した
省13
35: 2024/04/07(日)04:30 ID:Ou2ks9y6o(3/4) AAS
 閑話休題x   034

 しかし、皇帝マルクス・アウレリウスの人生と治世に関する資料は、信憑性の薄い物
が多い。主要な情報源とされる「ローマ皇帝群像」などは多くの問題を持った資料で、
引用する資料価値は低いというより無いに等しい。マルクス・アウレリウス・アントニ
ヌスこと、マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルスは、貴族マルクス・アン
ニウス・ウェルス3世の子としてローマに生まれた。と言う。自出については、父方の
一族であるウェルス家は、属州ヒスパニア・バエティカのコルドバに領主で、1世紀頃
からローマ中央でも知られた存在にまで台頭し始めた。と言う。曽祖父アンニウス・ウ
ェルス1世が元老院議員として議席を与えられ、祖父のウェルス2世の代で貴族に列さ
れた。その後アンニウス・ウェルス3世はドミティア・ルキッラと結婚してカティリウ
省12
36: 2024/04/07(日)04:30 ID:Ou2ks9y6o(4/4) AAS
 閑話休題x   035

 当然ながらかつて元老院が認めた、軍政の全権護民官(ガビニウス)は覇権を争って
、一種の理想的な共和政体を概念としての共和国は、ローマ時代も現代も、開発暴力の
上の資源に頼っている。ので、それを強化する必要に迫られて、軍事の強大を狙ったが
、それに対して、それでも有限体なので、贅沢で豪奢な生活者には窮屈でも、綿々と、
伝統の上の子孫と繁栄の国造りの元老院には、杞憂の元であった。特に海外は遠かった
。情報も文化も、言語や習慣も違う国に、戦争でなくても乗り入れる事すら憚られた。
本国での共和政ローマは、グラックス兄弟による一連の改革に始まって、ガイウス・マ
リウスやルキウス・コルネリウス・スッラらによる支配が出来るに及んで、ポプラレス
(平民派)と、オプティマテス(閥族派、元老院派)の争いが、熾烈になるなどした。
省12
37: 2024/04/07(日)12:34 ID:j1CN2MH+u(1) AAS
 閑話休題x   035

 当然ながらかつて元老院が認めた、軍政の全権護民官(ガビニウス)と覇権を争って
いた。一種の理想的な共和政体を概念を持った政府は、ローマ時代でも現代でも、開発
暴力の上の、天然資源に頼っていた。その搾取不足で軍事強化の必要に迫られていたが
、それに対して、それでも有限資源なので、贅沢で豪奢な生活者には窮屈でも、綿々と
、伝統的生活で子孫繁栄の国造りを残すべきだと元老院は対峙した。他国への干渉には
、杞憂があった。砲艦外交はもとより、占領略奪、奴隷や難民の移住など 海外は遠く
情報や文化も、言語や習慣も違う国に、戦争でなくても 乗り入れる事すら憚られた。
本国での共和政ローマは、グラックス兄弟による一連の改革に始まって、ガイウス・マ
リウスやルキウス・コルネリウス・スッラらによる支配が出来るに及んで、ポプラレス
省13
38: 2024/04/10(水)09:06 ID:UnfWmRqOG(1/4) AAS
 閑話休題x   036

 ここで元老院のポンペイウス派は、カエサルの、ガリア総督としての任期切れ後に
コンスルに立候補する意向であることを知り、阻止に働きかける。カエサルから軍隊を
引き離すことを模索し、紀元前50年12月に、ポンペイウスもが軍隊を解散させるならば
自分(カエサル)も軍隊を手放す。と元老院に伝書を送ったが、元老院はカエサルが
不法に軍を維持するのならば「国家の敵とする。」と、議員一致で宣告したのである。
まあ、今のトランプ大統領と米国議会のようなものだが、裏に軍隊がいる司令官の地位
だから、血なまぐさい。カエサルの幕僚であるマルクス・アントニウス及びクィントゥ
ス・カシウス・ロンギヌスは友人だったが、カエサルから「応じられない」とする意向
が元老院へ送られてきた。元老院はこれを拒否し、ここで、思想対立の権力闘争から、
省13
39: 2024/04/10(水)09:07 ID:UnfWmRqOG(2/4) AAS
 閑話休題x   037

 なお、この際にカエサルはalea iacta est(賽は投げられた)と言った。とされる。
又後世に於いての、「ルビコン川を渡る。」とは、引き返せない危険に入る、という事
の意味になった。彼の言った、スキピオ・アフリカヌス(救国の英雄)の事を少し語れ
ば、ポエニ戦争時の時の英雄である。当時は、エブロ川以西のヒスパニアは、完全に、
カルタゴの支配下にあり、ハンニバルの弟のハスドルバル・バルカと、ハスドルバル・
ギスコとがここを統治していた。ギリシャ・ローマには、多くの国民がいたが、平野が
少なく農作物は獲れない秋吉台のような半島大地である。オリーブの実を油にして交易
し、他国の小麦粉と魚を食糧にしていた。その食糧を供給には海上輸送。つまり、船の
運行が欠かせない。その安全を脅かす地位に、カルタゴがいた。アフリカのベルベル人
省12
40: 2024/04/10(水)09:07 ID:UnfWmRqOG(3/4) AAS
 閑話休題x   038

 紀元前3世紀も前に、100年以上に渡って 大きな戦争が、三度も交わされていたのだ
。ローマ対カルタゴの、この大戦争がポエニ戦争で、すでに火蓋が切って落とされてい
た。カルタゴは名将と称賛されるハミルカル・バルカ、ハンニバル・バルカ父子の活躍
によって、ローマを苦しめている、最後には力尽き、ローマによってカルタゴ市民は、
虐殺され、市街は徹底的に破壊された。現在の、カルタゴ遺跡はユリウス・カエサルが
再建したローマ領カルタゴが大半である。フェニキア時代の中心であったビュルサの丘
の復元図にも描かれていた、軍港・商業港の跡や墓標が並ぶ聖地トフェ等など、遺跡で
しか、フェニキア時代のカルタゴの姿を語り継ぐものはない。が、遺構でその偉大さが
偲ばれるので、観光客もやって来ている。そうした中で、英雄スキピオ・アフリカヌス
省14
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