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336: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/08/14(水) 19:52:51.72 ID:EaoD96WkJ 中立のリアル・・・・・・・235 夜叉女神であった荼枳尼天(だきにてん)は扱いを間違えると、災禍がもたらされ、 命も獲られると考えられていた。したがって、これは外法として考えられて、忌まれる 信仰でもあった。元々インドにおいての、ダーキニー天は、ジャッカルにまたがる神と されて日本にはジャッカルは居ない為代わりに狐を当てた。又「怨みの藁人形」風習も 、実は、この荼枳尼天から来ている。不思議なのは、西洋神話との親和性である。広く 行われていたディオニューソスを祀るカルト儀式と、この祭祀の様に、死体を枕にかが り火の傍で「はめをはずした。」陶酔的礼拝の形態の祭りが、ディオニュソス祭りとし て、西洋の各所で行われた。ギリシア神話12神の1柱で、豊穣とブドウ酒と酩酊の神 である。とりわけゼウスとテーバイの王女セメレーの子で、その起源については、本来 インド神話のソーマと同一神だったともされる。トラキアないしプリュギア、または、 リューディアから伝わった外来神とも言われている。つまり、男の酔っぱらい陶酔神で 、名前について「ディオ」はゼウスの別名「神」で属格形で男根を意味し、「ニューソ ス」の意味は{出入りする物=精子」とされる。非ギリシア語起源とする説で、世界の 中心軸を含意する「世界樹」を意味する「ニューサ」から来ている。とする説もある。 インドでは、厳かに行われた儀式は、西洋では酒を振る舞う賑やかな、混合性交の祭り になり、中国や日本に伝わった時は、中国で九尾の狐になり、の記述の古い例には、『 山海経』(南山経)で霊獣の九尾狐(きゅうびこ)や九尾狸(きゅうびこり)に乗る女 神となって挙げられる。「(青丘山には)獣がいる。外形は狐のようで、尾は九本。鳴 き声は嬰児のようで、よく人を食う。(この獣を)食べた者は蠱毒(あるいは邪気)を 退ける」という記述がある。『山海経』では、他に海外東経・大荒東経に名称の記述が ある。人を食べるという箇所があるが、霊験として辟邪の要素を付与されており、瑞獣 として扱われていることが見てとれる。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/336
337: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/08/14(水) 20:40:43.10 ID:EaoD96WkJ 中立のリアル・・・・・・・236 「ニューソース」=「出入りする物=精子」=魂・生命という観念は男根神話で語られ る。『白虎通』は、時の皇帝の徳が良いと世の中に現われる瑞獣の一つとして記されて いる。武王が主役の物語『武王軍談』、あるいは『封神演義』の小説、その源流となっ た元の時代の『武王伐紂平話』、明の時代の『春秋列国志伝』などでは、殷王朝を傾け たとされた、美女・妲己姫(だっきひめ)の正体が、九尾の狐(九尾狐、九尾狐狸)で あるとされて、悪女妲己が、帝辛(紂王)の妃として殷王朝末期(紀元前11世紀ごろ) の王朝を滅亡させた女王として、これらの物語の下地とした書物で記述が、後の時代に 、漢文圏で広く知られるようになって、いわば常識とされる。帝辛に寵愛され、悪女の 末喜(ばっき)などと共に悪女の代名詞的存在として扱われる。史料である『史記』の 殷本紀は、「妲己(だっき)は、帝辛(ていしん)に寵愛(ちょうあい)されて、帝辛 は彼女のいうことなら何でも聞いた。師涓(しけん)に新淫の声(性交の喘ぎ)・北鄙 の舞(退廃的な死ぬまで踊り続ける舞=剣に囲まれた舞=鬼剣舞)・靡靡の楽(単調な 、永遠の曲)を、作らせた。賦税を厚くして鹿台(個人の礼拝の城=中国建築物。別名 南単台/南單台=箪笥代わりの城)に銭を蓄え、鉅橋(きょきょう=青銅の貯蔵倉庫) に粟(ぞく)を満たし、狗馬・奇物(くば・きぶつ)を収めて 宮室いっぱいにした。 沙丘の苑台(しかだい)を拡張して、野獣蜚鳥をその中に置いた。鬼神をあなどり沙丘 に 大勢の者を集めて楽しみ戯(たわむ)れた。酒をそそいで池とし、肉を掛けて林と し(酒池肉林)、男女を裸にして互いに追いかけさせ、長夜の飲をなした。」と書かれ る。すなわち九尾狐(夜干)に乗るダキニ天の像というのは、インドには存在せずに、 胎蔵曼荼羅や、正当な密教経典・儀記には記されない姿である。中世の中国などで生み 出された姿・理想像であり、酒池肉林の象徴であった。とも言える。中国人の欲深さや 悪辣な集団権力の行使に、留まるところ知らずの物語で、興味尽きない武王は、妊婦の 腹を割いて、胎児を見て喜んだ。ともされる非情さであったようだ。そもそも中国人は 人が多い事は嫌いで、一人っ子政策までやる。堕生の徒の国だった訳だ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/337
338: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/08/19(月) 13:32:40.58 ID:8ZtgeViJb 中立のリアル・・・・・・・237 日本の仏教歴史において、この荼枳尼天は、非常に都合の良い仏であった。女装であ りながら男神で、神仏混合時に、伊弉諾尊や天照大御神は、破壊神や死者の使いにも、 その三倍も四倍も、産んで育てて、子孫繁栄させる。と、誓っているからだ。つまりは 、子供を産む行為と、産む為の性交は、子孫繁栄の絶対正義の世界、と言うのが、大和 朝廷が、築いていた文化だったからだ。中期の、密教文化では、戦国時代に、大日如来 (毘盧遮那仏:るしゃなぶつ)の化身であるとし、大黒天によって調伏された、死者の 心臓であれば食べることを許可された。という説話は、恐らくは地獄の門の門番だった 閻魔大王の説話を真似たものであろう。この大黒=使われた陰部=男根とみられている 男根信仰は、災害の多い日本では、非常に大事な、村の維持に欠かせないハーレム社会 の一軸でもあった。山では熊や狼が出現するし、海辺の村では、海の向こうからの海賊 に度々襲われる日本列島で、人口を増やすには、限りがあった。幸いにして、野草が茂 り、海や川の魚が居て、食糧は自給できたが、毎年やって来る台風災害、洪水や山崩れ 、更に冬の寒さと夏の暑さの疲労感は、大きなもので、更に火山の噴火や地震や火事と 言った災害では、一挙に村を廃屋廃村にする威力を持っていた。これらは、日本のみな らず、古代人の世界では大きな恐怖であったのだ。否、古代人のみならず、現代に於い ても、「産めよ増やせよ皇民を」と言うのは、戦前の世界のみならず、世界中の国の、 指針でもある。言葉や常識、或いは文化や生活習慣の同じ者らで、国や郷里を守って、 生活を安定させる。と言うのは、実は政治形態の重要な要素であって、特に税収に頼る 中央政府や、或いは布施や喜捨に頼る宗教団体には、どこの国でも 尤もな重要課題で あったのだ。特に日本の戦国時代や、西洋世界の古代から続く領土拡大と権威拡大には 、土地と共に人=住民=兵士の拡大は、とても大きな存在だった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/338
339: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/08/19(月) 13:33:40.07 ID:8ZtgeViJb 中立のリアル・・・・・・・238 大黒天物語は尸林で荼枳尼を召集し、降三世の法門によってこれを降伏し仏道に帰依 させた。としているが尸林(しりん)とは墓場の事である。そしてそれは普通の墓場で なく処刑場なのである。屍を屠る、三途河の傍、と言う事になる。魑魅魍魎が跋扈する 塞の河原、石の河岸である。此処に巫女や斎女がいた事になる。降三世の法門とは明王 の事で、実は、仏教は、如来・菩薩・観音と言う区分けがある。先ずそこには天地人と 言う世界の区分けである、いずれも霊魂の世界の話で天界でも魂を救う神が如来であり 、如来になる修行者が、地界人界を交差するのが観音である。この観音になるべく選ば れた魂の人がが菩薩と言う訳である。観世音とは「観た世を伝う者」で、基本地獄の王 閻魔宮に行って報告する者なのである。では菩薩とは、ボーディ・サットヴァの音写で あるとされ、菩提薩(ぼだいさった)の略で「菩提=悟りの身体=ボディ」と言う魂の 、「薩=盛り上がり=自然=修行者」の姿である。現世と来世を往復できる如来や観音 と違い、菩薩は人の姿で、悟りの修行者なのだ。これとは別に、全ての世界を司る神座 がある。閻魔の使者の明王である。元々蕃神崇拝として、日本は大陸から渡来人が増え る前の仏教解釈があった。明王とは世界や物事に明るい王であり、荼枳尼天の流行る前 は性欲の神に、愛染明王がいたし、不動明王と閻魔大王と言う二柱は、最高神であった 。不動明王とは、明るくして動かない。つまり太陽神である。かつての拝火教に於いて 地中から天然ガスによって、燃え尽きない炎を持って信仰とした拝火教(天地教、无教 、陽明道)が存在が山岳宗教として根付いていた。しかし、太古の昔日本は、仏教闘争 が蘇我・物部氏の間にで起こったとされ、その後密教ブームで、元の形に戻そうとした 護摩焚きや法印や、その他の祈り宗派が出来た。実はヒンズー教でも、「シヴァ神」「 ヴィシュヌ神」「ブラフマー神」とは三位一体であり別人とは見ていない。つまり日本 にやって来た仏教は大陸仏教と違って、最高神の不動明王、光の神として鎮座していた のだ。その理由は仏教よりはるかに早く拝火教、(天地教、无教、陽明道)が在った http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/339
340: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/08/31(土) 18:01:12.46 ID:SBqqHAvpk 中立のリアル・・・・・・・239 江戸時代は、今よりもずっと、性に関してオープンな時代であって初体験の年齢が、 10代前半なんて珍しくもなく、「結婚するまで純潔を守って当然」なんていう、お堅い 貞操観念が定着し始めたのは、日本が西洋諸国の文化やキリスト教の教えを積極的に取 り込み出す明治以降の戦後期だ。つまりわりと最近の話である。近年に、性の低年齢化 が嘆かれるようになりましたが、言ってしまえば今に始まったことではない。といった ところである。勿論、良いとこの、お嬢様など 家柄次第という事情もあったようでは あるが、高齢出産が、母体や身体に悪い事が、経験値から知っていたし、一般庶民では 性に関して奔放、貞操を守ることへの意識は、慣習や空気からも薄かった。といわれて いる。まず江戸期に、「処女であること」は全く不利しかなかった。今は、女性の、「 処女であること」がステータスで貞操観念が強くあるが、江戸期は、むしろ沢山の異性 と関係を以て人生を知る。と言う事が哲学的に奨められ、男を熟知している事も大事だ 。という文化・風潮があった。更に、付き合いのデートとセックスはほぼイコールだっ た。女性が男性の声かけ、性行為が簡単に了承され、粗雑な男性は噂され遠ざけられた 。当時の女性たちは、現代女性より、ずっと逞しく、積極的で健康的で、最初から選り 好みして、デートも性交渉も、基本的に主導権を握っていた。と言うのが女性側にあっ た。まあ「弱き助け、強きをくじく」とか「判官びいき」の典型であろう。気に入った 男性を、追いかけまわしてでも、押し倒して事を成す。と言う事も当然あったし、女性 が拒否すれば、男性側はおとなしく諦めなくては ならないし、慣習の夜這いも、いつ でも盗賊として殺される危機はあって、よく調べ、中にはちゃんと親にも告げて夜這い に及ぶことも多かった。まあ、刀をもつ侍もウロウロしてる事情で、みんなが大人びた 節度のある住民でいたから、無事に生きれる。と言う生活である。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/340
341: 紙 [] 2024/09/03(火) 09:52:47.50 ID:qkwt7X1vU 中立のリアル・・・・・・・240 ちなみにこうした性事情は、江戸時代になって 急に始まったことではなくて、戦国 時代前から、ずっと日本に存在していて、男同士や女同士すらも、性交の対象者である 考え方が、存在していたのである。それはそれで、日本では大事な事で、災害の多い、 島嶼国に日本的人種が滅びずに、ここまで多い地震や台風などにめげずに、国が創れ、 続いて来た。と言うのもそのせいであろう。人の磨倶合い=性交は、712年の古事記や 720年日本書紀 などにも日本の起源として書かれている。日本神話では、最初は天と地 しか存在しなかった。混乱と空白が、混ざって不明瞭な形作っていた世界。つまり混沌 とした中で空は晴れて、天界に3人の創造神(三柱神)が現れた。天が空間から作られ たように、惑星や銀河も形作られた。とする地は、既に何千もの神を生み出しこの世に 暮らしていた。とされる。此の時の三柱神は、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナ ミ)の2人の神を、地上に送る事に決めてこの2人の神をその上に降りたたせた。その 後に、他の神や日本を島々を創った。とされる。イザナミは、我が子火の神を生む時に 、死んでしまい、イザナミの体は、魂と共に下界へと運ばれた。イザナギは、イザナミ を慕い、死の世界へと訪れる。が、そこで、イザナミの腐敗した身体を見てしまうので ある。イザナギは気分を害し、下界の鬼やイザナミから追われながら、そこを逃げ去り 「汚れ」を除去するために、体を水に入り清めるのだった。いわゆる禊(みそぎ)の行 (ぎょう)である。その間に、イザナギの左目から天照大御神(アマテラス)、右目から 月夜見尊(ツキヨミ)、鼻から素戔嗚尊(スサノオ)が誕生した。とされる。このいわゆる 太陽神であるアマテラスは、月の神のツキヨミと共に、その後天界の王に任命される。 そのうちに、嵐の神であるスサノオが、アマテラスを訪れるが、スサノオは酒を飲み過 ぎて、田んぼや柵を壊して、糞便(ふんべん)をアマテラスの織物部屋に投げ入れる。 などして悪行を行っているのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/341
342: 紙 [] 2024/09/03(火) 09:53:44.00 ID:qkwt7X1vU 中立のリアル・・・・・・・241 アマテラスは、恐怖と悲しみのあまり洞窟に逃げ隠れるが、それが、世界から光が奪 われ、多数の神々が集まり、アマテラスを外に出そうと、宝石を渡したり、踊りを見せ たり、自身の美しさを見ることができる鏡を作ったりした。アマテラスは、宝石と鏡を 、取りに出た瞬間、他の神々はアマテラスが 洞窟に戻らないように 綱を張り手力神 が石の扉を取り上げた。その後スサノオは罰として、髪を切り、ヒゲとツメを抜かれる 。髭剃りとは宗派団体の破門であり「詰腹=切腹」を意味した。また、スサノオは姉の アマテラスに剣を渡して下野した。「剣の移譲」すなわち権力移譲である。アマテラス は瓊瓊杵尊(ニニギ)を産み、ニニギは、日本に送られて統治する。この、瓊瓊杵尊(に にぎのみこと)が治めた土地が、ニホンと言う事になる。つまり、ニニギの本領と言う 意味になる。こうなると、これらを指令した高天原(たかまがはら)は国外にある事に なる。ニニギは、アマテラスの祈りと、ニニギ自身の権限を証明するための「剣、鏡、 玉、」と言った三種の神器が与えられて、王位又は皇位を持って治世を行った。ニニギ の子の 一人である、神武天皇は、アマテラスの子孫が、天の下にあるもの全てを統治 すべきと主張した。神武は、三種の神器を持ち 皇位継承者として、朝廷の篤臣として 東に進撃する。神武はその後、日本の国をベースとして、全体を制圧し紀元前660年2月 11日に、日本の最初に、天皇と言う席についた。この初代天皇からの血統が、今の天皇 家まで続いているとされている。この神武天皇の存在については、歴史的に照明されて いない。この明確とは言い切れないものの歴史的に存在したとされる。その後文書等で 証明されている最初の天皇は、これから10代目の崇神(すじん)天皇である。日本の歴史 書では15代目の応神天皇(346〜395)が大和王朝の創始者であるとされる。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/342
343: 紙 [] 2024/09/03(火) 10:21:42.18 ID:qkwt7X1vU 中立のリアル・・・・・・・242 この哀れな黄泉(ヨミ)の国の死者のムクロの様になったイザナミが、ヤツデやクモ の手と共に追いかけられ、イザナギはこの黄泉の国を逃げて、黄泉比良坂(よもつひら さか)で、葡萄を投げて蔓が伸び、竹を投げては筍が出来 桃の木があらば桃を投げつ け、ほうほうの呈で逃げおおせて、言い合いをする。イザナギはすかさず 夫婦離縁の 呪文とされる「事戸(ことど)」を発すると、それに激怒したイザナミは「あなたが、 そのような事をするのであれば、あなたの国の人々を1日1000人絞め殺してやる!」と 、恐ろしい言葉をイザナギに投げつけ、言葉を受けたイザナギは「それならば私は1日 1500の産屋(うぶや:あかちゃん)を建てる!」と応戦した。・・・と言うのが日本の 神話のあらましなのだが、此処に中立のリアルがある。つまり一つはスサノオノミコト の間違いである。姉と弟の関係の、ちゃんと土地も下界と上界(恐らくは平野と山)に 分れて、山の平和な村を出て、帰ってくる。が、思い違いで敵対し、その時でも同じよ うにスサノウは「村人を毎年百人殺してくれよう。」と言えば、アマテラスオオミカミ は、「それなら私は二百人も三百人も産んで育てる。」と言い返すのであるが、日本の 土地に於いて、死んでいく勇士や偉人が居るなら、その倍も三倍も産み育てる。という は、自然界の掟にみえる。我々は百獣の王のライオンは、絶対的勇猛な王様に見える。 が、実際にはこうした、ピラミッドの頂点にいる捕食者と言うは、ピラミッド下の底辺 や、従者、ライオンで言えば喰われても良い沢山の集団の個があって成り立っている。 自然淘汰で言えば、一番の絶滅危惧種なのである。仏教説話に於いて、ジャータカに出 てくる飢えたバラモンを救う為に、自ら火に飛び込んだ月の兎や、飢えた虎を救う為に 自らの肉体を捧げた捨身飼虎といった話が出て来る。尊い仏師の為と兎が自らの命を差 し出す話で、これを捨身と言う。としている。思えば日本人が起こした太平洋戦争は、 ほぼ、戦争前からこの「捨身」であり、米国に「解って欲しい我々は『捨身』なんだ。 と、訴えている闘いだったのである。これを判るか判らないかに、大きな違いがある。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/343
344: 紙 [] 2024/09/03(火) 10:22:13.56 ID:qkwt7X1vU 中立のリアル・・・・・・・243 つまり、幸か不幸か日本は、毎年台風が来て 火山の上に地震も起こり災害が多く、 協力し生きる糧を失えば、直ぐにでも廃村になる集落の国であった。こんな国で子供を 産めよ増やせよと言えば、当然夜の生活に自由度を高くするしかない。盆踊りは盆時期 に、子孫一同を集めて、先祖を共同供養する神聖な踊り行事である。とされる。ルーツ は、鎌倉時代に一遍という僧が広めた「踊り念仏」だとも、いわれているが、実は相当 古いもので、古墳時代からあったようだ。踊り念仏では、念仏で救済される喜びを踊り で表現したもの。といい、激しく踊り狂うと言う江戸期の遊びの文化も挿入されている ため、僧や尼の衣服が肌けるシーンも珍しく無かった。一遍はこの踊り念仏を全国各地 で披露し、最終的に日本全国でブームを巻き起こした。とされている。朝から集まって その日の食事を作って氷の室堂に入れ、朝10時頃から踊り出し、夜通しの次の日の1 時の深夜や夜明け頃までも休みなしに踊り続ける、と言った過酷な物であった。とも、 言われる。疲れた者はそれぞれに散っていくが、踊り続けれる若者は、未婚男女を「お 御堂」と呼ばれる場所で、寝る事が出来た。この1箇所(寺の堂)に集めて一夜を共に 出来る通りを御堂筋とされ、茶屋なども置かれて現代の風習に繋がっている。この御堂 は、かなりに体臭で臭く、ここで過ごさせる風習が「雑魚寝堂(ざこねどう)」として 、江戸期に大流行した。この「雑魚寝堂」は、本来、大晦日の晩に行われるものでした が、次第に「盆踊り」と結びつき、同時に開催されるようになった。当時の盆踊りは、 未婚男女の出会いの場として人気を博し、このお御堂を子宝堂とも称した。既婚者の、 一時的な肉体関係でも、未婚の初夜でも、不倫を築ける場としても提供されており、盆 期間に限って男女の出会いの場として、不倫も浮気も容認された。一部の夫婦はパート ナーを交換して性行為をするスワッピングも大いに楽しんだ。とされた。こうした風習 は全国の農山村にまで広まっていた。そして性への大らかさは世界一となっていた。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/344
345: 紙 [] 2024/09/03(火) 10:24:05.92 ID:qkwt7X1vU 中立のリアル・・・・・・・244 盆踊りは、女性の参加できる裸祭りの形態で、古来より続く日本文化であった。冬や 秋の裸祭りの、最初に位置された祭りで、その後に体力のいる豊穣の実りから、春の御 田植え祭が続くので、ある意味婚姻の品定め、田舎の嫁選びの祭りでもあったのである 。現在では踊りのみの伝統となって、「阿波踊り(徳島)や「郡上踊り(岐阜)」など 、地方の地域性に合わせて進化したものあり、例年賑わいをみせている。明治の旅行記 には、日本は奇妙な国として紹介される。日本の温泉や公衆浴場は江戸時代まで基本的 には、混浴であったからだ。1853年に来日したペリーなどは、この日本人の習慣に驚き 、自国に提出した報告書に以下のように記した。「人々は皆非常に礼儀正しく控えめで ある民族である。しかし、驚くべき習慣を持っている。ある公衆浴場での光景なのだが 、男女が無分別に入り乱れて、互いに気にしないでいる。」(後略)と浴場性交をも、 感激している。また、ペリーはほかにも、当時の氾濫していた猥褻本に対して、「人が 汚らわしく堕落したことを示す恥ずべき烙印である」と記した。「性に関してシャイな 日本人像」はそこにはなく、決して古来からのものではなかった。「万葉集」や「源氏 物語」に書かれているように、奈良時代や平安時代の、貴族の恋愛や性行動からは、か なり奔放であった伝統文化だったのだ。また、日本には太古の昔より、混浴文化があり 、鎌倉時代の温泉には、温泉客相手に性的サービスも行う「湯女」もいた。当時の湯屋 は、基本的にサウナで冷水の風呂であった。日の落ちた公衆浴場は「性の社交場」でも あって、日本は「夜這い」の文化もあり、女性の方から、男性にいつでも来てねと誘い をかける「妻問い」という文化であったので、この湯屋で身体を綺麗にして、女性宅や 遊女屋に出入りし、飯や酒を飲むと言う事が日常だったようだ。この夜這い文化の発祥 は、奈良時代以降「歌垣」という一堂に集った男女が、歌を詠みあった後に、気に入っ たペアでフリーセックスを行う催しが全国的に盛んであった。やはり、ここでも、既婚 や未婚というのは、あまり関係なく、気が合うか合わないかの間柄である。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/345
346: 紙 [] 2024/09/03(火) 14:09:48.05 ID:qkwt7X1vU 中立のリアル・・・・・・・245 盆踊りや衆堂会の、フリー性交は、大昔からあった日本人の、風習である。海外での 女性蔑視や選民思想と違い、日本人は神話での、八百神(やおろずのかみ)が力合わせ て、たった一人の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)と言う塞ぎ込む女神を、 助けようと集まり、色んなお祭り騒ぎを起こす。相撲を取り、踊りをし、酒を振る舞い 太鼓を叩いて歌を歌う。それは、チョウチンアンコウが小魚を集める光の様にうるさく しつこく、辛抱して、連日連夜行って、やっとそっと見てみようと言う引きこもり女神 が覗いて来るのを待って、天手力雄神(あまのたじからおう)の力で、岩戸の扉を開け たままにさせ、采女(うねめ)達によって引きずり出されて、神々の頂点になるのであ る。この神話に添って、日本人は「和を以て貴しとなす」とするのが天皇であり、人は 助け合って、一人の落ちこぼれもなく活きる生活者にする。と言う思想が、ほぼ完成し 伝統的祭りが綿々と受け継がれて来た。盆踊りも乱交パーティもその意味で、参加要件 は、参加したい意志のみで分かれるもので、何ら差別しない。既婚者も参加でき、人妻 も含めた女性も、積極的に参加している。江戸時代には、日本人の性文化は、比較的に おおらかであり、井原西鶴が、好色物語を書き、春画や遊廓など性産業も隆盛を極めた 。俳人の小林一茶は、日記に、毎日何回性交をしたかを記している。が、一茶は晩年に なっても 毎日のようにセックスをしていたことが分かっている。こうした事実から、 日本人は伝統的にはセックスに寛容で楽しんでいた民族だとも言われる。驚くべき事に 例えば性の緻密画、つまり性交画は、公に発行され、春画として浮世絵の一種として、 公然と扱われた。笑い絵や枕絵、秘画、ワ印とされ冊子状のものは笑本、艶本、好色本 、枕草紙とも言った。それほど露骨な描写でない絵は危絵(あぶなえ)とも呼ばれたが 土佐派や狩野派などの芸術的浮世絵師も、実はこうした春画の時期を得て、版元の後見 を得ていたのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/346
347: 紙 [] 2024/09/03(火) 14:10:34.96 ID:qkwt7X1vU 中立のリアル・・・・・・・246 江戸以前の性事情での、夫婦生活では「見られても、聞こえても 気にしない!」と いう鉄則があって、実に豪貴なものであった。一般庶民が暮らした住まいは長屋が多く 、長屋の壁は、薄くて声も姿も容易に認められた。従ってセックスの際の声や音が筒抜 けだった。とされる。勿論、そうなればプライバシーなどと言う物は無い。性生活にも 大変か。と思いきや隣や外に、声が漏れてしまったり誰かに覗かれても、別に平気な物 が夫婦であり、そう四六時中やれる体力は、昼の仕事や食の細さで無かったのである。 その傾向は、主に結婚してそれなりの年月が経った夫婦には、よくみられた。まだ若い 新婚夫婦だと、さすがに他人の目があるのは少し恥ずかしかったようですが、隣から聞 こえた声に触発されて、我慢できずに始めてしまうのは日常茶飯事でした。江戸時代の 性事情・夫婦生活編は、妻や夫の浮気は、当たり前に行われていた。一応江戸時代には 、「不倫は死刑、不倫された側は、配偶者や不倫相手を殺めてしまっても不問。」とい うような厳しい法(不義密通)があった。が、にもかかわらず、不倫自体が当たり前の ように行われていたのは、火事も多くそうした不義密通を処罰して、火でもつけられて は、街が立ち行かないからだ。庶民は夜回りもあったし、夜店も出した。女性も男性も 性欲を貯めずに暮らし、生きる術があって、女性が案外気楽に暮らしていた。というの が江戸時代であった。女性の働き口はほとんどなく、今でいう専業主婦が大多数であり 。男の働く姿も、殆ど半裸であり、乳飲み子には、堂々と処構わず飲み放題にしていて 、夏場は女でも半裸で過ごしていたのだ。今ほど家事も忙しくはなく、なので、旦那の 留守中にその辺を歩いている男を引っ張り込み、ナンパについていったり、なんていう ことはよくある事だったので、参勤交代の武士でも、快く双方が快諾しての単身赴任で あったのだ。そして、旦那の方はそれが分かっていても、好きで結婚した妻が罪に問わ れるのは嫌で、知らないふりで、夫婦生活を続けるパターンが多かったのだ。大体混浴 で男の前で 竿の長さ比べ、貝の品評会、など催していたのだから。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/347
348: 紙 [] 2024/09/03(火) 15:16:53.96 ID:qkwt7X1vU 中立のリアル・・・・・・・242 この哀れな黄泉(ヨミ)の国の死者のムクロの様になったイザナミが、ヤツデやクモ の手と共に追いかけられ、イザナギはこの黄泉の国を逃げて、黄泉比良坂(よもつひら さか)で、葡萄を投げて蔓が伸び、竹を投げては筍が出来 桃の木があらば桃を投げつ け、ほうほうの呈で逃げおおせて、言い合いをする。イザナギはすかさず 夫婦離縁の 呪文とされる「事戸(ことど)」を発すると、それに激怒したイザナミは「あなたが、 そのような事をするのであれば、あなたの国の人々を1日1000人絞め殺してやる!」と 、恐ろしい言葉をイザナギに投げつけ、言葉を受けたイザナギは「それならば私は1日 1500の産屋(うぶや:あかちゃん)を建てる!」と応戦した。・・・と言うのが日本の 神話のあらましなのだが、此処に中立のリアルがある。つまり一つはスサノオノミコト の間違いである。姉と弟の関係の、ちゃんと土地も下界と上界(恐らくは平野と山)に 分れて、山の平和な村を出て、帰ってくる。が、思い違いで敵対し、その時でも同じよ うにスサノウは「村人を毎年百人殺してくれよう。」と言えば、アマテラスオオミカミ は、「それなら私は二百人も三百人も産んで育てる。」と言い返すのであるが、日本の 土地に於いて、死んでいく勇士や偉人が居るなら、その倍も三倍も産み育てる。という は、自然界の掟にみえる。我々は百獣の王のライオンは、絶対的勇猛な王様に見える。 が、実際にはこうした、ピラミッドの頂点にいる捕食者と言うは、ピラミッド下の底辺 や、従者、ライオンで言えば喰われても良い沢山の集団の個があって成り立っている。 自然淘汰で言えば、一番の絶滅危惧種なのである。仏教説話に於いて、ジャータカに出 てくる飢えたバラモンを救う為に、自ら火に飛び込んだ月の兎や、飢えた虎を救う為に 自らの肉体を捧げた捨身飼虎といった話が出て来る。尊い仏師の為と兎が自らの命を差 し出す話で、これを捨身と言う。としている。思えば日本人が起こした太平洋戦争は、 ほぼ、戦争前からこの「捨身」であり、米国に「解って欲しい我々は『捨身』なんだ。 と、訴えている闘いだったのである。これを判るか判らないかに、大きな違いがある。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/348
349: 紙 [] 2024/09/03(火) 15:17:24.53 ID:qkwt7X1vU 中立のリアル・・・・・・・243 つまり、幸か不幸か日本は、毎年台風が来て 火山の上に地震も起こり災害が多く、 協力し生きる糧を失えば、直ぐにでも廃村になる集落の国であった。こんな国で子供を 産めよ増やせよと言えば、当然夜の生活に自由度を高くするしかない。盆踊りは盆時期 に、子孫一同を集めて、先祖を共同供養する神聖な踊り行事である。とされる。ルーツ は、鎌倉時代に一遍という僧が広めた「踊り念仏」だとも、いわれているが、実は相当 古いもので、古墳時代からあったようだ。踊り念仏では、念仏で救済される喜びを踊り で表現したもの。といい、激しく踊り狂うと言う江戸期の遊びの文化も挿入されている ため、僧や尼の衣服が肌けるシーンも珍しく無かった。一遍はこの踊り念仏を全国各地 で披露し、最終的に日本全国でブームを巻き起こした。とされている。朝から集まって その日の食事を作って氷の室堂に入れ、朝10時頃から踊り出し、夜通しの次の日の1 時の深夜や夜明け頃までも休みなしに踊り続ける、と言った過酷な物であった。とも、 言われる。疲れた者はそれぞれに散っていくが、踊り続けれる若者は、未婚男女を「お 御堂」と呼ばれる場所で、寝る事が出来た。この1箇所(寺の堂)に集めて一夜を共に 出来る通りを御堂筋とされ、茶屋なども置かれて現代の風習に繋がっている。この御堂 は、かなりに体臭で臭く、ここで過ごさせる風習が「雑魚寝堂(ざこねどう)」として 、江戸期に大流行した。この「雑魚寝堂」は、本来、大晦日の晩に行われるものでした が、次第に「盆踊り」と結びつき、同時に開催されるようになった。当時の盆踊りは、 未婚男女の出会いの場として人気を博し、このお御堂を子宝堂とも称した。既婚者の、 一時的な肉体関係でも、未婚の初夜でも、不倫を築ける場としても提供されており、盆 期間に限って男女の出会いの場として、不倫も浮気も容認された。一部の夫婦はパート ナーを交換して性行為をするスワッピングも大いに楽しんだ。とされた。こうした風習 は全国の農山村にまで広まっていた。そして性への大らかさは世界一となっていた。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/349
350: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/03(火) 22:57:34.22 ID:g9+E3Yo7E 中立のリアル・・・・・・・244 盆踊りは、女性の参加できる裸祭りの形態で、古来より続く日本文化であった。冬や 秋の裸祭りの、最初に位置された祭りで、その後に体力のいる豊穣の実りから、春の御 田植え祭が続くので、ある意味婚姻の品定め、田舎の嫁選びの祭りでもあったのである 。現在では踊りのみの伝統となって、「阿波踊り(徳島)や「郡上踊り(岐阜)」など 、地方の地域性に合わせて進化したものあり、例年賑わいをみせている。明治の旅行記 には、日本は奇妙な国として紹介される。日本の温泉や公衆浴場は江戸時代まで基本的 には、混浴であったからだ。1853年に来日したペリーなどは、この日本人の習慣に驚き 、自国に提出した報告書に以下のように記した。「人々は皆非常に礼儀正しく控えめで ある民族である。しかし、驚くべき習慣を持っている。ある公衆浴場での光景なのだが 、男女が無分別に入り乱れて、互いに気にしないでいる。」(後略)と浴場性交をも、 感激している。また、ペリーはほかにも、当時の氾濫していた猥褻本に対して、「人が 汚らわしく堕落したことを示す恥ずべき烙印である」と記した。「性に関してシャイな 日本人像」はそこにはなく、決して古来からのものではなかった。「万葉集」や「源氏 物語」に書かれているように、奈良時代や平安時代の、貴族の恋愛や性行動からは、か なり奔放であった伝統文化だったのだ。また、日本には太古の昔より、混浴文化があり 、鎌倉時代の温泉には、温泉客相手に性的サービスも行う「湯女」もいた。当時の湯屋 は、基本的にサウナで冷水の風呂であった。日の落ちた公衆浴場は「性の社交場」でも あって、日本は「夜這い」の文化もあり、女性の方から、男性にいつでも来てねと誘い をかける「妻問い」という文化であったので、この湯屋で身体を綺麗にして、女性宅や 遊女屋に出入りし、飯や酒を飲むと言う事が日常だったようだ。この夜這い文化の発祥 は、奈良時代以降「歌垣」という一堂に集った男女が、歌を詠みあった後に、気に入っ たペアでフリーセックスを行う催しが全国的に盛んであった。やはり、ここでも、既婚 や未婚というのは、あまり関係なく、気が合うか合わないかの間柄である。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/350
351: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/03(火) 22:59:50.42 ID:g9+E3Yo7E 中立のリアル・・・・・・・245 盆踊り雑魚寝堂の、フリー性交は、大昔からあった日本人の、風習である。海外での 女性蔑視や選民思想と違い、日本人は神話での、八百神(やおろずのかみ)が力合わせ て、たった一人の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)と言う塞ぎ込む女神を、 助けようと集まり、色んなお祭り騒ぎを起こす。相撲を取り、踊りをし、酒を振る舞い 太鼓を叩いて歌を歌う。それは、チョウチンアンコウが小魚を集める光の様にうるさく しつこく、辛抱して、連日連夜行って、やっとそっと見てみようと言う引きこもり女神 が覗いて来るのを待って、天手力雄神(あまのたじからおう)の力で、岩戸の扉を開け たままにさせ、采女(うねめ)達によって引きずり出されて、神々の頂点になるのであ る。この神話に添って、日本人は「和を以て貴しとなす」とするのが天皇であり、人は 助け合って、一人の落ちこぼれもなく活きる生活者にする。と言う思想が、ほぼ完成し 伝統的祭りが綿々と受け継がれて来た。盆踊りも乱交パーティもその意味で、参加要件 は、参加したい意志のみで分かれるもので、何ら差別しない。既婚者も参加でき、人妻 も含めた女性も、積極的に参加している。江戸時代には、日本人の性文化は、比較的に おおらかであり、井原西鶴が、好色物語を書き、春画や遊廓など性産業も隆盛を極めた 。俳人の小林一茶は、日記に、毎日何回性交をしたかを記している。が、一茶は晩年に なっても 毎日のようにセックスをしていたことが分かっている。こうした事実から、 日本人は伝統的にはセックスに寛容で楽しんでいた民族だとも言われる。驚くべき事に 例えば性の緻密画、つまり性交画は、公に発行され、春画として浮世絵の一種として、 公然と扱われた。笑い絵や枕絵、秘画、ワ印とされ冊子状のものは笑本、艶本、好色本 、枕草紙とも言った。それほど露骨な描写でない絵は危絵(あぶなえ)とも呼ばれたが 土佐派や狩野派などの芸術的浮世絵師も、実はこうした春画の時期を得て、版元の後見 を得ていたのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/351
352: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/03(火) 23:00:42.93 ID:g9+E3Yo7E 中立のリアル・・・・・・・246 江戸以前の性事情での、夫婦生活では「見られても、聞こえても 気にしない!」と いう鉄則があって、実に豪貴なものであった。一般庶民が暮らした住まいは長屋が多く 、長屋の壁は、薄くて声も姿も容易に認められた。従ってセックスの際の声や音が筒抜 けだった。とされる。勿論、そうなればプライバシーなどと言う物は無い。性生活にも 大変か。と思いきや隣や外に、声が漏れてしまったり誰かに覗かれても、別に平気な物 が夫婦であり、そう四六時中やれる体力は、昼の仕事や食の細さで無かったのである。 その傾向は、主に結婚してそれなりの年月が経った夫婦には、よくみられた。まだ若い 新婚夫婦だと、さすがに他人の目があるのは少し恥ずかしかったようですが、隣から聞 こえた声に触発されて、我慢できずに始めてしまうのは日常茶飯事でした。江戸時代の 性事情・夫婦生活編は、妻や夫の浮気は、当たり前に行われていた。一応江戸時代には 、「不倫は死刑、不倫された側は、配偶者や不倫相手を殺めてしまっても不問。」とい うような厳しい法(不義密通)があった。が、にもかかわらず、不倫自体が当たり前の ように行われていたのは、火事も多くそうした不義密通を処罰して、火でもつけられて は、街が立ち行かないからだ。庶民は夜回りもあったし、夜店も出した。女性も男性も 性欲を貯めずに暮らし、生きる術があって、女性が案外気楽に暮らしていた。というの が江戸時代であった。女性の働き口はほとんどなく、今でいう専業主婦が大多数であり 。男の働く姿も、殆ど半裸であり、乳飲み子には、堂々と処構わず飲み放題にしていて 、夏場は女でも半裸で過ごしていたのだ。今ほど家事も忙しくはなく、なので、旦那の 留守中にその辺を歩いている男を引っ張り込み、ナンパについていったり、なんていう ことはよくある事だったので、参勤交代の武士でも、快く双方が快諾しての単身赴任で あったのだ。そして、旦那の方はそれが分かっていても、好きで結婚した妻が罪に問わ れるのは嫌で、知らないふりで、夫婦生活を続けるパターンが多かったのだ。大体混浴 で男の前で 竿の長さ比べ、貝の品評会、など催していたのだから。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/352
353: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/04(水) 05:50:10.66 ID:yYQPkt1bp 中立のリアル・・・・・・・247 知っての通り、日本でキリスト教が解禁になったのは、明治以降からである。しかし 、明治新政府はもとより人々も又、風土的或いは慣習的に敵視していた。明治になって も、日本はキリスト教は厳しく禁止していた。明治政府は、もともと切支丹を敵視して いた。そう考えていた。開国して米英仏露などの異人が日本にやってきて、また宣教師 も、続々と入国してきた。徳川政府は勿論、それを倒した薩長の維新政府も「切支丹は 堅く御制禁」であった。しかし、徳川政府が倒れ、明治になるとキリスト教は、大きな 国際的圧力として、自由信仰を求めた。よく明治は自由信仰という印象を持たれる方も 多いがそんなことは一切ない。見ようによっては、明治以降のほうが、より厳しくキリ スト教は禁じられていた。とも言える。ここに柳川城炎上の理由がある。多くの大学の 建立は、この柳川城炎上に起因してやって来た 宣教師会の運動は、熊本から流行って いる。キリスト教宣教師達の活動は、ほぼ教育活動であった。西南戦争で、西郷隆盛が 代表的物語の様に言われるが、実は大きく違っていて、仏教弾圧打破のキリスト教勢力 と、神仏烏合によって 天皇上位の神道派連合の闘いであって、この中に、九州を覆う 帰化朝鮮人、帰化支那人の姿もある。長崎派と言う旧外国派と新チャイナシンジケート とが横浜倶楽部と戦争を起こしていたのである。隠れて見えないが、中国人と支那人と は違っていたのである。江戸の徳川幕府では、関東の横浜に 大きな居留地を作った。 それまで何もなかった寒村であった場所で、居留を認めた形を採ったのだ。東京の築地 にも、居留地エリアを作り、大阪、神戸、函館、長崎に限定して住まわせた。ここで国 内日本人に向けては、切支丹は禁制という施策を、何も変わらせない為のエリア別けに 施策を置いたのだ。まあ、日本における最初の租界地施策だったのだろう。しかしここ で問題になったのは、性についての違いである。娼婦は性交をじらすののが商売であり 妾や正妻は殿方にいつでも相手するのが勤めとしていたが、西洋は逆だったのである。 また、混浴や集団性交、或いは夫婦交換など、独占欲に飢えた西洋思想の規律の性生活 でなければ、淋病・梅毒・疫病が同時輸入されて、大きな社会問題化し雑魚寝堂の禁令 となった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/353
354: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/04(水) 05:51:19.69 ID:yYQPkt1bp 中立のリアル・・・・・・・248 しかし、江戸の幕府としては、無理やり開国させられ、日本の旧来のその政策が守ら れれば、徳川政府としては何とか、日本文化の一線を守れる。日本を護れるはずだ。と 踏んでいた。開国しても日本人を切支丹にしない、そこが大事な方向性だったのである 。既に人別帳の、市役所の戸籍の様な仕組みは、神社仏閣で行っていたし、藩主制も、 完全に整っていた。問題は海外、特に米英の銃砲や大砲や、黒船の鉄船団には、闘って 敗ける。と言う現実だけだった。徳川政府は、そこで苦肉の策でそういう方針を捕る。 その後、異人のキリスト教徒が沢山やって来て、自分達だけの為に教会を建てて、自分 達だけで、その宗教を祀っているのは構わない。としたまま、江戸期が終焉を遂げた。 これは明治新政府にも受け継がれ、ぜったいに日本の宗教に干渉しないよう取り決めて 、事を図っている。キリスト教徒たる外国人が住むエリアを指定は続き、日本人と自由 に接触しないように計らったのである。1955年に、保守合同時の日本民主党側(岸家や 鳩山家)などの財閥がでたのは、そうした中で、友愛党ロータリクラブ運営、あるいは 硫化ゴムやゴム園運営、などで頭角を現した財閥だったが、これらの多くは明治後期。 もっと言えば、海外での農園主に日本人が台頭して、大正デモクラシーが活発になって からの事だ。昔青島幸男と言う議員は「選挙にも行かないでがたがた抜かすんじゃねぇ この野郎!!青島だぁ文句あるか!?」の極めて挑発的なフレーズを掲げて議員になったが 、佐藤栄作に対して、「もし理想的な政治資金規正法がつくられまして、これが厳密に 運用されたら、自民党政府の存立はあり得ないでしょう。そのことは誰もが知っており ます。だから、これは政治資金規正法の改正というのはできないと思います。(中略) 資本主義国家なんですから、企業からお金を集めそれを政治資金にするというのは、私 は明らかにすれば、それでいいと思うのです。できないならできない。と明確におっし ゃったほうが、一層はっきりする。その代わり、政府は、スポンサード・ガバメントで あり、総理は財界のちょうちん持ちで男メカケである。のが判明しましょう。」と述べ ている。つまり、公然と「男妾」と言う職業も昭和までは、存在していたのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/354
355: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/09/04(水) 05:51:55.88 ID:yYQPkt1bp 中立のリアル・・・・・・・249 逆に、江戸時代の性事情・夫婦生活は、家系存続が大事であり、子供が居ない事の方 が 家系断絶での俸禄米や、扶持米が無くなるので、例え男が違っても子供の出産は、 大事な事だったのである。従って、家訓的に、姑は男子の精力の付く料理を指導して、 最低でも週に3回は夜の務めをする様に常々言ったのだ。とは言うものの性生活の家訓 が普通だったが、女性に対して体力つけが多く、使用人の躾が主だった。今のように、 根を詰めた作業を開放し、娯楽がないので、夜は暗くなるとどうしても夜歩きする旦那 を浮気させまいと、そういう、楽しみ方の基本があって、男は特に用向きがないと危険 な外遊びは、家訓では御法度に近かった。そこで、息子に店や家を預けた後の隠居暮ら しや妾住まいが当時は多かったのだ。書物を夜読むなんて言う武士や町人はよっぽどの 高貴な家庭か、寺でしかなかった。蝋燭も油も高かったのである。当時の性生活での、 重要視されたのは、妻との夜遊びの仕方と回数だった。春画などでもよく、一晩に何度 もこなす男女の様子が描かれている。当時の男性も、皆んなが皆んな絶倫だったという 訳ではない。と言うより、逆に精力が無かったのが普通だった。強い男性が珍しく食事 は2食だし、力仕事も、剣術でも、歩くだけでも、かなりにハードな生活だったのだ。 生きる事が大事な世界で、そんな男性がの性事情は、夫婦生活や、性生活には、今の様 な避妊がなかったのである。もちろん江戸時代に、避妊具が全くなかった訳ではないが 、基本的に性生活において避妊はしてない。コンドームのようなものは一応ありました が、舶来品で高価・しかも装着感が悪いといった事情や何かしらの薬も体調が狂うから ほとんど普及しなかった。当時の避妊は、遊郭などでも、洗浄などの現代では効果がな い方法が一般的で、遊郭の出産は御法度であるので、努めて舐めて穴遊びで、多くが、 性交を回避したのである。浮気や遊びでの行為はもちろん、夫婦間の行為であっても、 望まない妊娠というのはあったようなので、現代の様なしっかり避妊はなく、老後の、 隠居での出産が多く、これを寺で預かり、子供の無い家へと送られた。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/355
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