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34: 2024/04/07(日)04:29 ID:Ou2ks9y6o(2/4) AAS
閑話休題x 033
その後、忘れ形見の子ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス・ウェルスも、マルク
ス・アウレリウス・アントニヌスと共に共同皇帝となって統治し、アントニウスに毒殺
されたのか 急死する。葬儀に至り、ディウス・ウェルス(神君ウェルス)の、称号を
貰い、死後に神となった。ウェルスはローマでも享楽的な生活で、友人を集めた夜通し
の宴会や戦車競走に熱中していた。常々マルクス・アウレリウスはこれに苦言していた
が、168年春 マルコマンニ戦争にパンノニア遠征をする。ドナウ川添いに、ゲルマン系
の、アラマンニ族とマルコマンニ族が来襲しウェルスはこれを迎え撃つために出陣した
。マルコマンニ戦争は180年まで続いた。169年1月、ウェルスとマルクス・アウレリウ
スが冬を避けて、戦場からローマに帰還する道中、ウェルスは食中毒で数日後死亡した
省13
35: 2024/04/07(日)04:30 ID:Ou2ks9y6o(3/4) AAS
閑話休題x 034
しかし、皇帝マルクス・アウレリウスの人生と治世に関する資料は、信憑性の薄い物
が多い。主要な情報源とされる「ローマ皇帝群像」などは多くの問題を持った資料で、
引用する資料価値は低いというより無いに等しい。マルクス・アウレリウス・アントニ
ヌスこと、マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルスは、貴族マルクス・アン
ニウス・ウェルス3世の子としてローマに生まれた。と言う。自出については、父方の
一族であるウェルス家は、属州ヒスパニア・バエティカのコルドバに領主で、1世紀頃
からローマ中央でも知られた存在にまで台頭し始めた。と言う。曽祖父アンニウス・ウ
ェルス1世が元老院議員として議席を与えられ、祖父のウェルス2世の代で貴族に列さ
れた。その後アンニウス・ウェルス3世はドミティア・ルキッラと結婚してカティリウ
省12
36: 2024/04/07(日)04:30 ID:Ou2ks9y6o(4/4) AAS
閑話休題x 035
当然ながらかつて元老院が認めた、軍政の全権護民官(ガビニウス)は覇権を争って
、一種の理想的な共和政体を概念としての共和国は、ローマ時代も現代も、開発暴力の
上の資源に頼っている。ので、それを強化する必要に迫られて、軍事の強大を狙ったが
、それに対して、それでも有限体なので、贅沢で豪奢な生活者には窮屈でも、綿々と、
伝統の上の子孫と繁栄の国造りの元老院には、杞憂の元であった。特に海外は遠かった
。情報も文化も、言語や習慣も違う国に、戦争でなくても乗り入れる事すら憚られた。
本国での共和政ローマは、グラックス兄弟による一連の改革に始まって、ガイウス・マ
リウスやルキウス・コルネリウス・スッラらによる支配が出来るに及んで、ポプラレス
(平民派)と、オプティマテス(閥族派、元老院派)の争いが、熾烈になるなどした。
省12
37: 2024/04/07(日)12:34 ID:j1CN2MH+u(1) AAS
閑話休題x 035
当然ながらかつて元老院が認めた、軍政の全権護民官(ガビニウス)と覇権を争って
いた。一種の理想的な共和政体を概念を持った政府は、ローマ時代でも現代でも、開発
暴力の上の、天然資源に頼っていた。その搾取不足で軍事強化の必要に迫られていたが
、それに対して、それでも有限資源なので、贅沢で豪奢な生活者には窮屈でも、綿々と
、伝統的生活で子孫繁栄の国造りを残すべきだと元老院は対峙した。他国への干渉には
、杞憂があった。砲艦外交はもとより、占領略奪、奴隷や難民の移住など 海外は遠く
情報や文化も、言語や習慣も違う国に、戦争でなくても 乗り入れる事すら憚られた。
本国での共和政ローマは、グラックス兄弟による一連の改革に始まって、ガイウス・マ
リウスやルキウス・コルネリウス・スッラらによる支配が出来るに及んで、ポプラレス
省13
38: 2024/04/10(水)09:06 ID:UnfWmRqOG(1/4) AAS
閑話休題x 036
ここで元老院のポンペイウス派は、カエサルの、ガリア総督としての任期切れ後に
コンスルに立候補する意向であることを知り、阻止に働きかける。カエサルから軍隊を
引き離すことを模索し、紀元前50年12月に、ポンペイウスもが軍隊を解散させるならば
自分(カエサル)も軍隊を手放す。と元老院に伝書を送ったが、元老院はカエサルが
不法に軍を維持するのならば「国家の敵とする。」と、議員一致で宣告したのである。
まあ、今のトランプ大統領と米国議会のようなものだが、裏に軍隊がいる司令官の地位
だから、血なまぐさい。カエサルの幕僚であるマルクス・アントニウス及びクィントゥ
ス・カシウス・ロンギヌスは友人だったが、カエサルから「応じられない」とする意向
が元老院へ送られてきた。元老院はこれを拒否し、ここで、思想対立の権力闘争から、
省13
39: 2024/04/10(水)09:07 ID:UnfWmRqOG(2/4) AAS
閑話休題x 037
なお、この際にカエサルはalea iacta est(賽は投げられた)と言った。とされる。
又後世に於いての、「ルビコン川を渡る。」とは、引き返せない危険に入る、という事
の意味になった。彼の言った、スキピオ・アフリカヌス(救国の英雄)の事を少し語れ
ば、ポエニ戦争時の時の英雄である。当時は、エブロ川以西のヒスパニアは、完全に、
カルタゴの支配下にあり、ハンニバルの弟のハスドルバル・バルカと、ハスドルバル・
ギスコとがここを統治していた。ギリシャ・ローマには、多くの国民がいたが、平野が
少なく農作物は獲れない秋吉台のような半島大地である。オリーブの実を油にして交易
し、他国の小麦粉と魚を食糧にしていた。その食糧を供給には海上輸送。つまり、船の
運行が欠かせない。その安全を脅かす地位に、カルタゴがいた。アフリカのベルベル人
省12
40: 2024/04/10(水)09:07 ID:UnfWmRqOG(3/4) AAS
閑話休題x 038
紀元前3世紀も前に、100年以上に渡って 大きな戦争が、三度も交わされていたのだ
。ローマ対カルタゴの、この大戦争がポエニ戦争で、すでに火蓋が切って落とされてい
た。カルタゴは名将と称賛されるハミルカル・バルカ、ハンニバル・バルカ父子の活躍
によって、ローマを苦しめている、最後には力尽き、ローマによってカルタゴ市民は、
虐殺され、市街は徹底的に破壊された。現在の、カルタゴ遺跡はユリウス・カエサルが
再建したローマ領カルタゴが大半である。フェニキア時代の中心であったビュルサの丘
の復元図にも描かれていた、軍港・商業港の跡や墓標が並ぶ聖地トフェ等など、遺跡で
しか、フェニキア時代のカルタゴの姿を語り継ぐものはない。が、遺構でその偉大さが
偲ばれるので、観光客もやって来ている。そうした中で、英雄スキピオ・アフリカヌス
省14
41: 2024/04/10(水)09:08 ID:UnfWmRqOG(4/4) AAS
閑話休題x 039
イタリア本土で対峙しているハンニバルに、元老院の危機感があったことも理解して
いた英雄スキピオ・アフリカヌス。紀元前 202年10月 9日、互いの軍が対峙する中で、
何とかスキピオは、ハンニバルと会見し、交渉による解決を試みている。スキピオは、
ハンニバルの能力を、現実に高く評価していたし、ハンニバルも又、スキピオの才能に
は、一目置いていた状態だった。ハンニバルはこれ以上の無益な戦いをやめて休戦交渉
に入ることを提案した。が、スキピオは、ハンニバルのサグントゥム包囲がもともとの
発端であった。と主張した。スキピオも同じ思いだったが、元老院の意向もある。自身
の和平条件を後退させることはない。発言とし、交渉は決裂した。結局、両者は自陣へ
戻って、戦闘に備えるのだった。カルタゴは、アフリカ大陸の、現チュニジアの場所に
省13
42: 2024/04/11(木)20:49 ID:zFFnitDj6(1/5) AAS
閑話休題x 040
実は、古代ギリシアの特にローマで、人口が増え経済も活発になると、欧州からの、
移民や植民が入植して島の経済を支えた。その後のマグナ・グラエキアでのローマとの
紛争や、シチリアでのカルタゴとの紛争など、数世紀を経ても、ギリシア系植民都市で
は、この地中海近在では、最も存在感が大きかったのがこうした島々だった。経済力が
あり、戦略的にも影響力があり、よく要塞化された、ギリシア系入植地として機能した
。特にシラクサは、ローマからも、カルタゴからも、政治的に独立して機能していた。
この、ローマ、カルタゴ、そしてシチリア、と言う三角関係で、イタリア南部ギリシア
系植民都市が関わった紛争から、こうした島の争奪戦が発展して、第一次ポエニ戦争が
始まっている。先述の、カンパニア人傭兵部隊である、マメルティニ軍の暴動事件は、
省15
43: 2024/04/11(木)20:50 ID:zFFnitDj6(2/5) AAS
閑話休題x 041
こうなると、シチリア王も、マメルティニの傭兵移民を叩くのが常道、メッシーナを
安全にして市民に答えるべく動くが、シラクサでも他の都市でも、その為の兵は弱く、
奇襲の一撃をした。しかしこの一撃に、慌てて本来お客であったローマに、一部の縁故
や議員を通じて、あえて増援協力を求めた。此処には、すでに古代文明のアカイヤ人の
ミケーネ文化に、ドーリア人のクレタ文明が衝突し、イオニア人が追ってアポロンを連
れて征服に罹ると言う異様な三つ巴の闘いが、尾を引いたまままに、地中海にあった。
ローマでは、此の時議会での小田原談議に及んでいた。マメルティニからの救援要請
に応ずるべきかどうか。応ずればカルタゴとの戦争に突入する可能性もある。という事
で、かなりの論争が起こっていたのである。はじめはローマ人は、この傭兵のマメルテ
省14
44: 2024/04/11(木)20:51 ID:zFFnitDj6(3/5) AAS
閑話休題x 042
翌 紀元前263年にシラクサを攻略し、ローマとの同盟を強要した。現代で言う、砲艦
外交の走りである。直ぐに紛争の主役は、当然ローマとカルタゴの対立に代わっていく
。それがシチリアの所有権をめぐる争いにまで発展した。新興勢力ローマの勃興である
。第一次ポエニ戦争の発端となったのはカンパニア人の傭兵部隊マメルティニである。
この傭兵集団はメッシーナの政権を不当に奪取し、カルタゴとローマとの間を立ち回り
二枚舌外交を行っていた。カンパニア人、すなわちイタリア「カンパーニャ衆」州都の
ナポリは州中部の沿岸部に位置している。、ペスカーラから南へ約190km 首都ローマか
ら南東へ約191km、バーリから西へ約221km、パレルモから 北北東へ 約314kmの距離に
ある。この僻地ナポリの住民は、ほぼほぼならず者だった。農地のないイタリアの中で
省15
45: 2024/04/11(木)20:52 ID:zFFnitDj6(4/5) AAS
閑話休題x 043
イタリア半島の 諸部族を制圧したばかりのローマの国制には、軍事を尊び攻撃的な
気風が残っていたし、イタリア半島の同盟市を束ねたばかりのローマは、自らの威信を
強国カルタゴに、見せる必要があったろう。又、カルタゴと結んでいた不平等条約を、
イタリア自身ろーま政府自体の是正する好機ではないか。と考えていた。イタリア半島
統一後、成長著しかった平民階級の多くが、中流階級となり、従事していた交易摩擦の
利害が、カルタゴとの間に生じた現実もあった。また、平民階級の多くはさらなる成長
を期待し、対外侵略に肯定的だったので、民会の意思に抗う事は、元老院でも出来なか
った。と言うより、ローマの経済発展そのものが、重商政策、即ち交易や加工貿易にし
か頼る物は無かったのだ。シチリア島をカルタゴに制圧されることは、イタリア半島の
省13
46: 2024/04/11(木)20:52 ID:zFFnitDj6(5/5) AAS
閑話休題x 044
しかし、それでも、第一次ポエニ戦争の間に大規模な陸上戦闘が少なくとも二回は行
われた。紀元前262年、ローマはアグリゲントゥムを攻囲した。この戦闘に 執政官二名
の軍団がローマ軍四個軍団と共に投入し、終結までに数ヶ月を必要とした。この島の、
一番の港の封鎖である。ここでアグリゲントゥム守備隊は、かろうじて援軍を求めて、
ハンノ将軍の、カルタゴの救援軍が救出する。又、ローマ軍は、シラクサからの補給を
遮断されて、攻囲中のローマ軍自身が囲まれ、包囲網を築かれていることに気付いた。
しかし、数回の小競り合いの末、アグリゲントゥムの町は落ち、戦いはローマの勝利に
終わる。この勝利に、ローマは 新たな大規模陸上戦を挑み(紀元前255年)こん度は、
結果的に、何度かの海戦を経て、ローマは苦しい戦いになった。このため、カルタゴに
省11
47: 2024/04/20(土)02:24 ID:w/5Gru6ED(1/4) AAS
閑話休題x 045
紀元前249年に 戦争が終結に近づいた頃に、カルタゴ軍は、ハミルカル・バルカ将軍
(ハンニバルの父)を、シチリアに送った。ハミルカルは、ほぼシチリア島全土の支配
を獲得した。此の時はローマは気付くのも遅く、この状況を打開するために必死になっ
て、独裁官の選出まで行ったのだ。しかしながら、ローマの海軍力は素晴らしく陸上戦
よりも海戦の戦果の方が決定力を持つので、シチリアにおけるカルタゴ独裁の成功は、
基本的に意味がなかった。ハミルカルは無敗を続けたのだが、紀元前241年の アエガテ
ス諸島沖の、海戦におけるローマ軍の勝利の後では、本当に無意味だった。まあ太平洋
戦争の、日本軍の諸島政府設立の様なもので、島人教育を無償で行い努力しても、無駄
だっし、朝鮮経営に成功しても無駄だったのと同じだ。ましては中国に満州をして理想
省15
48: 2024/04/20(土)02:25 ID:w/5Gru6ED(2/4) AAS
閑話休題x 046
又、少ない経験を補って、標準化した陸上戦術を海上でも使った。ローマ軍は新しい
軍艦に、特殊な乗船器具コルウスを装備した。当時、海戦では衝角攻撃が常識だったが
、これには優れた操艦技術が必要だった。他方コルウス装備の軍艦は、船体の横づけで
、船橋を渡しての、拘束戦法だった。先端に付けた爪で敵艦を捉え、乗船隊を送りこみ
船の奪取、鹵獲を目的とした。いわば海兵隊の軍団を、敵艦に移乗させて白兵戦と同じ
闘いに持ち込んだのである。鹵獲した船は当然ローマ軍の物となり、新たにコルウスを
装備させる改造をして海戦に挑んだ。こうした事で、海戦する度にローマ軍は大艦隊に
姿を変えていった。最初の海戦こそリーパリ諸島でローマの敗北に終わったものの、新
兵器の効果は、その後の海戦において初めて勝利したミレ沖の戦いで証明された。その
省15
49: 2024/04/20(土)02:25 ID:w/5Gru6ED(3/4) AAS
閑話休題x 047
一方カルタゴは、艦隊の大半を失い、交易商人もローマ側につき、新船建造の経済的
な余力もなく、船員の人手を探す力も失った。ハミルカル・バルカ将軍も、艦隊が無く
ては、カルタゴから切り離されてしまい、降伏せざるを得なかったのである。こうして
第一次ポエム戦争は終わりを遂げた。23年間続いた戦争の末に、ローマが第一次ポエニ
戦争に勝利し、カルタゴに代わって地中海を支配する国になった。しかしながら終結と
は言え、協定や条約を交わした訳でなく、カルタゴがシチリヤ島を手放したに過ぎない
。戦争の直後は、両陣営は、財政も民力も疲弊した状態となった。領土の境界線では、
地中海を結ぶ直線と、双方が考えた、何となくの境界線をひいて最終確定した。ヒスパ
ニア、コルシカ島、サルデーニャ島とアフリカは、そのままカルタゴのものとして残さ
省14
50: 2024/04/20(土)02:28 ID:w/5Gru6ED(4/4) AAS
閑話休題x 048
ここでローマは、海軍が正式に誕生した。がそれは、この後にローマが、属州を拡張
すると言う危険な拡大覇権主義に走るきっかけやアイテム(小道具)となり大きな力と
なった。スペインの、バレンシア州バレンシア県のムニシピ(基礎自治体)には、古い
歴史を有する都市があった。公式名称は、サグントであったが、紀元前600年頃に、
ケルトの攻勢で逃げて来た、ケルティベリア人によって開かれたサグントゥム(ラテン
語:Saguntum)は、製鉄所の事だ。古代ローマ時代にも サグントゥムと呼ばれている。
詩人ガスパル・フアン・エスコラーノは『バレンシアの歴史の数十年』(1610年〜11年)
の中で、サグントの最初の入植者は、アルメニアからのサガ族の家族である。と書いた
。トゥバルとともに半島にやってきて、都市の最初の基礎を築いた[と記し、サグント(
省14
51: 2024/04/23(火)09:14 ID:noJXL9vZT(1/5) AAS
Ωの移民たち・・・・・・・・・・01
岸田政権は移民を受け入れようとしている。日本の人口が減っており、労働力が不足
しているかららしい。そこで「共存」という言葉も 出てきている。こうした耳障りの
良い言葉が出てきたときには要注意だと思う。さて、白人は白人に適応した地域がある
。黒人には黒人に適応した地域がある。日本人は、日本が適していた。人は生まれた地
で育ち生まれた地で一生を終えるのが 一番だと思う。たとえば、白人は、暑さに対応
できない。もともとは寒い地域に適応した結果だから。そのため、白人の基礎体温は高
い。また、日光の強い地域では白人の皮膚癌の率はグッと上がる。黒人についても同様
だ。寒い地域には適していない。体のつくりがそうなっている。黒人が一般的に手足が
長いのも、体の表面積が広くても 大丈夫な地域で生活してきたからだ。つまり、寒い
省10
52: 2024/04/23(火)09:15 ID:noJXL9vZT(2/5) AAS
Ωの移民たち・・・・・・・・・・02
移民達も、自分たちの考え方や 宗教を
主張するだろうし、日本の「和をもって貴しとなす」、などとという文化もない。譲り
合い、というよりも弱肉強食といったほうがよい文化なのだ。。嘘を平気でつくし、人
を平気で騙す。世界的には泥棒もスリも日常的に起こるし、落とし物が届けられること
もない。騙された方が悪いし、物を忘れる方が悪い、そう考える民族の方が世界の多数
派を占める。そんな移民を受け入れてしまっては、日本の文化は崩壊するし、長年かけ
て作ってきた風習や宗教、目に見えないルールなどは崩壊するだろう。犯罪も増えるし
、レイプも増える。暴力事件だって増えるだろう。移民を受け入れることでどうなるか
は、ヨーロッパの国々を見れば明らかだ。そして、宗教や考え方だけではない。気性の
省12
53: 2024/04/23(火)09:16 ID:noJXL9vZT(3/5) AAS
Ωの移民たち・・・・・・・・・03
彼等は その地で文化を形成してきたし、これからもそうして
いくべきだ。その結果、その地域が戦争ばかりの地域だったとするならば、それはそこ
で淘汰されるべきだと思うし、そうでなければ、戦争をなくすという平和な文化を形成
することのできなかった文明国なのだから、そういう国は滅びる運命なら、滅びる運命
なのだと思う。あるいは争いを続けていくうちに、彼等なりの文化を形成するだろう。
その文化を形成する最中なんだから仕方ない。日本だって、戦国時代はあった。それを
経て、今の平静な日本があるわけだ。つまり、それを生き抜けなかった者は淘汰され、
いまの日本人がいるわけだ。戦争ばかりしている国の彼等は、いま、国のルールを定め
たり、パワーバランスを考えたり、先進国が過ぎて来た淘汰の段階にあるわけだ。それ
省10
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