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7: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/04(木) 18:13:17.14 ID:p921etvw3 閑話休題x 006 ユダヤ戦争は、開始から3年目にして、4人のユダヤ人側の指導者が現れた。西暦68 年の事だ、すなわち、ギスカラのヨハネ(以下はヨハネ)、エルアザル・ベン・シモン 、ヨセフス・ベン・マタティア(フラウィウス・ヨセフス)、そして、シモン・バル・ ギオラ(ギオラ)である。エドム人であったシモン・バル・ギオラは「改宗者の息子」 を意味する愛称であった。シモンにとって、ヨハネ(使徒=選ばれし子)は最大のライ バルであった。ギオラは司令官となり、約4万人ものローマ軍を釘付けにした、非常に 有能な司令官であったとされる。実際に、この年の6月9日にローマ皇帝ネロが自殺し、 70年までの2年間で4人のローマ人が、相次いで皇帝の地位を争う内戦時代にに突入し 、中央政府が、かなりに弱体化し、ユダヤ戦争への対応が棚上げとなったことがプラス に働いている。ギオラ達は、「奴隷の為の、自由と自由のための報酬。」を公約して、 フラウィウス・ヨセフスらと政治的な路線で、対立した。やがて、ヨセフスはローマ軍 へ降伏することとなった。フラウィウス・ヨセフスは、『ユダヤ戦記』を著しこの顛末 を記した著者である。紀元37年〜100年頃 に、生き、帝政ローマ期のユダヤ貴族で政治 家となり、著述家になった。66年に勃発したユダヤ戦争で、当初ユダヤ軍の指揮官とし て戦った。が、ローマ軍に投降し、ティトゥスの幕僚となり通訳官として、エルサレム 陥落にいたる一部始終を目撃した。本名ヨセフ・ベン・マタティアフでマタティア族長 のハスモン王朝の息子ヨセフとされる。ヨセフスは、エルサレム(ユダヤ属州州都)の 祭司の家系に生まれていて、彼自身の言葉によれば、青年時代にサドカイ派やエッセネ 派など、当時のユダヤ教の並みいる諸派を経て、最終的にファリサイ派を選んだ。とい う敬虔なユダヤ信徒であった。64年に、ユダヤ人の陳情使節の一員として、ローマ市内 へ赴いて、ネロ帝妃のポッパエア・サビナの知己を得た。ユダヤ戦争の初期(66年)、 ヨセフスは、防衛のためのエルサレムから、ガリラヤへ派遣され、ガリラヤの町ヨタパ タを守ってローマ軍と戦っって敗れている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/7
8: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/04(木) 18:14:05.62 ID:p921etvw3 閑話休題x 007 ガリラヤの町ヨタパタは、現代で言うゴラン高原からナザレ街道筋の街と思われる。 異邦人への投降をよしとしなかった守将たちは、自決を決議、くじを引いて互いに殺し あう道を取ったが、ヨセフスは、最後の2人になったところで、もう1人の兵士を説得 した。とされて、2人で投降する事にしたのであった。ローマ司令官ウェスパシアヌス は、後にローマ皇帝になるのだが、彼の前に引き出され、ウェスパシアヌスが、預言者 と聞き、「俺を予言してみろ!」とからかった。ところが「ローマ皇帝になる。」と、 予言した為に、気を良くして、命を助けられたのだった。現実に、ネロ帝死後は混乱を 経て、実際にウェスパシアヌスが、皇帝になる。と、その息子ティトゥスの幕僚として 重用され、エルサレム攻撃に参加させられた。こうして、70年のエルサレム陥落を目撃 した。71年に、ティトゥスと共にローマに向かい、厚遇を受け、終生そこで暮らして、 ローマ市民権と皇帝の氏族名であるフラウィウスという名まで与えられた。といわれる 。75〜80年の頃のローマで、これまでの自分の経験と、種々の資料をもとに、自叙伝と も言える『ユダヤ戦記』を著わして、高い評価を得た。ヨセフス自身によると『ユダヤ 戦記』は、もともとアラム語版が存在し、それをギリシャ語で書き改めたといわれる。 アラム語版は、今は現存せず、現在まで伝わっているのはギリシャ語版の『ユダヤ戦記 』である。その後95年頃、天地創造からユダヤ人の歴史を書きおろし、大きなスケール の『ユダヤ古代誌』も、完成させる。『ユダヤ古代誌』18巻63には「フラウィウス証言 」と呼ばれ、イエスに関する記述があることで有名である。キリスト教徒側で保存され ていた文書であったことから、後世の加筆の有無が問題となっている。三代目のフラウ ィウス朝の皇帝の幕僚として、何不自由のない生涯を過ごしたかに見えるヨセフスであ るが、裏切り者の烙印や、同胞のユダヤ人やローマ人からの非難や中傷に終生悩まされ たとされ、それが彼を著述に駆り立てる一因にもなった。といわれる。その彼が死んだ のが、100年頃のローマであったと伝えられる。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/8
9: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/04(木) 18:15:15.96 ID:p921etvw3 閑話休題x 008 一方、ユダヤの中で、「改宗者の息子」とされたギオラ派であるが、ナザレのイエス に終始していた。この頃、エドム人たちは、ヨハネの力を恐れて、エルサレム市街の、 一部に固まって住んでいた。ギオラは、69年4月にその場所へ入り、ギオラは王として 、エルサレムが陥落するまで、王として裁判官となり、裁決を行った。狭いエルサレム 市街地内で、熱烈信者党を、扇動するエルアザル・ベン・シモンと、シカリウス派を率 いるギオラ、そしてそれ以外の、反対派や反ローマ党は、ヨハネを指導者として集まり 、ローマ軍と闘った。ただローマと争う時以外は、ユダヤ人達は、四分五裂の内戦状態 であった。ヨセフスは、ヨハネの部下が、しばしば男達が、女装で通りをパレードし、 女に色目を使って、スポーツと称して、人殺しを行った。と記載されている。結局は、 このギオラは、エルサレム神殿を包囲して、ようやく宗教家ヨハネを抑えている。しか しながら、この間には、さらに別の派閥が、新しく結成され、エルアザルらが、ヨハネ の勢力の信徒達の一部を奪い取った。伝えられるところでは、エルサレムが内戦状態に 陥り、神殿へ参拝に来たエルサレム市民が、神殿内の死体を上らなければならなかった 程だった。といわれる。つまり、ギオラやエルアザルなど新興ユダヤ教団は統一ユダヤ の為に、多くのユダヤ頭目達を、自分の部下とするか宗派に属させるかを強要し、脅迫 しそぐわない者を暗殺していったのであったのだ。ローマ軍の総司令官ティトゥスは、 このエルサレムの惨状に対して、戦わず兵糧攻めを行うことを決し、更にユダヤ人側へ 降伏を勧告した。が、ギオラやエルアザル、ヨハネら強硬派が牛耳るユダヤ人側は一切 の勧告を無視した。70年、しびれを切らしたローマ軍は、一斉攻撃をしてエルサレムは 、簡単に陥落した。結局ギオラは、エルサレム市内に隠れ逃げたもののやがて発見され 、ローマへ連行されてタルペーイアの岩で処刑された。と伝わっている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/9
10: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/04(木) 18:54:59.28 ID:p921etvw3 閑話休題x 009 ローマ側で、対応にフロルスに、シリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、 反乱軍の前に敗れてしまったので。事態を重く見たネロ帝は将軍ウェスパシアヌスに、 三個軍団を与えて鎮圧に向かわせたのだが、このウェスパシアヌスは、息子ティトゥス らと共に出動して、多大な業績を残している。実はこのエルサレムを攻略する前に周辺 の都市を落として、孤立させようと考えて、ユダヤの周辺都市を各個撃破していったの である。ウェスパシアヌスらは、このユダヤ軍を撃破しながらも、サマリア人の助けを 借りた。ガリラヤなどを平定し、エルサレムを孤立させることに成功した時に、この時 に傍にいたのが、この善きサマリヤ人と呼ばれた、パレスチナ人達であった。ガリラヤ とは、現代のパレスティナの地名であるので、イスラエルの事になる。16〜18世紀まで 現代に「残された理想郷」や「現実の楽園」と称された、至って豊かな土地であった。 ガリラヤ湖を含んだ地域で、現在のイスラエル北部の地域と、ヨルダンの一部を含んだ 場所指すと言う。ゲルマニア・インフェリオルの頃の話だ。ローマ帝国の拡大した時、 各地域は属州として君臨し、ゲルマニア領域を持ったローマ帝国は、オランダ南西部、 からフランス北東部、およびドイツ西部までも、広域に支配していた。州都はコロニア ・アグリッピネンシスで、現在のケルンにあたる。ケルンとはケルト人の都と言う事に なる。この地域の、ゲルマン人を率いて、ガリラヤなどの、南を属州としたのである。 ガリラヤの名はヘブライ語ガーリール(周辺)に由来し、エルサレムを中心として発達 したユダヤ教徒にとっては、辺縁の地であった。とされる。ナザレのイエスの宣教地を 始めた場所として聖書に記述され、ルカの福音書では、マリアが天使ガブリエルに受胎 告知を受けたところとされる。紀元前前80年頃ギリシアの歴史家「ポセイドニオス」が 書いた記録に、「前2世紀末に ゲルマンの小部族「キンブリ族」「テウトニ族」が、 (古代ローマのケルト人が住む処)のガリアに攻め込んで来た。」との一説から「ゲル マン」という単語が最初に歴史に、登場しゲルマン民族と言い方になった。紀元前50年 頃のジュリアス・シーザー(カエサル)の『ガリア戦記』・紀元100年頃 「タキトゥス」が書いた『ゲルマニア』の話である。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/10
11: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/04(木) 18:56:02.34 ID:p921etvw3 閑話休題x 010 68年の4月の、ガリア・ルグドゥネンシス属州の、総督であったガイウス・ユリウス ・ウィンデクスによる反乱は、帝政ローマの没落を象徴する反乱だった。ガリア・ルグ ドゥネンシスとは、ローマ帝国の属州のひとつで。現在のフランス東部にある、現在の リヨンの街とされている。ゲルマニア・スペリオル、即ちボンバルディアがローマ帝国 の属州で、日本語は上ゲルマニア、高地ゲルマニア、近ゲルマニアなどと訳される場所 だった。この地はガリアのケルト人居住区にあった。皇帝属州であり、皇帝の管轄に入 るが、この東側にラエティア、西側にガリア・ルグドゥネンシス、北西にガリア・ベル ギカおよびゲルマニア・インフェリオルがあって、イタリア半島は、下ゲルマニアと、 低地ゲルマニア、遠ゲルマニアと呼ばれた時期だ。「ルグドゥネンシス」の地方の首都 ルグドゥヌムの現在のリヨンは、当時では、恐らく重要な都市であったと思われている 。つまり、リヨンの綿の繊維工業は、かなりに古い紀元前からの工業地帯で、本来での 境界線は、セーヌ川とマルヌ川の間であって、水車を使って、小麦粉生産も、綿織物も 金や鉄の道具もあって、衣食住の一大集積と分散の港町だったと言える。ここを挟んで 北東側がガリア・ベルギカ、ガロンヌ川を挟んでガリア・アクィタニアと接している。 ローマ皇帝ネロは、カトリック総本山のバチカンと共にあったが、16歳でローマ帝国の 第5代皇帝となり「暴君」として知られた皇帝となった。邪魔になった周囲の人間を、 残虐に殺害する冷酷非情なふるまい。があったとされ加えて、キリスト教徒を弾圧し、 残酷な仕方で処刑した。「暴君」と呼ばれる悪名高い皇帝で知られる理由は、単に共和 政から独裁に変わったからである。第3代皇帝カリグラは、精神に変調をきたしていた 。狂気のふるまいを見せ、ネロを育てていた23歳の妹アグリッピナを、何の前触れもな く国家の敵だと非難、流刑に処した。しかし、皇帝暗殺で、ネロと共にローマに戻って 、カリグラの跡継ぎの第4代皇帝クラウディウスの妻に収まった。加えて息子のネロを クラウディウスの後継者とすることに成功し、クラウディウスを毒キノコで毒殺する。 こうしてネロは皇帝に即位した。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/11
12: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/04(木) 18:57:29.56 ID:p921etvw3 閑話休題x 011 こうしてネロは、帝王学や宮廷教師が付けられ、教育が施されたが、それも虚しく、 ネロ自身には、道徳哲学にも、政治にも、科学技術にも興味がなく、唯一体育系の殺戮 を鑑賞した。まあギャンブラーの闘鶏好きみたいな物だったのだろう。ローマ社会の中 で、放蕩なふるまいを充分に継続した。母、妻、部下など邪魔になった人物に、次々に 殺害して、セネカまでも自死に追いやるので、ネロは、元老院から「国家の敵」と宣告 された。ここで、逮捕のために兵が差し向けられ、ネロは召使いの家に逃れたものの、 逃げ切れないことを悟ると自死を決意し実行した。「暴君」とは「人民を苦しめる君主 」で、比喩的な意味として「横暴にふるまう人」のことを指す。ネロが残したローマの オリンピックは「ネロ祭」と呼ばれる壮大なお祭りであった。ギリシャで行われていた 5年ごとのオリンピア競技会に対抗し、ローマのオリンピックは、年に2回開催された が、ネロの死とともに終了となった。ローマ全体を会場として、アマチュアが競技を楽 しんだ競技会は入場無料で行われ、市民に大盛況であった。ギリシャ文化に憧れていた ネロは、ギリシャ人の理想郷「アルカディア」をローマに再現しようと考え、ローマの 都市部を改造する壮大な計画を立てた。現在コロッセオがある低地から、エスクイリー ノの丘やパラティーノの丘に広がる敷地に、人工湖や庭園や本館が建てられ、贅と技術 が尽くされ、「ドムス・アウレア(黄金宮殿)」と名付けた宮殿が建てられた。本館の 内部には、大理石やモザイクが、贅沢に使われて、ギリシャ神話に登場する神々などが 壁画に描かれたと言われる。ネロは、暴君として恐れられていましたが、面白いことや 新奇なこと、美の称賛と言った、芸術を愛する、体育会系の若者として人気がある催し を行った。ところが、ここは「ローマの大火」が紀元64年に起こっていた。競技場の下 から出火した火が、9日間燃えてローマ市内を焼き尽くしたのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/12
13: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 03:44:11.02 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 012 この大火に対して、被災者への支援や、再建に関して、ネロは施策を行い、市民には 評判が良く、ローマ市内は、以前よりも美しく蘇った。にも拘わらずに、大火で燃えた 地域が、ネロの黄金宮「ドムス・アウレア」の建設予定地であったため、住人を追い出 しに、ネロが火を放ったとの噂が広がったのであった。ここで、キリスト教史における 初めてのキリスト教徒迫害を行なわれた。ネロは、こうした醜悪 な疑いを晴らそうと 、キリスト教徒が放火したのだ。として告発して、キリスト教徒を捕らえて拷問し処刑 した。それも、ライオンに食い殺させるなどの見世物の興行処刑と言う手法の残酷処刑 を行ったのである。まあ、今でも北朝鮮で行われる、獣による 食い殺し処刑である。 実は、かつて野獣処刑は、ネロが初めてでは無くよく行われていた。というのも、キリ スト教ユダヤ教が流行る前は、ミトラ教が主体で、犠牲牛、即ち生贄(いけにえ)儀式 は年間行事で、当時普通に行われていたのだ。更にさかのぼれば、ミトラの前に拝火教 が世界を占めていた。拝火教はゾロアスター教に納められ、最古の宗教で、日本でも、 无教(けんきょう)として上陸している。この拝火教は、実は弔いに風葬が行われた。 風葬(ふうそう)とは、死体を埋葬せずに外気中に晒し、自然に還す葬儀で、日本での 鳥居を築いて、鳥の留り木を置いて死肉を自然に還らせる。といった葬儀である。この 時、人は狼や兎など、陸上動物に食い荒らせ無い様に常駐し、骨になるまで見張り、骨 は祠に納めるのである。これを曝葬(ばくそう)、空葬(くうそう)ともいう名も使う 。しかし、その後に聖書が記述されたのか、『ヨハネの福音書』に、「獣の数字666 」が示され、その意味を考えよ、と書かれていて、此の時の「獣」とは皇帝ネロを表し ている。とする説まである。しかし、である。これこそが言い訳の付かないまやかしの 術だ。ネロと聖書では、聖書の方が時代的に出現が遅いのだ。ここにクムラン教団とい うかクムラン宗団の嘘と工作がある。よく知られた「ユダヤの陰謀」と言う所作である http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/13
14: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 03:58:00.53 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 013 不思議なのは、初代ローマ皇帝ペトロは、何故だかイエス・キリストに従った使徒の 一人とされている。初代ローマ教皇ともされても、ネロのによるキリスト教徒迫害での 殉教した人とされている。つまりローマ皇帝ネロ時代に、キリスト教徒を迫害した彼は 、64年にローマで起きた大きな火事の原因をキリスト教徒による放火と断定して、キリ スト教徒たちを逮捕し虐殺し、迫害を始めるのだが、キリスト教最大の伝道者といわれ るパウロも、65年に斬首され殉教したと伝えられほど、この帝国はキリスト教国では、 ない国だったのである。しかしながら、ペトロが初代ローマ教皇とされている事から、 旧約聖書に頼ったバチカンがあって、カトリックの教徒は整理されていたのだ。ここに ギリシャ神話に重きを成すミトラ教と、ユダヤ教基準のカトリックとの、宗教対立が、 見て取れるのである。ここに、ユダヤ教徒=キリスト教原理主義集団のクムラン教団の 穴倉に隠れた隠遁生活の実情がある。じつは、このキリスト教が仏教経典の元バラモン の教えに基づいていた。と言う説では、実に辻褄があう様に、聖書内のストーリーが、 それより古いインダス文書や『ヴェーダ教』聖典にある。バラモン教と言う宗教は無く バラモンと言うカースト制度に収まった、ヒンズー教や仏教の前身宗派をして、一般的 にバラモン教と呼んでいる。この中で、ヴェーダ=知識の宗教の聖典が幾つかあって、 女神信仰や自然崇拝の教義書があり、そこに聖書の原型の殆どが網羅されている。その 最古の物として、インダス文字が使われていて、今も解読の最中にある。インダス文字 は、主にハラッパーやモヘンジョダロなどの文明の中心都市で使われていて、現在での パキスタンとインドの一部に広がるインダス川流域で栄えた文明の痕とされる。多様な 民族が流入し、最初の国際都市として栄え、ここにバビロン王国があったとされる。前 586年、新バビロニアのネブカドネザル王に征服され、ユダ王国のヘブライ人はバビロン に連行されて捕囚となったが、捕囚でも食糧が無く河辺で砂金を取って暮らしたと言われる。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/14
15: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 04:11:05.68 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 014 ペルシアは、ギリシャ読みペルシャで、現在のイラン地域を表したヨーロッパ側の、 古名である。とされる。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)と言われた。思うも 中国からの西の彼方、西の端(はし)と言う意味であろう。で、欧州側からのペルシャ は古代ペルシア人が、自らに「パールサ」を自称していた。と言われる。それを、古代 ギリシャ人が「ペルシス」と発音するようになり、さらにラテン語で「ペルシア」とな った。かつては、イランに対する外国からの呼び名として「ペルシア」が用いられた。 1925年のレザー・シャー・パハラヴィーの即位後に、イスラム化前への復古主義が盛ん となり、1935年に「アーリア」に由来する「イラン」に改めるように、諸外国に要請し イランになった。しかし、混乱があり、1959年研究者らの主張によりイランとペルシア は代替可能な名称と定めている。その後1979年のイラン・イスラーム革命によっての、 イスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定めて落ち着いた。イランの主要 民族・主要言語は、現在もペルシア人・ペルシア語と呼ばれている。なお、イラン人・ イラン語は、ペルシア人・ペルシア語とは示す範囲が異なっている、代替可能ではない 。つまり地方の方言的物を一切入れないイラン語と包有するペルシャ語は、発音が違う らしい。歴史的には、古代ペルシアのパールサ地方が語源で、騎馬者を意味するパール スで、ギリシャ語でのペルシスと呼ばれる騎馬武者で、現代イランでファールス地方に あたる。まあペガサスが天馬で、鳥の翼を持ち、空を飛ぶ馬と言う伝説の生物だから、 ペルシアに相当する日本語や諸外国で表記される語は、現代のペルシア語ではイラン、 または、パールサの現代形のファールスと呼ばれている言葉なのである。この地に托鉢 の裸体僧が頭陀行(ずだぎょう)として多くがやってきた。後にジャイナ教となった、 自然崇拝の極致のジャイニズムの到来である。「お前のものは俺のもの、俺のものは俺 のものだが、一切を所有しない。」「農夫の様な虫を殺す、殺生の仕事は出来ない。」 と言う驚天動地の世界観である。曰く「何故人だけが裸で生きないのか。」と問う。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/15
16: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 04:17:04.32 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 015 ペルセウスはアルゴスの王となったが、ペルセ=異端、ペルセポリス=異邦人街なのだ 。かつて日本にも、托鉢と言う制度があった。インドには托鉢頭陀行というのがある。 仏教などの古代インド宗教において、出家者が行う修行である。現在日本での教育では 人の生活の社会的基盤に、衣食住の充実をあげる。政府の施策はここに基本を置くが、 古代インドの、原始仏教は、出家者とは、所有欲を一切否定するために、修行をしてい るので、三衣一鉢(大・上・内の三枚の衣と、鉢1つ)の、最低限の生活必需品しか、 所有を認めていない。つまり、仕事の道具さえも、僧の身分では持てなかったのである 。また、修行に専念するため、さらなる「殺生戒」を修める為、害虫捕殺が避けられな いような畑仕事は行えない。とした。したがって、出家者は、生存するための最低限の 食料は、外部の信者から調達する以外になかった。そうした状況下から、ふだん山地や 森林で修行し、その他の人々とは関わることが少ない出家者は、村落で生活してる信者 との間に、托鉢による交流関係しか頼れなかった。信者の家をまわり、生活に必要な食 べ物などを乞い、信者に功徳を説き、布施を積ませる修行である。簡素で清貧な修行に よって、煩悩を減らす目的とされてる。この頭陀行というのは、衣食住に対する欲望を 払い去って仏道を求め、そのための修行のことを指す言葉で、具体的には托鉢して歩く ことや、托鉢僧そのものを指す言葉となった。日本で言う乞食で、乞食とは食を乞う者 で、尊い神聖なもの。とする感覚だ。此処に裸体僧や裸僧の本質がある。滝行や千日行 で山野を歩く修験道の原型である。日本でも奈良時代に托鉢が流行し、寄付金を集め、 広報活動を行って河川事業をした。平安時代の浄土教の布教活動へつながったものの、 日本では、物品の所有を禁止していない。此の為食べ物を乞うという頭陀行には、なら なかった。役行者(えんのぎょうじゃ)の修験道や、行基の虚無宗(こむしゅう)衆人 道や普化宗の宿坊僧兵など、多様な行者宗となった。多くの宗派には、総本山という、 元締めがあるし、寺は〇〇山〇〇派〇〇寺といった言い方をする。山は庇護者、派は、 流派で、仏教上、寺は支社や出張所の意味合いなのである。ところが道場は道なのである http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/16
17: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 04:18:09.97 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 016 外典である『ペトロ行伝』によれば、迫害が激化するローマから逃れようとペトロが アッピア街道を進んでいると、イエスが反対側から歩いてくて、「主よ、あなたはどこ へ行かれるのですか?」とペトロが尋ねた。イエスは「もう一度、十字架にかけられる 為にローマへ行く。」と答えたので、ペトロは悟りを得て、ローマに戻り、捕らえられ て逆さ十字架によって殉教した。とされる。ネロの母親であったアグリッピナは、ネロ を溺愛し、第3ローマ皇帝の妹という血縁だった為数々の差配をし、息子ネロを帝位に つかせるべく密かに対抗馬を暗殺して行った。又、強力な補佐を付けようともくろみ、 その当時、弁論家・著述家として名声を博していた 哲学者ルキウス・アンナエウス・ セネカ(紀元前1年頃〜65年)を呼び寄せた。セネカは、まずネロの家庭教師となり、 アグリッピナと協力して帝位につかせることに成功する。と当然、皇帝ネロの補佐官と もなった。ネロの所信表明演説は、セネカが自身の著書『怒りについて』で述べた考え をもとに、セネカが執筆した。と言われる。また、セネカは『寛容について』をネロの ために執筆した。その執筆のきっかけとなったのは、ネロが罪人の処刑指示書にサイン を求められたとき、「文字など知らなければよかったのに。」と言ったことだったと、 いわれる。この言葉に、ネロに寛容の心があることを示したとして、ネロに自分が持つ 道徳心に気づいてほしいという願いを込めて本を書いた。とセネカは述べている。当時 こうした文の識字率は、当然低かっただろう。先に説明した、ペテロがイエスに言った 言葉の「主よ、あなたはどこへ行かれるのですか?」からタイトルを取った、ヘンリク ・シェンキェヴィチの小説『クォ・ヴァディス』(1896年)を映画化した映画『クォ・ ヴァディス』では、キリスト教徒がネロを「アンチ・キリスト」と呼び弾劾する。これ が原因となって、同年6月にネロが自殺し、69年に4人のローマ人が次々と皇帝に即位 (「4皇帝の年」)した物語にしている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/17
18: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:16:47.91 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 017 パルティア王国(紀元前247年〜紀元後224年)は、古代イランの王朝である。王朝の 名前からアルサケス朝(アルシャク朝)とも呼ばれた。日本語ではしばしばアルサケス 朝パルティアという名前でも表記され、古代中国では安息と呼称した。前3世紀半ばに 中央アジアの遊牧民の族長アルサケス1世は、裸僧の托鉢頭陀行の乞食を許す為に建国 を決意した。インドの最初の統一王朝であるマウリヤ朝第3代の王のアショーカ王が、 大きな影響を持ち、インドデカン高原までも統治したからだ。王朝の創設者のチャンド ラグプタの孫で、紀元前268年に即位し、前232年頃まで在位した。中国漢字で阿育王と 書かれた。釈迦王が産まれた頃は、どんな王国の子でも、托鉢行(たくはつぎょう)は 必至の科目であった。王家が信心深い信者の場合、仏教やジャイナ教を含む古代インド 宗教に於いての、出家して何年間か寺に行き、寺は食糧供給に修行と称した、乞い歩く 業態を採った。出家者の修行形態をの1つが托鉢で、信者の家々を巡り、生活に必要な 最低限の食糧などを乞う(門付け)や、街を歩きながら念仏を唱える(連行)、または 街の辻に立って説話や手相など相談を受ける(辻立ち)により、信者に功徳を積ませる 修行を行う。乞食行(こつじきぎょう)、頭陀行(ずだぎょう)、行乞(ぎょうこつ) とも言われる。冬の場では、寺の中で文字やお経を知り、春夏秋は、そうして行をする 。仏教やその他の古代インド宗教の修行者への呼称である阿羅漢(あらかん)は、サン スクリット語のArhat の音写語で、その意味は漢訳の「応供」(おうぐ)が示す通り、 「供養を受けるにふさわしい人」と言う意味である。比丘(びく)もサンスクリット語 の bhiksu の音写語であり、その意味は「乞う人」である。一方で、「食物を乞うだけ の人」(pindola)=托鉢は、在家の人々から卑俗な人々として見られていたのである。 したがって、同一の行動形態であっても、出家者としての風格を備えていない者では、 在家信者から供養されず、布施を預かるしかなかったのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/18
19: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:26:58.16 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 018 ところが、肥沃なインドでは出来たであろう こうした僧生活も、山など山林生活は 、砂漠などのパルティアの地、即ち 古代イランでは、普通の生活でも、水・食糧は、 乏しかったので、出来ない生活であったのである。そこで夜盗のごとき洞窟生活が存在 した。更にミトラダテス1世(前171年〜前138年)の時代には、現在のイラク、トルコ 東部、イラン、トルクメニスタン、アフガニスタン西部、パキスタン西部など、西アジ アの広い範囲を支配下に置いていた巨大軍事国家が成り立っていたのだ。前1世紀以降 、地中海世界が勢力を拡大して、ローマ帝国との文化衝突が起こっていたのであった。 特に、アルメニアやシリア、メソポタミア、バビロニアの支配を巡って、血みどろの争 いになっていたのである。末期時には王位継承を巡る内乱が起こって、この中でも自立 したペルシスの支配者が、アルダシール1世(在位:226年〜240年)が登場した。この 彼によって蹂躙され、小さな小国集団は滅ぼされ、新たに勃興した、サーサーン朝が、 取って代わって、サーサーン朝ペルシアが生まれる。即ち、サーサーン朝ペルシアの、 登誕は、世界を変えたのである。ここに紀元前1世紀に、現在でのアフガニスタンと、 パキスタンにまたがる地域に、歴史学者によって「インド・パルティア王国」とも呼ば れる国、崖の民、パルティア人の政権が成立していた。とする理由がある。アゼス2世 、もしくはゴンドファルネス(ゴンドファレス)などの王達は、横穴生活に建設した国 、石造文化の地域である。この王国は、カーブル周辺の、ギリシア人の王国を滅ぼして いき、インダス川河口部の、サカ人たちも支配下に置いていた。インド・パルティアの 、王ゴンドファルネスは ギリシア語とインドの現地語で「諸王の中の王」と刻んだ、 金銀のコインを発行し、経済を作った。大王(maharaya)と称する碑文をも残していた 。インド・パルティア王国は、一般にパルティア王国と呼ばれる。西アジアの王国関係 は、現在でも調査が続けられ、明瞭ではない。ビヴァールはこの二つの国家は政治的に 同一と考えられると主張している説もある。ともあれこうして maharaya(マハラジャ )制度は産まれてたのである。つまりは、紀元前200年も昔から、公国制度が出来上 がっていて、治めていたのだ http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/19
20: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:27:42.80 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 019 ここらで少し、国というものを考えてみよう。日本では国の正式名前を「国号」と、 呼ぶ事になっている。この「号」と言うのは、いわゆる「目印」と言う区分けを指す。 詰る所、固有の括り付けが出来る集団、を意味する。従って本の発行は「頁」を閉じた 一冊ごとの物が「号」であり、船や車も「号」が付けられる。これは「郷衆」つまり街 の集団に対して組み合わせと同じ発想と言える。この国号の最後の部分には、その国の 政体を表す名称が付く事も多い。この名称の種類が幾つかあるが、代表的に「合衆国」 「共和国」「王国」「公国」「連邦」などの5つが挙げられる。ただ、これらは具体的 な意味あいなどについては、分かりにくい部分があって、授業で聞くぐらいで後は聞く 事はない。「合衆国」「共和国」「王国」「公国」「連邦」の意味や違いについて、少 し解説していけは「合衆国」とは、江戸時代に作られた言葉である。「合衆国」とは、 既に出来た国が、国民の意見で合わさった国」として作られた。と言うのも当時の幕府 は鎖国政策で、アメリカの情報は長崎通詞が、殆ど訳していたからだ。この「2つ以上 の国家または州が同一主権のもとに連合してできた単一の国家」という。現在は世界で アメリカとメキシコの2国のみで、単に「合衆国」と言う場合は、「アメリカ合衆国」 を指して言っている。「アメリカ合衆国」は英語では「United States of America」と 表記され、いわゆるUSAなのであるが、「United」の語はイギリス(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)でも使われて移植されている、この場合、 日本語的には「連合王国」と訳される。つまり「合衆国」は、「連合国」と実質的な違 いはない。が、此の時、英国は大英帝国であり、連合国家であっても、独立自治州が、 互いに集まってきたアメリカ大陸の模様と、植民地支配で大きくなった英国とに大きな 違いを見ていたし、何よりも日本の天皇のいる様な、王国であった事で、通詞は恐らく 同じ言葉の、連合国家の言葉は、使いたく無かったのであろう。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/20
21: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:32:13.72 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 020 この「 United States=合衆国」という訳語は江戸時代末期から使われてきたのだが 由来については、はっきりしていない。現在では、「United」の語には、「連合国」の 訳語が当てられることが多い。少し前には、ロシアは、複数のソビエト社会主義共和国 から構成される「連邦国家」としてソビエトがあった。しかし、正式にはソビエト社会 主義共和国連邦(しゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)は、ロシア語表記の正式名称 Союз Советских Социалистических Республик は、略称で頭字語: СССРとしていた。しかし、英国の英語表記から、Union of Soviet Socialist Republics、略称はUSSRが用い られていた。ところが、現在ロシア連邦になってからは、海外でも単にロシアとされる 。まあ、このロシアが、連邦国家か、共和制国家か、決めるに決めかねるまま推移した と言うのが正解であろう。その「共和国」という国家は、「共和制をとる国家」という 意味の言葉であって、「Republic(リバブリック)」の訳語になります。ここで「共和 制」とは、と言う意味が使われている。つまり「国民が主権を持ち、直接・間接的に、 選挙で選ばれた、元首や代表者が、一定期間ごとに国を治める政治形態。」と言う方式 を言う。つまり、「パブリック=政府機能」が、「Re=変わる」と言うリバイバルと かの「流行・流動」を示しているのだ。これは「君主制(monarchy)」の反対語にあた る言葉で使われている。mon・ar・chy(モナーキー)の、一人が、全ての鍵を持つ、と 云うもので、これに対抗した議会制政治が一般的である。現在、世界の多くの国では、 この共和制の形をとる国として世界に示してはいる。が「共和制=民主制」と捉えられ るべきだが、実際には共和国の名称であっても、独裁政治が行われる例は多くあって、 必ずしも同義とは言えない世界が広がっている。つまりソ連が、わざわざCCCPとの 表記としたのは、自由主義社会の民主主義体制ではないので、本来の連邦と呼ばなかっ た。という事になる。この意味では言葉とは、難しい物がある。特に国際社会に於いて は。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/21
22: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:55:32.71 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 021 「共和国」は単に、国王のような君主制を反対し、国民から選ばれた大統領などが、 統治する国を指していて、その意味では「合衆国」も種別では「共和国」の一種である という言える。一方で、「王国」は君主が治めるという点で、日本も「共和国」とは、 一線を隔し、英国と共に違っている。「王国(おうこく)」は、文字通りに、「王が、 支配する国」という言葉で、君主として王が統治している国家を指す。英語表記では、 「Kingdom」と表記される。「王国」では、「グレートブリテン 及び、北アイルランド 連合王国」の正式名称を持つ大英帝国(イギリス)」や「オランダ王国」「デンマーク 王国」「スペイン王国」「ベルギー王国」「ノルウェー王国」などが挙げられるだろう 。ちなみに、日本の場合、天皇は「国の象徴」であって、統治はせず主権は国民にある 、としてる為「皇国」=「王国」とはしてない事もあって、日本国は単に英語表記でも Japanのみの表記である。「王国」と「共和国」の違いが、前述のように、「君主 が存在する」点での違いだ。ここで「君主」とは、世襲で位につく統治者の事で、その 意味では日本は、天皇王国になるのかも知れない。しかし、一方で「公国」というのが あって、「王国」と似ていますが微妙な違いがある。つまり、「公国(こうこく)」と は、「“公”の称号を持つ者が、元首として存在する国」を意味する。「公」の称号と は、具体的には「Prince(プリンス)」や「Duke(デューク)」などのことで、しばし ば公爵とも訳される。つまり帝国下でも、自治を保ち領地を持って統治してきた国であ る。こうした貴族が君主として、代々統治している国を指し英語では、「Principality (プリンシパリティ)」と表記される。prin・ci・pal・i・ty、領地占有者なのである 。欧州社会に於いて、キリスト教は純然たる権威を持つ。我々日本人が思う以上に教皇 と言う立場の意見は、世界を左右する。962年に ローマ教皇ヨハネス12世オットーに、 ローマ皇帝の冠を授けた。いわゆる「オットーの戴冠」である。これによって、「神聖 ローマ帝国」が成立した。しかし実際に「神聖ローマ帝国」という表現が史料上で現れ るのは、実は13世紀半ばなのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/22
23: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:55:56.01 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 022 神聖ローマ帝国は 英語で「 Holy Roman Empire」で、かつて中央ヨーロッパに存在 した国だ。ローマ王(ドイツ王)たる神聖ローマ皇帝によって統轄された諸領域の呼称 で、ドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部・フランス東部を中心に存在してい た多民族国家、もしくは国家連合であった。最初は統一国家であったが、14世紀から、 国家機能を徐々に停止し、統治下の非ドイツの領土も増え、最終的に 国内の300以上の 王国・公国・帝国自由都市・教会領・侯領・伯領および他の小貴族の領地となり事実上 の独立を獲得して、ドイツ人の国家連合となった。ただ、オーストリア大公国のハプス ブルク家のみは別格で、皇帝の座を独占し帝国とされた。こうした「公国」は「王国」 同様にヨーロッパに残る。現在は「リヒテンシュタイン公国」「モナコ公国」「アンド ラ公国」の3ヵ国、更に「ルクセンブルク大公国」大公の国4つがある。「大公国」は 「大公(Grand Duke)」が元首を務める国のことであって、英語は 「Grand Duchy」と 書かれる。このように「公国」も君主制の国家という点では独裁国家であるし「王国」 とはさしたる違いはないのだが。ただ、元首を務めるのは王ではない「Prince」などの 、爵位を持つ者である点で使い分けられて、厳然たる差別がある。日本も戦前は皇位を 爵位のように扱われた経緯もある。「連邦(れんぽう)」とは、「州や共和国などの、 複数の支分国が、単一の主権のもとに結合して形成する国家」という意味のである。と 前述した。「連邦」内においては、各支分国はそれぞれ自治権や独自の統治構造を維持 し、対外的には統一国家の形を取る。英語で、「federation(フェデレーション=認証 国家)」と訳される。現在の国名に「連邦」が含まれる国は、「アラブ首長国連邦(U AE)」「オーストラリア連邦」「スイス連邦」「ドイツ連邦共和国」「ブラジル連邦 共和国」「ロシア連邦」などが挙げられる。「連邦」では、「2つ以上の州や国から成 る」という点で、「合衆国」と同じだ。「連邦」「合衆国」「連合国」の3つは、名称 が異なるだけで、実質的に違いはそれぞれ作る国家体制でしかない。又実態は、連邦制 で、これらの政体名を国号に含まない国も多くあり、逆に連邦制で独裁の政体も出てき ている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/23
24: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:56:21.85 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 023 又「共和国」と「王国(公国)」なども、君主制の有無については問わない点で区別 されても同じではない。そのため、「共和国」と「王国」のどちらでも、連邦制を取る ことが出来て可能である。ではマハラジャ制度は、どういう物だったのかを、推測する 。一般的に西洋と東洋では、集団と個の取り組み方や考え方が違っている。性格や生活 気候や食糧や水事情が違うからであろう。更に昔と今でも、大きく違う宗教への依存性 や集団統治への入り込みが、全く違っていて、現代の世界観や生活感では、およそ予想 できないくらいの、人生の指針になっていたであろう慣習性や因習性が横たわっていた 。北部インドで、月氏による「クシャーナ朝」が成立した結果、パルティアの東部国境 の大部分が、国情安定に至ったとされている。この結果、前1世紀半ばでのパルティア は、主として南部よりは、北部のローマに対して、積極的な対策に出ていく。北部国境 の安全を勝ち取ることに集中した。ミトラダテス2世が、アルメニアを征服した翌年に 、ユーフラテス川で、パルティアの外交官オロバズスと、ローマのキリキア属州総督の (プロコンスル)ルキウス・コルネリウス・スッラが会談した。この会談で、両者は、 恐らくユーフラテス川を パルティアとローマの国境とすることに合意したのだろう。 ただし、複数の学者はこの結果に、スッラはこの条項を、ローマ本国に伝達する権限し か持っていなかった。と主張している。つまり意向の伝達のみで、同意とか全権を持っ た大使では無かった。としている。それがその後の、パルティアはシリアでセレウコス 朝のアンティオコス10世(在位:前95年〜前92年)の戦いになり、彼を殺害している。 と見ている。最末期でのセレウコス朝の君主の、デメトリオス3世は、バロエア(現: アレッポ)の包囲を試みた。が、パルティアでは、現地住民に、援軍を送り、デメトリ オス3世を撃退している。このオロデス1世(ウロード1世、在位:前90年〜前80年頃 )や、ドラクマ貨ミトラダテス2世の治世の後、パルティアの王権は分裂したように、 思われている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/24
25: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 21:57:43.04 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 024 セレウコス朝アンティオコス時代は、かなりに殺伐とした政治風景がある。アンティ オコス3世の子で、アンティオコス4世となった王は、もともと、ミトラダテスという 名前であった。つまり他に4世がいたのだ。しかし即位後か、又は兄アンティオコスの 死後に、アンティオコス4世という名前を、名乗り出て持ったようである。この、アン ティオコス4世は、セレウコス4世の死後、権力の座につくのだが、彼は 紀元前188年 には、この地にいなかった。共和政ローマとの、シリアの同盟関係で結ばれたアパメア 和約を受けて、ローマへの人質となっていた。同地ローマで暮らしたが、セレウコス4 世の、正統な後継者である嫡子デメトリオス1世ソテルと、交換されシリアへ戻って来 た。とされている。まあ人質だが交換留学とも言える。しかし、アンティオコスはこの 機会を逃さず、まだ幼いセレウコス4世の継承者アンティオコス王子の摂政の座につき 、数年してアンティオコス王子を葬ることに成功している。恐らくセレウコス4世の、 長男の子で、本家筋の王子に分家筋の甥が牙を剥いた形だったのだろう。アンティオコ ス4世の時代の事跡で、特筆すべきは、この当時大国エジプトのプトレマイオス朝との 戦いに、何故だか勝利を収めたことである。この勝利で、アンティオコス4世はエジプ ト征服の寸前までいく。しかしながら、中東の軍事バランスが崩れることを危惧した民 がいた。ユダヤである。ここでエジプトとローマの輸出入交易で富を貯めていたユダヤ は、ローマ軍の介入をさせ、反乱(マカバイ戦争)を起している。このため、断念して 軍を引きかえさせるのである。アンティオコスは、ユダヤに対して圧政を持って臨み、 エルサレムを破壊した。ここで多くの敵対者や商人達を処刑した。これに対してユダヤ 人たちは、ユダ・マカバイの一族であるハスモン家をリーダーとして立ち上がるのだ。 市街戦で、アンティオコスの派遣した軍を撃破し、各地で奮闘した。アンティオコスは 怒りにかられて、自らユダヤ侵攻軍を率いた。が、道半ばにして急死。紀元前 163年の ことであった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/25
26: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/04/05(金) 23:40:22.64 ID:GFm9LfXLc 閑話休題x 025 実はこのユダ・マカバイの一族であるハスモン家こそは、今のイスラエルの王朝子孫 だった。アンティオコス4世は勃興しつつあったパルティア王国への派兵も繰り返して いる。作戦の当初においてパルティア軍を打倒したが、これも王の急死によって断念さ れた。アンティオコス4世の継承者となったのが、まだ幼かったアンティオコス5世の エウパトルであった。こうして、この時代はセレウコス朝が勢いを見せた最後の時代と なった。彼の死後、幼い王子が残されたため、セレウコス朝は混乱して、以後は衰退の 一途をたどることになり 約100年後にローマによって滅ぼされることとなる。それでも セレウコス朝アンティオコス時代は継承されて、アンティオコス10世(在位:前95年〜 前92年)が現れている。発掘調査では、紀元前80年の記録で、バビロニア出土の粘土板 に初めて現れる10世であった。代わりに、それまでのパルティア王ゴタルゼス1世の名 は、突然に現れなくなる。おそらく、ゴタルゼス1世と、争いがあったと思われるのだ 。その後のオロデス1世は短期間しか統治しなかった。紀元前76年または75年の粘土板 には、アルシャカン(おそらくシナトルケス)という名の王と、彼の姉妹で妻であった イスブバルザという王妃の名が現れる。バビロニアを、ゴタルゼス1世が、王国の東部 をオロデス1世 (ウロード1世、在位:前90年頃〜前80年頃)が、それぞれ統治した。 ようだ。この分割統治体制は、大きくパルティアを弱体化させ、アルメニア王ティグラ ネス2世が、西部メソポタミアでパルティアの領土を切り取ることを可能とした。この 時失われた領土は、シナトルケス王(サナトルーク、在位:前78年頃〜前71年頃)の、 治世まで、パルティアに戻ってきていない。アナトリア地方で、ローマとポントス王国 の間で戦争が勃発。(第三次ミトラダテス戦争)である。ポントス王ミトラダテス6世 (前119年〜前93年)と、同盟を結んでいた アルメニア王ティグラネス2世は、ローマ ローマ抵抗同盟を、パルティアに依頼した。が、パルティア王シナトルケスは、救援を 拒否したのである。此の時パルティアはローマとの闘いが出来るほどの国力はなかった のだ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/26
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