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27: 2024/04/05(金)23:40 ID:GFm9LfXLc(15/20) AAS
閑話休題x 026
ハスモン王朝の起こりについては、フラウィウス・ヨセフスの著作および旧約聖書の
外典(第二正典)の「マカバイ記」1・2に詳しく書かれている。マカバイ記は七十人訳
聖書に含まれていたために、カトリック教会と正教会では、旧約聖書の一書として受け
入れられたが、公会議のヤムニア会議以降のユダヤ教とプロテスタント諸派は、これを
正典として受け入れなかった。マカバイ記の記述によれば、セレウコス朝のシリアの王
アンティオコス4世エピファネスは、エルサレム神殿において、異教の神への捧げ物と
祭儀を行って、これを冒涜した。このため、紀元前167年に モディンという村の、祭司
マタティアとその息子達の、ヨハネ、シモン、ユダ、エレアザル、ヨナタンが、シリア
の役人を殺害して、荒れ野に逃れて抗戦を呼びかけた。としている。紀元前166年に 父
省13
28: 2024/04/05(金)23:41 ID:GFm9LfXLc(16/20) AAS
閑話休題x 027
その後、紀元前142年 ヨナタンは敵将トリュフォンの手に落ちて殺害された。兄弟の
シモンがヨナタンの後をついで大祭司となり、シモンは兄を継承し、軍事的指導者にし
て大祭司という立場に収まったのである。シモンの時代には、ユダヤ人はエルサレムに
駐留するシリア軍を撃退し、撤退させたことで、シリアから政治的独立を認められた。
ハスモン家の祭司として、正当性に疑問を持つユダヤ人たちも少なくなかったが、ハス
モン一族は、政治的実績の前に異論とならなかった。多くの人々が、「忠実な預言者の
出現するまでは、シモンが彼ら(ユダヤ人)の指導者、大祭司とするのを、よしとした
。」のであった(マカバイ記1 14:41)。こうして 紀元前142年から紀元前135年にかけ
て、このシモンの時代に、ユダヤはシリアからの事実上の独立を勝ち取ることに成功。
省12
29: 2024/04/05(金)23:41 ID:GFm9LfXLc(17/20) AAS
閑話休題x 028
ヒルカノス1世の死後は、遺志によってその妻が、息子アリストブロス1世を大祭司
にたてる形で、代理でユダヤを統治した。しかし、実権のない大祭司の地位が不満だっ
たままで、アリストブロス1世は、母親と兄弟を捕縛、獄に投じて母を獄死に追い込み
、政教両面の指導者の地位を強引に手にしたのであった。彼は「大祭司」にして「王」
の称号を持つという、ユダヤ的独特の神権政治を具現した初めての人物となった。しか
し それもつかの間の事で、一年たらずあと 紀元前103年にアリストブロス1世は苦痛
の中で病死したのである。アリストブロス1世の死後は、アレクサンドロス・ヤンナイ
オスという、ギリシャ風の名前を名乗った弟の ヨナタンが後を継いだ。彼は2人の弟
と共に獄中にあったが、アリストブロス1世の未亡人サロメ・アレクサンドラによって
省12
30: 2024/04/05(金)23:42 ID:GFm9LfXLc(18/20) AAS
閑話休題x 029
しかしながら、中東進出を果たし、セレウコス朝を倒したグナエウス・ポンペイウス
とローマ軍が、ユダヤの地に到来したため、両勢力は競ってこれに接近した。ポンペイ
ウス将軍は、有能なアリストブロス2世を危険視し、無能なヒルカノス2世こそが傀儡
にふさわしい。と判断して、アリストブロス2世をローマへ連行し、ヒルカノス2世を
大祭司に復職させた(エルサレム攻囲戦)。このローマの影響力の前に、ハスモン朝の
支配力は、すでに名前だけのものになっていた。が、ヒルカノス2世は、そのローマの
後ろ盾によって、なんとか王位についていることができたのであった。(在位:紀元前
63年〜紀元前40年)。しかし、ヒルカノス2世は、次の苦難が押し寄せる。その頃には
、東方から進出してきたパルティアがいたからだ。パルティアに密約と結んだアリスト
省11
31: 2024/04/05(金)23:42 ID:GFm9LfXLc(19/20) AAS
閑話休題x 029
しかしながら、中東進出を果たし、セレウコス朝を倒したグナエウス・ポンペイウス
とローマ軍が、ユダヤの地に到来したため、両勢力は競ってこれに接近した。ポンペイ
ウス将軍は、有能なアリストブロス2世を危険視し、無能なヒルカノス2世こそが傀儡
にふさわしい。と判断して、アリストブロス2世をローマへ連行し、ヒルカノス2世を
大祭司に復職させた(エルサレム攻囲戦)。このローマの影響力の前に、ハスモン朝の
支配力は、すでに名前だけのものになっていた。が、ヒルカノス2世は、そのローマの
後ろ盾によって、なんとか王位についていることができたのであった。(在位:紀元前
63年〜紀元前40年)。しかし、ヒルカノス2世は、次の苦難が押し寄せる。その頃には
、東方から進出してきたパルティアがいたからだ。パルティアに密約と結んだアリスト
省11
32: 2024/04/05(金)23:43 ID:GFm9LfXLc(20/20) AAS
閑話休題x 030
戦前69年エルサレム攻囲にローマは、将軍ルキウスが、アルメニアの首都ティグラノ
ケルタに進軍。ポントス王ミトラダテス6世とアルメニア王ティグラネス2世は、再び
パルティアのプラアテス3世フラハート3世前71年〜前58年に、約束だろ。援軍を寄こ
せと、依頼した。しかし、結局プラアテス3世はどちらにも、援軍を送ることはなく、
ティグラノケルタ陥落の後に、ユーフラテス川は、パルティアとローマの国境である事
を再確認する協定を結んだのである。この混乱の中で、アルメニア王ティグラネス2世
の息子であった小ティグラネスは、父親からの王位簒奪を企んで失敗している。それ程
国内も混乱していた。息子は、パルティア王プラアテス3世の下へ逃亡して来た。彼を
説得し、アルメニアの新たな首都アルタクシャタに進軍させることを決意させた。この
省11
33: 2024/04/07(日)04:29 ID:Ou2ks9y6o(1/4) AAS
閑話休題x 032
当時、地中海で猛威を振るっていた海賊を討伐する為の法案「レックス・ガビニア」
を提案して、元老院での反対を受けたが、市民集会の熱唱と喝采で可決されたのだが、
この、レックス・ガビニアは、「ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)以東の海面及び
海岸」の海と、「海から 400スタディオン(約72キロ)以内」の陸地に対する、命令権
と、「元老院議員から構成される15名の副官、ポンペイウスが望む限りの予算を与える
。」という内容であった。とされる。これは、実際には、勝手なローマの権限によって
ガビニウスと言う地位を持った遠征軍に、権限と予算を際限なく与える。と言うパクス
・ロマーナの先駆けたる物だった。ローマ市民に、このパックス・ロマーナの意志であ
る「ローマによる平和」を意味し、多くの戦争や領土拡大、反乱などにもかかわらずに
省12
34: 2024/04/07(日)04:29 ID:Ou2ks9y6o(2/4) AAS
閑話休題x 033
その後、忘れ形見の子ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス・ウェルスも、マルク
ス・アウレリウス・アントニヌスと共に共同皇帝となって統治し、アントニウスに毒殺
されたのか 急死する。葬儀に至り、ディウス・ウェルス(神君ウェルス)の、称号を
貰い、死後に神となった。ウェルスはローマでも享楽的な生活で、友人を集めた夜通し
の宴会や戦車競走に熱中していた。常々マルクス・アウレリウスはこれに苦言していた
が、168年春 マルコマンニ戦争にパンノニア遠征をする。ドナウ川添いに、ゲルマン系
の、アラマンニ族とマルコマンニ族が来襲しウェルスはこれを迎え撃つために出陣した
。マルコマンニ戦争は180年まで続いた。169年1月、ウェルスとマルクス・アウレリウ
スが冬を避けて、戦場からローマに帰還する道中、ウェルスは食中毒で数日後死亡した
省13
35: 2024/04/07(日)04:30 ID:Ou2ks9y6o(3/4) AAS
閑話休題x 034
しかし、皇帝マルクス・アウレリウスの人生と治世に関する資料は、信憑性の薄い物
が多い。主要な情報源とされる「ローマ皇帝群像」などは多くの問題を持った資料で、
引用する資料価値は低いというより無いに等しい。マルクス・アウレリウス・アントニ
ヌスこと、マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルスは、貴族マルクス・アン
ニウス・ウェルス3世の子としてローマに生まれた。と言う。自出については、父方の
一族であるウェルス家は、属州ヒスパニア・バエティカのコルドバに領主で、1世紀頃
からローマ中央でも知られた存在にまで台頭し始めた。と言う。曽祖父アンニウス・ウ
ェルス1世が元老院議員として議席を与えられ、祖父のウェルス2世の代で貴族に列さ
れた。その後アンニウス・ウェルス3世はドミティア・ルキッラと結婚してカティリウ
省12
36: 2024/04/07(日)04:30 ID:Ou2ks9y6o(4/4) AAS
閑話休題x 035
当然ながらかつて元老院が認めた、軍政の全権護民官(ガビニウス)は覇権を争って
、一種の理想的な共和政体を概念としての共和国は、ローマ時代も現代も、開発暴力の
上の資源に頼っている。ので、それを強化する必要に迫られて、軍事の強大を狙ったが
、それに対して、それでも有限体なので、贅沢で豪奢な生活者には窮屈でも、綿々と、
伝統の上の子孫と繁栄の国造りの元老院には、杞憂の元であった。特に海外は遠かった
。情報も文化も、言語や習慣も違う国に、戦争でなくても乗り入れる事すら憚られた。
本国での共和政ローマは、グラックス兄弟による一連の改革に始まって、ガイウス・マ
リウスやルキウス・コルネリウス・スッラらによる支配が出来るに及んで、ポプラレス
(平民派)と、オプティマテス(閥族派、元老院派)の争いが、熾烈になるなどした。
省12
37: 2024/04/07(日)12:34 ID:j1CN2MH+u(1) AAS
閑話休題x 035
当然ながらかつて元老院が認めた、軍政の全権護民官(ガビニウス)と覇権を争って
いた。一種の理想的な共和政体を概念を持った政府は、ローマ時代でも現代でも、開発
暴力の上の、天然資源に頼っていた。その搾取不足で軍事強化の必要に迫られていたが
、それに対して、それでも有限資源なので、贅沢で豪奢な生活者には窮屈でも、綿々と
、伝統的生活で子孫繁栄の国造りを残すべきだと元老院は対峙した。他国への干渉には
、杞憂があった。砲艦外交はもとより、占領略奪、奴隷や難民の移住など 海外は遠く
情報や文化も、言語や習慣も違う国に、戦争でなくても 乗り入れる事すら憚られた。
本国での共和政ローマは、グラックス兄弟による一連の改革に始まって、ガイウス・マ
リウスやルキウス・コルネリウス・スッラらによる支配が出来るに及んで、ポプラレス
省13
38: 2024/04/10(水)09:06 ID:UnfWmRqOG(1/4) AAS
閑話休題x 036
ここで元老院のポンペイウス派は、カエサルの、ガリア総督としての任期切れ後に
コンスルに立候補する意向であることを知り、阻止に働きかける。カエサルから軍隊を
引き離すことを模索し、紀元前50年12月に、ポンペイウスもが軍隊を解散させるならば
自分(カエサル)も軍隊を手放す。と元老院に伝書を送ったが、元老院はカエサルが
不法に軍を維持するのならば「国家の敵とする。」と、議員一致で宣告したのである。
まあ、今のトランプ大統領と米国議会のようなものだが、裏に軍隊がいる司令官の地位
だから、血なまぐさい。カエサルの幕僚であるマルクス・アントニウス及びクィントゥ
ス・カシウス・ロンギヌスは友人だったが、カエサルから「応じられない」とする意向
が元老院へ送られてきた。元老院はこれを拒否し、ここで、思想対立の権力闘争から、
省13
39: 2024/04/10(水)09:07 ID:UnfWmRqOG(2/4) AAS
閑話休題x 037
なお、この際にカエサルはalea iacta est(賽は投げられた)と言った。とされる。
又後世に於いての、「ルビコン川を渡る。」とは、引き返せない危険に入る、という事
の意味になった。彼の言った、スキピオ・アフリカヌス(救国の英雄)の事を少し語れ
ば、ポエニ戦争時の時の英雄である。当時は、エブロ川以西のヒスパニアは、完全に、
カルタゴの支配下にあり、ハンニバルの弟のハスドルバル・バルカと、ハスドルバル・
ギスコとがここを統治していた。ギリシャ・ローマには、多くの国民がいたが、平野が
少なく農作物は獲れない秋吉台のような半島大地である。オリーブの実を油にして交易
し、他国の小麦粉と魚を食糧にしていた。その食糧を供給には海上輸送。つまり、船の
運行が欠かせない。その安全を脅かす地位に、カルタゴがいた。アフリカのベルベル人
省12
40: 2024/04/10(水)09:07 ID:UnfWmRqOG(3/4) AAS
閑話休題x 038
紀元前3世紀も前に、100年以上に渡って 大きな戦争が、三度も交わされていたのだ
。ローマ対カルタゴの、この大戦争がポエニ戦争で、すでに火蓋が切って落とされてい
た。カルタゴは名将と称賛されるハミルカル・バルカ、ハンニバル・バルカ父子の活躍
によって、ローマを苦しめている、最後には力尽き、ローマによってカルタゴ市民は、
虐殺され、市街は徹底的に破壊された。現在の、カルタゴ遺跡はユリウス・カエサルが
再建したローマ領カルタゴが大半である。フェニキア時代の中心であったビュルサの丘
の復元図にも描かれていた、軍港・商業港の跡や墓標が並ぶ聖地トフェ等など、遺跡で
しか、フェニキア時代のカルタゴの姿を語り継ぐものはない。が、遺構でその偉大さが
偲ばれるので、観光客もやって来ている。そうした中で、英雄スキピオ・アフリカヌス
省14
41: 2024/04/10(水)09:08 ID:UnfWmRqOG(4/4) AAS
閑話休題x 039
イタリア本土で対峙しているハンニバルに、元老院の危機感があったことも理解して
いた英雄スキピオ・アフリカヌス。紀元前 202年10月 9日、互いの軍が対峙する中で、
何とかスキピオは、ハンニバルと会見し、交渉による解決を試みている。スキピオは、
ハンニバルの能力を、現実に高く評価していたし、ハンニバルも又、スキピオの才能に
は、一目置いていた状態だった。ハンニバルはこれ以上の無益な戦いをやめて休戦交渉
に入ることを提案した。が、スキピオは、ハンニバルのサグントゥム包囲がもともとの
発端であった。と主張した。スキピオも同じ思いだったが、元老院の意向もある。自身
の和平条件を後退させることはない。発言とし、交渉は決裂した。結局、両者は自陣へ
戻って、戦闘に備えるのだった。カルタゴは、アフリカ大陸の、現チュニジアの場所に
省13
42: 2024/04/11(木)20:49 ID:zFFnitDj6(1/5) AAS
閑話休題x 040
実は、古代ギリシアの特にローマで、人口が増え経済も活発になると、欧州からの、
移民や植民が入植して島の経済を支えた。その後のマグナ・グラエキアでのローマとの
紛争や、シチリアでのカルタゴとの紛争など、数世紀を経ても、ギリシア系植民都市で
は、この地中海近在では、最も存在感が大きかったのがこうした島々だった。経済力が
あり、戦略的にも影響力があり、よく要塞化された、ギリシア系入植地として機能した
。特にシラクサは、ローマからも、カルタゴからも、政治的に独立して機能していた。
この、ローマ、カルタゴ、そしてシチリア、と言う三角関係で、イタリア南部ギリシア
系植民都市が関わった紛争から、こうした島の争奪戦が発展して、第一次ポエニ戦争が
始まっている。先述の、カンパニア人傭兵部隊である、マメルティニ軍の暴動事件は、
省15
43: 2024/04/11(木)20:50 ID:zFFnitDj6(2/5) AAS
閑話休題x 041
こうなると、シチリア王も、マメルティニの傭兵移民を叩くのが常道、メッシーナを
安全にして市民に答えるべく動くが、シラクサでも他の都市でも、その為の兵は弱く、
奇襲の一撃をした。しかしこの一撃に、慌てて本来お客であったローマに、一部の縁故
や議員を通じて、あえて増援協力を求めた。此処には、すでに古代文明のアカイヤ人の
ミケーネ文化に、ドーリア人のクレタ文明が衝突し、イオニア人が追ってアポロンを連
れて征服に罹ると言う異様な三つ巴の闘いが、尾を引いたまままに、地中海にあった。
ローマでは、此の時議会での小田原談議に及んでいた。マメルティニからの救援要請
に応ずるべきかどうか。応ずればカルタゴとの戦争に突入する可能性もある。という事
で、かなりの論争が起こっていたのである。はじめはローマ人は、この傭兵のマメルテ
省14
44: 2024/04/11(木)20:51 ID:zFFnitDj6(3/5) AAS
閑話休題x 042
翌 紀元前263年にシラクサを攻略し、ローマとの同盟を強要した。現代で言う、砲艦
外交の走りである。直ぐに紛争の主役は、当然ローマとカルタゴの対立に代わっていく
。それがシチリアの所有権をめぐる争いにまで発展した。新興勢力ローマの勃興である
。第一次ポエニ戦争の発端となったのはカンパニア人の傭兵部隊マメルティニである。
この傭兵集団はメッシーナの政権を不当に奪取し、カルタゴとローマとの間を立ち回り
二枚舌外交を行っていた。カンパニア人、すなわちイタリア「カンパーニャ衆」州都の
ナポリは州中部の沿岸部に位置している。、ペスカーラから南へ約190km 首都ローマか
ら南東へ約191km、バーリから西へ約221km、パレルモから 北北東へ 約314kmの距離に
ある。この僻地ナポリの住民は、ほぼほぼならず者だった。農地のないイタリアの中で
省15
45: 2024/04/11(木)20:52 ID:zFFnitDj6(4/5) AAS
閑話休題x 043
イタリア半島の 諸部族を制圧したばかりのローマの国制には、軍事を尊び攻撃的な
気風が残っていたし、イタリア半島の同盟市を束ねたばかりのローマは、自らの威信を
強国カルタゴに、見せる必要があったろう。又、カルタゴと結んでいた不平等条約を、
イタリア自身ろーま政府自体の是正する好機ではないか。と考えていた。イタリア半島
統一後、成長著しかった平民階級の多くが、中流階級となり、従事していた交易摩擦の
利害が、カルタゴとの間に生じた現実もあった。また、平民階級の多くはさらなる成長
を期待し、対外侵略に肯定的だったので、民会の意思に抗う事は、元老院でも出来なか
った。と言うより、ローマの経済発展そのものが、重商政策、即ち交易や加工貿易にし
か頼る物は無かったのだ。シチリア島をカルタゴに制圧されることは、イタリア半島の
省13
46: 2024/04/11(木)20:52 ID:zFFnitDj6(5/5) AAS
閑話休題x 044
しかし、それでも、第一次ポエニ戦争の間に大規模な陸上戦闘が少なくとも二回は行
われた。紀元前262年、ローマはアグリゲントゥムを攻囲した。この戦闘に 執政官二名
の軍団がローマ軍四個軍団と共に投入し、終結までに数ヶ月を必要とした。この島の、
一番の港の封鎖である。ここでアグリゲントゥム守備隊は、かろうじて援軍を求めて、
ハンノ将軍の、カルタゴの救援軍が救出する。又、ローマ軍は、シラクサからの補給を
遮断されて、攻囲中のローマ軍自身が囲まれ、包囲網を築かれていることに気付いた。
しかし、数回の小競り合いの末、アグリゲントゥムの町は落ち、戦いはローマの勝利に
終わる。この勝利に、ローマは 新たな大規模陸上戦を挑み(紀元前255年)こん度は、
結果的に、何度かの海戦を経て、ローマは苦しい戦いになった。このため、カルタゴに
省11
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