邪馬台国、狗奴国、大和朝廷 [転載禁止]©2ch.net (282レス)
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244: 06/28(金)11:22 ID:kiTwzhRu(1) AAS
弥生時代、考古学的遺物の分布から、北九州を中心とした「銅剣・銅矛文化圏」と、畿内を中心とした「銅鐸文化圏」という二つの文化圏が存在していたことが分かっています。その後、大和朝廷が成立しましたが、剣を尊ぶ伝統は受け継がれたものの、銅鐸に関する痕跡は全く見られません。このことから、銅剣・銅矛文化圏が銅鐸文化圏を征服し、その文化を駆逐したと考えられます。
245: 06/29(土)15:44 ID:IHL7DDj9(1) AAS
【悲報】邪馬台国九州説、考古学会では既に圧倒的少数派だった [177316839]
2chスレ:news
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(1): 06/29(土)19:53 ID:8keJkuzI(1) AAS
今や、大和説は胡散臭い旧説になった感がする。
つまり、時代遅れ説。

そうなると、卑弥呼が葬られたのは、高良山の祇園山古墳の土台となった円墳状山塊である可能性が極めて高くなる。
菊池の勢力に急襲されて卑弥呼は邪馬台国(八女・山門)の北部へ避難したが、そこで急死したため、すぐそばの高良山の山を削って墳墓とした。
今の祇園山古墳は、その卑弥呼の墓が造られた山の上部を平坦に削ってその上に築造されたもの。
そして、その祇園山古墳は、台与の墳墓の可能性が考えられる。
祇園山古墳の土台の部分が卑弥呼の墓だったと考えられる。

邪馬台国が八女・山門であるのは、倭人伝の記述からして、最も合理的な解釈だ。
247
(1): 07/01(月)10:52 ID:fgySYWgv(1) AAS
穴を掘って偶然見つけたものを勝手に想像して歴史を語るのが歴史学というものなのだろうか?

魏史倭人の章に記された歴史資料を素直に読み解けば、邪馬台国は宮崎にあったと推測できる。神武天皇の東征も宮崎から始まったと考えられる。

当時の東南海大地震による津波の痕跡も宮崎に残っている。阿蘇山、桜島、霧島山の噴火もこの頃に起こった可能性がある。

神武天皇は、これらの自然災害から逃れるために、20年もの歳月をかけて東征を始めたのかもしれないね。
248: 07/01(月)15:28 ID:lVTPVCKw(1) AAS
>>247
宮崎を邪馬台国とするためには、宮崎の南に狗奴国の官とされる狗古智卑狗(ククチ彦=菊池彦)の菊池の地名の存在が必須だ。
狗奴国が宮崎の南にあったという証拠は、まるで見られんけど。

それに、古事記では、神武は宮崎から明石までずっと徒歩による行軍をしたと読み取れる記述となっている。
そうなると、神武が宮崎から舟で出発したとする説は、無理になる。
一方、日本書紀では、神武は水軍でもって吾田を出発したと記されているので、これは今の南さつま市の阿多から東征に出発したしたとすることができる。
薩摩半島と大隅半島をぐるっと回って豊後水道を北へ抜けたと解釈できるわけ。

まあ、宮崎はないな。
249: 07/02(火)12:32 ID:5I9wvYJV(1) AAS
西暦608年、裴世(日本書紀では裴世?C)さんが日本の都までやって来て書いた見聞録に基づく『隋書倭国伝』を参照。


原文:俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 【則魏志所謂邪馬臺者也】 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近

現代語訳:「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。
山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。倭人は里数を知らない。ただ日を以って計算している。
その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。【邪靡堆を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。】昔は、楽浪郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」
250: 07/03(水)01:56 ID:30XimgwO(1/2) AAS
裴が隋皇帝の親書を奉呈したのは推古朝廷だから、その都が飛鳥にあり、また河内には難波の宮もあったのだから、そこに行ったのは事実だろう。
そして、問題なのは、裴も隋皇帝も、その推古朝廷が3世紀の倭王卑弥呼の王統を引き継ぐ王権だと思い込んでいたこと。
その思い込みに沿って隋書は書かれているから、隋書を読む者は皆、卑弥呼の都の邪馬台国は大和だったと信じ込んでしまうわけ。
しかし、魏略を読めばすぐ分かるが、その冒頭で、倭国の東の海を千余里行けばまた別の国があり、この国の住人も倭人と同種である、と書いてある。
この時代の1里は中国では約400mだが、1000里である400kmを地図上で求めれば、瀬戸内海の行橋から河内・奈良あたりまでがちょうどその距離になる。
つまり、大和は北部九州の倭国とは別の国だと、魏略が倭伝の冒頭で書いていることになる。

ちなみに、この倭国を河内・大和に当てはめて、その千里東の別の国は今の千葉県あたりにあるとすることも可能だが、そうすると、大和の倭王武が宋皇帝に奏上した文ではアルプスから東は毛人の国だと書いてあるので千葉あたりのその国の種族は倭人とは異種族と認識されていたことからして、魏略が言う「同じ倭種」だとする認識に当てはまらないことになる。
魏略の倭国を河内・大和に当てはめることは、無理ということ。
このことは、魏氏倭人伝でも同じで、倭国の東千里にあるのは同じ倭種の国であるとしており、この地理観は邪馬台国=大和には当てはまらないわけだ。
どうあがいても、邪馬台国大和説は、無理。
251: 07/03(水)14:42 ID:30XimgwO(2/2) AAS
いずれにしても、邪馬台国は北部九州にあり、具体的には八女・山門がその邪馬台国に当たる地方であることは動かない。
そして、邪馬台国の北部に避難して急死した卑弥呼の墓は、祇園山古墳の土台部分の円墳。
祇園山古墳の裾あたりで出土した甕棺の制作年代は、それが西新式であることから卑弥呼の時代とすることができるので、祇園山が卑弥呼の墓であることの可能性は非常に高いと言える。
なお、この祇園山は削られた山塊であることが分かっているが、その底部の東西幅は山門の権現塚古墳のそれと一致する。
山門の権現塚古墳は卑弥呼の寿陵として造営された古墳と考えることができるが、菊池の勢力に攻め込まれて卑弥呼が邪馬台国北部へ避難して急死したことから卑弥呼をそこに葬ることができなかった古墳だ。
新たに山を削って造られた祇園山古墳の規模が、権現塚古墳と同じであるのはそのためである。
邪馬台国は八女・山門地方であり、卑弥呼の墓は祇園山古墳の土台部分であるのは、ほぼ間違いない。
252: 07/08(月)15:36 ID:wPuEQd7l(1) AAS
いずれにしても、魏略や倭人伝に言う巻向・磯城の国は後の大和の王権の前身であることは間違いないだろうが、この巻向・磯城の国は北部九州の倭国の邪馬台国とは別の国であり、魏略で冒頭に書かれていることからして、卑弥呼の邪馬台国ではこの巻向・磯城の国を警戒的に注視していたということだろう。
その邪馬台国の懸念は、3世紀中頃になって現実のものとなったということだな。
おそらく、列島最大の墳丘墓を造るなどしていた巻向・磯城の国は、200年頃のその成立にあたっては北部九州の倭国攻略を標榜していたのかも知れない。
そうでなければ、魏略が倭国について記すその冒頭で、この巻向・磯城の国の存在を書き込むわけがないと思われるのだ。
なので、魏略のこの冒頭の記述は、非常に重大な事情を含んでいることが推測されるのである。
253: 07/09(火)06:35 ID:UBLF8agx(1) AAS
中国の史書で日本の歴史を確認することは無理だよ
そのくらい不正確で誤認が含まれている
254
(1): 07/09(火)17:05 ID:CIuSuKmc(1) AAS
そんなことはないだろう。
魏略が書いている内容は、倭国へ渡った魏皇帝の使節団が調査した報告書が元になっていると思われる。
倭人伝もおおむねそのデータを採録しているようだ。

倭国から東千余里にあるその「倭種の国」が、当時、纏向石塚古墳や矢塚古墳などの列島最大の墳丘墓を築造していた纏向・磯城を中心とする連合勢力であったことは、今や日本の考古学の著名な成果となっている。
その東の新生の部族連合国家の存在に大きな懸念を抱いていたのが、倭国女王卑弥呼が都とする邪馬台国の当局者たちだったということ。
魏の使節団は、その情報を重大事案と理解して、それを皇帝に報告したということ。
そして、魏略がその情報を倭国伝の冒頭に記していることが、その重要性を示して余りある。

それから数十年後に、八女・山門にあった卑弥呼の邪馬台国は、狗奴国や纏向・磯城勢力によって南北から挟撃されて無力化・傀儡化され、鉄器など重要物資の舶載品はすべて纏向・磯城に一括搬入されるようになり、その財力によって纏向・磯城連合勢力が列島の中心勢力に昇りつめて行くのだよ。
255: 07/16(火)14:56 ID:aLzbjTUV(1) AAS
まあ、こうした歴史観に反旗をひるがえす者がいたら、それは文献や考古学資料を曲解した結果の論説ということになる。
上の歴史観が、実際の歴史に近いものだ。
反旗をひるがえすのは、やめたほうがよい。
わははははは。
256: 07/18(木)16:03 ID:F884fxpo(1) AAS
邪馬台国大和説は、いわば、くたびれ損説ということだよ。
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(2): 07/19(金)11:17 ID:QaoumpOl(1) AAS
箸墓は、書紀で崇神とされた人物の墓だろうな。
ホケノ山古墳は、開化とされた者の墓だと思うよ。
この開化とされた人物が、山門や博多を攻略した凱旋将軍だ。
大和で初めて鉄器が副葬された墓だからな。
戦利品だったのだろう。
258
(1): 07/23(火)19:57 ID:PLY4Vk46(1/2) AAS
vbn
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(1): 07/23(火)19:57 ID:PLY4Vk46(2/2) AAS
vbn
260: 07/24(水)12:51 ID:Okn64Sav(1) AAS
狗奴国からの攻撃を受け、邪馬台国は出雲に援軍を要請しました。しかし、出雲はこれに応じませんでした。仕方なく卑弥呼は、狗奴国との直接交渉を試みました。貢ぎ物をしたかどうかは不明ですが、平和的な解決を模索したことは事実です。しかし、交渉は失敗に終わり、邪馬台国は狗奴国との戦いに敗れました。その後、邪馬台国の人々は、新たな土地を求めて東方に移動し、新しい政権を樹立しました。これが大和朝廷となったのです。大和朝廷の成立には、人口増加や土地不足などの要因も確かにあったと考えられますが、それだけが原因ではないことに注意する必要があります。
261: 07/24(水)15:22 ID:GPqsYwFo(1) AAS
連合大和は、200年頃から250年頃までの間に列島最大の墳丘墓を5基も立て続けに築造した強大国だった。
狗奴国に攻め込まれて敗退し、尾羽打ち枯らして都落ちした邪馬台国の当局者が、この強大な連合大和を下して大和に新たな政体を作り上げるというのは無理。
狗奴国と連合大和の挟撃にあってあっけなく潰え、傀儡政権としてやっと存続したのが台与の邪馬台国と見るのが正解。
そして、連合大和のそもそもの目的だった奴国制圧は短期間で成功し、卑弥呼なきあとの倭国に政界工作でもって男王を立てようと試みたが、さすがに倭国南部諸国に対抗されて内乱となったことから手を引き、倭国南部諸国が押す台与女王をしぶしぶ認めることで決着がついた。
こうして、連合大和の派遣軍は勝鬨を挙げながら凱旋帰国し、凱旋将軍の開化は寿陵として造営したホケノ山古墳に戦利品の鉄器などを副葬して名誉を誇ることとなった。
傀儡となった台与の邪馬台国はしばらく存続し、大和の監視のもとに晋に朝貢団を送ったりしたが、財源となる鉄器などの貴重財の販売権を大和に奪われたために衰弱し、台与の崩御とともに邪馬台国は消滅してしまった。
これが、実際の歴史に近い3世紀中頃の実相だよ。
262: 07/31(水)08:10 ID:w/rsYrvA(1) AAS
>>257
箸墓が崇神天皇の墓というのは、古くからの伝承ですよね。日本書紀の記述と結びつけて考えるのは自然な発想だと思います。

ホケノ山古墳に注目されているのは、鉄器が出土している点ですか。大和で初めて鉄器が副葬された古墳というのは、当時の技術や交流の広がりを物語る重要な発見ですよね。

開化とされた人物が、山門や博多を攻略した凱旋将軍という説は興味深いですね。鉄器が戦利品だったという見方も、当時の状況を想像させてくれます。

ただ、古墳時代の歴史は、発掘調査や研究が進められるにつれて、新たな事実が次々と明らかになっています。この二人の人物の関係性や、ホケノ山古墳の被葬者が本当に開化とされた人物なのか、など、まだ解明されていない謎もたくさんあります。
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(1): 08/01(木)15:19 ID:Hwg289w7(1) AAS
まあ、重要なのは、当時の列島最大の纏向型前方後円墳が立て続けに造営された3世紀前半の大和磯城の政体の機構がいかなるものであったのか考えることだね。
倭人伝に記される邪馬台国という完成形の政体をこの大和磯城の政体に当てはめてこの時代の歴史を考えると、大きな誤解に陥ってしまうように思う。
3世紀前半に大和に突如として大きな政体が形成された理由を考える上で、「邪馬台国」は躓きの石となっているように見える。
日本書紀が記しているこの時代についての研究者の「誤読」は、「邪馬台国」という眼鏡を掛けて見ることから生まれている部分が大きいと思うね。
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