邪馬台国、狗奴国、大和朝廷 [転載禁止]©2ch.net (285レス)
1-

230: 2023/12/16(土)19:13 ID:X6aLkCMN(1) AAS
>>7
邪馬壹国は古代中国の発音で
邪:シャ/サ
馬:ムラ
壹:イツ
国:クワク
と読む
シャムライツクワク(サムライクワク)
となる。
つまりサムライコクだ
省2
231: 2024/01/09(火)10:07 ID:wdJIuaUi(1) AAS
古事記の干支から、
⑩崇神没年258年or318年と推定。
同様に、
⑬成務没年355年、
⑭仲哀没年362年、
⑮応神没年394年、
⑯仁徳没年427年、
⑰履中没年432年、
⑱反正没年437年、
⑲允恭没年454年、
省3
232
(1): 2024/03/02(土)15:57 ID:kYSu/zCj(1) AAS
漢委奴国王と書かれた金印が出土してるんだから
後漢書に倭奴国と書いてあるのは間違い
後世に書かれた書物より現物の方を重視しない歴史家なんて
歴史家とは呼べない
当時は志賀島が委奴国の勢力範囲だったと考えるのが当たり前だし
委奴国が魏志倭人伝に書かれたどの国に対応するのか?で
邪馬台国の位置も想像がつく
233: 2024/03/19(火)03:28 ID:BebumfCA(1) AAS
>>2
大和王権の初代天皇となった神武が日向から奈良盆地へ東征した時代は、河内湖が存在した紀元前50年くらい。
卑弥呼の時代はそのずっと後です。
234: 2024/03/20(水)03:22 ID:ABJ98oU8(1) AAS
『完全版』邪馬台国の場所が判明!歴史のミステリーがついに解明される!
動画リンク[YouTube]
235: 2024/03/26(火)19:45 ID:JQp/F4PA(1) AAS
百済から九州に入ったが、北部は鉄武器など血なまぐさい

南下して宮崎日向でどん詰まり〔西都原、生目)

神武東征(途中で吉備吸収)

大阪上陸は流す値費子が阻止

迂回して紀伊半島から上陸
省6
236: 2024/03/27(水)06:41 ID:qbL6NyxT(1) AAS
狗奴国は蝦夷ではないかな
237
(2): 2024/04/02(火)10:58 ID:40OzJm7w(1) AAS
あげ
238
(1): 2024/05/03(金)00:29 ID:7gEktfHB(1) AAS
熊襲と同じだともされる隼人(はやと)が音感的にも邪馬台国の人達で元々は、耶馬渓辺り
にいたのでは?大和の政権に反抗したとも書かれてる。のちの大和朝廷たちに追われ
鹿児島や宮崎あたりまでにげてきてその後住んでいた伝説が、宮崎説とかにつながって、
菊池や日田に近い耶馬渓辺りに隼人たちが元々いた土地が邪馬台国。
やばけい、はやと、はやとこく、やばたいこく、やばとこく、やまとこく
その地名を奪って襲名したのが奈良に築いた大和国。
239: 2024/05/06(月)22:19 ID:h1vQ2Xoq(1) AAS
ローマ帝国
ヤーマ台国  似てる
240: 2024/05/18(土)00:27 ID:gqRd53Z9(1) AAS
新しい草刈り機を買いに行ってきたのか?
241: 2024/05/20(月)15:14 ID:YsQqqrfQ(1/2) AAS
昔、九州北部には卑弥呼って女王様が治めてた「邪馬台国」って国があったんだって。 南の方から熊みたいな見た目のおっかない集団が攻めてきて、それが「熊襲」って呼ばれるようになったんだって。だから、熊本って名前になったのかな?

卑弥呼は、襲撃を防ぐために周りの国と同盟を結んで、みんなで力を合わせて戦ったんだって。 今の集団的自衛権みたいな感じかな? でも、熊襲の襲撃は止まらなかったんだって。

実は、この場所は「狗奴国」って呼ばれてて、ヒミココって男が治めてた国だったんだって。

難しい言葉も出てくるけど、なんだかワクワクする話でしょ?
242
(2): 2024/05/20(月)15:17 ID:YsQqqrfQ(2/2) AAS
言語って、1000年経っても8割ぐらい基本的な言葉が残るんだって。 すごいよね? 2000年経つと6割、3000年経つと5割、4000年経つと4割、5000年前でも3割くらい残るんだって。

琉球語と日本語って、2000年くらい離れてるらしいんだけど、共通点結構あるでしょ? でも、日本語と朝鮮語って、そんなに似てないよね。

もし、3000年前に朝鮮語族が日本に来たんなら、日本語と朝鮮語の基礎的な言葉って、もっと似てるはずだよね? だから、朝鮮語族じゃなくて、別の民族が弥生時代に日本に来たって考えられるんだって。
243: 2024/06/16(日)14:38 ID:ObR/pdJm(1) AAS
卑弥呼:古代日本の謎を解き明かす

はじめに

卑弥呼は、3世紀頃に邪馬台国を治めたとされる女王です。魏志倭人伝に記されており、古代日本の歴史において重要な人物とされています。しかし、その出自や正史における記述は残されておらず、謎に包まれた存在でもあります。

卑弥呼の出自と鬼道

卑弥呼は、239年に魏から「親魏倭王」という称号を与えられました。彼女は「ヒメミコ」と呼ばれる姫巫女であり、鬼道を信仰していたと考えられています。鬼道は、古代中国や朝鮮半島でも信仰されていた呪術的な宗教です。
省8
244: 2024/06/28(金)11:22 ID:kiTwzhRu(1) AAS
弥生時代、考古学的遺物の分布から、北九州を中心とした「銅剣・銅矛文化圏」と、畿内を中心とした「銅鐸文化圏」という二つの文化圏が存在していたことが分かっています。その後、大和朝廷が成立しましたが、剣を尊ぶ伝統は受け継がれたものの、銅鐸に関する痕跡は全く見られません。このことから、銅剣・銅矛文化圏が銅鐸文化圏を征服し、その文化を駆逐したと考えられます。
245: 2024/06/29(土)15:44 ID:IHL7DDj9(1) AAS
【悲報】邪馬台国九州説、考古学会では既に圧倒的少数派だった [177316839]
2chスレ:news
246
(1): 2024/06/29(土)19:53 ID:8keJkuzI(1) AAS
今や、大和説は胡散臭い旧説になった感がする。
つまり、時代遅れ説。

そうなると、卑弥呼が葬られたのは、高良山の祇園山古墳の土台となった円墳状山塊である可能性が極めて高くなる。
菊池の勢力に急襲されて卑弥呼は邪馬台国(八女・山門)の北部へ避難したが、そこで急死したため、すぐそばの高良山の山を削って墳墓とした。
今の祇園山古墳は、その卑弥呼の墓が造られた山の上部を平坦に削ってその上に築造されたもの。
そして、その祇園山古墳は、台与の墳墓の可能性が考えられる。
祇園山古墳の土台の部分が卑弥呼の墓だったと考えられる。

邪馬台国が八女・山門であるのは、倭人伝の記述からして、最も合理的な解釈だ。
247
(1): 2024/07/01(月)10:52 ID:fgySYWgv(1) AAS
穴を掘って偶然見つけたものを勝手に想像して歴史を語るのが歴史学というものなのだろうか?

魏史倭人の章に記された歴史資料を素直に読み解けば、邪馬台国は宮崎にあったと推測できる。神武天皇の東征も宮崎から始まったと考えられる。

当時の東南海大地震による津波の痕跡も宮崎に残っている。阿蘇山、桜島、霧島山の噴火もこの頃に起こった可能性がある。

神武天皇は、これらの自然災害から逃れるために、20年もの歳月をかけて東征を始めたのかもしれないね。
248: 2024/07/01(月)15:28 ID:lVTPVCKw(1) AAS
>>247
宮崎を邪馬台国とするためには、宮崎の南に狗奴国の官とされる狗古智卑狗(ククチ彦=菊池彦)の菊池の地名の存在が必須だ。
狗奴国が宮崎の南にあったという証拠は、まるで見られんけど。

それに、古事記では、神武は宮崎から明石までずっと徒歩による行軍をしたと読み取れる記述となっている。
そうなると、神武が宮崎から舟で出発したとする説は、無理になる。
一方、日本書紀では、神武は水軍でもって吾田を出発したと記されているので、これは今の南さつま市の阿多から東征に出発したしたとすることができる。
薩摩半島と大隅半島をぐるっと回って豊後水道を北へ抜けたと解釈できるわけ。

まあ、宮崎はないな。
249: 2024/07/02(火)12:32 ID:5I9wvYJV(1) AAS
西暦608年、裴世(日本書紀では裴世?C)さんが日本の都までやって来て書いた見聞録に基づく『隋書倭国伝』を参照。


原文:俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 【則魏志所謂邪馬臺者也】 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近

現代語訳:「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。
山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。倭人は里数を知らない。ただ日を以って計算している。
その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。【邪靡堆を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。】昔は、楽浪郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」
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